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浅井久仁臣 『今日の中東』

1971年のパレスチナ初取材から、30有余年中近東を見続けてきたジャーナリストが独自の視点をお届けします。

私の視点 ハマースの長期戦略

2007年06月15日 | Weblog
 時は1994年春。場所は北アフリカのチュニジアの首都チュニス。私は、イスラエルと1年間秘密会談を重ね、オスロ合意をまとめたたパレスチナ側代表団のリーダーのアブ・アッラーと会っていた。

 彼とは81年以来の知人で、当時世界のマスコミから取材が殺到する「時の人」であったが、彼のヒミツを握る私の面会を断れるはずもなく、私を事務所に招じ入れた。

 アブ・アッラーというのは、アラブ世界でいうところの尊称で、国際的にはアハマド・クレイとして知られる。そう、昨年までパレスチナ自治政府の首相を務めていた人物だ。

 滔々と饒舌に、もちろん得意気に語るアブ・アッラーが話し終わるのを待ち、私は意地悪な質問をした。

 「もうすぐ、PLOがごっそりパレスチナに行くことになるのだが、本当に和平プロセスが上手くいくのだろうか。私には幾つも気になることがあるのだ。中でもハマースの沈黙が不気味でならないんだ」

 今でこそ、ハマースは自爆攻撃で恐れられ、昨年から自治政府の政権を握るまでになっているが、当時はまだその存在は、アラファト議長やアブ・アッラーが所属するファタハ(自民党のような存在)に比べれば、比較にならない規模であった。だが、彼らの地道な活動は、住民の信頼を得ており、私の目にはやがてファタハを脅かす存在に見えたのだ。

 「ハマースなんて取るに足らない組織だ。確かに、その運営のやり方には、他の組織にないものを感じるが、和平プロセスに関われるようになる機会はないだろう」

 ハマースは当時、不気味なほどに沈黙を保っていた。オスロ合意に対しても反対意見を表明するものも、具体的な反対行動に出ることはなかった。それだけに、私にはハマースの存在が気になったのだ。

 チュニスから飛んだパレスチナでも、PLOの連中や地元政治活動家たちは、アラファトのパレスチナ入りの話で盛り上がり、誰一人として私の「予感」に耳を貸す者はいなかった。

 「ハマースは軍事占領下にあるパレスチナの領土が解放されたり、様々な権利がイスラエルから得られるのを待ち、それから動き出すのではないか」と予測を述べても、「ハマースにパレスチナ全体の動きを左右する力はない」と、話はまるでかみ合わなかった。

 だが、この時の私の予感は、やがて具体的な形になっていった。医療、教育、福祉などでじわじわと住民の間に浸透していったハマースが、イスラエルに対して牙を剥いたのだ。2000年9月に始まった第二次インティファーダ(民族蜂起)が起きて間もなく、自爆攻撃を開始した。イスラエルの恐怖が深まると共にハマースの存在がパレスチナ社会に広がっていった。

 選挙に参加するのは、イスラエルの存在を認めることにつながりかねないとして、ボイコットしてきたが一昨年の地方議会選挙から参加するようになり、しかも大々的な勝利を収めて最終的には政権を握るまでに伸長した。

 軍事面でも様々なルートから手に入れる潤沢な資金にものを言わせて取り揃え、軍事占領を長年続けてきたイスラエルをガザから追い出してしまった。また、同じパレスチナ社会においてもファタハの武装勢力どころか、「正規軍」である自治政府治安部隊をも駆逐するまでの勢いだ。

 今、ガザは、皆さん御存知のように内戦状態である。混乱状態が続き、現地から送られてくる情報を精査しても「次」が非常に読みにくい状況だ。今一度、アブ・アッラーと会ってオスロ合意からこれまでの話を聞いてみたいものだ。その辺りから次の展開が見えてくるかもしれない。また、ハマースの指導層とも話をしてみたい。特に、事実上の指導者であるメシャルにはいろいろ聞きたい。メシャルはシリアにいてガザの指導部に指示を送るが、はたして彼の「次の一手」は何なのか。探ってみたい。


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