いかんともしがたいな、と。公演後、そのような生活を送っております。
知も智も特に持ち合わせていないことは問題なのですが、持ち合わせようとする、そこまでのところにも更に大きな問題があると、個人的に思う日常です。
さて。
せっかく?ブログなんていうものをやっているのだから、この前のアフタートークで発言してしまった単純な疑問を書いておこうかなと思った次第です。こういう時に、ツイッターって便利なのではないかしら。でもやっていないので、何故か。とりあえず。
「ピンとこない」ということについて。
観る側は、創る側は、みなさんは、個人は、あなたは、どのように考えて、対処などを模索しているのかということなのですが。対処とか模索しない人は、どのように思っているのか、感じているのか。
恥ずかしながら知も智もないので、語弊や偏見からの発言もあるとは思いますが、そういう質問をしてみたいなと、適切な場所でもないだろうとは思いつつ、書いてみます。
『かもめ/マシーン』に出演しまして。
説明というものでもないのですが。
例えば台詞は、ここに書いているような言葉より更に喋り言葉に近いような言葉で、
目の前の客席に人がいるなあと一応認識はしながら喋る部分と。
トレープレフやトリゴーリンの台詞として、少し堅かったり、語尾や例え話まで丁寧に言い切ったり、
「まさか」とか「愛している」とか「すると」だとか「いや、」だとか「~しなければならない」だとか言ったりする部分がありまして。
身体は台詞や他の何かを記号的に示すようなものでもなく、
カメラや椅子やテーブルなんかを設置しながら、椅子に座ってもぞもぞもじもじしながら、
背もたれに掛けた手や指をいじりながら、一万字くらいの台詞を30分間喋っていたのですが。
アフタートークにて「チェルフィッチュ的」とも表されたわけです。
そう言われるのはとてもよくわかりますし、逆に、台詞の内容や発する言葉や表現の方向性のようなものなどを考えると、チェルフィッチュとは異なるとも思っていて、異なるものだと考えているとも言いました。
構成・演出の萩原さんは、ここで出された「チェルフィッチュ」に関して、「前提」という言葉を使って、(以下、思い切り語弊を生みそうな表現ですが)影響や意識としてはあったと言っていて、そこには「ジェネレーション」というものが強くある、というようなことを言っていたように思いますが(…今思い返してみてそう言っていたように私は、思う)。
ここ、このね、「チェルフィッチュ的」と言われる/或いは「言われてしまう」ことと、「ジェネレーション」というものと(この二つは並列ではない)、そこに、そこが、とてつもなく興味と疑問とが浮かんできてしまうのです。
「チェルフィッチュ的」というのは、人によって様々な意味や意図を含んでいる扱いにくい言葉なのですが、まあ、他の作品の場でも言われたり、聞いたりしているように思います。
「ジェネレーション」というものがあるから「チェルフィッチュ的」と言われてしまうのか、
はたまたそんな関連はなく、こちらの発信(或いは意図)とは全く別のところで言われているのか。
兎に角、「ジェネレーション」やら、発信と(その受信とは別の)感受やらの間にあるであろう
「ピンとこない」ということを、
他人である人々、表現を発信する側でも、観る側でも、どのように考えていて、
どのような対処の策を思案しているのか。
或いは、こうした「ピンとこない」ことに気持ち悪さや引っ掛かりを持っているのかどうか。
問題としないのであれば、どのようにして問題になっていないのか。
このことがどうにも個人的に支えている、疑問であり質問なのです。
明確な答えを知りたいわけではなく、
ただただ一人ひとりに質問してなんでもよいから訊いてみたいと思っているのです。
補足として、「ピンとこない」は「わからない」と密接のようで、明らかに違う、より深刻であり切実なもののように思います。
「ピンとこない」から「わからない」という人も多くいるように思いますが、
例えば、やろうとしていること、表現の方法や意図、作品や表現の面白みだと思われる部分を、理解はできる、という意味で「わかる」場合でも、「ピンとこない」ことはあると思うし、そういう感覚は私自身にこれまで比較的多くあったと記憶しています。
単純に「わからない」し「ピンとこない」ということや、
「わかる」んだけどね~「ピンとこない」ということをどうしていったらいいのか、
この気にかかってしまった問題と付き合っていくためには、
アフタートークのあの場という漠然とした、
ともすると何かしらフィルターのかかってしまいそうな「場」に向けてではなく、
個人に「あなた」という存在に質問してみたいと思ったのです。そう思って、願って?発言しました。
まあ、こんな、ブログに書くという行為で、アフタートークと同様の失敗をしているなとも思っているわけですが。
分野分けというものの乱暴さを意識しつつ…
私は演劇もさることながら、まして舞踏やダンスや映像表現、絵画にしろなんにしろ、本当に知らないし、
知がない故に理解できない(更にはピンとこない)ということに度々直面したり、しそうになったり、痛感したりしているのですが。
有名だったり歴史があったりする方法論だとか思考法だとか、
国内外問わず、表現の分野において幾多の革新を起こしたり、
この分野のどこかを形成してきたり発展させてきたりした偉人のような人々の活動や思考や、
それらの結果生まれた何かしらの価値や権威や、や、幼稚に言って凄さというものを、
非常に恥ずべきことですが、知りません。本当に恥ずかしい…や、あー嫌だなあ。
あーどうにも、恥だなあ…こうでも書かないと書けない、っっっ愚ぅっ。
ブレヒトの演劇論だとかスタニスラフスキーシステムだとか、そういうものから派生して現在まで続いている考え方や方法だとか、興味深いし、実際に何を言っているのか理解できない部分があることも多いですが、面白いとも確実に思うのです。
ただ、そういうものに対して「ふーん」と、「えっと…だから?どういう…?」と、
もっとこわい、ともすると暴力的な言い方で言えば「で?」と、言えてしまうことも、わかるのです。
例えば演劇やそういった表現に触れない、或いは私とは全く違った意識で触れている人々を含めて一般化する、なんていうのは気が早すぎるので、あくまで個人的な、でも確実にここに一人はそういう人間がいてしまうんだが、どうしたら、どうされたらいいのか。
どうにかするべきなのか、だとしたらその方法をどのように考えているのか。
またはこのような人間をどうにかするのではなく、
このような人間はこのような人間として、認めるのか、認めたその先は、
発する表現をどうにかするのか?
もしくは切り捨てるのか、端から想定しないのか。
そういうことを、訊きたいし、これからも考えて/気にしていってしまうのだろうと思うのです。私個人に限ったとしても、6/15の公演で急にこの疑問が出てきたわけではなく、言い方や扱い方は違えど、いつからかずっと触れてきた疑問のように思いますし、こんな疑問はきっと誰かも、もしかしたら時代すら関係なく、触れてきたものだとも思うので、新しくもない、ともすれば幼稚な、悲しい味気ない言い方をすれば極個人的な、そういう疑問です。只/唯、切実なのです。
訊きたいというのは、考えや意見や思想や体験といったものを、誇示されたいわけでも、教えられたいわけでも、圧されたいわけでもなく、単純に伺いたい。この疑問の質問に合致するようなことが言われなかったとしても、傍から見れば無視や黙殺や無関係に思えたとしても(そういう可能性は大きいと思うのです)、この質問をしたところで話されるものを聴きたいと思っています。そこからまた多分考えるんでしょう。
【感想】だがしかし、ですよ、こういった姿勢はやはり一個人の我儘のような不遜な態度のようにも思われるなあと。否定も肯定もなくただ、そうとも思えるってだけのことです。
知も智も特に持ち合わせていないことは問題なのですが、持ち合わせようとする、そこまでのところにも更に大きな問題があると、個人的に思う日常です。
さて。
せっかく?ブログなんていうものをやっているのだから、この前のアフタートークで発言してしまった単純な疑問を書いておこうかなと思った次第です。こういう時に、ツイッターって便利なのではないかしら。でもやっていないので、何故か。とりあえず。
「ピンとこない」ということについて。
観る側は、創る側は、みなさんは、個人は、あなたは、どのように考えて、対処などを模索しているのかということなのですが。対処とか模索しない人は、どのように思っているのか、感じているのか。
恥ずかしながら知も智もないので、語弊や偏見からの発言もあるとは思いますが、そういう質問をしてみたいなと、適切な場所でもないだろうとは思いつつ、書いてみます。
『かもめ/マシーン』に出演しまして。
説明というものでもないのですが。
例えば台詞は、ここに書いているような言葉より更に喋り言葉に近いような言葉で、
目の前の客席に人がいるなあと一応認識はしながら喋る部分と。
トレープレフやトリゴーリンの台詞として、少し堅かったり、語尾や例え話まで丁寧に言い切ったり、
「まさか」とか「愛している」とか「すると」だとか「いや、」だとか「~しなければならない」だとか言ったりする部分がありまして。
身体は台詞や他の何かを記号的に示すようなものでもなく、
カメラや椅子やテーブルなんかを設置しながら、椅子に座ってもぞもぞもじもじしながら、
背もたれに掛けた手や指をいじりながら、一万字くらいの台詞を30分間喋っていたのですが。
アフタートークにて「チェルフィッチュ的」とも表されたわけです。
そう言われるのはとてもよくわかりますし、逆に、台詞の内容や発する言葉や表現の方向性のようなものなどを考えると、チェルフィッチュとは異なるとも思っていて、異なるものだと考えているとも言いました。
構成・演出の萩原さんは、ここで出された「チェルフィッチュ」に関して、「前提」という言葉を使って、(以下、思い切り語弊を生みそうな表現ですが)影響や意識としてはあったと言っていて、そこには「ジェネレーション」というものが強くある、というようなことを言っていたように思いますが(…今思い返してみてそう言っていたように私は、思う)。
ここ、このね、「チェルフィッチュ的」と言われる/或いは「言われてしまう」ことと、「ジェネレーション」というものと(この二つは並列ではない)、そこに、そこが、とてつもなく興味と疑問とが浮かんできてしまうのです。
「チェルフィッチュ的」というのは、人によって様々な意味や意図を含んでいる扱いにくい言葉なのですが、まあ、他の作品の場でも言われたり、聞いたりしているように思います。
「ジェネレーション」というものがあるから「チェルフィッチュ的」と言われてしまうのか、
はたまたそんな関連はなく、こちらの発信(或いは意図)とは全く別のところで言われているのか。
兎に角、「ジェネレーション」やら、発信と(その受信とは別の)感受やらの間にあるであろう
「ピンとこない」ということを、
他人である人々、表現を発信する側でも、観る側でも、どのように考えていて、
どのような対処の策を思案しているのか。
或いは、こうした「ピンとこない」ことに気持ち悪さや引っ掛かりを持っているのかどうか。
問題としないのであれば、どのようにして問題になっていないのか。
このことがどうにも個人的に支えている、疑問であり質問なのです。
明確な答えを知りたいわけではなく、
ただただ一人ひとりに質問してなんでもよいから訊いてみたいと思っているのです。
補足として、「ピンとこない」は「わからない」と密接のようで、明らかに違う、より深刻であり切実なもののように思います。
「ピンとこない」から「わからない」という人も多くいるように思いますが、
例えば、やろうとしていること、表現の方法や意図、作品や表現の面白みだと思われる部分を、理解はできる、という意味で「わかる」場合でも、「ピンとこない」ことはあると思うし、そういう感覚は私自身にこれまで比較的多くあったと記憶しています。
単純に「わからない」し「ピンとこない」ということや、
「わかる」んだけどね~「ピンとこない」ということをどうしていったらいいのか、
この気にかかってしまった問題と付き合っていくためには、
アフタートークのあの場という漠然とした、
ともすると何かしらフィルターのかかってしまいそうな「場」に向けてではなく、
個人に「あなた」という存在に質問してみたいと思ったのです。そう思って、願って?発言しました。
まあ、こんな、ブログに書くという行為で、アフタートークと同様の失敗をしているなとも思っているわけですが。
分野分けというものの乱暴さを意識しつつ…
私は演劇もさることながら、まして舞踏やダンスや映像表現、絵画にしろなんにしろ、本当に知らないし、
知がない故に理解できない(更にはピンとこない)ということに度々直面したり、しそうになったり、痛感したりしているのですが。
有名だったり歴史があったりする方法論だとか思考法だとか、
国内外問わず、表現の分野において幾多の革新を起こしたり、
この分野のどこかを形成してきたり発展させてきたりした偉人のような人々の活動や思考や、
それらの結果生まれた何かしらの価値や権威や、や、幼稚に言って凄さというものを、
非常に恥ずべきことですが、知りません。本当に恥ずかしい…や、あー嫌だなあ。
あーどうにも、恥だなあ…こうでも書かないと書けない、っっっ愚ぅっ。
ブレヒトの演劇論だとかスタニスラフスキーシステムだとか、そういうものから派生して現在まで続いている考え方や方法だとか、興味深いし、実際に何を言っているのか理解できない部分があることも多いですが、面白いとも確実に思うのです。
ただ、そういうものに対して「ふーん」と、「えっと…だから?どういう…?」と、
もっとこわい、ともすると暴力的な言い方で言えば「で?」と、言えてしまうことも、わかるのです。
例えば演劇やそういった表現に触れない、或いは私とは全く違った意識で触れている人々を含めて一般化する、なんていうのは気が早すぎるので、あくまで個人的な、でも確実にここに一人はそういう人間がいてしまうんだが、どうしたら、どうされたらいいのか。
どうにかするべきなのか、だとしたらその方法をどのように考えているのか。
またはこのような人間をどうにかするのではなく、
このような人間はこのような人間として、認めるのか、認めたその先は、
発する表現をどうにかするのか?
もしくは切り捨てるのか、端から想定しないのか。
そういうことを、訊きたいし、これからも考えて/気にしていってしまうのだろうと思うのです。私個人に限ったとしても、6/15の公演で急にこの疑問が出てきたわけではなく、言い方や扱い方は違えど、いつからかずっと触れてきた疑問のように思いますし、こんな疑問はきっと誰かも、もしかしたら時代すら関係なく、触れてきたものだとも思うので、新しくもない、ともすれば幼稚な、悲しい味気ない言い方をすれば極個人的な、そういう疑問です。只/唯、切実なのです。
訊きたいというのは、考えや意見や思想や体験といったものを、誇示されたいわけでも、教えられたいわけでも、圧されたいわけでもなく、単純に伺いたい。この疑問の質問に合致するようなことが言われなかったとしても、傍から見れば無視や黙殺や無関係に思えたとしても(そういう可能性は大きいと思うのです)、この質問をしたところで話されるものを聴きたいと思っています。そこからまた多分考えるんでしょう。
【感想】だがしかし、ですよ、こういった姿勢はやはり一個人の我儘のような不遜な態度のようにも思われるなあと。否定も肯定もなくただ、そうとも思えるってだけのことです。