岩手県の盛岡で暮らすいとこと、その子どもたちに十数年ぶりの再会を果たしたあと、帰りの列車の時間までの間、盛岡城跡を訪ねる。
本丸跡に残る台座の上にはかつて、南部家42代当主南部利祥(なんぶ としなが)中尉の馬上姿を象った銅像があったと云う。
明治37年、日露戦争に参加した南部利祥中尉は翌38年、竹田宮恒久王を守って楯となり、戦死したと伝えられている。
銅像はそれから3年後の明治41年9月に完成したが、第二次大戦末期の昭和19年、軍需資材調達のために供出され、いらい復元されることなく今日にいたっている。
つまり戦争に二度殉じたやうなもので、本人はそれを武将として誉れに思っているや否や。
本丸跡から市街地越しに東北の山々を望みながら、
十数年前に会った時は赤いランドセルを背負った小さな子どもだったいとこの長女が、いまでは成人したばかりの“女性”へと成長した姿を思ひ出し、
「なるほど、自分も年齢(とし)をとるわけだ……」
と、人生の“現実”をしみじみと感じる。
盛岡城築城時に土を掘り下げていたところ発見され、いらい南部藩盛岡のお守り岩として崇拝されている「烏帽子岩」に手を合わせ、
新幹線で江戸へと下りける。
本丸跡に残る台座の上にはかつて、南部家42代当主南部利祥(なんぶ としなが)中尉の馬上姿を象った銅像があったと云う。
明治37年、日露戦争に参加した南部利祥中尉は翌38年、竹田宮恒久王を守って楯となり、戦死したと伝えられている。
銅像はそれから3年後の明治41年9月に完成したが、第二次大戦末期の昭和19年、軍需資材調達のために供出され、いらい復元されることなく今日にいたっている。
つまり戦争に二度殉じたやうなもので、本人はそれを武将として誉れに思っているや否や。
本丸跡から市街地越しに東北の山々を望みながら、
十数年前に会った時は赤いランドセルを背負った小さな子どもだったいとこの長女が、いまでは成人したばかりの“女性”へと成長した姿を思ひ出し、
「なるほど、自分も年齢(とし)をとるわけだ……」
と、人生の“現実”をしみじみと感じる。
盛岡城築城時に土を掘り下げていたところ発見され、いらい南部藩盛岡のお守り岩として崇拝されている「烏帽子岩」に手を合わせ、
新幹線で江戸へと下りける。