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ジョエル・メイエロヴィッツのスナップシュートとビューカメラ

2010年04月09日 | 日記
Joel Meyerowitz Photographer


すでに見てられるかもしれませんが、ジョエル・メイエロヴィッツの映像です。ストリート・スナップから始まり、後半は、ビューカメラをセントラルパークに持ち出しての撮影風景となります。ドイツ語がかぶさってくるので少し分かりづらい所もあるとおもいますが、この際、言語はおかまいなしでいきましょう。ちなみにジョエル・メイエロヴィッツは、1962年に、ロバート・フランクの『アメリカンズ』に衝撃を受け、すぐにゲリー・ウィノグラントの写真集にたっぷり刺激を受けます。そしてアッジェからはインスピレーションを感受します。その頃には、米国絵画初期のハドソンリバー派トーマス・コールやフレデリック・チャーチの知の流れを浴びていたので、そうした感覚が彼の写真に映り込んだりします。動画でも感じれるように、とにかく彼は身軽に動けて、軽快で、リズミックで、同じジューイッシュながらR.フランクとは随分違う雰囲気をもっていますが、ストリートがすべての現場であり、インスピレーションの風を受けとる場所だということは変わりません。
もともとブロンクス生まれですが、仕事を獲たマンハッタンではデザインのアート・ディレクターやデザイナーの仕事を続けていました。プリントや写真集には、その体験や集積された感覚が織り込まれているにちがいありません。デザイナーの仕事をしている間に、時間がとれれば35ミリのカラースライドでたっぷり撮影しますが、カラープリントは失敗続きだったようです。そのため初期は、モノクロームで撮影していました。MoMAのシャーカフスキーが「Looking at Photographs」展で、メイエロヴィッツの写真をセレクションしていますが、その時の写真はモノクロのものでした。

ウィリアム・フォン・グローデン男爵とR.メイプルソープ&ワグスタッフ

2010年03月26日 | 日記
W Von Gloeden

ドイツ出身の写真家ウィリアム・フォン・グローデンの写真で構成された動画です。1931年に亡くなっており、動画など彼自身のポートレイトは残念ながらYoutubeには無いようです。同性愛者だったグローデンは、かつて画家たちが男性の裸体を描く言い訳に、古代神話のイメージを活用していたように、グローデンもイタリア・シチリア島で知り合った少年たちに花冠やトーガという衣装を着せ、ときに古代神殿の廃墟のような場所や円柱をバックに撮影しました。
それでも1900年前後は男性の裸体は公やけにはできないので、グローデンは苦労してゲイものの収集家に売っていました。1970年代初頭、その写真に惚れ込んだのが、ロバート・メイプルソープです。そして親子のように、またカップルともなったアート・ディーラーのサム・ワグスタッフです。グローデンの写真は、この時代でもポルノグラフィー・ディーラーが扱っていて、メイプルソープはワグスタッフを連れて、スタッテン島のディーラーまで行っています。じつはメイプルソープはその時、トム・オブ・フィンランド(ゲイもののトップ・イラストレーター)の作品を購入しようとしていたのですが生憎、オリジナルものがなく諦めていた時にそのディーラーがグローデンの写真集とプリントを彼らにみせたのでした。ワグスタッフの写真コレクションは、このウィリアム・フォン・グローデンの写真からはじまりました。1点25ドルだったそうです。

War Photographer ジル・ペレス:interview

2010年03月19日 | 日記
Conversations with History: Gilles Peress

フランス生まれ、育ち、Magnumに所属(会長職もしていた)するウォー・フォトグラファーのジル・ペレスへのインタビュー動画です。この動画は大変ながいので、最初のあらかたくらいでよいかもしれません。英語が聴ける人は興味深いものがたくさん聴けるようです。ジル・ペレスについては、マグナムのウェブサイトやウィキペディアなど参考にされるといいと思いますが、特筆すべき写真集は、かつて当店もよく扱っていた『The Silence』(ルワンダの大虐殺を取材)や『Iran Telex』『Farewell to Bosnia』でしょう。写真集などでは、いつも名前を聞いていたフォトグラファーもこうして動画を見るとまた印象がずいぶんとちがったりすることもあって、今度写真を見るときなどはまた別の次元を加味して見れるかもしれません。
さて動画では、Magnum生粋のウォー・フォトグラファーでありながら、どこか育ちがよさそうなエリート・フォトグラファーのようにみえなくもありません。インタビューでも語っていますが、大学では哲学と政治を学んでいます。また名前からも多少の想像がつくように血統的には生粋のパリジャンではありません。父方はロシア系のユダヤ人、そして母方は中東から来たオーソドックス・クリスチャンで、2つの宗教と人種の間に生まれた、それもパリ、というところがジル・ペレスを、内面から駆り立てざるをえないDNAがあるようです。本人も「外側の世界のカオス(混沌)が、内面のカオスよりも大きい時にしか、平穏に気持ちになれない」と語っているように、とくにユダヤ系の血が入っている者は、内面がそれこそカオティックな心理状態に陥る人が多くいるので、彼の場合も表面の顔の裏には大きな悩みがへばりついていることとおもいます(ジューイッシュのリチャード・アヴェドンも晩年までずっと精神科医を友人にもっていました)。“War is never total war; in the same way, peace is never total peace”. こうした言葉や感性も、そうした内面から引き出されているとおもいます。
前回のランボーのように、父親の影を追ってアラブ世界やアフリカに向かったように、ジル・ペレスも母の故郷、中東世界に向かいます。そしてその中東は、まさにユダヤ人国家イアスラエルとパレスチナが長年戦争状態にある土地でもあります。またイランは、ジル・ペレスが住んでいるニューヨーク・ブルックリンのある米国と敵対する国イランです。つねに内面の抗争と、外界の戦争状態がパラレルになっていかざるをえない、そんな内面世界をジル・ペレスは生きています。
重ねて言えば、ジル・ペレスは、ジューイッシュが多く住む巨大都市ニューヨークに住んでいることにとても満足しているといいます。もちろん逆説的に。なぜならば、9.11テロ以降、ニューヨークはずっと緊張状態が続いていて、それは時に、ジル・ペレスの内面の戦争状態を、超えるものがあるからだといいます。

アフリカで写真集を構想したアルチュール・ランボー

2010年03月16日 | 日記
Arthur Rimbaud Documentary

動画はアルチュール・ランボーのドキュメンタリーものです。なぜ、ここにランボーを?と思われる方も、なるほどそういうわけねという方も、知ってますよという方もいらっしゃることでしょう。ただまず一つには、写真の”デモクラシー”性(大衆化)は、ハードウェアではとっくの昔に終えていて、また方法にせよ、あれこれ探られてきているわけで、本来、特権的に写真家だフォトトグラファーだと、冠をつけることはもはやあまり有効ではなくなっている、というのが前提にあるからです。
して、ランボーはむろん写真家でもありません。また詩人ではありますが、若干20歳にして、『イリュミナシオン』を書きあげて以降ほとんど詩も放棄し、放浪の旅にアラビア、そして当時のアビシニア(エチオピア)に行き、まずキプロス島で石切場で仕事をしたり、コーヒー商人となり、はては武器商人(当初は偶然にその隊商に加わることになりアビシニアの国王を相手に交渉することに)として過ごし10余年を過ごします。まだアフリカが暗黒大陸と呼ばれていた頃で、冒険家でも商人であっても多くの人が命を落としている時代です。ランボーは詩を書くことは放棄しますが、実は『イリュミナシオン』を制作時に、まだ存在しないカラー写真の原理について知る機会があり、『イリュミナシオン』の英語版タイトルを「Coloured Plate』とした程で、すでに写真原理のある意図とヴィジョンを詩に織り込んでいたようです。詩にスナップショトした光景を詠ったものがあるのはそのためと言われています。エチオピアのハラルにいる時には、カメラをリヨンにに発注しています。それは写真入りの著作(今でいう写真集に近いもの)を準備していたといわれていますし、その手紙も残されています。ただカメラが到着してからはどうしたわけかわずか8枚の写真(現存するもの)しか撮ることはなく、うち3枚はセルフポートレイトでした。
かつて「詩」を書くのでなく、現実を「詩」そのものとして密着していきはじめたランボーであればこそ、「生きている」ことと「魂」の密着感が、「写真」をすら要求しなくなってしまったにちがいありません。”魂”の見者ランボーにとって、写しだされ定着されてしまったその光景は何か違和感を感じてしまうものだったにちがいありません。「写真」は、過ぎ去ってゆく「時間」、「かつて、そこにあったもの」の世界であってみれば、”見者”ランボーと世界次元が異なっていたのです。
というわけで、自分もすでにある「写真」に拘泥するのはいさぎよしとしない性格なので、今後も「写真家」ではない人たちもとりあげることもあるでしょう。ところが思い白いことに、ランボーに憧れたパティ・スミス、そして共に刺激しあい恋人同士になった写真家ロバート・メイプルソープに『A Season in the Hell/地獄の一季節』という写真入り書籍があり、インスピレーションでつながっていくことです。
ランボーに関しては、鈴村和也氏の著作やアラン・ボレルの『アビシニアのランボー」などを参考にされるとよいかとおもいます。ランボーが詩を辞めてから、アフリカに住みつづけ、右脚に病を発し、切断し、最後、癌に蝕まれ亡くなるまでの季節(時)を知ることは、へたな写真集100冊を見るよりよほど興味深いものがあります。ランボーに関しては、あらためて別のかたちで「マインドツリー」で取りあげます。

ブラインド・フォトグラファーEvgen Bavcarの冒険は、かなり哲学的、未来志向だ

2010年03月09日 | 日記
Evgen Bavcar, blinder Fotograf, K�nstler

盲目のフォトグラファー(Blind Photographer)のユージン・バフチェルが登場します。バフチェルは1946年、イタリアのヴェニスにほど近いスロヴェニア(旧ユーゴスラヴィア)に生まれています。12歳に両眼を失明し、その4年後に好きだった女の子の写真を撮ろうとシャッターを押したのがその後の写真人生のはじまりでした。大学では歴史と哲学を専攻し、パリで活動を開始。とくにヨーロッパ各地で展覧会を開いています。日本でも1995年に出版された写真集『Nostalgia della luce』が広く紹介されご存知の方も多いかとおもいます。その写真集の最後の写真は、自らの影を撮ったものです(彼のトレードマークの帽子で分かります)。その数頁前の少年の写真は、おそらくはまだ眼が見えた時の自身の写真です。
上の動画でそうだったのか、と思わせるのは、夜の家が光っていると見えたのは、視力が見える私たちの錯覚で、実際には、バフチェルがその家そのものをミニチュアでつくったものだったのです。バフチェルは見える者と見えない者との「知覚」について追求していて、「写真」を用いることによって、「可視の世界」と「不可視の世界」の融合をめざしています。
それは「心の眼」に関することにつながっていく、今後とても重要な探求になっていくと予想されます。『星の王子様』の著者サン-テグジュペリは、同書の中で「本当に重要なものは、目に見えないものなんだ」と語りましたが、「目に見えない世界」と「見える世界」がおもわぬかたちでつながりはじめる、そうした冒険のようです。
盲目のフォトグラファーは、バフチェルだけでなく、Paco Grande, Flo Fox氏もすでにかなり知られている写真家になっていますし、日本を含め世界各地で活躍しています。彼らの活動を通して、「可視の世界」と「不可視の世界」について、より意識的になれればとおもいます。

Lewis Carroll - Diane Arbus

2010年03月05日 | 日記
Lewis Carroll - Diane Arbus

ダイアン・アーバスと、ルイス・キャロル(数学者ドジソン先生)が撮ったアリスたちの写真による動画です。ダイアン・アーバスのあの最も有名な、1990年代のある時期に写真オークションで最も高額で落とされた一卵性双生児の写真「Identical Twin」(1967年撮影)も出てきますが、ふっと、考えてみれば、アーバスは少女の頃からルイス・キャロルの世界、とりわけ「アリス・イン・ワンダーランド」が大好きで(アヴェドンの写真集のなかにニューヨークのダンスカンパニーを撮った「アリス・イン・ワンダーランド」がありますが、まずは影響を与え合っていたアーバスの影響からでしょう)、妹のルネによく読み聞かせていただけでなく、大人になってからもよく読んでいたといいます(少女期にはゴシック小説が好きになり『ジェーン・エア』や『嵐が丘』を読んだり、ルネに読み聞かせたりしてたそうです)。上の動画にも登場する少女たちは、ダイアンにとってアリスたちなのかもしれません。その「アリス」を写真に定着させることで、一瞬のうちになにやらシュールで怪奇な空想の世界に飛び込んでしまえるのかもしれません。「何が正常で、何が異常なの?!」と自問自答しながら...ウサギが入っていく薄暗い洞穴は、ダイアンにとってはその写真を現像するための「暗室」なのでしょう。17歳の頃に、ダイアンはフロベールについてのエッセー「人間の混沌と矛盾について」を書いています。単に空想に遊ぶだけならば、また違う人生、異なる写真を撮ったのでしょうが、アーバスの資質、感性は、現実のなかで複雑にねりこまれていきました。好きだった絵も描かなくなり、心がどんどん虚ろになり、セントラルパークに行っては詩を読んでいたようです。そして路上の浮浪者に声をかけてみたりしています(そうした行為は先生にとがめられています)。結婚したアランが米軍のカメラマンとして入隊するために写真の勉強をしだしました。1940年。日本が真珠湾にアタックした頃です。ダイアン18歳です。ダイアンの空想と現実と、矛盾と混沌と、裏と表と、絵画と詩と、そのすべてをからめとるもの、映し込むことができるもの、それが「写真」だったのです。


キュプロプス-一つ目の巨人:Albert Watson

2010年03月01日 | 日記
Albert Watson

ファッション写真界の巨匠になったアルバート・ワトソンの写真家人生には、思わぬ偶然がはたらいているようだ。もともと英国スコットランドの古都エディンバラ出身で(エディンバラ出身者には、コナン・ドイルや発明家グラハム・ベル、俳優ショーン・コネリーもいる)、旧都全体が岩の要塞のようになっている中世そのものといった趣きのある街。ケルト人の砦が起源らしいです。サッカーで発祥の地、英国だけはイングランド、ウェールズ、スコットランドと参加権があることでもわかるように、歴史的にもスコットランドは自主独立と反骨のスピリットが旺盛だ。そんなエディンバラ出身で、誕生時にすでに片目が見えなかったアルバート・ワトソンには何か彼自身にしか見えない「マインド・ピクチャー」があったにちがいない。日本の古い歴史の中でも、霊能者は(確か)左目をつぶすからで、そうすると修行の果てには目の前方にこの世とは別種の「マインド・ピクチャー」が映りはじめるというからです。彼の「サイクロプス(Cyclops)-キュクロプス」(=ギリシア神話に登場する一つ目の巨人)と銘打たれた写真集には、モノや場所を超えた遠い記憶が蘇えらせるような力強さ、騎士が身にまとう鋼(ハガネ)のごとき煌めきがありました。まさに光を利用して被写体を「鍛冶」しているようなのです。ちなみにギリシア神話だけでなく、日本神話でも「一つ目の神」は、製鉄の神でした。
ワトソンは森山大道と同じく、青年時代の初めグラフィック・デザインを学び、つづいてRoyal College of Artで今度はフィルムとテレビ映像を学んでいます。その間に、ワトソンは「写真」はカリキュラムの一環としてだけしか学んでいません。L.A.に小学校の職をみつけた妻のエリザベスについて28歳の時、米国西海岸に行きますが、そこでもまだ写真は趣味程度でしかありませんでした。たまたまその年にマックス・ファクターのアートディレクターと知り合う機会があり、その人物が会社のテスト・セッションを受けてみてはどうかと誘ったことが、写真界に入るきっかけになっています。
ワトソンのケースのように、「写真」は、感性や(デザイン)センスだけでなく、記憶や方法、絵画と映像、イメージとインスピレーションと、多くの分野や能力を一瞬に召集令状をだし、魔法をかけるがごとく、一枚のイメージに仕立てあげなくてはいけません。写真家はその「魔法」を主宰しなくてはなりません。「見えない世界」があることを、逆照射させるくらいでなくてはいけません。
同じエジンバラ出身で史上最高の名探偵シャーロック・ホームズを描きだしたコナン・ドイルは、若い頃「眼球」の研究をし眼科の専門医でした。「眼」を誰よりも探求した人には、「盲点」と同時に、人には見えない世界があることに気づくにちがいありません。ワトソンもイメージの「盲点」と、人に見えているのに、見えない世界を追求しつづけているのかもしれません。


ウィジー The Naked Eye - 1956

2010年02月25日 | 日記
Lou Stoumen's The Naked Eye - 1956

動画は 「History of Photography」としてアカデミー賞のドキュメンタリー部門にノミネートされたものからの抜粋です。後年、ブルース・ウェバーの「アンディー」や「レッツ・ゲット・ロスト」がノミネートされたアカデミー賞のドキュメンタリー部門です。写真家のものもずいぶんとノミネートされるのでドキュメンタリー部はチェックしておくと面白いとおもいます。さて、この動画にはウィジーとウェストンの当時の記録が少しだけですが記録されています。ウィジーの動画は、1年前にはもっと面白いものがあったのですが残念至極です。父はいまのウクライナで手押し車の商人をやっていて、後にユダヤ教のラビになっています。本人(本名:Usher Fellig)もウクライナで生まれニューヨークにあのエリス島を通過して移民としてニューヨークにやって来ました。家計を助けるため学校を中退し、写真スタジオで記念撮影のバイトをしたり、路上で子馬に子供をのせて記念撮影をして小遣いを稼いでいたようです。しかし文無しになりホームレス状態に。そして日雇い労働者、レストランの掃除夫、皿洗い、キャンディー工場の工員などを経験。1910年代、カメラの仕事だけでは食べていけなかったことが実体験で分かったことが後にウィジー誕生につながります。22歳からはパスポートを撮影する写真スタジオで3年間働きますが、その後にアクメ通信社でたまたま夜間の写真業務をするなり手がいなかったことが、ウィジーをニュース・フォトグラファーに、危ない夜の街にくりだし、キャンディッド・アイと化し、暗室で寝泊まりして働きはじめました。スピードグラフィック・カメラを購入したのは1930年、31歳の時で、後にニューヨーク市警マンハッタン警察を拠点に仕事をしました。無線は警察から認められていたポリス・ラジオを車に搭載していました。誰よりも早く、素早く撮影を撮る事で名を馳せていきます。



エリオット・アーウィット in Amsterdam...

2010年02月20日 | 日記
Photographer Elliott Erwitt in Amsterdam, 10/10/2009

エリオット・アーウィットの写真は世界各地でポスターやポストカード、写真集でみかけるのでおよそ知った気分になってしまうが、ヨーロッパとアメリカのスナップ写真を少しばかり比較したり考える際に面白いのだ。ふつうエリオット・アーウィットと聞くとどこの国の写真家(そういう問いはまた日本的だが、ここでは一応そうしてみる)かと問われれば、あれれっ、アメリカだったとおもうけど、でもあの優しそうな温和でユーモアとウィットがある写真は、どうみてもヨーロッパの、しかもパリっぽいんだけど、となるとおもいます。で、実際、そうなのです。日本語ウィキペディアではロシア系とだけなっていますが、パリで生まれたパリに移民してきたジューイッシュのロシア人の両親のもと1928年に生まれています。そして1939年の時、ナチスの反ユダヤの人種差別の空気から逃げるようにアーウィット・ファミリーは、今度はニューヨークへと移民します。エリオット本人は戦後、西海岸の Los Angeles City Collegeで、写真と映画制作の勉強をし、ニューヨークへ戻って1950年まで the New School for Social Researchで勉強しています。その後、再びヨーロッパに向かいます。ドイツとフランスでの米軍にける写真家のアシスタントとしての活動のためでした。FSA(農業安定局)のロイ・ストライカーに一時的に雇われますがすぐにフリーランスのフォトグラファーになり、Look, Life, Collier'sなどの仕事を受けています。1953年からマグナムに参加していることはご承知のこととおもいます。
生まれ故郷であり10歳まで育ったヨーロッパに10余年ぶりにヨーロッパに戻った時のおもいはどんなだったでしょう。それに加えDNAや家族文化として磨かれたジューイッシュ特有の集中的な「観察力」が、ヨーロッパの地で解き放たれたように発揮されていったのでしょう。初期の写真集は、
Photographs and Anti-Photographs, 1972.
Observations on American Architecture, 1972.
Elliott Erwitt: The Private Experience1974
と、「観察力」と「個人的体験」といったジューイッシュならではの写真集のタイトルです。またその潜在力と能力は、「観察」が重要な写真家には必要条件でした。そこに先にあげたパリ生まれのウィット感覚と暖かなスナップの視線が重ねあわされ、西海岸のウェスト・コースト・ポップな感性がもう一枚重ね合わされたといえるでしょう。そして上の動画はアムステルダムでの展覧会の様子ですが、アムステルダムもご存知のようにジューイッシュが多く住んでいる町です。ニューヨークが、『ジュー・ヨーク」と呼ばれ、かつては、「ニュー・アムステルダム」とも呼ばれていました。そうした町で、アーウィットは一番くつろげるようです。学生時代に居た西海岸は、知識と体験を得る場所だけで、恐らく自然体でいられなかったとおもいます。



オリボ・バルニエリ-映像2- site specific_MODENA 08

2010年02月18日 | 日記
Olivo Barbieri - site specific_MODENA 08

先程の追加映像としてアップしておきます。しょっぱなの映像からオリボ氏のアーチストの側面が見てとれます。窓辺で佇んだり、空虚な表情で外を見ている姿は、エドワード・ホッパーを想起せざるをえません。またそれを狙ってもいるはずです。オリボ氏にはものすごく引いた地点から、逆アオリ状態で、何か気になったものにフォーカスする欲動がはたらくようです。ティルト・シフト・レンズを用いるようになったのも、そうした心理的欲望がまずあったはずです。同時にアーバン・ランドスケイプへの知的関心です。この内的/外的(内と外/光と影)への関心がアーチストなり写真家になってゆく原動力の一つとなります。オリボ氏のミニチュア化テクニックは、物体の「影」をどのように思考するか、フィルム面にどう捉えるか、といった経緯からきていて(さすがにダヴィンチを生んだイタリアの人です)、最初からなにやら面白いジオラマ風景を撮ってみようとあれこれ実験していたわけではないからです(多分)。そしてそのテクニックが自家薬籠中のものとなれあ、もともとの内面の心理劇が浮上してくるというわけで、冒頭の話にかえっていくわけです。