どんてん生活

日々思ったこと、観たもの、考えたこと、好きなもの、嫌いなもの、出会った人などなど、個人的な活動報告になる予定です。

かもめ追記、追想。

2010-06-18 01:30:00 | Weblog
 いかんともしがたいな、と。公演後、そのような生活を送っております。
知も智も特に持ち合わせていないことは問題なのですが、持ち合わせようとする、そこまでのところにも更に大きな問題があると、個人的に思う日常です。


 さて。
 せっかく?ブログなんていうものをやっているのだから、この前のアフタートークで発言してしまった単純な疑問を書いておこうかなと思った次第です。こういう時に、ツイッターって便利なのではないかしら。でもやっていないので、何故か。とりあえず。

 「ピンとこない」ということについて。
 観る側は、創る側は、みなさんは、個人は、あなたは、どのように考えて、対処などを模索しているのかということなのですが。対処とか模索しない人は、どのように思っているのか、感じているのか。
 恥ずかしながら知も智もないので、語弊や偏見からの発言もあるとは思いますが、そういう質問をしてみたいなと、適切な場所でもないだろうとは思いつつ、書いてみます。
 
 『かもめ/マシーン』に出演しまして。
 説明というものでもないのですが。
 例えば台詞は、ここに書いているような言葉より更に喋り言葉に近いような言葉で、
目の前の客席に人がいるなあと一応認識はしながら喋る部分と。
 トレープレフやトリゴーリンの台詞として、少し堅かったり、語尾や例え話まで丁寧に言い切ったり、
「まさか」とか「愛している」とか「すると」だとか「いや、」だとか「~しなければならない」だとか言ったりする部分がありまして。
 身体は台詞や他の何かを記号的に示すようなものでもなく、
カメラや椅子やテーブルなんかを設置しながら、椅子に座ってもぞもぞもじもじしながら、
背もたれに掛けた手や指をいじりながら、一万字くらいの台詞を30分間喋っていたのですが。



 アフタートークにて「チェルフィッチュ的」とも表されたわけです。
そう言われるのはとてもよくわかりますし、逆に、台詞の内容や発する言葉や表現の方向性のようなものなどを考えると、チェルフィッチュとは異なるとも思っていて、異なるものだと考えているとも言いました。
 構成・演出の萩原さんは、ここで出された「チェルフィッチュ」に関して、「前提」という言葉を使って、(以下、思い切り語弊を生みそうな表現ですが)影響や意識としてはあったと言っていて、そこには「ジェネレーション」というものが強くある、というようなことを言っていたように思いますが(…今思い返してみてそう言っていたように私は、思う)。

 ここ、このね、「チェルフィッチュ的」と言われる/或いは「言われてしまう」ことと、「ジェネレーション」というものと(この二つは並列ではない)、そこに、そこが、とてつもなく興味と疑問とが浮かんできてしまうのです。
「チェルフィッチュ的」というのは、人によって様々な意味や意図を含んでいる扱いにくい言葉なのですが、まあ、他の作品の場でも言われたり、聞いたりしているように思います。

 「ジェネレーション」というものがあるから「チェルフィッチュ的」と言われてしまうのか、
はたまたそんな関連はなく、こちらの発信(或いは意図)とは全く別のところで言われているのか。
兎に角、「ジェネレーション」やら、発信と(その受信とは別の)感受やらの間にあるであろう
「ピンとこない」ということを、
他人である人々、表現を発信する側でも、観る側でも、どのように考えていて、
どのような対処の策を思案しているのか。
或いは、こうした「ピンとこない」ことに気持ち悪さや引っ掛かりを持っているのかどうか。
問題としないのであれば、どのようにして問題になっていないのか。
このことがどうにも個人的に支えている、疑問であり質問なのです。
明確な答えを知りたいわけではなく、
ただただ一人ひとりに質問してなんでもよいから訊いてみたいと思っているのです。

 補足として、「ピンとこない」は「わからない」と密接のようで、明らかに違う、より深刻であり切実なもののように思います。
「ピンとこない」から「わからない」という人も多くいるように思いますが、
例えば、やろうとしていること、表現の方法や意図、作品や表現の面白みだと思われる部分を、理解はできる、という意味で「わかる」場合でも、「ピンとこない」ことはあると思うし、そういう感覚は私自身にこれまで比較的多くあったと記憶しています。
単純に「わからない」し「ピンとこない」ということや、
「わかる」んだけどね~「ピンとこない」ということをどうしていったらいいのか、
この気にかかってしまった問題と付き合っていくためには、
アフタートークのあの場という漠然とした、
ともすると何かしらフィルターのかかってしまいそうな「場」に向けてではなく、
個人に「あなた」という存在に質問してみたいと思ったのです。そう思って、願って?発言しました。
まあ、こんな、ブログに書くという行為で、アフタートークと同様の失敗をしているなとも思っているわけですが。
 
 分野分けというものの乱暴さを意識しつつ…
私は演劇もさることながら、まして舞踏やダンスや映像表現、絵画にしろなんにしろ、本当に知らないし、
知がない故に理解できない(更にはピンとこない)ということに度々直面したり、しそうになったり、痛感したりしているのですが。
有名だったり歴史があったりする方法論だとか思考法だとか、
国内外問わず、表現の分野において幾多の革新を起こしたり、
この分野のどこかを形成してきたり発展させてきたりした偉人のような人々の活動や思考や、
それらの結果生まれた何かしらの価値や権威や、や、幼稚に言って凄さというものを、
非常に恥ずべきことですが、知りません。本当に恥ずかしい…や、あー嫌だなあ。

 あーどうにも、恥だなあ…こうでも書かないと書けない、っっっ愚ぅっ。
ブレヒトの演劇論だとかスタニスラフスキーシステムだとか、そういうものから派生して現在まで続いている考え方や方法だとか、興味深いし、実際に何を言っているのか理解できない部分があることも多いですが、面白いとも確実に思うのです。
 ただ、そういうものに対して「ふーん」と、「えっと…だから?どういう…?」と、
もっとこわい、ともすると暴力的な言い方で言えば「で?」と、言えてしまうことも、わかるのです。
 例えば演劇やそういった表現に触れない、或いは私とは全く違った意識で触れている人々を含めて一般化する、なんていうのは気が早すぎるので、あくまで個人的な、でも確実にここに一人はそういう人間がいてしまうんだが、どうしたら、どうされたらいいのか。
どうにかするべきなのか、だとしたらその方法をどのように考えているのか。
またはこのような人間をどうにかするのではなく、
このような人間はこのような人間として、認めるのか、認めたその先は、
発する表現をどうにかするのか?
もしくは切り捨てるのか、端から想定しないのか。

 そういうことを、訊きたいし、これからも考えて/気にしていってしまうのだろうと思うのです。私個人に限ったとしても、6/15の公演で急にこの疑問が出てきたわけではなく、言い方や扱い方は違えど、いつからかずっと触れてきた疑問のように思いますし、こんな疑問はきっと誰かも、もしかしたら時代すら関係なく、触れてきたものだとも思うので、新しくもない、ともすれば幼稚な、悲しい味気ない言い方をすれば極個人的な、そういう疑問です。只/唯、切実なのです。

 訊きたいというのは、考えや意見や思想や体験といったものを、誇示されたいわけでも、教えられたいわけでも、圧されたいわけでもなく、単純に伺いたい。この疑問の質問に合致するようなことが言われなかったとしても、傍から見れば無視や黙殺や無関係に思えたとしても(そういう可能性は大きいと思うのです)、この質問をしたところで話されるものを聴きたいと思っています。そこからまた多分考えるんでしょう。


 【感想】だがしかし、ですよ、こういった姿勢はやはり一個人の我儘のような不遜な態度のようにも思われるなあと。否定も肯定もなくただ、そうとも思えるってだけのことです。


かもめ

2010-06-16 19:02:39 | Weblog
かもめマシーンExperience『かもめ/マシーン』、ご来場頂きました方々、関係者の方々、本当にありがとうごさいました。
昨日夜、1ステのみの独り芝居(身体は一つでしたが、個人的な感覚としては3人芝居だなと思っていたり)を両国シアターXにて終演致しました。チェーホフ生誕150周年記念ということで催された、第9回シアターX国際舞台芸術祭に参加した次第です。

30分、独りでわーわー喋り、及川先生に司会をして頂いたアフタートークにも参加致しました。人生初づくめ。今更ながら、とても喋れないような方と同席する機会を与えて頂いて、生意気なことも発言し、あーこわいと、今更ながら思っております。普段なら話せないような人々の言葉を目の前で聞けたことの高揚は、やはりあるなと。

振り返らずとも個人的な反省やちくしょーという思いははちきれんばかりにありますが、それは最早今後へと。だからこそ悔しいのですが。稽古も含めてあの瞬間の汗やら胃痛やら身体の強張りやら、それはちゃんとあり、他の場所では得難いもののような気がしますが、更に、と。ま、何も言えません。

軽い打ち上げでちゃんこを食べ、ぽつぽつ話して、帰って寝て、働いているわけですが、身体がどうにもこうね、と思っています。何かものすごくストレスフルなものがまだ継続しているような気がしているのですが、これは感傷なんでしょうか。ちょっと違う気もするし、なにより違って欲しいなと。とりあえず、なんだか泣き喚きたいなと、喫茶店だけど。ただまあ、そんなことをしてもと、やはり思うのです…が、なんだか今なら「で?だから?」を超えて泣き喚くとかできる気がする。まあ結局「で?だから?」な気もします。喚く代わりにブログなんか書いてみたり、スイーツOL的な、偏見ですが。

アフタートークで、結果、宙に浮いた自問自答のような質問を、どうにかできるとしたら、今回の方向は一ついいものなんではないかと。ただ素直には進まないだけで。悔しいことはきっとまだまだ出てくると思います。

いいタイトルは浮かばない。

2010-06-12 00:52:50 | Weblog
 毎度のことながら、遅ればせながら。
 ジエン社第5回公演
 『クセナキスキス』
 6日に無事全ステージ終演致しました。

 ご来場頂いた方々、公演を支えて頂いた方々、出演者の皆様、とても?とても、ありがとうございました。これも毎度のことながら、いい表現が見つからない。観に来て頂いて、関わって頂いて、ありがとうございました。というのでは完結しないなあと思っているのですよ。つづく。奇跡的に、結果として続いていった、という風に5割くらいは本当にそう、見えたらよいのかなあと。自分でも何を言っているのか意味不明ですが。

 使用する言葉なんか特に、周りの人の影響がかなりあるとも思うのですが、やる側としても、観る側としてもおもしろいなあと思うのは、表現しきれないものに向かうっていう、それに伴う気持ち悪さやら居心地の悪さやら歯がゆさやら、そういう。これ、作品が完結しても終わらないような感じがするんですよね。終わらないからいいんだとか、そういうことではなく。勿論、逆の、カタルシスがあるような、時間内に劇的に作用し合って変化していくとかも楽しかったりおもしろかったりするわけですが。完結するもののかっこよさや抜群の面白さと完結しないものの興味深さや魅力とか…あー、なんて贅沢なんでしょう。

 脳みそがパンパンなのでかなり支離滅裂ですが。
 こんなこと書いている場合じゃあなかったりもします。
 15日に、両国のシアターXで、1ステージのみ、19:30開演で、やります。
 独り芝居です。30分くらい。
 アフタートークもあるらしい、というかやるらしい。やることになっていたらしい。
 とりあえず、雑な感は否めませんが、この活動報告が書ければ今回はよし。
 
 第9回シアターX国際舞台芸術祭IDTF2010
 2010年6月1日~7月4日
 @シアターX  
 6月15日(火)19:00開場/19:30開演
 かもめマシーンExperience
 『かもめ/マシーン』
 構成・演出 萩原雄太

 もし気になる方いらしたら、交通費だけ握り締めて、ちゃんこ食べついでに両国に遊びにいらしてください。事前に清水までなんらかの方法でご連絡いただければ幸いです。
 あ、こういう時にツイッターは便利なのかしら。
 
 
 
 



もしも「あなた」が誰かならば。

2010-06-05 01:10:46 | Weblog
この前書いた記事の答え、という、完結するものでもないのでしょうが、もしもここでの言葉がやはりなにかに向けられているものならば、それはやはりいまの私にとって、不特定多数のなにかではなく、かといって直接的具体的な個人、とも違う、ような気のする、その間の、且つ両方含むような、偶像みたいな誰か、何者かに対して、のような気がする。のです。

結果、例えば演劇を観に来てもらったような場合、具体的な個人と会うことになるわけですが。そういう、具体的な部分は切り離しせないし、切り離すのはこわいこととも思うわけですが。

その偶像に対してならば、ここから向かう言葉は祈りみたいなものなのか、と。願い、とか?何か直接的な作用を期待してのこととは少し違うもののように感じますが、それで何かにもし、その偶像のような対象、誰か、あなた、といったものに、もし何かしら作用してしまったならば、それはなんだか、初めから直接的具体的な作用を起こそうとして行う発信よりも、暴力的ではない、と思うのですが、どうだろうか。甘っちょろいのだろうか。発信者の自己満足だったり、誰かには容易く排除されたりカテゴライズされて整理されてしまったりするものなんでしょうか。

祈ることと要求することは少し違うのだと思います。「祈る」ってなんで言葉で改めて確認するとなんだか装飾過多な言葉、というかイメージだなぁ。

ただここで言葉を書き連ねるだけなら、勝手に祈ってるだけでいいと思うのですが、直接だとか具体だとかいう、特定の誰かを除外して考えられないのは、いまが公演中だからだと思います。

何も言わないことも、ただ祈るだけで、もしくは要求ばかりで、具体的な作用やその結果について向き合う態度をとらないのは、無責任。いや、的確な言葉じゃあない気がする、ので、なんだか違う、と言うか、もったいない、と言うか、申し訳なく思ってしまう、と言うか。

うまいこと、や、臆したとしても(相手を怒らせてしまうかもしれないですが)、向き合ってみたいと。何もちゃんとしたことは言えないかもしれないですが、せめて、共感や反省とは違っても、単純な理解をしたいと。

「観に来てください」って言ったり、メールしたりする時の心情?は、見返りを与えられますという宣言ではなく(これもやはり怒らせる、渋い感じにさせることかもしれませんが)、祈っている方に近い気がします。でも、切実な所で出てくるのが祈りのような気がするので、ただ要求する時より切実、でこの切実さはやっぱり作品と創っているものと密接に関係しています。下手をしたら、そんな状況には出来うる限り陥りたくないですが、祈るほどの切実さが湧かない公演もあり得ます。

ていう、長い前口上?言い訳?の後に。
ジエン社、観に来てください。


ジエン社第5回公演
『クセナキスキス』

◆日時
※残り2日4ステージ
5(土)…14:00/19:00
6(日)…13:00/18:00
受付開始:開演45分前
開場:開演30分前

◆劇場
日暮里 d-倉庫

◆料金
前売 2500円
当日 2800円

◆ご予約
下記にアクセス後、フォームに必要事項をご記入ください。
http://ticket.corich.jp/apply/19737/004/

①お名前②人数③ご希望日時④券種
以上を清水まで直接お知らせください。

◆その他
ジエン社HP
http://elegirl.net/jiensha/

※当公演は作品中、喫煙シーンがございます。



なんだか…なんか…こんな内容になったので、関係ない写真を一枚。
画面がもやっていますが、おもしろくご飯を食べる大重わたるさんと岡野康弘さん、とその横で蜂蜜レモンを飲む北川未来さんですね。