韓国外交通産省は6日、73年に起きた「金大中拉致事件」に関する外交文書を公開した。その内容は、当時の田中角栄首相と事件の3ヵ月後に訪日した金鐘泌・韓国首相との生々しいやり取りが記されたもので、当時AP通信記者でこの問題を担当した私としては、「政治的決着」があったことは分かっていたものの、このような「臭いものに蓋」そのものの解決策を田中氏が提案していたとは知らなかった。
事件は、当時の韓国政権に命を狙われているとして事実上の亡命をして日本とアメリカで民主化運動をしていた金氏が、飯田橋のグランドホテルの一室から白昼拉致されたことに始まる。
金氏が殺されたのでは、と日本中で大騒ぎになる中、私は同僚とホワイト編集長にこの問題を担当させてくれと、直談判していた。ホワイト氏はヴェトナム戦争で名を馳せたつわもので、どんな時にも表情を変えない男だったが、この時だけはパイプ煙草を忙しなくふかし、眉間にしわを寄せてしばらく考えてから言った。
「ミスターXXXに話を聞いてご覧。事件に関わるのはいいが、東京湾に浮かばないように」。
XXXとは、APアジア総局次長のことである。XXXは金氏と親しく、事件の直前まで金氏と会っていたとのことだ。XXXは記者になりたての私に金氏の人となりはもちろんのこと、日本政界との人脈から取材のコツや注意点までを懇切丁寧に指導してくれた。
しかし、新米記者2人にとってこの事件はとても手に負えるようなものではなく、ほとんど何ら成果を得ることなく時間だけが過ぎていった。
事件から5日後、後になって分かったことだが、金氏は漁船に乗せられて韓国に連れ戻され、ソウルで釈放された。明らかに韓国政府の関与があったが韓国政府はそれを否定し続けた。日本の捜査で、韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋がホテルの部屋から発見され、韓国政府の主権侵害を非難する声が高まった。
捜査官に話を聞いていても、事件後の1,2ヶ月は彼らのやる気が取材する我々に伝わってきた。ところが、3ヵ月後の11月2日、金首相が来日して田中首相と会談してからは、その表情に大きな変化が現れていた。
彼らの変化の原因が今回の外交文書公開ではっきりと分かった。当時、政治決着が図られたとされていたが、このようなやり取りがあったことは明らかにされておらず、取材する我々も「真相解明」に毎日走り回っていた。
外交文書では、「捜査の進捗状況を伝えよ」「公権力の介在が判明すれば、改めて問題提起せざるを得ない」と迫る田中首相に対して、金首相が「それは必ずそうすることか、それとも建前として一応話をしておくということか」と聞くと、田中首相は「建前だ。建前はそうだが、日本の捜査は終結させる」「これでパーにしよう」と答えたということだ。
田中首相らしい話の付け方であった。まるで、ヤクザの出入りの決着の付け方のようだ。恐らくこれで肩の力が抜けて金首相は日本側に「裏事情」を正直に話したに違いない。ただ、そこまでの記述は、今回発表された文書には見当らない。
その後、翌年8月、韓国当局は金書記官に疑義なしと断定、捜査を打ち切る旨を日本側に伝えてきた。日本側の捜査も当然のことだが、やがて終了した。
捜査官たちの悔しさは傍で見ていても気の毒だった。指紋の他にも恐らく幾つかの有力証拠を握っていたのだろう。しつこく質問する私に、「もう勘弁してくださいよ」と首を振る者もいた。
この捜査側の“恨み”は76年、意外な形で晴らされることになった。捜査の中心は警察ではなく検察であったが、ロッキード疑惑で田中氏を「塀の内側に落とす」ことが出来たのだ。検察と兄弟分の警察を取材していてもどことなく捜査官の表情に明るさが見られた。それまで田中氏は、首相になる前から首相の地位になくなっても様々な疑惑に包まれていたが、決して「塀の中に落ちない」と言われていた。
ただ、そんな人道を無視した政治決着をしてしまう田中角栄氏が金大中事件の前年、中国に乗り込み日中国交正常化を取りまとめ、その後も中国で高い評価を受けていることを考えると、「コンピューター付きブルドーザー(土建屋体質の田中氏だが数字にはめっぽう強かった)」を全面否定することは出来ないであろう。
今回公表された外交文書が政治家や外務省官僚の中でどのような評価をされていくかは分からないが、国際舞台で孤立した日本の外交を立て直すためにも今一度、「田中外交」の功罪について研究する必要があるだろう。
事件は、当時の韓国政権に命を狙われているとして事実上の亡命をして日本とアメリカで民主化運動をしていた金氏が、飯田橋のグランドホテルの一室から白昼拉致されたことに始まる。
金氏が殺されたのでは、と日本中で大騒ぎになる中、私は同僚とホワイト編集長にこの問題を担当させてくれと、直談判していた。ホワイト氏はヴェトナム戦争で名を馳せたつわもので、どんな時にも表情を変えない男だったが、この時だけはパイプ煙草を忙しなくふかし、眉間にしわを寄せてしばらく考えてから言った。
「ミスターXXXに話を聞いてご覧。事件に関わるのはいいが、東京湾に浮かばないように」。
XXXとは、APアジア総局次長のことである。XXXは金氏と親しく、事件の直前まで金氏と会っていたとのことだ。XXXは記者になりたての私に金氏の人となりはもちろんのこと、日本政界との人脈から取材のコツや注意点までを懇切丁寧に指導してくれた。
しかし、新米記者2人にとってこの事件はとても手に負えるようなものではなく、ほとんど何ら成果を得ることなく時間だけが過ぎていった。
事件から5日後、後になって分かったことだが、金氏は漁船に乗せられて韓国に連れ戻され、ソウルで釈放された。明らかに韓国政府の関与があったが韓国政府はそれを否定し続けた。日本の捜査で、韓国大使館の金東雲一等書記官の指紋がホテルの部屋から発見され、韓国政府の主権侵害を非難する声が高まった。
捜査官に話を聞いていても、事件後の1,2ヶ月は彼らのやる気が取材する我々に伝わってきた。ところが、3ヵ月後の11月2日、金首相が来日して田中首相と会談してからは、その表情に大きな変化が現れていた。
彼らの変化の原因が今回の外交文書公開ではっきりと分かった。当時、政治決着が図られたとされていたが、このようなやり取りがあったことは明らかにされておらず、取材する我々も「真相解明」に毎日走り回っていた。
外交文書では、「捜査の進捗状況を伝えよ」「公権力の介在が判明すれば、改めて問題提起せざるを得ない」と迫る田中首相に対して、金首相が「それは必ずそうすることか、それとも建前として一応話をしておくということか」と聞くと、田中首相は「建前だ。建前はそうだが、日本の捜査は終結させる」「これでパーにしよう」と答えたということだ。
田中首相らしい話の付け方であった。まるで、ヤクザの出入りの決着の付け方のようだ。恐らくこれで肩の力が抜けて金首相は日本側に「裏事情」を正直に話したに違いない。ただ、そこまでの記述は、今回発表された文書には見当らない。
その後、翌年8月、韓国当局は金書記官に疑義なしと断定、捜査を打ち切る旨を日本側に伝えてきた。日本側の捜査も当然のことだが、やがて終了した。
捜査官たちの悔しさは傍で見ていても気の毒だった。指紋の他にも恐らく幾つかの有力証拠を握っていたのだろう。しつこく質問する私に、「もう勘弁してくださいよ」と首を振る者もいた。
この捜査側の“恨み”は76年、意外な形で晴らされることになった。捜査の中心は警察ではなく検察であったが、ロッキード疑惑で田中氏を「塀の内側に落とす」ことが出来たのだ。検察と兄弟分の警察を取材していてもどことなく捜査官の表情に明るさが見られた。それまで田中氏は、首相になる前から首相の地位になくなっても様々な疑惑に包まれていたが、決して「塀の中に落ちない」と言われていた。
ただ、そんな人道を無視した政治決着をしてしまう田中角栄氏が金大中事件の前年、中国に乗り込み日中国交正常化を取りまとめ、その後も中国で高い評価を受けていることを考えると、「コンピューター付きブルドーザー(土建屋体質の田中氏だが数字にはめっぽう強かった)」を全面否定することは出来ないであろう。
今回公表された外交文書が政治家や外務省官僚の中でどのような評価をされていくかは分からないが、国際舞台で孤立した日本の外交を立て直すためにも今一度、「田中外交」の功罪について研究する必要があるだろう。
また、アメリカのポチと揶揄されるような、売国奴政権を5年も存続させることはなかったのではないかと思うと、ロッキード事件そのものがアメリカの謀略だったのではないか、との疑念が拭いきれません。