三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。
中世には鎌倉街道の宿駅がおかれていたと云ふこの地には、無量寿寺といふ古刹がある。
昔の神仏習合の名残か、すぐ左隣に日吉神社が並ぶこの寺は、「伊勢物語」第九段によると、東下りの在原業平がいま咲ひてゐる“かきつばた(杜若)”の五字を句の頭に据ゑて旅の心を詠め、と人に請はれて、
『“か”きつばた
“き”つつなれにし
“つ”ましあれば
“は”るばる来ぬる
“た”びをしぞ思ふ』
と詠み、手にしてゐた干飯がほとびる、つまりふやけるほど涙に暮れたと云ふ、まさにその場所とされてゐる。
本堂の裏には「かきつばた園」として伊勢物語の世界が再現され─私が訪ねた時は杜若の季節でなかったが─、
傍らには在原業平の銅像が建ってゐる。
無量寿寺から古ゐ鎌倉街道を西へしばらく行くと、業平の没後(寛平四年、892年)に分骨を葬ったと云ふ「在原寺(さいげんじ)」があり、さらに西へ進んで松並木の名残りとも云はれる「根上がり松」を左に見て坂を下り、
名鉄線の踏切を渡ったすぐ右手の線路沿ひには、業平の供養のために築ひたとされる、「業平供養塔」がある。
石塔の様式などから、室町時代あたりの建立らしい。
またさらに西へ少し行った住宅地の公園には、やはり業平が『からころも……』の歌を詠んだとされる「落田中の一松(おたなかのひとつまつ)」がある。
もっとも、宅地造成の際にここへ移植されたものださうで、史跡味はイマイチ。
──と、これら八橋における在原業平の史跡を見物したことを踏まへ、都内の公共施設にて「杜若」を舞ひ仕る。
これは、前述の「伊勢物語」第九段“東下り”をもとに金春禅竹が創った曲で、
『在原業平は、実は歌舞の菩薩の化身であり、彼が詠んだ歌はみな“法身説法の妙文”である。
その歌舞の菩薩なる業平が「からころも……」と詠んだことにより、杜若の精は仏法を授けられ成仏した』──
と云ったやうなことが延々と謡われ、舞はれる。
この曲が創られた中世の頃の人々の考へ方が、反映されているらしい。
しかしはっきり言って、われわれ二十一世紀の人間には、理解が難しい。
だから「杜若」は、初めて観たときは首を傾げたものだ。
しかし、今回その曲を舞ひ仕らんと思ひ立ったのは、謡ひの節廻しと舞の型が流麗で、やり甲斐がありさうだと感じたからだ。
そもそも謡曲とは、あくまでも聲に出して謡ふために書かれたものであり、文学的に読むために書かれたものではない。
「能はナニを言ってゐるのかわからん」
と言ふ人は、あの難解な古語だらけの詞章を、文字として聞き取らうとしてゐるから解らないのであり、音楽(メロディー)として聴けば、好き嫌ひはあるだらうが、耳に入ってくるはずだ。
能は猿楽と云った昔より、発生当時はともかく知識教養のある権力者階級を相手にして、続ひた芸能である。
内容も当然、インテリ受けするものが創られる。
だから、知識教養などない、生きるためだけに生きてきた庶民階級に、解るはずがない。
以前、ある能楽師が主催した初心者向け講座におゐて、
「能は何を言ってゐるのか、さっぱりわからない。それは能楽師の怠慢ではないのか!」
と、能楽師に食ってかかった老爺がいたと云ふ。
いかにもその年代によくいる、『ワシが正義じゃ!』タイプの鬱陶しい爺さんだが、では謡ひの字句を明確に聞き取れたところで、その言葉の意味を、理解できるのであらうか?──
つまり、解らないの意味が、分かっていないのである。
だから私は能楽堂の見所(客席)では、謡ひもお囃子と同じ“音楽”としてひっくるめて、その舞台を楽しむことにしてゐる。
自身が謡ひ、舞ふときも然り。
今回の「杜若」にしても、昔はかういふ考へ方の人がいたのね、程度に捉へておけば、ほかの楽しみ方が見つかってくる。
楽しみの秘訣は、
広ひ視野で、
且つほどほどの距離感を保つこと、
にある。
中世には鎌倉街道の宿駅がおかれていたと云ふこの地には、無量寿寺といふ古刹がある。
昔の神仏習合の名残か、すぐ左隣に日吉神社が並ぶこの寺は、「伊勢物語」第九段によると、東下りの在原業平がいま咲ひてゐる“かきつばた(杜若)”の五字を句の頭に据ゑて旅の心を詠め、と人に請はれて、
『“か”きつばた
“き”つつなれにし
“つ”ましあれば
“は”るばる来ぬる
“た”びをしぞ思ふ』
と詠み、手にしてゐた干飯がほとびる、つまりふやけるほど涙に暮れたと云ふ、まさにその場所とされてゐる。
本堂の裏には「かきつばた園」として伊勢物語の世界が再現され─私が訪ねた時は杜若の季節でなかったが─、
傍らには在原業平の銅像が建ってゐる。
無量寿寺から古ゐ鎌倉街道を西へしばらく行くと、業平の没後(寛平四年、892年)に分骨を葬ったと云ふ「在原寺(さいげんじ)」があり、さらに西へ進んで松並木の名残りとも云はれる「根上がり松」を左に見て坂を下り、
名鉄線の踏切を渡ったすぐ右手の線路沿ひには、業平の供養のために築ひたとされる、「業平供養塔」がある。
石塔の様式などから、室町時代あたりの建立らしい。
またさらに西へ少し行った住宅地の公園には、やはり業平が『からころも……』の歌を詠んだとされる「落田中の一松(おたなかのひとつまつ)」がある。
もっとも、宅地造成の際にここへ移植されたものださうで、史跡味はイマイチ。
──と、これら八橋における在原業平の史跡を見物したことを踏まへ、都内の公共施設にて「杜若」を舞ひ仕る。
これは、前述の「伊勢物語」第九段“東下り”をもとに金春禅竹が創った曲で、
『在原業平は、実は歌舞の菩薩の化身であり、彼が詠んだ歌はみな“法身説法の妙文”である。
その歌舞の菩薩なる業平が「からころも……」と詠んだことにより、杜若の精は仏法を授けられ成仏した』──
と云ったやうなことが延々と謡われ、舞はれる。
この曲が創られた中世の頃の人々の考へ方が、反映されているらしい。
しかしはっきり言って、われわれ二十一世紀の人間には、理解が難しい。
だから「杜若」は、初めて観たときは首を傾げたものだ。
しかし、今回その曲を舞ひ仕らんと思ひ立ったのは、謡ひの節廻しと舞の型が流麗で、やり甲斐がありさうだと感じたからだ。
そもそも謡曲とは、あくまでも聲に出して謡ふために書かれたものであり、文学的に読むために書かれたものではない。
「能はナニを言ってゐるのかわからん」
と言ふ人は、あの難解な古語だらけの詞章を、文字として聞き取らうとしてゐるから解らないのであり、音楽(メロディー)として聴けば、好き嫌ひはあるだらうが、耳に入ってくるはずだ。
能は猿楽と云った昔より、発生当時はともかく知識教養のある権力者階級を相手にして、続ひた芸能である。
内容も当然、インテリ受けするものが創られる。
だから、知識教養などない、生きるためだけに生きてきた庶民階級に、解るはずがない。
以前、ある能楽師が主催した初心者向け講座におゐて、
「能は何を言ってゐるのか、さっぱりわからない。それは能楽師の怠慢ではないのか!」
と、能楽師に食ってかかった老爺がいたと云ふ。
いかにもその年代によくいる、『ワシが正義じゃ!』タイプの鬱陶しい爺さんだが、では謡ひの字句を明確に聞き取れたところで、その言葉の意味を、理解できるのであらうか?──
つまり、解らないの意味が、分かっていないのである。
だから私は能楽堂の見所(客席)では、謡ひもお囃子と同じ“音楽”としてひっくるめて、その舞台を楽しむことにしてゐる。
自身が謡ひ、舞ふときも然り。
今回の「杜若」にしても、昔はかういふ考へ方の人がいたのね、程度に捉へておけば、ほかの楽しみ方が見つかってくる。
楽しみの秘訣は、
広ひ視野で、
且つほどほどの距離感を保つこと、
にある。