F.D.(銀河連邦紀元) 2539 (エクルー15歳)
サクヤはノックして子供部屋に入った。
「洗濯物。チェストの上に置いとくわね」
エクルーはモニターから振り返った。
「ああ、わざわざ良かったのに。俺が下りた時、持って来るよ」
「だって、あなためったに下に下りてこないじゃない。クリスマス休暇なのに毎日仕事なの?」
サクヤは肩越しにモニターをのぞき込んだ。
「もう私じゃさっぱりわからないわね。これ転送装置のモデル?」
「そう。ジンが途中まで開発したヤツ」
「へえ。エネルギー化した後、再形成する時のマトリクスはどうするの?」
「だから分解する時点でスキャンして……」
その時、強い風が一陣吹いて、サクヤが開けたままにしておいたドアが大きな音を立てて閉まった。サクヤはドアを振り返って、それからエクルーの顔を見た。エクルーは肩をすくめた。
「今のは俺じゃない。自然現象だ」
サクヤはまだエクルーのいすの後ろに立ってモニターをぼんやり見ていたが、表情がこわばっていた。
「そんなに露骨に警戒しないでくれないかな」
「ちがうわ。思慮深く行動しようと努めてるだけよ」
「俺に襲われないように?」
「あなたを傷つけないために」
エクルーは身体の向きを変えて、片腕をイスの背に休めた。
「へえ、何をしたら俺が傷つくか、サクヤにはわかってるんだ」
「なぜ、私を責めるの?」
「サクヤが俺の欲しいものをくれないから」
エクルーは空いている方の手でサクヤの手を取ってキスをした。
「やめて」
「いつもそういう。でも拒絶されたことはない。それとも本当はイヤなのにガマンしてた?」
エクルーはイスから立ち上がって、サクヤの両手を取った。
サクヤは目をそらして横顔を見せていた。その身体が小さくふるえている。
「俺がかわいそうだからガマンしておとなしくキスされてるの? それとも俺が怖いから?」
エクルーが頭をかがめてサクヤの耳の下にくちびるをつけた。サクヤは息を呑んで目を閉じた。
「そんな顔されると、ますます襲いたくなっちゃうなあ。ねえ、答えてよ。俺が怖い?」
サクヤは目を開いて、まっすぐ見つめ返した。
「怖いわけじゃない。エクルーが私にひどいことするはずないもの」
一瞬、残忍といってもいい表情がエクルーの顔をよぎった。サクヤの足を払って、バランスを崩させるとベッドに放り投げて、その上にのしかかった。
両腕を頭の横で押さえて言った。
「これでも俺が怖くない?」
「ええ。あなたが私にしてくれることはどんなことでも好きだもの。私が怖いのは……」
サクヤの言葉をエクルーがキスでさえぎった。
これまでのあいさつとは違う。思わず身体の芯がふるえるような情熱的なキスだった。
「痛いわ。手を離して。逃げないから」
「逃げない? じゃあ次に進んでいいの?」
黙ってサクヤは目を閉じたまま静かに息をしていた。
エクルーがふわっと身体を下げて、顔をサクヤの肩に埋めた途端、青い無数の小さな星が天井できらめいた。二人で過ごした最初で最後の夜。もうないペトリの聖堂で見上げたホタル石のまたたきだ。あの後、エクルーはサクヤの腕の中で散った。
サクヤは目を見開いて、両腕でエクルーの肩を叩いた。
「ひどい……!」
「ちがう! ムリに見せたんじゃない! 俺が思い出してシンクロしてしまって……」
もうエクルーの声はサクヤに届いていなかった。
「あ……あ……!」と怯えた声を出しながら、頭を両手で抱えて激しく震えている。
聖堂の蛍石のまたたき、白い花の野、温室での最後のひととき。次……その次は?
(キジロー! すぐ来てくれ!)
テレパシーで呼ばれてキジローはナベの火を止めるとエプロンをはずして子供部屋に上った。
「おう。どうした」
「フラッシュバックを起こした」
サクヤにキルトをかけながらエクルーが答えた。
「フラッシュバック? 何の?」キジローがまゆをひそめた。
「シャトルβだ」
「ああ……」
キジローはかがんでサクヤの額に手を当てた。サクヤは目を見開いて両手を何かをつかもうとしてるかのように前に突き出したまま固まっていた。
「呼び覚ましてくれ」
「どうしてお前がやらない?」とキジローが聞いた。
「俺の顔を見て思い出したんだぜ?」
「なるほど……とにかく目を閉じさせよう。乾いちまう」
キジローはイスを寄せて、ベッドの横にすわった。
「姫さん。目を閉じろ。バリバリになっちまうぞ?」
そういって額にキスをした。
「いいか。順番に……左、右。ほら、閉じるぞ」
片目ずつキスをして、右手を額からそっとすべらせるとサクヤは目を閉じた。
「よーし。次は腕だ。ガチガチだ。力を抜いて。左から。ほら、伸ばしてみろ」
マッサージをするように手に軽く触れ、手の甲にキスをして、片方ずつ身体の脇に休めた。
「手馴れてるな」
「当たり前だ。何年お前らと付き合ってると思うんだ。病気の女房の面倒を見るのは二人目だし」
「ここは任せるよ。後は頼む」
「じゃあ、台所の続きやってくれ」
「何作ってたの?」
「……シチュー。肉じゃが? 何かそんなところだ。あとサラダかな?」
台所に入ったエクルーは驚いた。シンクもクッキングボードも下ごしらえした大量の野菜で埋まっていた。
「何を何人分作るつもりだったんだ?」
塩ゆでしたブロッコリー、さやいんげん、八つ割りにして水でさらした5キロ分のじゃがいも、ニンジン、かぶ……。
2人が子供部屋にいる間、下でキジローがひたすら野菜を切り刻んでいた光景を想像すると背筋が寒くなった。鍋には鶏がらとクズ野菜で作ったスープ。
「相変わらずスープの味付けは絶品だな。ポトフとホットサラダにして、残りの野菜は冷凍かな」
キジローはしばらくじっとサクヤの横に座って手を握っていた。
「バカだなあ、姫さん。そんなことで一人で何やってるんだ? エクルーはあんなにでっかくなって元気にやってるじゃないか。もうあれから16年も経ってるんだぞ?」
サクヤは身体をこわばらせたまま、何も答えない。目は閉じていても、精神はパニック状態なのが手を通して感じられる。
「あんた、どこにいるんだ? 俺もそっちに行くぞ?」
キジローは手を握ったまま、頭を傾けて顔をサクヤの肩に休めると目を閉じた。
ゴオンゴオンと低い音が響いている。覚えのある騒動音だ。この船の構造はまだよく覚えている。
何度もシュミレーションして頭にたたきこんだのだ。そんなシュミレーションなど結局何の役にも立たなかったが。
今になって最短時間でサクヤを見つけるのに役に立った。サクヤは緑の部屋にいた。
冷たい床に座り込んで、エクルーの身体を抱きしめている。
放心したような顔で、エクルーの左手を持ち上げては自分のほおに押し当て、またその腕がぶらんと床に落ちるのを見つめている。
「姫さん、そいつを離してやれ。それじゃいつまでも休めないだろう」
「イヤ」
「いつまでここにしがみついてるつもりだ。あんただってわかってるんだろう。そいつはとっくに散って、あんたの中に入った。今はあんたよりデカくなって、下で夕飯を作ってる。あんただって、あんなにかわいがってやってるじゃないか」
サクヤは黙って、エクルーの肩に顔を埋めて、冷たい背中を抱き寄せた。
かたわらにひざをついて、キジローは静かに言った。
「あんたが坊主を愛しても、こいつを裏切ったことにならない。あんたが俺を裏切ってないのと同じくらいにな。こいつも俺も、そんなにケツの穴は小さくないぞ」
サクヤは顔を上げて、キジローの目を見つめ返した。
「認めろよ。坊主が好きだろう? あいつを認めてやれよ。あんたが命がけで救った男じゃないか」
サクヤのほおからすっと涙の筋が落ちた。同時にエクルーの身体がほどけて光になった。サクヤはあわててかき合わせようとした。
「待って。消えないで。イヤよ。おいてかないで。私、怖いの。待って」
虚空に手を伸ばすサクヤを、キジローは後ろから抱き止めた。
「行かせてやれ。帰ろう。坊主が待ってる」
キジローが肩から顔を上げると、サクヤは目を開けてふるえながら涙を流していた。
「帰ってきたな。夕メシできるまでちょっと休んでろ。ほれ、タオル。鼻かんでもいいぞ」
サクヤはタオルに顔を埋めて、ちょっと笑った。
「何が怖いんだい?」
「えっ?」
「あいつが消えるのが怖いと言ってたろう」
「……あの子をエクルーの代わりにしてしまいそうで怖いの。でもあの子は記憶を継いでいて、私の欲しい言葉をくれるでしょう? そして私のことを好きだと言ってくれるでしょう? 負けてしまいそうで怖い」
「負けたら何が悪いんだい?」
「だって……!」
言い返して言葉に詰まってしまった。
「どっちにしろ、このままじゃあんたはどこにも行けないぞ。前のヤツの時だって、あんた自分の気持ちを抑えて、抑えすぎて何したいんだかわかんなくなって、何千年もムダにしたんじゃないのか? 今度くらい素直に突っ走ってみろよ。よく考えてみるんだ。あんたは何が欲しい? 何がしたいんだ?」
サクヤは当惑した顔で、何も答えられなかった。
「とにかく、一度あいつときっちり向かい合え。どっちにしろ俺たちは大して残り時間がない。後悔しないように、あいつも悔いを残さないように、逃げないでちゃんと話してやれよ」
「……ええ」
サクヤは白い顔で目をふせた。
「横になってろ。何かあったかいもん持ってくる。何がいい? お茶にジャム入れるか? ワインのお茶割りでもいいぞ?」
「いちごジャムを2さじ紅茶に入れて」
「わかった。寝てろよ」
キジローの優しさが辛くて涙がこぼれた。キジローといれば安らげる。愛されていると実感できる。なのに、なぜ自分はエクルーを怖がっているんだろう。向かい合って、ぶつかりあったら、何が見つかるんだろう。
キジローは台所に下りて、やかんを火にかけた。
「帰って来た?」
「帰って来た。何を作ることにしたんだ?」
「ポトフとホットサラダ。じゃがいもは多すぎるからマッシュポテトにして冷凍するよ」
「じゃあ、玉ねぎ入れてハッシュドポテトを作っておこう。朝メシ用に。肉も入れたいか?」
「いや、たいていベーコンかソーセージを添えるから、野菜だけにしよう。その方がサクヤも食える」
お湯が沸いたので紅茶を入れながら、キジローがぼそっと言った。
「お前の気持ちもわかるがあんまり追いつめてやるなよ」
「うん……反省してる。サクヤの中では俺が散ったショックは少しも薄れてないんだな」
キジローはジャムを小皿に移して、紅茶にはブランデーをたらした。
「それだけお前のことが大事だったんだろう」
「でも俺はここにいるのに」
「なかなかそう簡単に気持ちは切り替わらんさ。お前さんは単純明快にできてるが、姫さんは必要以上にややこしく考えるタチだろう。どうせ今もムダにぐるぐる悩んでるに決まってる。メシ、あとどのくらいだ?」
「20分てとこかな」
「じゃあ20分したら連れてくるから、今日はもうイジめるなよ」
「うん、わかった」
夕食の間、サクヤはうつむきがちで、話しかけられると強いて微笑んだが、結局一度もエクルーの目を見られなかった。
時々、身体をふるわせて、くちびるをかんでいるのでキジローが「もう寝ろ」と肩を叩いた。
サクヤが2階に上がった後、皿を洗いながらエクルーはうなだれていた。キジローは横でハッシュドポテトに粉をはたきながら、「まあ、お前のせいばかりじゃないさ」となぐさめた。
「お前があいつに似てるのは、お前のせいじゃない。サクヤがあいつを忘れられないのも、お前のせいじゃない。かと言って姫さんが納得するのを待ってたら、また3000年待たされそうだもんなあ」
「そう思って、つい押し倒したら泣かれちゃった。どうしたもんだかわからないよ、もう」
「うーむ、どうしたもんかねえ」
寝室ではサクヤがベッドの端に座ってぼおっとしていた。
「またこれか。寝てろって言ったろう。ほら、布団に入れ」
並んで布団に入って、キジローは両腕でほっこりサクヤを包んだ。
「何も考えないで寝ちまえ。考えてすぐ答えが出るようなことでもないだろう。ほれ、もう寝ろ」
サクヤはしばらくキジローの胸に顔を埋めていたが、そのうちしゃくり上げ始めた。
「ごめ……ごめんなさい」
「どうした」
「あなたに、あま……甘えてばかり……ではず、恥ずかしいのよ」
「いいよ。役得だと思ってるから」
「だって……」
「いいんだって。坊主のことで泣く姫さんはかわいいから、俺はトクしてるよ」
しばらくぐしっぐしっと泣いた後、やっとで言った。
「あの子を拒絶したくないの」
「うん」
「でも受け入れるわけにはいかないの」
「なんでだ?」
「あの子が私に求めているのは……違うのよ、わかるでしょう?」
「あいつはあんたを抱きたい。あんたはあいつに抱かれたくないのか?」
サクヤはキジローの腕の中で真っ赤になった。
「そんなこと、できるわけないじゃない」
「なんでだ?」
「だって」
「あいつにキスされてくらくらしなかったか? 押さえ込まれて身体がふるえなかったか?」
「そんなの、ただの身体の反射じゃない!」
「そうバカにしたもんでもないさ。あんたが好きでもない相手にそんな反応するわけない。認めろよ。あいつが欲しくないのか?」
「私はキジローの奥さんなのよ?」
「そんなの、あいつを育てるための都合だ。便宜上、配偶者の役を買って出ただけで、あんたの気持ちをしばれると思ってない」
サクヤの顔がぐしゃっとゆがんだ。
「私を捨てるの?」
「おいおい、ちょっと待てよ。捨てられるのは俺の方だ。あいつが一人前の男になるまで、俺はあんたを預かってるつもりだった。あいつが育ったら、返してやるつもり……」
そこまで言ったところで、サクヤにぶたれた。次にみぞおちにゲンコツが飛んで来た。
「待て……ま、やめろ。急所にあてるな。こら」
両腕をつかんで攻撃を止めると、サクヤはぐしゃぐしゃに泣いていた。
「ひど……ひどい。そんなつもりって誰がそんなこと決めたの。誰がそんなこと望んでるの。勝手にそんなつもりにならないでよ」
「わかった。悪かった。俺はあんたを独り占めしてる間、ずっとあいつに悪いと思ってて、できれば時間があるうちに、あいつに返してやりたかったんだ」
サクヤはキジローのパジャマにしがみついて、しゃくり上げながらやっとで言った。
「私が好きなのはキジローなのよ? 何度も言ったわ。私は何度もあなたを選んでるのに、今になって私を皿にのせて差し出さないで」
「でも俺はあいつのことも気に入ってるんだ」
サクヤはキジローの胸から顔を離して見上げた。
「あんたもあいつが好きだろう?」
「だったらどうだというの。私はあの子に何の約束もしてやれないのに」
「そんな事あいつは望んでないさ。ただ気持ちを返してもらえれば満たされる」
「どうしてそんなことわかるの」
「俺がそうだから。俺が坊主のことを追求するとあんたはいつも必死で俺が好きだと言ってくれる。それだけで俺は天国気分だ」
サクヤはしばらくぽかんと口を開けていたが、笑い出しそうな顔をして、またぐしゃぐしゃと泣き始めた。
キジローの胸に顔を埋めてつぶやいた。
「私、キジローの奥さんで良かった」
「ほらな。極楽だ。どんな上等のウイスキーよりキく」
「ありがとう」
「もう寝よう。それだけ泣いたらくたびれただろう」
「うん。お休みなさい」
サクヤは身体を少し起こして、キジローにキスをするとため息をついて、またキジローの胸に顔を押し付けた。
「あのね、あの子に内緒だけど」と小さな声で言った。
「うん?」
「キジローのキスとエクルーのキスは全然違うの」
「へえ」
サクヤが何も言わないのでキジローは顔をのぞきこんだ。
「姫さん? どう違うか聞いてもいいか?」
サクヤはまた真っ赤になった。
「キジローといると忘れちゃうのよ。自分がどんな顔してるか、とか何言ってるか、とかもう全然コントロールできないの。自分でもいつも予想外のことをしてしまうの」
「ふーん。そりゃ喜んでいいのかね」
「知らない」
「わかった。悪かった。うれしいよ」
ぎゅっと抱きしめて、額にキスをした。
「光栄だね。お姫さん。これからも大事にするよ」
「ええ。大事にして。私を離さないで?」
「わかった。でも、あいつにもちゃんと答えてやってくれ」
「どうしてそう寛大になれるの? 余裕なの?」
「余裕なんかあるもんか。いつあんたをあいつにさらわれるかビクビクしてるさ。ただ俺は、あんたらが2人で並んでるところを見るのが好きなんだ。坊主込みであんたが好きなんだよ。いささか妙だとは思うが」
「へんな人。マゾヒストじゃないの」
「坊主にもそう言われた」
夜明け前の空が白み始めた頃、エクルーがジョギングスーツで下に下りるとサクヤがコーヒーを入れてくれた。
「飲むでしょう? 何か軽く食べる?」
「いや、コーヒーだけでいい」
せまいキッチンで立ったまま2人はコーヒーをすすった。
「おはよう?」サクヤが言った。
「……おはよう」
また沈黙が落ちた。コーヒーがいつもに増して苦い。2人同時に顔を上げた。
「あの、昨日は……」完全に言葉が重なった。同時に笑い出した。
「昨日はごめんなさいね。びっくりしたでしょう。パニック起こしちゃって……」
「何でサクヤがあやまるのさ。俺がひどいことしたのに……ごめん」
「でも私を傷つけたくてしたわけじゃないでしょう?」
「当たり前だろ」
サクヤは重いマグカップを両手でかかえて、ゆっくりコーヒーを飲んでいた。
「あなたの中にも、あの聖堂の星空があるのね?」
エクルーがカップから顔を上げた。
「忘れられるもんか。でも絶対に手管に使ったわけじゃないからね」
「わかってる。ごめんね。何だか今まで、私の中でつながってなかったのよ。あなたと、あのエクルーが。彼はあなたの中にいるのね?」
「ピンシャンして生きてるよ」
「よかった。うれしい。まだなんだか信じられないけど」
「何で? 似てない?」
「もちろん外見はそっくりよ。顔も声も、ちょっとしたしぐさも。でも彼は決して……」
「何さ」
サクヤはくすくす笑った。
「あなたみたいにずうずうしく迫ったりしなかった。こっちが待ちくたびれるぐらい慎重だった」
「待ってたの?」
「でも自分は他の女の子ほど魅力がないのだろうとあきらめて、姉さん役に徹することにしたの」
「バカだなあ」
「誰が?」
「俺がだよ。で、今は母親役に徹しようとしてるの?」
「そう。だから大罪を犯そうなんて思わずに、健全にジョギングしてきてちょうだい」
「息子が母親に健全なキスをするくらいいいだろう?」
「どうかしら」
「大丈夫。押し倒そうにもここはキッチンカウンターくらいしかない」
サクヤは疑い深そうにカウンターやテーブルを見たが、にこっと笑った。
「じゃあ、仲直りのキスね」
エクルーはサクヤの手からカップをとって、カウンターに置いた。
両手をとって、片方ずつキスをした。
「ごめんね。もうサクヤを泣かすようなことしたくないと思ってるのに、また泣かせちゃうんだ」
「仕方ないわ。あなたは私の弱点をつかんでいるんだもの」
「弱点? サクヤの?」
「あなたよ、エクルー。あなたが私の弱点なの。あなたの思い出を持ち出されたらいつでも洪水だわ」
「ロイヤル・ストレート・フラッシュ。なのに禁じ手ってわけだな。でも何だか俺……告白されたような気持ちなんだけど」
「あなたが好きよ。例え、彼があなたの中にいなくても好きになったと思うわ。自慢の息子よ」
「うーん、息子といわれるとキスしにくいなあ。まあいいや」
エクルーは身体をかがめて、サクヤに軽くキスをした。でも結局、サクヤが顔を離す前に素早くうなじと腰に手を回して、母親に送るには不適切なキスになった。
「こら」とサクヤが言うと、エクルーは笑いながら外へかけ出して行った。
「じゃあね、ひと走り行ってきます」
後ろ姿を見送りながら、サクヤはため息をついた。
「あいつ、反省してねーな」
後ろでキジローが言った。
「あら、起きちゃったの? おはよう」
「おはよう。コーヒーの匂いにつられてな。まだあるか?」
「あるけど、二度寝できなくならない?」
「ついでだから庭の枝下ろしやるよ。つぼみがふくらむ前にとか言ってただろう?」
「あら、グスタフに頼むつもりだったんだけど」
「あのゴミバケツより俺の方が背が高い」
「ロボットにはり合わないで」とサクヤが笑った。
「いいから若いのがいないうちに、この年寄りに点数稼がせてくれ」
サクヤはノックして子供部屋に入った。
「洗濯物。チェストの上に置いとくわね」
エクルーはモニターから振り返った。
「ああ、わざわざ良かったのに。俺が下りた時、持って来るよ」
「だって、あなためったに下に下りてこないじゃない。クリスマス休暇なのに毎日仕事なの?」
サクヤは肩越しにモニターをのぞき込んだ。
「もう私じゃさっぱりわからないわね。これ転送装置のモデル?」
「そう。ジンが途中まで開発したヤツ」
「へえ。エネルギー化した後、再形成する時のマトリクスはどうするの?」
「だから分解する時点でスキャンして……」
その時、強い風が一陣吹いて、サクヤが開けたままにしておいたドアが大きな音を立てて閉まった。サクヤはドアを振り返って、それからエクルーの顔を見た。エクルーは肩をすくめた。
「今のは俺じゃない。自然現象だ」
サクヤはまだエクルーのいすの後ろに立ってモニターをぼんやり見ていたが、表情がこわばっていた。
「そんなに露骨に警戒しないでくれないかな」
「ちがうわ。思慮深く行動しようと努めてるだけよ」
「俺に襲われないように?」
「あなたを傷つけないために」
エクルーは身体の向きを変えて、片腕をイスの背に休めた。
「へえ、何をしたら俺が傷つくか、サクヤにはわかってるんだ」
「なぜ、私を責めるの?」
「サクヤが俺の欲しいものをくれないから」
エクルーは空いている方の手でサクヤの手を取ってキスをした。
「やめて」
「いつもそういう。でも拒絶されたことはない。それとも本当はイヤなのにガマンしてた?」
エクルーはイスから立ち上がって、サクヤの両手を取った。
サクヤは目をそらして横顔を見せていた。その身体が小さくふるえている。
「俺がかわいそうだからガマンしておとなしくキスされてるの? それとも俺が怖いから?」
エクルーが頭をかがめてサクヤの耳の下にくちびるをつけた。サクヤは息を呑んで目を閉じた。
「そんな顔されると、ますます襲いたくなっちゃうなあ。ねえ、答えてよ。俺が怖い?」
サクヤは目を開いて、まっすぐ見つめ返した。
「怖いわけじゃない。エクルーが私にひどいことするはずないもの」
一瞬、残忍といってもいい表情がエクルーの顔をよぎった。サクヤの足を払って、バランスを崩させるとベッドに放り投げて、その上にのしかかった。
両腕を頭の横で押さえて言った。
「これでも俺が怖くない?」
「ええ。あなたが私にしてくれることはどんなことでも好きだもの。私が怖いのは……」
サクヤの言葉をエクルーがキスでさえぎった。
これまでのあいさつとは違う。思わず身体の芯がふるえるような情熱的なキスだった。
「痛いわ。手を離して。逃げないから」
「逃げない? じゃあ次に進んでいいの?」
黙ってサクヤは目を閉じたまま静かに息をしていた。
エクルーがふわっと身体を下げて、顔をサクヤの肩に埋めた途端、青い無数の小さな星が天井できらめいた。二人で過ごした最初で最後の夜。もうないペトリの聖堂で見上げたホタル石のまたたきだ。あの後、エクルーはサクヤの腕の中で散った。
サクヤは目を見開いて、両腕でエクルーの肩を叩いた。
「ひどい……!」
「ちがう! ムリに見せたんじゃない! 俺が思い出してシンクロしてしまって……」
もうエクルーの声はサクヤに届いていなかった。
「あ……あ……!」と怯えた声を出しながら、頭を両手で抱えて激しく震えている。
聖堂の蛍石のまたたき、白い花の野、温室での最後のひととき。次……その次は?
(キジロー! すぐ来てくれ!)
テレパシーで呼ばれてキジローはナベの火を止めるとエプロンをはずして子供部屋に上った。
「おう。どうした」
「フラッシュバックを起こした」
サクヤにキルトをかけながらエクルーが答えた。
「フラッシュバック? 何の?」キジローがまゆをひそめた。
「シャトルβだ」
「ああ……」
キジローはかがんでサクヤの額に手を当てた。サクヤは目を見開いて両手を何かをつかもうとしてるかのように前に突き出したまま固まっていた。
「呼び覚ましてくれ」
「どうしてお前がやらない?」とキジローが聞いた。
「俺の顔を見て思い出したんだぜ?」
「なるほど……とにかく目を閉じさせよう。乾いちまう」
キジローはイスを寄せて、ベッドの横にすわった。
「姫さん。目を閉じろ。バリバリになっちまうぞ?」
そういって額にキスをした。
「いいか。順番に……左、右。ほら、閉じるぞ」
片目ずつキスをして、右手を額からそっとすべらせるとサクヤは目を閉じた。
「よーし。次は腕だ。ガチガチだ。力を抜いて。左から。ほら、伸ばしてみろ」
マッサージをするように手に軽く触れ、手の甲にキスをして、片方ずつ身体の脇に休めた。
「手馴れてるな」
「当たり前だ。何年お前らと付き合ってると思うんだ。病気の女房の面倒を見るのは二人目だし」
「ここは任せるよ。後は頼む」
「じゃあ、台所の続きやってくれ」
「何作ってたの?」
「……シチュー。肉じゃが? 何かそんなところだ。あとサラダかな?」
台所に入ったエクルーは驚いた。シンクもクッキングボードも下ごしらえした大量の野菜で埋まっていた。
「何を何人分作るつもりだったんだ?」
塩ゆでしたブロッコリー、さやいんげん、八つ割りにして水でさらした5キロ分のじゃがいも、ニンジン、かぶ……。
2人が子供部屋にいる間、下でキジローがひたすら野菜を切り刻んでいた光景を想像すると背筋が寒くなった。鍋には鶏がらとクズ野菜で作ったスープ。
「相変わらずスープの味付けは絶品だな。ポトフとホットサラダにして、残りの野菜は冷凍かな」
キジローはしばらくじっとサクヤの横に座って手を握っていた。
「バカだなあ、姫さん。そんなことで一人で何やってるんだ? エクルーはあんなにでっかくなって元気にやってるじゃないか。もうあれから16年も経ってるんだぞ?」
サクヤは身体をこわばらせたまま、何も答えない。目は閉じていても、精神はパニック状態なのが手を通して感じられる。
「あんた、どこにいるんだ? 俺もそっちに行くぞ?」
キジローは手を握ったまま、頭を傾けて顔をサクヤの肩に休めると目を閉じた。
ゴオンゴオンと低い音が響いている。覚えのある騒動音だ。この船の構造はまだよく覚えている。
何度もシュミレーションして頭にたたきこんだのだ。そんなシュミレーションなど結局何の役にも立たなかったが。
今になって最短時間でサクヤを見つけるのに役に立った。サクヤは緑の部屋にいた。
冷たい床に座り込んで、エクルーの身体を抱きしめている。
放心したような顔で、エクルーの左手を持ち上げては自分のほおに押し当て、またその腕がぶらんと床に落ちるのを見つめている。
「姫さん、そいつを離してやれ。それじゃいつまでも休めないだろう」
「イヤ」
「いつまでここにしがみついてるつもりだ。あんただってわかってるんだろう。そいつはとっくに散って、あんたの中に入った。今はあんたよりデカくなって、下で夕飯を作ってる。あんただって、あんなにかわいがってやってるじゃないか」
サクヤは黙って、エクルーの肩に顔を埋めて、冷たい背中を抱き寄せた。
かたわらにひざをついて、キジローは静かに言った。
「あんたが坊主を愛しても、こいつを裏切ったことにならない。あんたが俺を裏切ってないのと同じくらいにな。こいつも俺も、そんなにケツの穴は小さくないぞ」
サクヤは顔を上げて、キジローの目を見つめ返した。
「認めろよ。坊主が好きだろう? あいつを認めてやれよ。あんたが命がけで救った男じゃないか」
サクヤのほおからすっと涙の筋が落ちた。同時にエクルーの身体がほどけて光になった。サクヤはあわててかき合わせようとした。
「待って。消えないで。イヤよ。おいてかないで。私、怖いの。待って」
虚空に手を伸ばすサクヤを、キジローは後ろから抱き止めた。
「行かせてやれ。帰ろう。坊主が待ってる」
キジローが肩から顔を上げると、サクヤは目を開けてふるえながら涙を流していた。
「帰ってきたな。夕メシできるまでちょっと休んでろ。ほれ、タオル。鼻かんでもいいぞ」
サクヤはタオルに顔を埋めて、ちょっと笑った。
「何が怖いんだい?」
「えっ?」
「あいつが消えるのが怖いと言ってたろう」
「……あの子をエクルーの代わりにしてしまいそうで怖いの。でもあの子は記憶を継いでいて、私の欲しい言葉をくれるでしょう? そして私のことを好きだと言ってくれるでしょう? 負けてしまいそうで怖い」
「負けたら何が悪いんだい?」
「だって……!」
言い返して言葉に詰まってしまった。
「どっちにしろ、このままじゃあんたはどこにも行けないぞ。前のヤツの時だって、あんた自分の気持ちを抑えて、抑えすぎて何したいんだかわかんなくなって、何千年もムダにしたんじゃないのか? 今度くらい素直に突っ走ってみろよ。よく考えてみるんだ。あんたは何が欲しい? 何がしたいんだ?」
サクヤは当惑した顔で、何も答えられなかった。
「とにかく、一度あいつときっちり向かい合え。どっちにしろ俺たちは大して残り時間がない。後悔しないように、あいつも悔いを残さないように、逃げないでちゃんと話してやれよ」
「……ええ」
サクヤは白い顔で目をふせた。
「横になってろ。何かあったかいもん持ってくる。何がいい? お茶にジャム入れるか? ワインのお茶割りでもいいぞ?」
「いちごジャムを2さじ紅茶に入れて」
「わかった。寝てろよ」
キジローの優しさが辛くて涙がこぼれた。キジローといれば安らげる。愛されていると実感できる。なのに、なぜ自分はエクルーを怖がっているんだろう。向かい合って、ぶつかりあったら、何が見つかるんだろう。
キジローは台所に下りて、やかんを火にかけた。
「帰って来た?」
「帰って来た。何を作ることにしたんだ?」
「ポトフとホットサラダ。じゃがいもは多すぎるからマッシュポテトにして冷凍するよ」
「じゃあ、玉ねぎ入れてハッシュドポテトを作っておこう。朝メシ用に。肉も入れたいか?」
「いや、たいていベーコンかソーセージを添えるから、野菜だけにしよう。その方がサクヤも食える」
お湯が沸いたので紅茶を入れながら、キジローがぼそっと言った。
「お前の気持ちもわかるがあんまり追いつめてやるなよ」
「うん……反省してる。サクヤの中では俺が散ったショックは少しも薄れてないんだな」
キジローはジャムを小皿に移して、紅茶にはブランデーをたらした。
「それだけお前のことが大事だったんだろう」
「でも俺はここにいるのに」
「なかなかそう簡単に気持ちは切り替わらんさ。お前さんは単純明快にできてるが、姫さんは必要以上にややこしく考えるタチだろう。どうせ今もムダにぐるぐる悩んでるに決まってる。メシ、あとどのくらいだ?」
「20分てとこかな」
「じゃあ20分したら連れてくるから、今日はもうイジめるなよ」
「うん、わかった」
夕食の間、サクヤはうつむきがちで、話しかけられると強いて微笑んだが、結局一度もエクルーの目を見られなかった。
時々、身体をふるわせて、くちびるをかんでいるのでキジローが「もう寝ろ」と肩を叩いた。
サクヤが2階に上がった後、皿を洗いながらエクルーはうなだれていた。キジローは横でハッシュドポテトに粉をはたきながら、「まあ、お前のせいばかりじゃないさ」となぐさめた。
「お前があいつに似てるのは、お前のせいじゃない。サクヤがあいつを忘れられないのも、お前のせいじゃない。かと言って姫さんが納得するのを待ってたら、また3000年待たされそうだもんなあ」
「そう思って、つい押し倒したら泣かれちゃった。どうしたもんだかわからないよ、もう」
「うーむ、どうしたもんかねえ」
寝室ではサクヤがベッドの端に座ってぼおっとしていた。
「またこれか。寝てろって言ったろう。ほら、布団に入れ」
並んで布団に入って、キジローは両腕でほっこりサクヤを包んだ。
「何も考えないで寝ちまえ。考えてすぐ答えが出るようなことでもないだろう。ほれ、もう寝ろ」
サクヤはしばらくキジローの胸に顔を埋めていたが、そのうちしゃくり上げ始めた。
「ごめ……ごめんなさい」
「どうした」
「あなたに、あま……甘えてばかり……ではず、恥ずかしいのよ」
「いいよ。役得だと思ってるから」
「だって……」
「いいんだって。坊主のことで泣く姫さんはかわいいから、俺はトクしてるよ」
しばらくぐしっぐしっと泣いた後、やっとで言った。
「あの子を拒絶したくないの」
「うん」
「でも受け入れるわけにはいかないの」
「なんでだ?」
「あの子が私に求めているのは……違うのよ、わかるでしょう?」
「あいつはあんたを抱きたい。あんたはあいつに抱かれたくないのか?」
サクヤはキジローの腕の中で真っ赤になった。
「そんなこと、できるわけないじゃない」
「なんでだ?」
「だって」
「あいつにキスされてくらくらしなかったか? 押さえ込まれて身体がふるえなかったか?」
「そんなの、ただの身体の反射じゃない!」
「そうバカにしたもんでもないさ。あんたが好きでもない相手にそんな反応するわけない。認めろよ。あいつが欲しくないのか?」
「私はキジローの奥さんなのよ?」
「そんなの、あいつを育てるための都合だ。便宜上、配偶者の役を買って出ただけで、あんたの気持ちをしばれると思ってない」
サクヤの顔がぐしゃっとゆがんだ。
「私を捨てるの?」
「おいおい、ちょっと待てよ。捨てられるのは俺の方だ。あいつが一人前の男になるまで、俺はあんたを預かってるつもりだった。あいつが育ったら、返してやるつもり……」
そこまで言ったところで、サクヤにぶたれた。次にみぞおちにゲンコツが飛んで来た。
「待て……ま、やめろ。急所にあてるな。こら」
両腕をつかんで攻撃を止めると、サクヤはぐしゃぐしゃに泣いていた。
「ひど……ひどい。そんなつもりって誰がそんなこと決めたの。誰がそんなこと望んでるの。勝手にそんなつもりにならないでよ」
「わかった。悪かった。俺はあんたを独り占めしてる間、ずっとあいつに悪いと思ってて、できれば時間があるうちに、あいつに返してやりたかったんだ」
サクヤはキジローのパジャマにしがみついて、しゃくり上げながらやっとで言った。
「私が好きなのはキジローなのよ? 何度も言ったわ。私は何度もあなたを選んでるのに、今になって私を皿にのせて差し出さないで」
「でも俺はあいつのことも気に入ってるんだ」
サクヤはキジローの胸から顔を離して見上げた。
「あんたもあいつが好きだろう?」
「だったらどうだというの。私はあの子に何の約束もしてやれないのに」
「そんな事あいつは望んでないさ。ただ気持ちを返してもらえれば満たされる」
「どうしてそんなことわかるの」
「俺がそうだから。俺が坊主のことを追求するとあんたはいつも必死で俺が好きだと言ってくれる。それだけで俺は天国気分だ」
サクヤはしばらくぽかんと口を開けていたが、笑い出しそうな顔をして、またぐしゃぐしゃと泣き始めた。
キジローの胸に顔を埋めてつぶやいた。
「私、キジローの奥さんで良かった」
「ほらな。極楽だ。どんな上等のウイスキーよりキく」
「ありがとう」
「もう寝よう。それだけ泣いたらくたびれただろう」
「うん。お休みなさい」
サクヤは身体を少し起こして、キジローにキスをするとため息をついて、またキジローの胸に顔を押し付けた。
「あのね、あの子に内緒だけど」と小さな声で言った。
「うん?」
「キジローのキスとエクルーのキスは全然違うの」
「へえ」
サクヤが何も言わないのでキジローは顔をのぞきこんだ。
「姫さん? どう違うか聞いてもいいか?」
サクヤはまた真っ赤になった。
「キジローといると忘れちゃうのよ。自分がどんな顔してるか、とか何言ってるか、とかもう全然コントロールできないの。自分でもいつも予想外のことをしてしまうの」
「ふーん。そりゃ喜んでいいのかね」
「知らない」
「わかった。悪かった。うれしいよ」
ぎゅっと抱きしめて、額にキスをした。
「光栄だね。お姫さん。これからも大事にするよ」
「ええ。大事にして。私を離さないで?」
「わかった。でも、あいつにもちゃんと答えてやってくれ」
「どうしてそう寛大になれるの? 余裕なの?」
「余裕なんかあるもんか。いつあんたをあいつにさらわれるかビクビクしてるさ。ただ俺は、あんたらが2人で並んでるところを見るのが好きなんだ。坊主込みであんたが好きなんだよ。いささか妙だとは思うが」
「へんな人。マゾヒストじゃないの」
「坊主にもそう言われた」
夜明け前の空が白み始めた頃、エクルーがジョギングスーツで下に下りるとサクヤがコーヒーを入れてくれた。
「飲むでしょう? 何か軽く食べる?」
「いや、コーヒーだけでいい」
せまいキッチンで立ったまま2人はコーヒーをすすった。
「おはよう?」サクヤが言った。
「……おはよう」
また沈黙が落ちた。コーヒーがいつもに増して苦い。2人同時に顔を上げた。
「あの、昨日は……」完全に言葉が重なった。同時に笑い出した。
「昨日はごめんなさいね。びっくりしたでしょう。パニック起こしちゃって……」
「何でサクヤがあやまるのさ。俺がひどいことしたのに……ごめん」
「でも私を傷つけたくてしたわけじゃないでしょう?」
「当たり前だろ」
サクヤは重いマグカップを両手でかかえて、ゆっくりコーヒーを飲んでいた。
「あなたの中にも、あの聖堂の星空があるのね?」
エクルーがカップから顔を上げた。
「忘れられるもんか。でも絶対に手管に使ったわけじゃないからね」
「わかってる。ごめんね。何だか今まで、私の中でつながってなかったのよ。あなたと、あのエクルーが。彼はあなたの中にいるのね?」
「ピンシャンして生きてるよ」
「よかった。うれしい。まだなんだか信じられないけど」
「何で? 似てない?」
「もちろん外見はそっくりよ。顔も声も、ちょっとしたしぐさも。でも彼は決して……」
「何さ」
サクヤはくすくす笑った。
「あなたみたいにずうずうしく迫ったりしなかった。こっちが待ちくたびれるぐらい慎重だった」
「待ってたの?」
「でも自分は他の女の子ほど魅力がないのだろうとあきらめて、姉さん役に徹することにしたの」
「バカだなあ」
「誰が?」
「俺がだよ。で、今は母親役に徹しようとしてるの?」
「そう。だから大罪を犯そうなんて思わずに、健全にジョギングしてきてちょうだい」
「息子が母親に健全なキスをするくらいいいだろう?」
「どうかしら」
「大丈夫。押し倒そうにもここはキッチンカウンターくらいしかない」
サクヤは疑い深そうにカウンターやテーブルを見たが、にこっと笑った。
「じゃあ、仲直りのキスね」
エクルーはサクヤの手からカップをとって、カウンターに置いた。
両手をとって、片方ずつキスをした。
「ごめんね。もうサクヤを泣かすようなことしたくないと思ってるのに、また泣かせちゃうんだ」
「仕方ないわ。あなたは私の弱点をつかんでいるんだもの」
「弱点? サクヤの?」
「あなたよ、エクルー。あなたが私の弱点なの。あなたの思い出を持ち出されたらいつでも洪水だわ」
「ロイヤル・ストレート・フラッシュ。なのに禁じ手ってわけだな。でも何だか俺……告白されたような気持ちなんだけど」
「あなたが好きよ。例え、彼があなたの中にいなくても好きになったと思うわ。自慢の息子よ」
「うーん、息子といわれるとキスしにくいなあ。まあいいや」
エクルーは身体をかがめて、サクヤに軽くキスをした。でも結局、サクヤが顔を離す前に素早くうなじと腰に手を回して、母親に送るには不適切なキスになった。
「こら」とサクヤが言うと、エクルーは笑いながら外へかけ出して行った。
「じゃあね、ひと走り行ってきます」
後ろ姿を見送りながら、サクヤはため息をついた。
「あいつ、反省してねーな」
後ろでキジローが言った。
「あら、起きちゃったの? おはよう」
「おはよう。コーヒーの匂いにつられてな。まだあるか?」
「あるけど、二度寝できなくならない?」
「ついでだから庭の枝下ろしやるよ。つぼみがふくらむ前にとか言ってただろう?」
「あら、グスタフに頼むつもりだったんだけど」
「あのゴミバケツより俺の方が背が高い」
「ロボットにはり合わないで」とサクヤが笑った。
「いいから若いのがいないうちに、この年寄りに点数稼がせてくれ」
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