日々(にちにち)の生活が御遠忌法要
以前、教区の御遠忌実行委員会に関わっていました。
当時、秋田のIidaさん(寺族ではない方)とご一緒していました。
Iidaさんが会議の中でおっしゃっていた言葉で、とても印象に残っている言葉があります。
それが、「日々の生活が御遠忌法要」という言葉です。
その主旨は、御遠忌法要というと、法要自体がどう勤まるかということに注目してしまうけれども、そこにいたる過程であるところの日々の生活がすべて御遠忌法要なんだというものだったと思います。Iidaさんは、年忌法要などもそのような姿勢でのぞんでいるということでした。
Iidaさんは「日々の」というところを「にちにちの」というふうにおっしゃっていましたのであえてふりがなを入れておきました。
われわれ雅楽会も、秋の法要に向けて日々練習しています。
その日々の練習という過程がすでに法要なのだとおもいます。
matuyanは、法要での雅楽演奏に、失敗ということはないと言います。
確かに、満足できる演奏だったとか、納得いかないとか、こちら側が分別することはあっても、一期一会の法座に失敗ということはないのでしょう。
法要本番の演奏が、上手くいってもいかなくても、そこの向かってみんなで一生懸命練習していったということが、実は一番大切なのかなーなんて思います。
とにかく、法要までの日々を、大事に過ごしていきたいです。
以前、教区の御遠忌実行委員会に関わっていました。
当時、秋田のIidaさん(寺族ではない方)とご一緒していました。
Iidaさんが会議の中でおっしゃっていた言葉で、とても印象に残っている言葉があります。
それが、「日々の生活が御遠忌法要」という言葉です。
その主旨は、御遠忌法要というと、法要自体がどう勤まるかということに注目してしまうけれども、そこにいたる過程であるところの日々の生活がすべて御遠忌法要なんだというものだったと思います。Iidaさんは、年忌法要などもそのような姿勢でのぞんでいるということでした。
Iidaさんは「日々の」というところを「にちにちの」というふうにおっしゃっていましたのであえてふりがなを入れておきました。
われわれ雅楽会も、秋の法要に向けて日々練習しています。
その日々の練習という過程がすでに法要なのだとおもいます。
matuyanは、法要での雅楽演奏に、失敗ということはないと言います。
確かに、満足できる演奏だったとか、納得いかないとか、こちら側が分別することはあっても、一期一会の法座に失敗ということはないのでしょう。
法要本番の演奏が、上手くいってもいかなくても、そこの向かってみんなで一生懸命練習していったということが、実は一番大切なのかなーなんて思います。
とにかく、法要までの日々を、大事に過ごしていきたいです。
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