F.D.2541
9歳でいきなり9年生(高校2年)に編入されたサクヤは、クラスメイトのティーンのお姉さんたちにもみくちゃにされた。
メイリンが所長をしているウイグル・ステーションの研究所で、エクルーが論文を書く間、サクヤにも同年代の友人ができれば、と思って学力試験を受けさせたのだ。結局、サクヤではなく、エクルーと同年代の学友に囲まれることになった。
サクヤはウイグル語もマンダリンも話せないので、連邦標準語で授業が行われる高校の方がいいだろう、ということになったのだ。
クラスメイト達は、お昼に弁当を届けに来たり、夕方迎えに来るサクヤのお兄さんに興味津々だった。会うたびに、サクヤを抱き上げてキスする様子に、みんな見とれてぽーっとなった。エクルーと比べると、クラスの男どもは、全然、ガキ臭く見える。エクルーがひとつしか違わないなんて信じられない。
エクルーは背も高いし、もう4年も連邦政府の研究員としてプロフェッショナルな仕事をしていて、もうすぐ博士号も取得するという。
何とかサクヤをつかまえて、兄でなく婚約者で、しかも二人きりで住んでいる、と聞き出すと、さらに彼女達の興味はヒートアップした。背伸びしたお姉さんたちの無責任なアドバイスにサクヤが翻弄されているので、エクルーもいささか心配になってきたのである。
モニターにスオミが出たので、エクルーはほっとした。スオミとは直接、血のつながりはないが、もうない星でエクルーの叔母だったし、二人ともキジローを養父として育ったので、姉弟のような信頼関係がある。それがうらやましいらしく、夫のアルバートまで、「義弟よ」と混ざりたがるのがやっかいだった。結局、3人とも、キジローに保護者として育ててもらって、今はキジローの孫であるサクヤの後見人になっているわけだ。
「珍しいのね、電話なんて。テントは隣りなんだから、うちに来ればいいのに」
「でも、そうするとアルに邪魔されるだろう?スオミに相談なんだ」
「ところが、俺もいるんだな、残念なことに」と、アルがモニターに顔を出した。
「お前の相談って、どうせサクヤのことだろう?俺も後見人なんだから話せよ、聞いてやるぜ?」
エクルーはよっぽど機会を改めようかと思ったが、こうなったらどうこっそりスオミに話しても、アルが聞き出すに決まっている。同じことだ。
「サクヤがね、クラスのお姉さん達に”婚約者と同じベッドに寝ていて何もないのは、愛されていないからだ”、とか言われたらしくて毎晩迫ってくるんだ」
スオミの後ろでアルが爆笑していたが、予想していたことなので、エクルーは無視した。
「迫り方が的を得ていないんで、助かっているんだけど」
アルがさらに大笑いした。
「あの子、学校に行くの、これが初めてだろう?7,8年生をすっ飛ばしたから、そういう教育を受けていないと思うんだよね」
「そういう教育って?」とスオミが聞いた。
「いわゆる性教育ってやつ。具体的にどういうことかわかってなくて、ただ、お姉さん達に乗せられて、その気になってるだけだと思う」
「大きくなったモノでも見せれば、いっぺんでやる気が失せるさ」とアルが言った。エクルーはぎろっとにらみつけた。
「そんなのダメだ。トラウマになる。あの娘は利口だから、ちゃんと説明すれば納得する。そのレクチャーをスオミに頼みたいんだ。女性だし、医者だし、あの子にとっては叔母なんだから、説得力も信頼感もあるだろ?」
モニターの向こうでスオミがため息をついた。
「わかった。やってみるわ。実はメイリンにも注意されていたの」
メイリンは、研究所に隣接するサクヤたちの高校の校長も兼任しているのだ。サクヤの両親と友人だった縁で、後見人のひとりでもある。
「メイリンが気がついただけでも、3人の男の子がサクヤの周りをうろうろしているんですって。でも、サクヤの方は全然眼中にないものだから、丸っきり無防備に中庭でうたた寝してたり、屋根によじ登ったりするので、ハラハラするらしいの」
「ふーん」
「それが、女の子たちはエクルーをねらっているものだから、男の子たちにいろいろ吹き込んで焚き付けているらしいのよね」
「うーむ」
「明日にでも、教えてみるわ。明日、あの子、休みなんでしょ? 男性方の見学は遠慮してね」
3時ごろ、青い湖沼のイメージが閃いたので、エクルーはラボを抜け出した。自分達のテントに電話してみると、モニターにスオミが出た。
「サクヤがどうかした?」
「さっき、12、3歳向けの教育ムービーを見せたんだけど」
「うん」
「見終わったら、吐いちゃって。そのまま倒れちゃったの。熱が8℃くらいある。今、ベッドで寝かせているわ」
スオミがふっと笑った。
「そんな心細そうな顔をしないで。知恵熱のようなものよ。今夜は私、ここに泊めてもらうわ。あなたは、アルとダブルベッドで寝てちょうだい」
「ありがとう。俺のベッド、今朝、シーツもカバーも変えたところだから」
スオミがまた笑った。
「あなた、その年齢の男の子にしては、気が回りすぎよ。もっと大雑把に考えないと、サクヤがいくつになっても押し倒せないわよ」
「姉さん・・・何だか、アルに似てきたよ」
「ホメ言葉と受け取っておくわ」
翌日の午後、サクヤがラボにぴょこん、と顔をを出した。
「サクヤ!」
思いのほか、大きな声が出てしまって、エクルーは自分の口を押さえた。
「抜けていい?」
「いいよ、ちょうどキリがいい所だ」とアルが言った。「みんな、30分、ティーブレイクだ」
「もう、熱下がった?まだ、今日も試験休みだろ?」
「うん。お昼まで寝てたんだけど・・・」サクヤはちょっともじもじして、エクルーと目を合わさない。
「疲れが出たんだよ。2年生にスキップしてムリしたんだろう?もう少しのんびり進級すればいいのに。お茶飲んだら、また寝てな」
「うん。・・・でも禁断症状が出て」
「? 何の?」
サクヤがぴょん、と跳ねて、エクルーの首に抱きついた。
「エクルーの。・・・はあ・・落ち着いた」ぎゅうっと抱きつきながら、サクヤがため息をついた。
横向きに抱っこしながらエクルーは笑った。
「禁断症状っていうほど、離れていないだろ?」
「だって、昨日の朝から30時間は経ってるわよ」
エクルーは、顔を傾けてサクヤのおでこにくっつけた。
「良かった。スオミのムービーにショックを受けて、しばらく触らせてもらえないかと覚悟してた」
「どうして?」サクヤは心底、不思議そうに聞く。
「どうしてって、一応、俺も男のうちだから」
「ああ。そうか。でも、エクルーは別よ。他の男の人は気持悪いけど」
エクルーは喜んでいいものか、悲しんでいいものか、ちょっと判断に困った。まあ、でもひとまず安心だ。
「おいおい、オジさんのことも気持ち悪いのかい?」
とアルが混ざって来た。
「あら、アルも別よ。アルは口ばっかりで、エクルーよりよっぽどスケベじゃないってスオミが言っていたもの」
とサクヤはエクルーに抱っこされたまま言った。
男2人は、かつてのペトリの女神の容赦ない評価にショックを受けた。
サクヤはエクルーのほおにキスをした。
「今夜は帰ってくるでしょう?」
「うん」
「待ってる」
そう言って、ぽん、と腕から飛び降りると、中庭に駆け出して行った。
「アル?」
「何だ?」
「何だか、あんまり問題が解決した気がしないんだけど」
「お前が、9歳児にほおにキスされたくらいでぼぉっとなってる限り、問題は軽減しないと思うけどな」
「ちぇっ。まあ、いいや。先が長くて楽しみだ」
夕方、エクルーがテントに戻ると、サクヤは自分のベッドでぐっすり眠っていた。そっとおでこを触ってみると熱はない。ただ、安心した顔ですやすや寝ている。
エクルーは椅子を持ってきてベッドの端にひじをつくと、サクヤの寝顔にとっくりと見入った。
不思議だ。
イドラにやって来て、サクヤに出会ってからもうすぐ1年になる。
たった1年。なのに、もうお互いに離れられない、かけがえのない存在になってしまっている。キジローが死んだ時も、こうしてじっと長い間サクヤの寝顔を見つめていた。
最初から、ボニーを追う旅だった。それがこうしてボニーの娘と一緒に暮らしてるなんて。
ボニーの夢を追って、サクヤと2人でイドラに来たのだ。ペトリを見つけ、ミヅチに出会い、キジローと一緒にボニーを探した。
ボニーと出会ったために、エクルーは生まれ変わることになり、そのためにサクヤは散ったのだ。
ボニーが迎えに来て、キジローとイドラに戻った。そしてサクヤに会った。
今はキジローもボニーもいない。サクヤと2人きり。もしサクヤがいなかったら、もし万が一サクヤを失うことになったら、自分は1人になる。
そう想像しただけで、足元がなくなって宇宙空間に1人で漂流しているような絶望的な孤独を感じて、身体が冷たくなった。
サクヤはふっと目を開けてエクルーを見つけると、にこっと笑った。
「何だか悲しそうな顔してる」そう言うと、腕をのばしてエクルーのほおに触れた。「どうしたの?お腹すいた?」
エクルーはちょっと笑った。どうして女の子はみんな、俺が元気がないと”お腹すいてる”って聞くんだろう。
「そうだな。君が起きるのを待ってる間にちょっと腹が減ったかも」
サクヤはいつもの寝起きの良さで、ぱっと身体を起した。
「私もお腹すいた!もうご飯作っちゃった?バザールの屋台に食べに行こう。揚げパン入れておかゆ食べたい!」
「いいね。行こうか」
「じゃ、これ着て行こう。ヤスミンが持ってきてくれたの。シャマーリがエクルーくらいの歳の時着てたウイグルの衣装。ねえ、着てみて」
あつらえたようにサイズがぴったりで、エクルーが黒髪なことも手伝って、まるっきりウイグル人に見える。
「すごい。それでバザールに行ったら、女の子の注目の的になるわよ。これも被ってみて」
おわんを伏せたような半球型の布の帽子で、やはりウイグルの意匠が入っている。
「うわあ、完璧。これでウイグル語を話せば、完全にここの人になれるわ」
「実は話せる」
「うそ。どうして?」
「ひまひまに習った」
「すごいじゃない。じゃ、ね、私もメイリンの子供の時の服を着るから、エクルー、ずっとウイグル語で話して?2人でウイグル人のふりしよ!」
翌日ラボに行くと、所長のメイリンがにやにやして待っていた。弱冠20歳で博士号を3つ持って、この研究所と付属する高等学校を経営している才媛だ。高級なお茶の生産以外さして産業のなかったこのステーションで、この研究所が人と資金の動く中心になりつつある。
「昨夜、うちに問い合わせが殺到したんだけど?」
「どういう?」
「タイム・スリップしちゃったって」
エクルーがけげんな顔をした。
「10年前の私とシャマーリがバザールを歩いてたっていうのよ」
「なるほど」
シャマーリはメイリンの夫だ。波打つ黒髪に深い青の双眸、腹に響く深い声を持つ、男でも惚れそうな美丈夫である。
「昔の服を上げたって説明したわ。でも、別人と思えない、しかも絶対に外地の人間なんかじゃない、流暢にウイグル語を話して、女の子が長身の青年にじゃれてる様子が、あんた達そのままだったって」
「メイリンとシャマーリってそんなに昔から知り合いだったの?」
「だって、シャマーリは私の叔父ですもの」
エクルーはあんぐり口を開けた。「ウソだろ?」
「私の母の弟なの。だから、ヤスミンは私にとっては祖母で、シャマーリにとってはお母さんなわけ。面倒だから、カラも私もおばあちゃま、と呼んでるけど」
「うーむ」
「もう7つの時には婚約してたわ。だから、この事あなた達に言いたくなかったのよね。何だか照れくさくて。完全に同じパターンでしょ?」
エクルーは「うーむ」とくり返すばかりだった。
「ウイグルの基準でいくとあなた方は標準的なカップルってわけ。絶対に嫁・姑問題の起きない組み合わせでしょ?ここで結婚式挙げれば?」
1週間が過ぎたころ、小さいサクヤの攻撃が再開された。
「スオミに聞きそびれたことがあるんだけど」
エクルーを見上げて大きな灰色の眼で見つめている。
「ええと、それはまた改めてスオミに聞いたらいいんじゃない?」とエクルーが用心深く答えた。
「スオミと話そうとすると、アルがチャチャをいれるんですもの」
「ああ・・・」とエクルーが嘆息した。
「それに、こういうことは保護者に聞かないと」
「うーむ。まず、俺は婚約者かもしれないけど、保護者じゃない。何故なら俺も未成年だから。俺たちが同じベッドで寝てても怒られないのはそのためだ。子供同士だから。第2に、俺は男だから女のことはわからない。第3に、そういうことを質問されるだけで軽いゴーモンだ」
サクヤが目をぱちくりした。「そうなの?」
「何がそうなの?なんだ」
「最後の答えよ。なぜゴーモンなの?」
「俺は未成年だけど、身体は一人前なんだ。君と一緒に過ごしながら、君を傷つけないよう必死なのに、そんな核心をついた質問を・・・」
「つまり、エクルーは私の聞きたい質問がわかっているのね」
「だいたい想像がつく」むすっとして答える。
「ふうん。そして、多分答えも知ってて、でも教えたくないのね」
エクルーはふーっと長いため息をついた。
「例えば、君が医者に当分アイスクリームとチョコレートは禁止だと言われたとする。そんな時に、友達がチョコ・ファッジのおいしい店の話を延々しだしたら、どんな気持ちがすると思う?」
「当分ってどのくらい?」
「え?」エクルーは面食らった。
「当分、アイスクリーム禁止ってどのくらいなの?」
「さあ?5、6年かな?」
「5、6年ね。わかったわ」
「わかったって何が?」
「私の知りたかった答えよ。5、6年待てば、エクルーをいじめずにこういう話ができるようになるのね」
エクルーの顔が、首から耳まで真っ赤になった。くるりと背を向けると、テントを出て行こうとした。
「待って。結局、いじめたことになっちゃったの?怒らないで」サクヤが腕にしがみついた。
「怒ってない。だから腕を放してくれ」目をそむけて、なお外に向かおうとする。
「イヤよ。エクルーはぷいっと消えちゃうと、いつまでも帰ってこないじゃない。それに赤くなったエクルーってかわいいんですもの。顔を見せて?」
「かわいいとか言うな」相変わらずそっぽを向いている。
「どうして?自分の言葉で恋人を真っ赤にできるっていい気分だわ。何だか悪い女になったみたい」
「9歳の悪女かよ。勘弁してくれ」エクルーがうめいた。
「もうひとつ質問があるの。”めくるめく快感”っていうのは、この間習ったプロセスのどこで起こるのかしら?」
「勘弁してよ」エクルーは頭をかかえた。
「あれから色々テキストを読んだんだけど、どこにも書いていないの。チェンに借りたロマンス小説にもはっきりしたことは書いていないし」
エクルーは目を眇めて、精一杯批判的な顔をした。
「興味シンシンだね。でもこれは、食べたことのないアイスクリームのフレーバーなんかじゃない。場合によっては命にかかわる問題だ。真面目に扱うように」
「だから、マジメに興味をもっているのよ」
エクルーはふーっとまたため息を吐いた。
「じゃあね、目を閉じて」
サクヤが目を閉じると、エクルーは背中に手を回してマジメにキスをした。 目をぱちっと開けたサクヤに、「どんな気持ち?」と聞いた。
「どんなって・・・ドキドキして、ぽあっと温かくなって、何だか甘い気持ち」
「それだよ。それが”めくるめく快感”。いろいろ種類があるけどね」
「ふうん。何だ。もっとすごいのかと思った」
「実際すごいよ。花火が上がったり、銀河が見えたりする」
「銀河?」
「うん。だから、5年後を楽しみにしてな」
「エクルー、赤くなってないわ。それにゴーモンされてる人の顔じゃない。何だかニヤニヤしてない?」
「そりゃあ、君の方が真っ赤だから」
「本当?」
「5年後が楽しみだな」
サクヤはそう言われてますます赤くなる。エクルーはサクヤを抱き上げて、ほおにキスした。
「その時は、こうやってベッドに運んでやるよ」
「もう。からかわないで。私が子供だからって」
「からかってなんかないよ。初めての夜は、女の子をこうやって運ぶルールがあるんだ。その時、女の子は必ず白いネグリジェを着なくちゃいけない。クマのぬいぐるみも禁止」
「やっぱりからかってる。もういい。スオミに聞いてみるから」
「最初からそうすればいいんだよ」
にやにやしているエクルーの顔をすぐ横からにらみながら、冷たい口調でサクヤが言った。
「エクルー。指摘してもいい?」
「どうぞ?」
「何だかアルに似てきたわよ?」
そのショックから立ち直るのに、エクルーは3日くらいかかった。でも、本当のショックは5年後に来た。
9歳でいきなり9年生(高校2年)に編入されたサクヤは、クラスメイトのティーンのお姉さんたちにもみくちゃにされた。
メイリンが所長をしているウイグル・ステーションの研究所で、エクルーが論文を書く間、サクヤにも同年代の友人ができれば、と思って学力試験を受けさせたのだ。結局、サクヤではなく、エクルーと同年代の学友に囲まれることになった。
サクヤはウイグル語もマンダリンも話せないので、連邦標準語で授業が行われる高校の方がいいだろう、ということになったのだ。
クラスメイト達は、お昼に弁当を届けに来たり、夕方迎えに来るサクヤのお兄さんに興味津々だった。会うたびに、サクヤを抱き上げてキスする様子に、みんな見とれてぽーっとなった。エクルーと比べると、クラスの男どもは、全然、ガキ臭く見える。エクルーがひとつしか違わないなんて信じられない。
エクルーは背も高いし、もう4年も連邦政府の研究員としてプロフェッショナルな仕事をしていて、もうすぐ博士号も取得するという。
何とかサクヤをつかまえて、兄でなく婚約者で、しかも二人きりで住んでいる、と聞き出すと、さらに彼女達の興味はヒートアップした。背伸びしたお姉さんたちの無責任なアドバイスにサクヤが翻弄されているので、エクルーもいささか心配になってきたのである。
モニターにスオミが出たので、エクルーはほっとした。スオミとは直接、血のつながりはないが、もうない星でエクルーの叔母だったし、二人ともキジローを養父として育ったので、姉弟のような信頼関係がある。それがうらやましいらしく、夫のアルバートまで、「義弟よ」と混ざりたがるのがやっかいだった。結局、3人とも、キジローに保護者として育ててもらって、今はキジローの孫であるサクヤの後見人になっているわけだ。
「珍しいのね、電話なんて。テントは隣りなんだから、うちに来ればいいのに」
「でも、そうするとアルに邪魔されるだろう?スオミに相談なんだ」
「ところが、俺もいるんだな、残念なことに」と、アルがモニターに顔を出した。
「お前の相談って、どうせサクヤのことだろう?俺も後見人なんだから話せよ、聞いてやるぜ?」
エクルーはよっぽど機会を改めようかと思ったが、こうなったらどうこっそりスオミに話しても、アルが聞き出すに決まっている。同じことだ。
「サクヤがね、クラスのお姉さん達に”婚約者と同じベッドに寝ていて何もないのは、愛されていないからだ”、とか言われたらしくて毎晩迫ってくるんだ」
スオミの後ろでアルが爆笑していたが、予想していたことなので、エクルーは無視した。
「迫り方が的を得ていないんで、助かっているんだけど」
アルがさらに大笑いした。
「あの子、学校に行くの、これが初めてだろう?7,8年生をすっ飛ばしたから、そういう教育を受けていないと思うんだよね」
「そういう教育って?」とスオミが聞いた。
「いわゆる性教育ってやつ。具体的にどういうことかわかってなくて、ただ、お姉さん達に乗せられて、その気になってるだけだと思う」
「大きくなったモノでも見せれば、いっぺんでやる気が失せるさ」とアルが言った。エクルーはぎろっとにらみつけた。
「そんなのダメだ。トラウマになる。あの娘は利口だから、ちゃんと説明すれば納得する。そのレクチャーをスオミに頼みたいんだ。女性だし、医者だし、あの子にとっては叔母なんだから、説得力も信頼感もあるだろ?」
モニターの向こうでスオミがため息をついた。
「わかった。やってみるわ。実はメイリンにも注意されていたの」
メイリンは、研究所に隣接するサクヤたちの高校の校長も兼任しているのだ。サクヤの両親と友人だった縁で、後見人のひとりでもある。
「メイリンが気がついただけでも、3人の男の子がサクヤの周りをうろうろしているんですって。でも、サクヤの方は全然眼中にないものだから、丸っきり無防備に中庭でうたた寝してたり、屋根によじ登ったりするので、ハラハラするらしいの」
「ふーん」
「それが、女の子たちはエクルーをねらっているものだから、男の子たちにいろいろ吹き込んで焚き付けているらしいのよね」
「うーむ」
「明日にでも、教えてみるわ。明日、あの子、休みなんでしょ? 男性方の見学は遠慮してね」
3時ごろ、青い湖沼のイメージが閃いたので、エクルーはラボを抜け出した。自分達のテントに電話してみると、モニターにスオミが出た。
「サクヤがどうかした?」
「さっき、12、3歳向けの教育ムービーを見せたんだけど」
「うん」
「見終わったら、吐いちゃって。そのまま倒れちゃったの。熱が8℃くらいある。今、ベッドで寝かせているわ」
スオミがふっと笑った。
「そんな心細そうな顔をしないで。知恵熱のようなものよ。今夜は私、ここに泊めてもらうわ。あなたは、アルとダブルベッドで寝てちょうだい」
「ありがとう。俺のベッド、今朝、シーツもカバーも変えたところだから」
スオミがまた笑った。
「あなた、その年齢の男の子にしては、気が回りすぎよ。もっと大雑把に考えないと、サクヤがいくつになっても押し倒せないわよ」
「姉さん・・・何だか、アルに似てきたよ」
「ホメ言葉と受け取っておくわ」
翌日の午後、サクヤがラボにぴょこん、と顔をを出した。
「サクヤ!」
思いのほか、大きな声が出てしまって、エクルーは自分の口を押さえた。
「抜けていい?」
「いいよ、ちょうどキリがいい所だ」とアルが言った。「みんな、30分、ティーブレイクだ」
「もう、熱下がった?まだ、今日も試験休みだろ?」
「うん。お昼まで寝てたんだけど・・・」サクヤはちょっともじもじして、エクルーと目を合わさない。
「疲れが出たんだよ。2年生にスキップしてムリしたんだろう?もう少しのんびり進級すればいいのに。お茶飲んだら、また寝てな」
「うん。・・・でも禁断症状が出て」
「? 何の?」
サクヤがぴょん、と跳ねて、エクルーの首に抱きついた。
「エクルーの。・・・はあ・・落ち着いた」ぎゅうっと抱きつきながら、サクヤがため息をついた。
横向きに抱っこしながらエクルーは笑った。
「禁断症状っていうほど、離れていないだろ?」
「だって、昨日の朝から30時間は経ってるわよ」
エクルーは、顔を傾けてサクヤのおでこにくっつけた。
「良かった。スオミのムービーにショックを受けて、しばらく触らせてもらえないかと覚悟してた」
「どうして?」サクヤは心底、不思議そうに聞く。
「どうしてって、一応、俺も男のうちだから」
「ああ。そうか。でも、エクルーは別よ。他の男の人は気持悪いけど」
エクルーは喜んでいいものか、悲しんでいいものか、ちょっと判断に困った。まあ、でもひとまず安心だ。
「おいおい、オジさんのことも気持ち悪いのかい?」
とアルが混ざって来た。
「あら、アルも別よ。アルは口ばっかりで、エクルーよりよっぽどスケベじゃないってスオミが言っていたもの」
とサクヤはエクルーに抱っこされたまま言った。
男2人は、かつてのペトリの女神の容赦ない評価にショックを受けた。
サクヤはエクルーのほおにキスをした。
「今夜は帰ってくるでしょう?」
「うん」
「待ってる」
そう言って、ぽん、と腕から飛び降りると、中庭に駆け出して行った。
「アル?」
「何だ?」
「何だか、あんまり問題が解決した気がしないんだけど」
「お前が、9歳児にほおにキスされたくらいでぼぉっとなってる限り、問題は軽減しないと思うけどな」
「ちぇっ。まあ、いいや。先が長くて楽しみだ」
夕方、エクルーがテントに戻ると、サクヤは自分のベッドでぐっすり眠っていた。そっとおでこを触ってみると熱はない。ただ、安心した顔ですやすや寝ている。
エクルーは椅子を持ってきてベッドの端にひじをつくと、サクヤの寝顔にとっくりと見入った。
不思議だ。
イドラにやって来て、サクヤに出会ってからもうすぐ1年になる。
たった1年。なのに、もうお互いに離れられない、かけがえのない存在になってしまっている。キジローが死んだ時も、こうしてじっと長い間サクヤの寝顔を見つめていた。
最初から、ボニーを追う旅だった。それがこうしてボニーの娘と一緒に暮らしてるなんて。
ボニーの夢を追って、サクヤと2人でイドラに来たのだ。ペトリを見つけ、ミヅチに出会い、キジローと一緒にボニーを探した。
ボニーと出会ったために、エクルーは生まれ変わることになり、そのためにサクヤは散ったのだ。
ボニーが迎えに来て、キジローとイドラに戻った。そしてサクヤに会った。
今はキジローもボニーもいない。サクヤと2人きり。もしサクヤがいなかったら、もし万が一サクヤを失うことになったら、自分は1人になる。
そう想像しただけで、足元がなくなって宇宙空間に1人で漂流しているような絶望的な孤独を感じて、身体が冷たくなった。
サクヤはふっと目を開けてエクルーを見つけると、にこっと笑った。
「何だか悲しそうな顔してる」そう言うと、腕をのばしてエクルーのほおに触れた。「どうしたの?お腹すいた?」
エクルーはちょっと笑った。どうして女の子はみんな、俺が元気がないと”お腹すいてる”って聞くんだろう。
「そうだな。君が起きるのを待ってる間にちょっと腹が減ったかも」
サクヤはいつもの寝起きの良さで、ぱっと身体を起した。
「私もお腹すいた!もうご飯作っちゃった?バザールの屋台に食べに行こう。揚げパン入れておかゆ食べたい!」
「いいね。行こうか」
「じゃ、これ着て行こう。ヤスミンが持ってきてくれたの。シャマーリがエクルーくらいの歳の時着てたウイグルの衣装。ねえ、着てみて」
あつらえたようにサイズがぴったりで、エクルーが黒髪なことも手伝って、まるっきりウイグル人に見える。
「すごい。それでバザールに行ったら、女の子の注目の的になるわよ。これも被ってみて」
おわんを伏せたような半球型の布の帽子で、やはりウイグルの意匠が入っている。
「うわあ、完璧。これでウイグル語を話せば、完全にここの人になれるわ」
「実は話せる」
「うそ。どうして?」
「ひまひまに習った」
「すごいじゃない。じゃ、ね、私もメイリンの子供の時の服を着るから、エクルー、ずっとウイグル語で話して?2人でウイグル人のふりしよ!」
翌日ラボに行くと、所長のメイリンがにやにやして待っていた。弱冠20歳で博士号を3つ持って、この研究所と付属する高等学校を経営している才媛だ。高級なお茶の生産以外さして産業のなかったこのステーションで、この研究所が人と資金の動く中心になりつつある。
「昨夜、うちに問い合わせが殺到したんだけど?」
「どういう?」
「タイム・スリップしちゃったって」
エクルーがけげんな顔をした。
「10年前の私とシャマーリがバザールを歩いてたっていうのよ」
「なるほど」
シャマーリはメイリンの夫だ。波打つ黒髪に深い青の双眸、腹に響く深い声を持つ、男でも惚れそうな美丈夫である。
「昔の服を上げたって説明したわ。でも、別人と思えない、しかも絶対に外地の人間なんかじゃない、流暢にウイグル語を話して、女の子が長身の青年にじゃれてる様子が、あんた達そのままだったって」
「メイリンとシャマーリってそんなに昔から知り合いだったの?」
「だって、シャマーリは私の叔父ですもの」
エクルーはあんぐり口を開けた。「ウソだろ?」
「私の母の弟なの。だから、ヤスミンは私にとっては祖母で、シャマーリにとってはお母さんなわけ。面倒だから、カラも私もおばあちゃま、と呼んでるけど」
「うーむ」
「もう7つの時には婚約してたわ。だから、この事あなた達に言いたくなかったのよね。何だか照れくさくて。完全に同じパターンでしょ?」
エクルーは「うーむ」とくり返すばかりだった。
「ウイグルの基準でいくとあなた方は標準的なカップルってわけ。絶対に嫁・姑問題の起きない組み合わせでしょ?ここで結婚式挙げれば?」
1週間が過ぎたころ、小さいサクヤの攻撃が再開された。
「スオミに聞きそびれたことがあるんだけど」
エクルーを見上げて大きな灰色の眼で見つめている。
「ええと、それはまた改めてスオミに聞いたらいいんじゃない?」とエクルーが用心深く答えた。
「スオミと話そうとすると、アルがチャチャをいれるんですもの」
「ああ・・・」とエクルーが嘆息した。
「それに、こういうことは保護者に聞かないと」
「うーむ。まず、俺は婚約者かもしれないけど、保護者じゃない。何故なら俺も未成年だから。俺たちが同じベッドで寝てても怒られないのはそのためだ。子供同士だから。第2に、俺は男だから女のことはわからない。第3に、そういうことを質問されるだけで軽いゴーモンだ」
サクヤが目をぱちくりした。「そうなの?」
「何がそうなの?なんだ」
「最後の答えよ。なぜゴーモンなの?」
「俺は未成年だけど、身体は一人前なんだ。君と一緒に過ごしながら、君を傷つけないよう必死なのに、そんな核心をついた質問を・・・」
「つまり、エクルーは私の聞きたい質問がわかっているのね」
「だいたい想像がつく」むすっとして答える。
「ふうん。そして、多分答えも知ってて、でも教えたくないのね」
エクルーはふーっと長いため息をついた。
「例えば、君が医者に当分アイスクリームとチョコレートは禁止だと言われたとする。そんな時に、友達がチョコ・ファッジのおいしい店の話を延々しだしたら、どんな気持ちがすると思う?」
「当分ってどのくらい?」
「え?」エクルーは面食らった。
「当分、アイスクリーム禁止ってどのくらいなの?」
「さあ?5、6年かな?」
「5、6年ね。わかったわ」
「わかったって何が?」
「私の知りたかった答えよ。5、6年待てば、エクルーをいじめずにこういう話ができるようになるのね」
エクルーの顔が、首から耳まで真っ赤になった。くるりと背を向けると、テントを出て行こうとした。
「待って。結局、いじめたことになっちゃったの?怒らないで」サクヤが腕にしがみついた。
「怒ってない。だから腕を放してくれ」目をそむけて、なお外に向かおうとする。
「イヤよ。エクルーはぷいっと消えちゃうと、いつまでも帰ってこないじゃない。それに赤くなったエクルーってかわいいんですもの。顔を見せて?」
「かわいいとか言うな」相変わらずそっぽを向いている。
「どうして?自分の言葉で恋人を真っ赤にできるっていい気分だわ。何だか悪い女になったみたい」
「9歳の悪女かよ。勘弁してくれ」エクルーがうめいた。
「もうひとつ質問があるの。”めくるめく快感”っていうのは、この間習ったプロセスのどこで起こるのかしら?」
「勘弁してよ」エクルーは頭をかかえた。
「あれから色々テキストを読んだんだけど、どこにも書いていないの。チェンに借りたロマンス小説にもはっきりしたことは書いていないし」
エクルーは目を眇めて、精一杯批判的な顔をした。
「興味シンシンだね。でもこれは、食べたことのないアイスクリームのフレーバーなんかじゃない。場合によっては命にかかわる問題だ。真面目に扱うように」
「だから、マジメに興味をもっているのよ」
エクルーはふーっとまたため息を吐いた。
「じゃあね、目を閉じて」
サクヤが目を閉じると、エクルーは背中に手を回してマジメにキスをした。 目をぱちっと開けたサクヤに、「どんな気持ち?」と聞いた。
「どんなって・・・ドキドキして、ぽあっと温かくなって、何だか甘い気持ち」
「それだよ。それが”めくるめく快感”。いろいろ種類があるけどね」
「ふうん。何だ。もっとすごいのかと思った」
「実際すごいよ。花火が上がったり、銀河が見えたりする」
「銀河?」
「うん。だから、5年後を楽しみにしてな」
「エクルー、赤くなってないわ。それにゴーモンされてる人の顔じゃない。何だかニヤニヤしてない?」
「そりゃあ、君の方が真っ赤だから」
「本当?」
「5年後が楽しみだな」
サクヤはそう言われてますます赤くなる。エクルーはサクヤを抱き上げて、ほおにキスした。
「その時は、こうやってベッドに運んでやるよ」
「もう。からかわないで。私が子供だからって」
「からかってなんかないよ。初めての夜は、女の子をこうやって運ぶルールがあるんだ。その時、女の子は必ず白いネグリジェを着なくちゃいけない。クマのぬいぐるみも禁止」
「やっぱりからかってる。もういい。スオミに聞いてみるから」
「最初からそうすればいいんだよ」
にやにやしているエクルーの顔をすぐ横からにらみながら、冷たい口調でサクヤが言った。
「エクルー。指摘してもいい?」
「どうぞ?」
「何だかアルに似てきたわよ?」
そのショックから立ち直るのに、エクルーは3日くらいかかった。でも、本当のショックは5年後に来た。
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