海外オケ
2013-10-30 | 日記
鬼が笑う来年のはなし。
何度目か知らないが、明年2月サンクトペテルブルグ・フィルの来日公演がある。
50年にわたり音楽監督・首席指揮者をつとめたムラヴィンスキーの名とともに旧名
レニングラード・フィルとして知られた世界的オーケストラの一つだ。
このオケには思い出がある。
レニングラード・フィルとして来日した1970年の7月11日に福岡公演があって、福
岡市民会館に行った。健康上の理由でムラヴィンスキーが急遽来日を取りやめ、代
わってアルヴィド・ヤンソンスがチャイコフスキーの交響曲5番を振ったが、その
強烈な金管の響きに圧倒された記憶がある。
余談だが、息子のマリス・ヤンソンスはコンセルトヘボウとバイエルン放送響の首
席をつとめる売れっ子ぶり。
まだ東京以外には音楽ホールなど完備していない時代で、これ以前に来福したニュ
ーヨーク・フィルなどは福岡スポーツセンターでの公演だった。バーンスタインが
急な雷鳴で、予定の曲をベートーヴェンの「運命」に変更したことを思い出す。
小澤征爾(副指揮者だったのか?)を見たのもこの時が最初だった。
何度目か知らないが、明年2月サンクトペテルブルグ・フィルの来日公演がある。
50年にわたり音楽監督・首席指揮者をつとめたムラヴィンスキーの名とともに旧名
レニングラード・フィルとして知られた世界的オーケストラの一つだ。
このオケには思い出がある。
レニングラード・フィルとして来日した1970年の7月11日に福岡公演があって、福
岡市民会館に行った。健康上の理由でムラヴィンスキーが急遽来日を取りやめ、代
わってアルヴィド・ヤンソンスがチャイコフスキーの交響曲5番を振ったが、その
強烈な金管の響きに圧倒された記憶がある。
余談だが、息子のマリス・ヤンソンスはコンセルトヘボウとバイエルン放送響の首
席をつとめる売れっ子ぶり。
まだ東京以外には音楽ホールなど完備していない時代で、これ以前に来福したニュ
ーヨーク・フィルなどは福岡スポーツセンターでの公演だった。バーンスタインが
急な雷鳴で、予定の曲をベートーヴェンの「運命」に変更したことを思い出す。
小澤征爾(副指揮者だったのか?)を見たのもこの時が最初だった。