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私の視点 いじめを語る軽薄な有名人賛江

2006-11-21 12:00:55 | Weblog
 今朝の朝日新聞で、演出家の宮本亜門氏が、先日このサイトで紹介した「イジメ自殺関連アピール」欄(第一面)に、『いじめている君へ』と題したメッセージを送っている。

 宮本氏は、小学生だった自分の“いじめ体験”を紹介しながら、「(いじめに加わるのは)嫌だって気持ち、かっこいい」といじめる側の子供たちに呼びかけている。

 子供への呼びかけを行なう場合、こういった攻撃する側へのアピールが忘れられがちだが、最も必要なものだ。だから、着眼点としては悪くない。だが、彼の体験談がいただけない。いじめの対象が「トノサマガエル」だという。

 まだ、これを子供たちがどう受け止めるか、聞く機会はないが、恐らくそんなことを言われていい気持ちはしないだろう。そして言うだろう。「この大人は、分かっていない」と。

 いじめを受ける側の心理を分かっていない有名人のアピールを、朝日新聞はなぜこのように連日掲載するのか。それは、先日も書いたように、このキャンペーンを担当する編集者達が、いじめの本質を分かっていないからではないだろうか。

 いじめは一部の頭でっかちの大人が作り上げるイメージとは、実態は違うのだ。それは、体験したものでなければ分からないことかもしれない。「そういうお前はそんな体験を持つのか」と言われそうだが、実は私もいじめられたことがある。

 私のいじめられた体験を言うと、「そんな古いことを」と言われそうだが、最近のコメンテイターたちの発言に、「昔はこんなことはなかった」というものが目立つので、それに反論する意味でも紹介しておきたい。

 それは小学校三年生の時に起きた。二年生の夏に引越しをしてきてしばらくするとガキ大将の仲間入りをした私は、近所では顔の知られた存在になった。ところが、それから半年も経たぬうちに肺浸潤になり、半年の入院生活。その後も毎日、午前中だけ授業を受けて帰宅、午後は自宅静養を強いられた。すると、周りの子供たちとの力関係も大きな変化が生じた。

 私は、ガキ大将の頃は、ある種ストイックなまでの正義感を持つ子供で、いじめをする子供たちをいさめていた。私に力がある時は、大人しく従っていた子供たちだが、私が病気になり弱くなったと知った途端、強く当たるようになってきたのだ。これなんぞは、サル山のボス達の繰り広げる騒動と大差はない。

 私の住む街には、「朝鮮人」があった。そこには同級生のKが住んでいた。家と近いこともあって、私はしばしば顔を出していた。私も貧乏教師の子せがれだ。だからその生活レヴェルは周囲に比べても決して高いものではなかった。

 だが、朝鮮人は、そんな私にとっても衝撃的なほど劣悪な住環境に置かれていた。に入っただけで、すえたような悪臭が鼻を突いてくる。子供たちの服装も、つぎはぎだらけだ。大人たちの中には、訳の分からない言葉(朝鮮語)を話す者もいる。だがどこか、異郷の地という雰囲気が漂い、私はそこで遊ぶのが好きだった。家に帰ると、母親に「異郷地体験」を話した。すると、新婚時代をピョンニャンで過した母親は、目を細めて私の話を聞いてくれた。

 ところが、それがいじめの対象になるのに時間はかからなかった。

 「くんちゃ、クセー。朝鮮の臭いがするぞ」
 「おまん、いつもチョーセンのとこ(所)行っとる。ホントはチョーセンだら?」
 「おかあちゃんが言っとったぞ。くんちゃのかあちゃんはチョーセンだ、って」

 私にかつていさめられた子供たちが、それまでの怨みを晴らさんとばかりに私を朝鮮人だといじめ始めた。最初は笑っていた私だが、その内一生懸命に自己弁護をするようになった。

 「僕の父ちゃんは、青年将校で朝鮮をやっつけた偉い人だったんだぞ。朝鮮人はみんな家来だったんだから」

 確かに私の父親は陸軍の将校で、以前住んでいた村では英雄であった。だが、彼は私が1歳の時に他界しており、その時私が移り住んでいた町では、父の姿を知るものはいない。ただ、噂で知った私の父親の情報が、人の口を幾つか経る内に、曲げられていったのだろう。大人たちの立ち話を聞いた子供たちには、「くんちゃの父親=チョーセン」という情報のみが残ったようだ。

 だが、いじめっ子達に対してそんな抗弁をしてはみたものの、私の中には深い後悔の念しか残らなかった。そして、自分にそんな見苦しい抗弁はしないと、子供心に誓った。抗弁をしない苦しさは、胸を締め付けた。苦しい毎日が続いた。その時、時を同じくして受けるようになった牛乳屋のオヤジからの性的虐待もあいまって、私の心は張り裂けんばかりであった。

 しかし、いじめは止まらなかった。確か音楽の授業だったと思うが、授業中に私の周りに座った幾人かの子供たちが、小声で「チョーセン、チョーセン、くんちゃはチョーセン」とからかった。

 私は訳が分からなくなった。そして、気が付いた時には、大声を上げて泣き崩れていた。驚いた教師の覗き込む顔で私は自分を取り戻した。音楽教師が私の大嫌いな担任ではなかったことも幸いしたのだろう。真剣に私のことを心配するその教師の表情と言葉は私を救った。

 それがきっかけであったかどうかは記憶にないが、その辺りから私に対するいじめが収まった。牛乳屋のオヤジからのセクハラはその後しばらく続いたが、それも自分で何とか克服できた。

 今思い返しても、とても辛い体験であった。死にたいとまでは思わなかったが、目の前が真っ暗になり、毎日虚脱感にさいなまれていた。だが、私はついていた。私には、ジャーナリストになりたいという夢があったからだ。それと、その後多くの素晴らしい友人や先輩、そして大人たちとの出会いがあったことも見逃せない。輝くような人生を歩む人との出会いが、その体験を逆に前向きに生かすようにしてくれた。また、自分自身をいつも「いじめられる側」に視点を置くよう意識するようにしてくれた。それが、戦争取材でも「爆弾を落とされる側」に常に立つよう意識させてくれているのかもしれない。

 だが、多くの子供たちにとって、いじめられた体験をプラスに転じさせるのは、家族の深く温かい愛情に包まれるか、その後、よほど素晴らしい人たちに出会ったり、感動的な経験を重ねない限り困難なことだ。

 いや、それよりも、いじめという暗闇から抜け出すのさえ困難だろう。這い上がろう、抜け出そうとしても、蟻地獄にはまるというか、底なし沼に足を取られるような状態が延々と続くのだから。だから有名人達よ、そしてマスコミの記者諸君。お願いだ。「訳知り顔」でこの問題を語ることだけは止めて欲しい。