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私の視点 Good Night, and Good Luckを観て その1

2006-05-07 23:40:27 | Weblog
 映画「Good Night, and Good Luck」を観た。この映画は、1950年代前半、米国全土に吹き荒れたマッカーシズム(日本では、レッド・パージ、赤狩りと呼ばれた共産党員及び支援者への迫害)に敢然と挑んだTVアンカーマン、エドゥワードゥ・マロウ(Edward Murrow)と、彼を支え続けたスタッフの闘いを再現したものだ。

 この映画がヴェネチア国際映画祭で主演男優賞や国際批評家連盟賞を受け、アカデミー賞にも6部門でノミネイトゥされていたことを知らなかった私は、塾長を務める「ピース・メディア塾」の塾生たちが交流の場とするメイリング・リストゥで、映画の存在を知った。

 「Good Night, and Good Luck」とは、毎夜、マロウが自分の番組「See it now」の最後に言っていたセリフである。私は、マロウに少なからぬ影響を受けてきた。社会全体が一つの方向に流されようとする時、それに対して揺るがぬ姿勢で闘ったマロウの姿は、ジャーナリストを目指す若かりし頃の私には光り輝く存在であった。

 映画は、俳優でもあるジョージ・クルーニーがメガホンを取った(今や死語であろうか。監督をするという意味)。クルーニーは、父親がニュース・キャスターであっただけでなく、自分自身も一時はジャーナリストを目指していたこともあり、この企画を暖め続けてきたとのことだ。それだけに、時代考証を含めて、様々に異なる場面の細部にまで神経の行き届いた映画となった。

 熟考の末の決断であろう。映画は全編、この世の中にあって珍しい白黒だ。色が町に溢れている時代だけに、それがまた新鮮に感じられた。そして、ファッションから備品に至るまで徹底的に「50年代」が再現されている。中でも、黒い小さなタイプライターが出て来た時は、私は懐かしさのあまり、声を上げてしまった。私がAP通信の記者をしていた時(70年代)、愛用していたものとそっくりだったからだ。私が「グランパ(じいちゃん)」と名付けていたタイプライターは、終戦直後、占領軍と共に来日した先輩記者たちが持ち込んだもので、文字盤のキーのいくつか(aとsなど)は、何十年もの間多くの記者たちに叩かれ続けた結果、アルファベットゥの表示が無くなっており、そこには指を痛めないようにテイプが巻かれていた。そんな時代遅れのタイプライターであったが、使い易くて、我々の間では引っ張りだこであった。

 50年代当時は喫煙が普通の時代だ。どの場面でも紫煙がゆらゆらと部屋に充満している。マロウは本番でも煙草を離してはいない。今そんなことをやれば、周囲から総スカンを食うだろうが、この映画においては、それがまた一種独特の雰囲気を醸し出しているから不思議だ。

 だが映画の細部にわたる心配りや演出を語りだしたらきりがない。本題に入ろう。

 第二次大戦後、米国には勝ち戦から来る安堵感が全土に漂っていた。そんな勝利に酔う世論を苦々しく思う保守勢力は、一大キャンペインに打って出る。それは、自由主義の脅威と位置付けられた共産圏との対立だ。米ソ両国はその時既に「冷戦」に突入していた。ソ連が49年、米国に次ぐ核保有国になったのもそんな空気に拍車をかけることとなった。

 中国大陸からの日本軍の撤退と共に始まった毛沢東率いる中国共産党と、アメリカの支援を受ける国民党との間で行なわれた内戦も共産党の勝利に終わり、1949年には中華人民共和国が誕生した。そして翌年2月、ソ連と中国が友好同盟条約を結ぶと、米国において脅威がさらに現実味を帯びて語られだした。そしてそれから4ヵ月後、今度は朝鮮戦争の火蓋が切って落とされた。

 その年2月、ジョセフ・マッカースィー上院議員は「国務省(外務省に該当)に57人(映画の中では200名以上の数字が言われていたかもしれないがよく憶えていない)の共産主義者がいる」と、西ヴァージニア州で開かれた集会で一枚の紙を掲げながら発表、それにマスコミが飛びついた。

 それからというもの、国務省などの役所だけでなく、軍、マスコミ、教育、芸能といったありとあらゆる分野で、いや、市民活動にまでマッカースィズムが波及して多くの国民を震え上がらせた。職を追われたりした者は数千人と言われるが、中には万単位であったとする資料も数多い。赤狩りされた中で有名なのは、あの「笑いの王様」チャーリー・チャップリンだ。彼もまた、共産主義者との濡れ衣を着させられて苦汁をなめた一人だった。失意のチャップリンが、米国を離れヨーロッパに生活の場を求めたのは有名な話だ。

 あまり知られていない話だが、今も「自由主義の星」であったかのように言われる故ケネディ大統領だが、意外なことに当時、マッカースィと親密な関係にあった。彼の姉のパットがマッカースィーと付き合っていたというだけではなく、弟のロバートとマッカースィーの事務所に出入りしていた。後に大統領選を戦うケネディに対して、調べ上げた資料を基に敵対陣営はケネディの“黒い交流”に迫ったものだ。

 マッカースィの「あいつはアカだ」と叫ぶ赤狩り戦略はまんまと成功、50年代前半、マッカースィズムはあっという間に全国に波及した。そうなると、マッカースィの勢いは止まるところを知らず、マスコミ業界においても脅しに屈して口をつぐむ社が相次いだ。

 そんな状況の中で53年、異論を唱えたのがCBSテレビの人気アンカマン、エドワードゥ・マロウだ。「あいつはアカだ」と誰かが無責任に叫んでも警察沙汰になるようなひどい状況を憂えて、マロウは立ち上がったのだ。マロウは新聞の小さな記事に目を止め、その事件の不当性を自分の番組で訴えた。当時の状況を考えれば当然のことだが、番組のスポンサーは下りた。すると、マロウは「スポンサーが下りてしまった」と引け腰になる会社側に対して、仲間と共にその広告料を寄付してキャンペイン継続を訴えたとある(続く)。

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