迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊─東海道15 来迎寺一里塚→岡崎宿

2017-11-23 08:07:23 | 旧東海道
松並木を過ぎ、牛田町から来迎寺(らいごうじ)町に入ると、「来迎寺一里塚」が東西に遺っています。

上の写真は西側で、東側は道から少し奥まった場所、



ちょうど公民館の真裏に、隠れてしまっています。


在原業平ゆかりの地、八ツ橋にある無量寿寺への道標を過ぎ、今本町に入ると、昔の松並木が岡崎市との境界線付近にあたる国道1号線との合流地点まで、



数キロに渡って断続的に遺されています。


安城市里町に至ると、道の左沿いの小祠に、力士の石像と石碑という、珍しいものを見つけました。



力士は明治時代に活躍した濱碇(はまいかり)という安城出身の人で、角界引退後は地元で薬屋を始めたそうです。


旧道は尾崎東信号で国道1号線に合流して岡崎市内へと入り、20分ほど行った矢作町の入口で、左へと分かれて行きます。

東征に出た日本武尊が、この地でたくさんの矢をつくったことから「矢矧(やはぎ)」と呼ばれるようになったと云うここは、中世には宿駅がおかれていた場所。



ここの長者の娘が、源義経との恋を経て音曲の浄瑠璃の始祖となったとされる“浄瑠璃姫”、その父親である長者の墓が、道の右手にある誓願寺にあるそうです。


矢作を過ぎると、矢作川を渡っていよいよ徳川家康生誕地の岡崎へと入って行きますが、



この川に架かる矢作橋は、もとは現在の場所よりやや下流に架けられており、その橋の上で、豊臣秀吉の日吉丸と蜂須賀小六は出逢ったわけです。


矢作橋を渡ると堤に沿ってすぐ右折、やがて道標に従って左折し、八丁味噌の産地である八帖町から、



“岡崎二十七曲(まがり)”を通りながら岡崎城下へと入って行きます。




二十七曲とは、天正年間に田中吉政が防衛のために築いた二十七カ所の曲がり角のことで、



城へ近づくにつれて外側へと細かく曲がっているのが特徴です。

その道筋は観光案内標識によって現在でも辿ることが可能で、



これで岡崎市街地をだいたい巡ることができます。
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