世界の写真家を動画で見てみよう

国内外の世界の写真家へのインタビューや撮影風景、作品を動画で見るサイト

オリボ・バルビエリ site specific_New York 07

2010年02月18日 | 日記
Olivo Barbieri site specific_New York 07

イタリアのファイン・フォトグラファー、オリボ・バルビエリは日本ではひょんな事から3、4年前話題になりました。それは写真家・本城直季氏のミニチュア風写真が話題になったことで、元祖ミニチュア風写真家として取り上げられたからです。日本国内にはそれほど彼の写真集は出回っていなかったため、今年56歳になるオリボ氏が一部で俄然脚光を浴びることになりました。またグローバルな観光ツーリズムをテーマとした写真集も出て、なにやら新進気鋭の写真家のごとくに紹介されていますが、もともと1990年代半ば頃からでしょうか(ベニス・ビエンナーレに1993.95.97と出品)、ミニチュア・スティル・フォトグラファーの革新的テクニックをクリエイトした写真家として認識されていました。さて、それはともかく上の動画でも分かるように、単にそのテクニックを発表・展示する写真ではないことがすぐ見てとれます。このニューヨークでの展覧会は、大都会ニューヨークの都市環境(都市建築物)の意味を探るための方法として用いられているようです。パノラミックなアングルで知られるアンドレアス・グルスキーほどの強さはありませんが、グルスキーの写真をイメージしてしまう写真もなかにあります。都市の文明を考察するような入口として機能するような写真もあります。ゆえにミニチュア・テクニックを要しない地上でのイメージ映像が併置されたり、一人の人間にフォーカスし併置する作品がみられるわけです。よってテクニック以外の部分は、本城氏とは大きく異なることがよく分かります。本城氏の写真はその写真集のタイトル「スモール・プラネット」によくあらわれているように、日本文化が得意分野としてきた縮小されたものへのこだわり、そこにいとおしさや愛らしさ(カワイイも含む)を十全に感受しえる情感に届くような写真であります。その意味で、本城氏の写真も、オリボ氏と同じようにその国の文化や所属する文明の内で表現され、かつ評価もされているわけです。ただオリボ氏は、写真メディアを利用したアーチストでも
あるので、自身のテクニックをもう一度組み直して展開していっているようです。しかし最近の国内の写真を見るにつけ、どうも日本は再び孤島(いわゆるガラパゴス現象)になりかけてるんじゃないかと多少危惧するばかりです。もっともその方が、新たな「大江戸文化」が花開くかもしれませんが...

スティーブン・ショアの撮影現場 American Beauty

2010年02月15日 | 日記
American Beauty

この映像はYoutubeではお馴染みなので今更という感じですが(当店でも半年以上前のサイトにアップしていたものです)、興味深い映像は何度見ても勉強なりますからアップしておきます。まだの方は短い映像ですので最後までご覧になるといいとおもいます。8×10ビューカメラでどのように撮影しているかとっぷりと見ることができます。
スティーブン・ショアについては、あれこれ言うことももはやありませんが(当店のウェブサイトの「Mind Tree」に、詳細を記してあります)、アンディー・ウォホールのファクトリーに17歳の時に押し掛けていって、2年間にわたりトンでいた連中を撮影するカメラマンになったことはあまりにも有名な話ですが、じゃあ、そんな彼がその後なんで写真集『Uncommon Places』を撮ったかというと、その水脈はもっと以前にあるのです。10歳の時に伯父さんからプレゼントされたウォーカー・エバンスの写真集『 American Photographs』に感動してしまった視覚的能力の高さはどうでしょう。小学校4年か5年生の時です。私だったらまだサッカーボールをおたおた追いかけていたり、あちこちの崖を登っていたり、たまにはモーリス・ルブランのミステリー小説を立て続けに読んでいたりくらいで、すでに写真はどこででも目にはいっていたはずなのに、油絵はずっとやってはいましたが、もしそんな写真集をみせられても、ほぼ無反応だったんじゃないかとおもいます。スティーブン・ショアはその4年後の、14歳の時、中学3年生の時、MoMAの写真キュレーターのエドワード・スタイケンに撮った写真を見せに行って、なんと3枚買い上げられています。またスティーブン・ショアはカラー写真を相当早くから手がけていたことも今ではよく知られていますが、写真集『American Surfaces-1972』などはそのタイトルや掲載写真には、ウォホールの感性やコンセプトに、1950年代の「路上」以降のアメリカン・シーン、「リアル」をともなうようになってきたカラー写真、それにウォーカー・エバンスの写真集『 American Photographs』を伯父からプレゼントされる前の9歳の時に、すでに35ミリカメラでカラー写真を撮りだしていた少年期の記憶など、さまざまな要素が含め込まれた写真を撮りだしたのでした。ショアは最初は35ミリで、ついで4×5ビューカメラで、その後に8×10ビューにと移行していきました。その最後の時の8×10ビューカメラでの撮影が上の動画ということになります。


再びのジュール・マレイ-フリップブック

2010年02月14日 | 日記
�tienne Jules Marey - Bienvenue

再びのジュール・マレイです。生理学者ジュール・マレイは、後年になってムーヴィング・イメージをどうとらえディスプレイさせるのが効果的か探求もしています。1秒間に60コマの速度の映画も制作しています。
上の動画は、フリップブックではありますが、もう完全に映画にむかっていっています。動画の下部に、他のジュール・マレイの動画が紹介されています。1890年に制作された「Falling Cat(落ちるネコ)」もその中にありますので見てみてください。この動画が終わった後に、すぐに他の映像の紹介がずらずらっとでてきます。それをクリック!


ジュール・マレイの仮説を写真で実証したエドワード・マイブリッジ

2010年02月11日 | 日記
Eadward Muybridge meets Mike Patton

→昨日の続きです。エドワード・マイブリッジの有名な馬の四本の脚の着地の問題を証明するための連続写真は、ジュール・マレイが著書の中で「四本の脚は一瞬間、地面を離れる」と書かれたことを証明することになります。もっともその実験は、カリフォルニア州元知事で馬主だったスタンフォードが、その掛けを実証するためにマイブリッジを写真師として雇ったことからはじまりました。カリフォルニア・ベイエリアのパロ・アルトでの実験でした。
エドワード・マイブリッジはもとは英国出身で、出版エージェントと書籍商(ブックセラー)として、25歳の時(1855年-日本では江戸時代最晩期です。ちなみに今流行りの坂本龍馬よりも6歳年上です。マイブリッジは1830年生まれ。龍馬は1836年生まれ)サンフランシスコにたどりつきました。馬車での事故で大怪我をし一端英国に帰国しますが、復帰後、フランスに渡りジュール・マレイのストップ・モーションの実験と研究を目の当たりにしています。きわめて科学的な実験でしたがマイブリッジに大きな刺激を与えました。その情報を獲たマイブリッジは今度は写真家として再びサンフランシスコにむかいました。チャールトン・ワトキンスが撮影したヨセミテやサンフランシスコのランドスケイプ写真で名声を勝ち得ることになりました。先の「四本の脚は一瞬間、地面を離れる」の実験は、それ以降の1877年に連続したネガによって証明されます。エドワード・マイブリッジは、1879年にその証拠の写真を書籍にして刊行しました。マイブリッジの生涯を、フィリップ・グラスが『フォトグラファー』として、1982年にオペラにしたてています。


ジュール・マレイの空気銃とマルセル・デュシャン

2010年02月11日 | 日記
marey & duchamp

エティエンヌ=ジュール・マレイ(Étienne-Jules Marey1930-1904)は写真家というわけではありません。フランスの偉大な生理学者です。人体の動きの分析手法は、写真界やアートの世界に大きな影響を与えました。本業では心臓学の発展などに寄与し、心臓の鼓動(ビート)や呼吸作用について研究し、その流れで人体の動きに関心を寄せ分析しました。さらには脈を測るためコンパクトな血圧計を開発し普及させたり、昆虫がどのように飛ぶのかを知るために人工昆虫を制作したり、空気の動きの研究もおこなっています。
そしてついに写真史にも登場するChronophotographic Gun-空気銃を開発し(1882)、動きの分析を「写真」に撮って分析を深めていきます。1873年に『La Machine Animale(アニマル・メカニズム)』を出版し、深く関心を寄せていた鳥の飛翔の分析も『Le Vol des Oiseaux (The Flight of Birds)』となって1890年に写真つきで出版されます。鳥だけでなく羊やゾウ、魚やミクロの生物や昆虫なども撮影。床に落とした猫の動きの写真は有名です。
後のマルセル・デュシャンの発想は、19世紀後半のジュール・マレイらの探究心と実験から大きなインスピレーションをえていました。

マーク・ボスウィックの独特の展覧会風景 2009

2010年02月09日 | 日記
Mark Borthwick at The Journal Gallery on March 26th 2009

M.ボスウィック好きな人はこうした動画は見てられるでしょうから、ちょっとばかり別の観点から感じたことを書いてみよう。もはや写真はシリアスに追求するだけでなく、その人にあった使い方、楽しみ方でつきあえばいいのだけれど、それでメシを食べていこうと決断すると突然、視界が曇ってしまい五里霧中の状態に陥ってします。今の日本だと、ほんとうにカメラマンの仕事が減ってしまって、恐らく先輩たちの状況を見るにつけ、若い人たちは不安になっているとおもいます。そこでマーク・ボスウィックですが、彼は18歳の時、ロンドンからパリに移り住み、パリで小さなクラブをみつけ手にいれスタイリッシュなパトロンの写真を撮りはじめています。『I-D』『FACE』の編集者とも知り合いになりますが、その後はメイクアップの仕事を続けています。そして1990年代は、仕事のかたわら好きな絵を描いたり、写真を撮ったり、生まれた子供と遊んだりし、ほぼ10年間模索しつづけます。ただ、模索といっても彼自身、好きな事をしての模索ですから、模索と言えないのかもしれません。30歳の1996年頃からニューヨークでの展覧会が大きく話題になっていきます。何が言いたいかというと、彼の最初の写真集『Synthetic Voices』(1998年刊/シナジー幾何学/ブックデザインでNEW YORKのADC賞銀賞/アートディレクター:中島英樹)のタイトルに生き方がすでにあらわれているということです。写真も絵も、歌声もギターの音も、暮らしもすべてが統合されたようなヴォイスであって、周囲と「共振する」ことが重要なのだと。写真も絵もギターも、そのための重要ななツールだけど、そこに最大の力点がおかれてない、ということかな。これは一つの教えといってもいい。なとしても写真でメシを食うぞ、というのとは逆コースだからだ。勿論、それでうまくいく人は世界でもほんの一握りだ。なぜならばその時代とも、シンクロするように「共振」しなくてはならないからだ。だから今からボスウィックのようになろうとしてももうダメで、それは自身が自分自身と周囲と時代とうまく「共振」できる方法を発見することこそ重要だということを意味します。「観察」という方法よりも「内観」に近い方法なのかもしれません。だから「観察」がそれほど得意ではない日本人に、ボスウィックは大いに受けてきたのでしょう。



ビル・ブラント、貴重なインタビュー映像

2010年02月07日 | 日記
Bill Brandt part1

ドイツ生まれながら英国のフォトグラファーとして常にトップクラスに位置してきたビル・ブラント。彼の動画は多分、あまり検索されないかもしれないので、アップしておきます。ビル・ブラントの半生はとくに初期は謎に満ちています。その理由の一つが、後に戦争を交えることになる英国人の父とドイツ人の母の下に生まれたことです。また動画でもどこか貴族的な面持ちをしてるのは父親の家系が英国とロシアにルーツを持つ裕福な銀行一家だったためでしょう。同時に、写真家としては動物的、野性的なタイプではなく、身体的に線が細くみえるのは、10代の半ばに結核にかかりスイスのサナトリウムに6年間もはいっていて治療生活が続いたことも依然影響しているのかもしれません。その語、24歳の時に、写真家になる決意をし、エズラ・パウンドを撮る機会に恵まれ、パウンドがマン・レイを紹介し、ビル・ブラントは短い間ながらマン・レイのアシスタントとして働きました。そして27歳からロンドンにおもむき、それ以来、英国人以上に英国人らしいと言われるほどに、英国のさまざまな側面を撮影していったことはよく知られています。最初の写真集のタイトルは『The English at Home』(1936年刊行)、ビル・ブラント32歳の時でした。ちなみにこの映像は、Master Photographer Seriesで1983年のクレジットがありますので、おそらく亡くなった年に撮られたものかもしれません。ビル・ブラントは、1983年、79歳で亡くなっています。


ロバート・メイプルソープ、幼年期の家と自身を語る

2010年02月05日 | 日記
Robert Mapplethorpe Talks About His Background

去年メイプルソープとギャラリストのサム・ワグスタッフのドキュメンタリー映画を見ましたが(サム・ワグスタッフの半生がメインでした)、メイプルソープはその写真とともにあまりにも有名になったためその写真が脳内イメージに貼り付いてしまえば、だいたい知ってしまったような気分になってしまいがちですが、メイプルソープの半生を知ることはかなり興味深いものがあります。ここには詳しくは書けませんが(アートバード・ブックスのサイト内で「Mind Tree」を作成中)、プラット・インスティテュート(父親が同じプラットのエンジイアスクールで学んでいました)に入りますが、メイプルソープは学生ローンで借金して入学しています。最近は奨学金を戻せない日本の学生のこと、そして欧米のように返済不要の奨学金のようにしないと、とよく聞きますが欧米でもそれは基本的に優秀な学生であってはじめて返済不要の奨学金にアプライできるわけで、メイプルソープのように当時も今も学生ローンで借金する人は多くいて、日本と同じように戻せなくなっている人も多いようです。メイプルソープは、プラットに入学する少し前からニューヨークの老舗書店ブレンタノ書店(グリニッジ・ヴィレッジ店)でバイトをしています。その時に偶然アパートに人間違いで入ってきたのがパティ・スミスだった、というのはこれも有名な話ですが。それからすぐに仲良くなったわけでなく、後に2度の偶然があってはじめて仲良くなっていったようです。その一つが、その半年後くらい(大学3年で妊娠し子供を里子にだして以降だった)に再びニューヨークへやって来て、パティ・スミスも書店でバイトをしはじめます。それが同じブレンタノ書店で、パティ・スミスは5番街にあるお店の方でした。私も20年程前に何度もそこに訪れたことがあるのですが、確か赤いカーペットが入口から敷かれてある由緒ある老舗の書店で日本にはない種類の書店でした。とある資料にはパティ・スミスはストランド・ブックストアでバイトをしていたとなっていますが、正解はブレンタノ書店です。けれども同じブレンタノ書店でも店は別々だったのでお互い最初は知らなかったようで、何かの機会でそれを知ってびっくりして嬉しい再会になったそうです。今年は米国は電子ブック元年で、数年内に多くの書店が姿を消すことになると予測されています。映画『恋に落ちて』のニューヨーク・リゾーリ書店での出会いや、メイプルソープとパティ・スミスのような出会いは確率的にかなり小さくなっていくことになるでしょう。さて、一時的にメイプルソープとパティ・スミスは一緒に暮らしていましたが、活動的なパティ・スミスにとってメイプルソープとの生活は閉鎖的だったようで、パティは抽象画家に熱をあげメイプルソープに別れをきりだします。一人になったメイプルソープは、サンフランシスコに一人旅をします。その時、飛行機の中で偶然知り合った青年についていってコミューンに泊まるようになり、そこで完全にゲイに目覚めた、というわけです。その頃、大好きだったアーチストのジョセフ・コーネルに影響を受け、箱に十字架や骸骨などのオブジェを入れて制作したり、ゲイ雑誌を切り抜いてコラージュしたりしています。人間、何事もとんとん拍子に行くってことはないことがメイプルソープの20代を知るにつけよくわかります。そして20代に一度大きな人生のシンクロニシティーが起こることも... ps.上の映像にメイプルソープの生まれた家が出てきますが、メイプルソープ家は銀行家の家系で、祖父は中堅銀行の重役で父のナショナル・シティ・バンクに勤めていました。1940年代末に父はクイーンズ地区に小さな家を買いますが、当時は銀行に勤務していたからといって邸宅に住むほどの給料を得ていなかったようです。子供の頃は、年に一度、伯母がコニーアイランドに連れていってくれるのが楽しみだったようで、マンハッタンへ行くことは父に禁止されていました。幼心の記憶には、コニーアイランドのことと教会の祭壇のことしか鮮明に覚えていないとメイプルソープは語っています。


ブルース・デビッドソン-展覧会で語る

2010年02月04日 | 日記
Bruce Davidson @ Jackson Fine Art, 2008

写真集『ブルックリン・ギャング』や『100 East Street』、『サブウィエイ』『セントラルパーク』などで世界的に知られるフォトグラファー、ブルース・デビッドソンは、2010年のいまほぼ半世紀にわたって写真を撮ってきたことになる。写真集だけでなくドキュメンタリーだけでなく、アドバッタイジングやファッションでも大いに活躍してきた。基本的には、カルティエ-ブレッソンがメンター(心の師)でありつづけ、「彼のような写真家になれようもないが、ブレッソンのような人間になりたかった」と語っています。デビッドソンは5歳の時に両親が離婚し、学校嫌いになり中学2年の時にはもう少しのところで特別学級に入れられるところだったようです。新聞配達で小遣いをかせいでドラッグストアでBox Cameraを買い、1943年10歳で写真を撮りだしカメラ屋さんでバイトをつづけました。その後、軍隊に入隊し写真記録の係となり、パリに派遣され除隊後に「ライフ』の仕事をするようになります。24歳の時にブレッソンに会い、26歳でマグナムに参加、1959年、27歳の時に怒りと情熱にみちたブルックリンの若いギャングたちを撮影します。アヴェドンやアーバスらとよく一緒にいたのもこのころです。デビッドソン(少年時代にはトーラーやミツバを習ってます)もそうですが、みなジューイッシュです。サーカスや道化師たちもかなり早くに撮影していました。面白いのは、ブレッソンが、少年ギャングが撮れるならまちがいなく、ファッションも撮れるとヴォーグのアレグザンダー・リバーマンに進言していたのです。なるほど、それはよくわかるような気がします。デビッドソンの半世紀の仕事ぶりや写真をみると、写真家とはこれだけの振幅がある仕事ができ、そのすべてに深い観察と関心を向けられる人種だということがよくわかります。アートバードの「マインド・ツリー」で、ブルース・デビッドソンのことを詳しく知ることができます。興味のある方はチェックしてみてください。http://artbirdbook.com「MIND TREE』のコーナーへ


アンリ・カルティエ=ブレッソン「The Impassioned Eye」

2010年02月02日 | 日記
The Impassioned Eye - 1 of 10

東京都写真美術館でブレッソンと木村伊兵衛展が開催されているが、やはり2人とも興味深い。2人ともコンパクト・カメラの存在を感覚的に知った時に、それまでの大きなボックス・カメラを捨てている。ブレッソンの場合、23歳の時、アフリカの象牙海岸に旅していた時にフランスのクラウス社製35ミリ小型カメラですでに撮影していた。病気を煩い療養中にライカ50ミリを購入している。ブレッソンに決定的な影響を与えた写真があった。マーチン・ムンカッチの写真「Three Boys at Lake Tanganyika」(湖の岸を走る3人のアフリカの子供ち)だ。こんな事が写真に可能か!と衝撃を受けたという。そしてライカを持ってストリートに飛びだしたという。それより以前、10代の頃、母の知り合いの息子であった後のピエール・ド・マンディンアルグとよく散策し、両者ともブルジュア家庭の頽廃と硬直化したアカデミズムから手を切る方法をさぐっていた。とにかくブレッソンの半生はかなり興味深いのだ。