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あをまる日記

つれづれエッセイ日記ですv

二十年前

2014-06-23 00:22:12 | 前略、いじめられっ子より。
私の居る職場は人の入れ替わりが激しい。
と言うより様々な意味で条件が極端に厳しいので後から入った若者が長続きしないのだ;
なので私のように長く居ると新入社員との年齢差はどんどん開いて行く。(最初のうちはそれでも4~5歳程度の開きだったが、ここ数年は20歳以上年下の新人がガンガン出入りする状況になっている)
一昨年も新卒の男の子が入ったがまた辞めてゆき、例年通りの総入れ替えとなった。

彼は一年以上居ても全く仕事が覚えられず苦戦を重ねていたようで、ある日書類の端っこに鉛筆で「もう辞めます」という走り書きを残し姿を消した。
今どうしているのかは知らない。こういう消え方をする男の子もそう珍しくはない;実のところ過去何度も遭遇している。

彼は発達障害だと聞いていた。
元々ある程度の適性が必要とされる職種ではあるが、それを差し引いても彼は極端に「指示の意味が理解出来ない」ようで、随分その事に苦しんでいたと思う。

そんな事情もあってか彼はウチの職場に来る前に居た学校でも随分と差別的な待遇を受けたと言う。
高い学費を払っているのに講師は物覚えの悪い彼を別室に隔離し、まともな授業も受けさせなかった、とか。
それでも彼は学校を辞めるでもなく卒業まで在籍した。

「根性で最後まで頑張った」というのとは違うように思う。
どんな学校だろうと「そこを卒業する」以外の道や選択肢を探せる力が当人に無かったのだと思う。かつての私もそうだった。

レールを外れるには担保が居る。
才能、コミュ力、許される環境、選択出来る意思、自信。
何かが無ければ自由に道は選べない。彼の人生には枷が多いのだろうと思う(ただ医師の診断まで降りていながら周囲が対策を講じた風で無いのは気になったが)

それでも彼らの倍以上の年齢になってしまうとついこんな台詞が出てしまう。

「まぁ、彼はまだまだ若いし時間もある。これから何にでもなれるし何とでもなるだろう」

そう言ってしまってからまたふと考える。
二十数年前、私も彼らと同じ年で、同じだけ時間があったが可能性は無限に広がっていただろうか?
何処にでも行けただろうか、何にでもなれただろうか?

私は22で一度仕事を辞め、それから何をすればいいのか悩んだ時、既に可能性は有限で一日一日が過ぎてゆく度未来はどんどん行き詰まった。
十代の頃に抱いていた「やりたい事」や「夢」の類はもう消えていて、なのに「出来そうな事」は何も思いつかず自分の限界に気付くしかなかった。
若さ=無限の可能性ではなかった。


私が9歳でいじめられっ子になってコミュ障を発症した時、世界は突如不安と恐怖だらけに変わった。
教師や大人は「ここ(学校)で馴染めないようじゃ君は世間では生きて行けないよ」と事あるごとに言った。
子供は恵まれているんだ、外は学校のように甘い場所じゃないんだと。
小学校、中学校、高校、専門学校を全て居場所が無いまま糞真面目に通って卒業し、それから二十年以上経つ。

三十代の初めに通った教習所にて学校で聞いたのと同じ終業チャイムの音に幾度も背筋が凍った。
学校という空間に自分を全否定される恐怖は卒業後十年経っても体が記憶していた。少なくとも私の人生に於いては「社会」よりも「学校」の方が怖い場所のままだった。

「外に君の居場所は無いよ」「外じゃ生きて行けないよ」「あの子は普通じゃない」と言われるもそれから二十数年後、「世間様」「社会」に馴染んだ訳でも自力で自分の居場所を作れた訳でもないけれど、とりあえず今生存して文章を打っている。



専門学校卒業後最初についた仕事は条件や会社形態がでたらめだった。所謂ブラック企業。
(それも世間でブラックと言われるワタミや王将に比べても更に非常識なレベルで、その頃の事を話しても酷過ぎて多くの人には信じて貰えない;それは会社でも雇用でもないだろと呆れられた)

二年弱居たその会社が突然消えて、次はビデオレンタルショップに行ったが挨拶や接客が出来ない私は一か月でクビ。
その後居酒屋の厨房に入ったが、説明会当日にいきなり直属上司になるという男性に怒鳴られた。

「おい!おめぇ!こっち来いやぁ!!!ああ?」

なんのミスをした訳でもない初対面の娘をただ「呼ぶ」のに狂ったような怒声貼りあげる中年男性の姿に完全に嫌な予感、いや、嫌な確信がした。
そういう人間の下に入る事。そして初対面の日に「そうして良い相手」として目をつけられた事に一瞬で血の気が引いた。
「この職場はヤバい」と気付いたものの、世間知らずを極めていた私は「雇用を断る」という判断が咄嗟に出来ず;(「三カ月の雇用契約」は「三ヶ月間の雇用をバイトに保障する」意味だと考えず三カ月間は辞めてはならない、だと思い込んでた)予想通りに差別と暴言とセクハラ三昧の厨房で三カ月働いた。

私がここで再度味わったのは「高校入学直後のいじめが始まる時の空気」と同じもの。
「こいつ虐められてた事のある奴じゃね?じゃあ人以下の扱いをしていいんだな?」という共通認識と悪意が殆ど接点の無い周囲の人達の間にまでじわじわ広がってゆく空気は今も思い出すだけでぞっとする。
「対等の人間」と認識している相手にならば通常やらないような態度や発言がさしたる悪意も無く次々吹っ掛けられた。

結局三カ月後にそこを逃げ出した。
人間とみなされないのが当たり前の地獄と化した学校で成人前の長い長い十二年間を暮らし抜いた私の耐性はもう失われていた。

けれどそれはそれでいいんじゃないかとも思う。
学生だった私が別に強かった訳じゃない。選択肢が「死」か「登校」しか無かっただけのこと。
そんな環境を受け入れ続ける「強さ」なんて持つべきじゃない。持たなければ生きられなかった事の方が間違っているのだ。


成人してから十年位は頻繁に学生時代の夢を見た。(今もたまに見るが)当時の記憶を詳細に詳細に思い出しては凄まじくうなされた。
心理学によるとこれは「心の傷の回復過程」の症状なのだと言うが、何となく分かる。

回復したからこそ、「人間である事」を取り戻した魂が過去の人生を激しく拒絶する。

「人間」があんな仕打ちを受けてはならない。
「あの子」は長い間あんな人生を送ってはいけなかった筈だ。
そんな当時は正面から目を向ける事の出来なかった、持つ事の許されなかった「理不尽への怒り」が夢の中で解禁されて汗だくになり、過呼吸のようになり、涙塗れになる。そういう事なのだ。
(この症状は10年ちょっと。学生やってた時間と同じ位の期間続いた)


「人として」耐え難い環境ならば辞めたっていいのだ。

今でも後悔してるのは、説明会の日に引き返せず、結局三カ月も行ってしまった事だ。あの期間にまた山のようなトラウマを貰った訳だし;

汚らしいメタボ親父に毎日ぴったり背後に立たれ、舐めるように眺めまわされながらここぞとばかりに体型をからかわれた。
短期間バイトなのにあれ程執拗に体つきや容姿を話題にされ続けた時期は無かった。
22だった私は容姿体型をからかわれ性経験の有無を大声で問われ、年齢の高い女性は同年代の男性からも執拗に「おばちゃん」「お婆ちゃん」とわざとらしく呼ばれていた。
「女である事」はこんなにも見下される事なんだと知った。

学校にはなかった「辞める」という選択肢があった分「学校」よりも「社会」の方がずっとマシだと思った。
(無論学校をやめるという選択肢もあるし、高学歴から新卒でそれなりの企業へ、という人生送ってる人なら転職という選択肢も簡単ではないだろうが高いレールに乗っていなかったのが却って幸いだったようにも思う)
辞められた、出られた。それは救いだった。


しかし二度のバイトの失敗でもうつくづく外の世界が嫌になり、それから何カ月かは所謂引きこもりになっていた。

ヲタ友達は皆働いていたから平日は暇を持て余しやたらビデオを借りて見ていた。洋画もアニメも沢山見た。
何故かこの時期(20代前半)に見た沢山の映画は忘れられない。
「美しき諍い女」「愛人」「なまいきシャルロット」「膝と膝の間」
映画なんて今もそれなりに見てる筈なのにあの時期の空気と一緒にあの頃見た映画を懐かしく思い出す。
多分「若かった」からだろう。懐かしさというものは楽しかったかどうかが決めるものではないのかもしれない。


あの数か月のニート生活のぬるま湯の中で追い詰められてゆく感覚、あのままハマりきってしまえば行く先は長い引きこもり人生だったろう;
自宅の幾つかの部屋だけが生活空間となり、後ろめたさで溢れ、決して快適ではない筈なのにもう二度とこの生活から抜け出せず、社会に出るのが億劫で怖くて嫌で堪らなくなってゆく。
ぬるま湯の中でじわじわと腐って行く不安感。

それでももう社会には出たくない。

大人には誰にも守って貰えなかったのに十年も休まず耐えて通った学校。
行きたくなかったのに入って1ミリも馴染めぬまま二年通い卒業した専門学校。
そのまま入ったブラック会社。
周囲から浮いてあっさり首になったバイト。
さらに耐え難い思いで通った居酒屋バイト。
もう「世間サマ」「社会」が怖くて疲れきっていた。
もう学校にゆくのも、親しくない人のいる場所で働くのも嫌だった。
その先のなれの果て、とうとうなるべくしてこうなった、そんな気がしていた。


子供の頃、図書室が好きだった。
友達が居なかったから、というのもあるが、本が好きだった。
読むのも好きだったが、読み切れない程本棚に並ぶ背表紙を眺めて歩き回り、年季の入った装幀の下にどんな世界が広がってるのかをただ想像するのも好きだった。
レンタルビデオ店員をやっていた一か月間、接客は上手くこなせず、バイト仲間にも馴染めなかった私は返却されたビデオを棚に戻したりと整理作業をしながら並ぶパッケージを眺めて内容を想像したりと、小学校時代の図書室と似たような過ごし方をしていた。
人間は年を食っても中々変わらないのだ。

しかし母は長期ニート生活を許さず私を強引に家から叩き出し、もう二度とやらないと決めていた筈の最初に就いていた職種に再び舞い戻り、結局そのまま居ついて20年以上経った。
世間に対し一応職を持って長年働いてる、という格好は保ちつつ、何とか現在まで生きてきた訳だ。

「同じ仕事を長くやってるのは偉いね」などと言われる事もあるがそれは「たまたま」だ。結果的に長期居座れる場所があったからに過ぎない。
私は別に「更生」した訳でも何でもないのだ。


昨年書き置きを残して辞めた彼は20年前の私と同じだ。

まだまだ若く、人生はこれからたっぷりと長い。
長いけれど可能性は有限で、多くない選択肢の中で行く道を探さなければならない。
両親とも大変仲が悪いそうで、一刻も早く経済的に独立し家から出たいと言っていたが、当面は難しい気もする。

でも彼に適性のある職場、彼の生きる場所。見つけて欲しいと思う、これから幾度かは転々とする事にはなるかもしれないが。
「世間」は甘くなくても、少なくとも「学校」よりはずっと広い筈の場所なのだから。







【追記】
自分で書いておいて気になったので一応追記です。
過去の上司の事を「汚いメタボ親父」とかなりキツい表現をしていますがこれは他人の容貌をどうこう言いたい訳ではないです。
(若く美しい男性なら文句が無い等の意味でも当然、無い)自分が相手より美しい訳でも何でもない、つまり「どう考えても他人の容姿を堂々とネタに出来るような外見の持ち主ではない」筈の人が(普通に考えれば22の娘よりもマシな外見などではありえんだろう。無論身目麗しければ他人を馬鹿にして良い訳でもないが)「自分は男なので当然品評する側の人間」という思いあがりの理不尽さに対してこういう書き方になりました。

海の天使 (その2) 孤独な芸術家

2014-03-21 19:16:23 | 風と木の詩

まだJUNE本誌が刊行されてた頃に連載していた風と木の詩の続編小説「神の子羊」
竹宮先生の構想の中では初めから「ジルベールとセルジュ物語」と「ジルベール亡き後セルジュの生涯」の二部構成だったという事で、ストーリーの後半部分が小説になったものだそうだ。

無論当時興味を惹かれて連載中に読み始めたものの、本人達が直接出て来るのでなく彼らの子孫の話なのと、そこに描かれたセルジュのその後の人生は、漫画本編の強く真っすぐなセルジュ像からかけ離れていて何やら痛々しかったのとで途中で読むのを止めてしまった。
そしてその後図書館や書店で見かける機会も無かった為、今も読了出来ていない。
なので現在の私が知ってるのは物語序盤の基本設定とネットで拾い読みした幾つかの感想文からの情報程度です。

ちなみに私が把握しているのは

===============
舞台は「風と木の詩」から数代後の世代(孫かひ孫くらい?)
セルジュは作曲家、ピアニストとして後世に名を残していた。
ヒロインのフランは学生で、夏休みのリポートだか卒論だかの為に、音楽家セルジュ・バトゥールの軌跡を追っている。

他にはバトゥール家の子孫アンリとカールの子孫ヴィクトール、二人の少年が登場し、主人公はこの3人である(少年二人は途中恋仲になったりもするようだ)

バトゥール家に残されたセルジュの書簡や遺品を紐解いて行くと現れる「ジルベール」という謎の存在。
コクトー家の家系図にその名は無く、あるのはセルジュの懐中時計の中にある精密な肖像画と、書簡などに度々現れる名前のみ。

主人公達が当時の関係者の子孫を訪ねたりしつつ物語はミステリー仕立てで進む。
(ベートーベンの「不滅の恋人」を思わせる。激しい内容の恋文が残されているものの結局誰だったのか、何故その手紙は出されずにいたのか、解明していないらしい)

やがて明らかになる「風木」後のセルジュの人生。
セルジュが結婚したのは風木序盤、街でセルジュのピアノに拍手し去って行ったジルベールそっくりの少女イレーネ。
再会で一目惚れしたセルジュは彼女を妻にし、やがてジルベールそっくりの息子が生まれる。
息子を溺愛すると共に妻に無関心になり夫婦仲は冷え切った。
十年後セルジュはその息子をも置き去りにし、妻子を捨てて放浪の旅に。
最後はラコンブラード学院の音楽教授となり40代後半に死去。
なんかその間にも美少年を恋人にしたり色々やってたらしい。
芸術家としての名声は高かったが反面孤独な人生だった。

===================


↑まぁこんくらいです。

途中、夢の中で当時の人物達が続編の主人公達に語りかけて来たり映像を見せて来たり、というシーンもあったかと。
パットが万感の想いを籠め、心の中でセルジュへの愛を呟くシーンと(後に彼女は別の男性と結婚。パットを選んでいればジルを失った後にも真実の愛に満たされた幸福な人生への道はあった、って事でしょう)
夢に出て来たジルベールに主人公の一人が「オーギュの日記に書いてあったけど、君は本当にセルジュに殺されたの?」
と尋ねたら「なんでセルジュが僕を?」という反応をされ、かつて言葉に出来ない程の深い時間があった、と告げられるシーンがあるのも見た。


最終回の後パットと結ばれなかった、という部分だけでもう相当痛々しい;
聡明で情熱的で、セルジュと共鳴出来る知性を持ち、ジルとの一連の出来事と傷全て理解し受け止められる女性。
自分の中であの悲痛なラストの一縷の救いは「この後の人生はパットの愛が支えてくれるんだろう」という部分だっただけに。

でもセルジュがパスカルの家を訪問し大家族の団欒を見ながら、その風景を自身の未来とは遠い物のように感じ、孤独な未来を予感する、というシーンがあり、ジルそっくりの少女イレーネが登場してる以上、初めからパットとの未来は無かった訳だね;
(例え埋まらない空虚や傷を負っていてもパットと結ばれ家庭を築いたならば、彼が予感したような「壮絶な荒野のような孤独な未来」にはなりようがない。あと、まぁ恋愛対象でなかったにせよアンジェリンでもそう悪くはなかったんじゃないかと、少なくともイレーネよりは;)


そういえば「風と木の詩」におけるイレーネ登場シーンは妙に不可解だった。

この漫画には「無駄なエピソード」は他に全く見当たらない。
綿密な伏線で構成されており、登場人物同士の小さなやり取り、短い会話も過去の出来事や後のエピソードに繋がっている。

例えば「ジルベールの髪型」の話。
序盤でジュールがジルの短い髪に触れて「髪をお伸ばしよ、きっと綺麗だろう」と言うシーンがあるが、その後ジルの過去編ラストでオーギュに髪を切って貰うエピソードが出て来る。

ジルの髪が短いのは「別れの日、オーギュに切って貰ったそのままの姿で居る事」がオーギュへの愛と忠誠を示すもので、無論オーギュもそれは監督室から双眼鏡で眺めて知っていた筈。
ジルはセルジュを愛するようになってからその習慣を止めて髪を伸ばし始め、駆け落ち以降はかなり長髪である。

学院編終盤で、ジルの髪が長い事に気付いたオーギュが「髪を伸ばしているな」と(無論その意味も分かってるだろう)その髪に触れようと伸ばした手をジルがスッ、と身を引いて拒絶するという象徴的なシーンがあった。


だから「ジルベールと同じ顔の少女」が出て来る数ページのみが不思議だった。
「イレーネお嬢様」と、それとなく名前まで登場するのにその後一切出て来ない上、セルジュも一度たりと彼女を思い出さないまま物語が終わる。
だからたまに読み返したりすると「あれ、そういえばこんなシーンあったっけ。結局何だったんだろ?」と違和感を感じる程だったが、後のセルジュの嫁と聞いて納得。

彼女がこんな存在感のない描かれ方なのには勿論意味がある。
逆にセルジュとパットの出会いは鮮烈で、印象的な言葉が交わされ、パットはセルジュに恋してガラリと美しく変化して見せる。
そして後日、学院にやって来たパットを見たセルジュは頬染めて喜ぶ。

一方イレーネはセルジュのピアノに拍手し、優雅にお辞儀をして去って行くだけ。
二人の間に「言葉」は一切交わされない。セルジュも「ジルベールかと思った、彼の事ばっかり考えてたせいかな」と思うだけでその後全く思い出さない。
「神の子羊」にあるセルジュの書簡にも、アルルでのイレーネとの出会いを「その時の事を僕は覚えていないんだけど」とある。

凄く対照的だ。

つまり主人公セルジュにとってイレーネは「ジルと同じ見た目」以外何も持たない女性である、という事。
交わし合う言葉、内面や感性も、何一つ触れあえない人。
だから出会いの場面では言葉を交わさないし、当時はジルベール本人が生きていた以上、思い出す必要すら無かった人。

最愛の人を失くした喪失感を、姿かたちだけが似ている女で埋めようとして不幸な結果に転がり落ちてゆく展開は「ファラオの墓」にもあった。

明らかに不吉な恋だとパスカルが必死に思い留まらせようとするも、セルジュは耳を貸さず
「ジルベールとは違うあの屈託ない笑顔さえあれば何もいらない」「自分はイレーネが好きなのだ」と言い張る。

傍目には「不幸なまま死なせたジルの笑顔をもっと見てみたかった」という無念からの願望に過ぎないのが丸分かりだがセルジュは目を覚まさず、結果妻とはすぐに擦れ違いが始まり、ジルにさらに生き写しの息子が生まれた事で夫婦仲は完全に崩壊する。そしてその息子も捨てて家を出た、と。
(実の息子に何らかのヤバい感情を抱いたのが家出の理由ではないか、という読者予想をあちこちで読んだ)
母に見放され父にも消えられたその子もジルと同じ16で不幸な死を迎えたらしい。

夫としても父親としてもダメな男になっちゃってたんだね。うん、知りたくなかった;



パットは、セルジュがジルベールに出会わなかったら…という「if」ルートを握ってたもう一人の「運命の人」だったんだろうなと。

音楽家としての成功は「後世に残る」程でなくても才能に相応しくそれなりに成功しつつ、彼が幼くして失った「幸福な家庭」という故郷を伴侶と共に再び築き上げ、セルジュはアスランのような父に、パットはパイヴァのような母に、という風木本編のイメージのままのセルジュの「もう一つの未来」を抱いてた女性だったのだと思う。
(ジルとパットの会話は印象的で、ジルの美貌も喧嘩腰の態度も一切気に留めず「セルジュの親友なら私にとっても尊敬すべき人だわ」という振る舞い。ジルはジルでアンジェリンにもセバスチャンにも嫉妬はしないのにパットは特別な女性と直感しひどく警戒する)


そして人間離れした美しさを持ち、勉強にも音楽にもあらゆる方面で優れた才能に恵まれながら周囲に理解される事なく(そして当人も自身の才能自体に興味も持たず)歴史からも存在を消されたジルベールの資質は、世界にとって何の為にあったのか。
どういう必然の元にそんな少年が生まれたのか。
その類まれな美貌と才と魂は何だったのか、という問いへの解答が

「後世に残るものとなったセルジュの芸術」であり「彼の一生涯のミューズとなった事」なんだろう。

徹底して世間から隠そうとしていたオーギュの計画通りの人生をジルが送っていれば、彼の運命は「オーギュの個人的なペット」で終わってただろうし(当人にとってどちらが良いか、ってのは別の話だけど。あとオーギュも「彼を見た奴に己を省みてあぜんとさせたい!」とか言ってる割に、理解者が現れると潰しにかかったり、才能開花させる気も無かったり。それじゃ一体「誰が」あぜんとするんだか。「理解者」が多くいなけりゃ誰もあぜんと出来ねーだろ;つくづく矛盾だらけの奴だなー)
「風と木の詩」のストーリーそのものは、セルジュにピアノの才能が無くても恋愛物、青春物として成り立たせられる話だったと思う。
ジルベールに出会って喜び、苦しみ、その感情を音楽にぶつけ、曲を作り、才能が飛躍してゆくという描写が挟まれるのはジルが彼のミューズとなる物語、だから。
(ちなみに他の芸術家といえば詩人オーギュと彫刻家ボナールがいて作中では名声も富も得ているが、セルジュ以外は後世に名は残らなかったようだ)


番外編「幸福の鳩」で「未だ死んだジルベールに捕われ、その喪失を音楽にぶつけなければ生きていられないセルジュの姿」が少し描かれたが、凡人の身として「芸術に魂をぶつけなければ生きられない運命のもとに生まれた天才」「生涯かけて創造し続けなければならない命題」を背負った人間に憧れる気持ちは無いではない。

けど、「風と木の詩」で「わが梢を鳴らす風」、ミューズジルベールを失くした後の激しい喪失感の中の彼の人生を思うに、
生涯芸術に打ち込むべき運命というものは、これ程の孤独を背負っているのだ、と思うと羨む気持ちは薄れる。

凡人でいーや;



海の天使 (その1)

2013-12-15 01:23:39 | 風と木の詩
竹宮恵子「風と木の詩」は、三十年以上も前に発表された、今も色褪せぬ名作少女漫画である。
私の中で他のどの漫画とも別格の位置にあり語りたい事がやたら沢山あるので、今後それを少しずつ書いてゆく事にする。
ちなみに他の漫画や映画等に関しては一応読んだ事の無い人向けに作品解説を交えて書いていたが、このカテゴリ内の記事は全巻読破済みの人向けなのでネタばれもあるし、説明等足りない部分もあるかと思いますが御了承を。

まず最初は私が数年前から始めた「洋風建築の写真を撮る」という趣味にハマる理由となった場所『海の天使城(ケルビム・デ・ラ・メール)』について。
いつも心の何処かでこの城に憧れつつ撮り貯めた洋風建築の写真と共に語ってゆきます。


風と木の詩の舞台と聞いて多くの読者が思い浮かべる場所といえば、まず物語が始まる場所であるラコンブラード学院だろうか。
そしてもうひとつ挙げるなら作品世界を象徴する舞台でもあるジルベールの故郷「海の天使城」だろう。
作中でこの城が舞台となるのはジルベールの生い立ちを描く過去編と、オーギュに招かれてセルジュが訪れる夏休み編の二回。

「海の天使城」はその名の通り、マルセイユの海に面して建つバロック調(多分)の華やかな城で、周囲は外門、中門、内門で仕切られた広大な私有地となっている。
美しく整えられた豪華な庭園の外には、大理石の彫刻やギリシャ遺跡風の東屋が点在する深い森が続いていて、その広さは訪問客が外門でうっかり馬車を降りてしまうと延々城に辿り着けず迷ってしまう程である。
鬱蒼とした霧深い森の自然と優雅な城と幻想的な庭園、海までを備えた一つの閉ざされた世界。


この作者さんの特徴として、美しいもの、真っすぐで無垢なものを描く為にその何倍も醜いもの、残酷な現実を描いてそれと戦う姿を見せる、というのがある。
夢のようなものを際立たせる為、抗い難い現実の生々しい残酷さをこれでもかと描写し、美しいものの儚さを読者に焼き付けるような。
歪んだものを執拗に描くからこそ真っすぐなものが際立ち、徹底的に影を描くからこそ光に強烈な存在感が生まれる。

天使の如き美しさを持つ幼子が、世俗と切り離れ閉ざされた華麗な世界で無垢なまま成長する、という夢のような耽美世界は、それとはかけ離れた世俗と大人達のエゴイズムによって生まれた。

かつて海の天使城は大富豪の一家が住まう城だった。(だからその富に相応しくデカく作ってある)
が、その跡取り息子ペールは性欲を抑えられない性質で、好みの幼い男の子を捕まえては性犯罪を繰り返していた。
このままでは家名が傷つくと懸念した父親は最悪の対策を取った。
親の責任として何が何でも息子の行為を矯正させるのではなく「体面」「世間体」を第一に守る為、息子の悪質な性欲のはけ口にしても問題の起きない、つまりは「文句を言って来る大人や保護者の居ない」孤児の中から息子好みの子供(オーギュ)を選び出して養子として引き取り息子に玩具として与えた。
何も知らずにやってきた子供は屋敷に到着するなり義兄に犯される。(オーギュの顔を見るなり襲いかかる義兄の描写から見て、義弟が自分に買い与えられた玩具である事は事前に知らされていたようだ)

それからの長い年月、閉ざされた広大な私有地の中救いの手も無く、そこにいる全ての大人達に黙殺されながら義兄と、彼の友人であろう複数の「同好の士」と共にその仕打ちは行われ続けた。
やがて義兄ペールは美しい妻と政略結婚するが、相変わらず性的興味はオーギュのみに向けられ続けた為若い妻は腹いせに大嫌いなオーギュを誘惑、不本意にも一発必中で妊娠。そうして生まれた不義の子ジルベールは彼を産んだ母を始め大人達全てに疎まれ、家人達は全員赤子を置き去りにその城を逃げ出した。

家人が去った抜け殻のような城に捨て残された子供は扱いに困った従業員達に遠巻きにされ、衣食住だけは与えられたものの後は完全に放置されたまま育つ。
自分が生まれた理由も、子供は大人が育てるものだという事も知らず、広大な森と海の自然の中で動物を父と呼び、唯一自分を抱擁してくれる毛布を母と呼びながら野生児のように独りの世界を築き上げる。

家人に放棄されたとはいえ元々大富豪の本宅であり、従業員は大勢残されたままだから管理は行き届いていて常に夢のような美しさは保たれている城と庭。
(装飾過多な大邸宅や彫刻の並ぶ庭なんてもんは、それなりの人件費を使ってこまめなメンテナンスをしてなければあっという間に見苦しくなる。今まで撮影しに行った場所がメンテの甘さで廃墟化してた例は実際腐るほどあった。草花が伸び放題になれば瞬く間に建物を侵食するし、装飾が細かければ埃が積りクモの巣が張る。雨に打たれた彫像は黒ずみ不気味な姿に変わるもので;)
この辺の設定も良く出来てると思う。

そしてジルベールが11歳の頃、海外に逃げていたコクトー夫妻が帰国し、彼らの体面と都合の為に、ジルベールは守るものもなく世間に放り出される筈だったが、オーギュがコクトー家の過去をネタに莫大な金の動く取引を行った為ジルベールはオーギュの母校である寄宿学校へ入れられ、そして海の天使城は彼が(学院卒業後からオーギュが死ぬまでの)生涯を送る為の故郷としてそのまま保たれた。

全てを知る大人達の目線で描かれる「ジルベールの過去編」と
何も知らずに初めて訪れたセルジュの視点で描かれる「夏休み編」では、城の印象が結構違う。

過去編でも十二分に幻想的であり耽美的ではあるが、オーギュの過去を知る古参の執事や噂好きのメイド、野卑な清掃員、
時折訪れる社交界の友人や編集者など、大人の顔が良く見えたし世間の噂や声もよく描かれたが、夏休み編は多感で純粋な少年の目線で描かれるので一層幻想的でセルジュは「まるでおとぎの国だ」と素直に感嘆する。

過去編では5年ぶりにマルセイユに帰還したオーギュ一行を従業員達が玄関に勢揃いして出迎えるが、夏休み編でセルジュを迎えるのは見慣れぬ執事一人。
「夕食の支度で皆手が離せないので自分一人が出迎えた」と告げ、マルセイユでの日々は静かに始まる。

通常こういうシチュエーションならば、主オーギュが客人セルジュをもてなす「初日の晩餐」シーンが描かれるものだろうが、夏休み編で繰り返し描かれるのは光射す明るい食堂での「朝食」シーンのみで、過去編とは対照的に「人の気配が無い城」として描かれる。


過去編では、オーギュがコクトー家に引き取られた頃から仕えていた老執事が居たが、夏休み編では彼の姿は無く、存在感の無いモブ顔の執事と入れ替わっている。

夏休み編では、海の天使城という世界がもうオーギュの持ち物として完成されているので、彼のように一応の「顔と人格」を与えられた大人のキャラクターは既に不要であろう。彼はもう作中での役目を終えたのだ。
(二人が到着した時にモブ執事が出迎え、ジルベールに「お前誰?」と尋ねられるあのやり取りは「彼はもう居ないよ」と読者に知らせる為のものですね。ストッパーになりそうな彼が居るんじゃセルジュへの凶行も難しかったろうし、多分ロスマリネへのアレを実行した頃にももう彼は引退していたんじゃないかと思う)

例えばセルジュが訪れた時も過去編と同じよう従業員が玄関に勢揃いして二人を出迎え、メイドさん達が忙しく働く晩餐シーンが描かれたら夏休み編のイメージは随分違ったものになっただろう。
(普通に考えれば初日は3人で夕食を取ってる筈なんだし、夕食時に執事一人って事は無いだろう。静かなイメージ作りの為に描く場面を選んでるのですね)

過去編では海の天使城という世界の重い成り立ちが大人の目線で描かれ、夏休み編では既に完成したその世界を改めて、家具装飾や外の景色までを第三者の視点で幻想的に描き直す。
浮世離れした美しい世界が描かれる夏休み編が私は特に好きなのだ。
風と木の詩はほぼ全般、主人公達はオーギュお得意のモラハラ臭い駆け引きに苦しめられているが、ここではオーギュのターゲットがセルジュのみに絞られている為ジルベールは何も知らずただ楽しそうなのもいい。
…ただ、ここでのジルベールの幸せは
「愛する者を側に置いてお互い幸せ」的な真っ当な愛情から与えられたものではなく、あくまでオーギュの対抗意識、「俺がちょいと呼び戻して満たしてやるだけで、コイツは簡単に幸せの絶頂になるんだよ、そらどうだバーカバーカw」的な「別のターゲットに当てつける」流れで生み出されてるので、それはそれでイヤなんだけど;
(何しろ「こんなに簡単にいつでも出来る」事を「あえて」やらず、今までにジルベールを執拗に追い詰め、自虐行為に追い込んでた事が一層浮き彫りになるからね)


初めて訪れたセルジュが「おとぎの国」「神秘の巣」と呼んだこの城。
ただ夢のように綺麗だったから惹かれた訳ではない。
主人公達は何も知らないが、読者はその影にある世俗の深い闇を知っている。

おとぎの世界とはかけ離れた世俗の闇の上に築かれながら、世俗から隔離された幻想世界。
エゴイズムと憎しみの中から産み落とされながら世界の汚れに染まらない無垢な魂、ジルベールがまだ外界を知らなかった頃を象徴する地。

「光」と「影」が立体という存在感を作り出して、それが一層儚く美しい世界となって、30年経っても消えない憧れを生み出す。

それを自分の日常から切り取りたくて、私は今も自分の周囲の風景にデジカメを向けている。


イワン・ツルゲーネフ「はつ恋」

2013-07-21 23:06:21 | マンガ、映画、書籍等
ロシアの古典文学「はつ恋」に初めて興味を持ったのは、昔BSで放映していた「名作平積み大作戦」というTV番組を見てからだ。

現在では書店で本棚の隅っこに配置されがちな古い名作書籍を、タレントさん達が思い入れたっぷりに紹介してくれる番組で、当時とても楽しみに見ていた。

必ずしも小説の内容を正確に紹介してくれる訳ではなく、各人の偏った解釈や思い込みが投影される事もあり、それも含めて面白かったのだ。
BSマンガ夜話や熱中時間などもそうだが、編愛するものへの思い入れを表現に長けた人の口から熱っぽく語られるマニアックなカラーの番組は楽しくて大好きだったので、いつの間にか終わっていたのは残念だった。

十代の少年が魅力的な年上の女性に出会い、人が人生を狂わせてもゆく出来事から「これが恋なのだ」と学んでゆく苦悩と歓喜のジェットコースターが、瑞々しくも詩的な文体で描かれているこの作品、機会があったら読んでみたいなと思っていた。


しかし実際に読んだのはそれから5~6年も経ってからだ。
きっかけはPBCという遊びの経験談を書いた前回の記事↓に出て来る私のヴァーチャルでの片思い、だった。

(PBCなりきりチャット http://blog.goo.ne.jp/aomaru05/e/d89581fcd4f4376b91fe9d863a94ec7a)


かつてTVで紹介された「はつ恋」のヒロインと私の片思い相手。そして主人公と自分がどこか重なって感じられ、ふいに強烈に読みたくなって図書館に予約を入れた。


けれど最初に渡されたのは、何故か作中の有名な場面のみを抜き出して挿絵を添えた薄い絵本だった。

「こういうのじゃなくて、ちゃんと全文載ってる奴です」
とすぐに伝えたが、何とか本を手に出来たのは随分日が経ってからの事だった。他の図書館から取り寄せる形だった為に時間がかかったらしい。
渡されたのは「世界文学全集 ロシア編」と印刷されたやたら分厚い本で、多分どこかの図書館の目に付きにくい棚にでもずーっと置かれていたのだろう。紙は随分煤けていて「はつ恋」はその巻末に収録されていた。

片思いとは、自分のものにならない人に囚われてしまう残酷な事象。
それは恋に置ける普遍的なテーマの一つであり、青春の入口に立ったばかりの純真な少年の目線で描写される瑞々しさと無駄の無い構成はまさに古典そのものだった。

だから後世インスパイアされた作品やパロディ的作品も多く作られたのだろう。「完成された古典」とはそういうものだ。

「はつ恋」はこんなストーリー。(以下ネタバレあり)


プロローグは中年紳士達がパーティの後に歓談している場面。
初恋話でも披露し合おうか、と盛り上がっているものの、メンバーの誰からもこれといったエピソードは出て来ない。
「君には何か面白い話は無いのかね?」
と、独身男性のヴラジーミル氏に話を振ると彼は
「この場で全てを語るのは難しい。語りようによってはただ平凡な、もしくはスキャンダラスなだけの話になってしまうかもしれない、だから後日メモ帳に纏めて持参する」
と言う。
後日、彼は約束通り一冊のメモ帳を置いてゆく。そこには彼が16歳の頃の初恋の記憶が綴られていた。
その内容が本編となる。

語り手のヴラジーミルは現在も独身であり、その初恋の女性は簡単な言葉では語りきれない存在であり、そして後日長い文章で綴られた初恋の女性を語る言葉の一つ一つは、激しくも瑞々しい。
その激しさは、彼女の影が酒の席語るべき甘酸っぱい(もしくはほろ苦い)過去の記憶、といった類のものではなく、現在の彼をも未だ強烈に捕らえ続けている事をを示している。

16歳の夏、ヴラジーミル少年は父母と三人でモスクワの別荘にいた。
長く自由な時間の中で自分の青春に、人生に何かが始まる不思議な予感に震えながら。

そしてある日突然それは始まる。
木陰に佇む一人の女性を見た瞬間雷に打たれたように魅入られ、少年は恋に落ちた。彼女は隣家に越してきた五歳年上の公爵令嬢ジナイーダ。
家が隣同士という事ですぐに懇意になるが、彼女には沢山の崇拝者とも言える取り巻きの男性達が居て、その中で常に女王のように振る舞うコケティッシュな女性だった。
彼女にとって自分に恋する男の存在など見慣れた日常に過ぎず、新たに自分の崇拝者に加わった少年も言葉でからかってみたり王様ゲームに参加させて御褒美にキスしてあげたりと、自分のオモチャのように気楽に振り回す。

そんな形にせよ、側に居られる時間はとんでもない幸運に思え、少年は輝かしい恋のときめきに浸る日々を過ごす。
(これはなんか分かる。純愛を弄ばれたといえばそうなんだけど、崇拝レベルに惚れると「これも有り」なんだろうなぁと。気持ちを理解してくれた上で「自分の物」として扱う相手が何より優しく感じたりね)

映画や漫画のヴラジーミルは、大概金髪美少年なんだけども(確かにその方が絵にはなる)前述の「名作平積み大作戦」では紹介者に「彼はえなりかずき君とかで良いと思うんですよ」とコメントされていた。私も同感である。

ジナイーダの一挙一動に全力でゴロゴロ転がされ「私の為にそこから飛び降りてごらんなさい」と言われれば高い塀からも迷わずに飛び、「こんな事が出来ちゃうなんて、俺凄ぇ!恋って素晴らしい!」と歓喜したり、子供扱いされれば傷付いてボロボロと泣き、別れ際の「僕は永遠に貴女を尊敬し愛します」という幼い誓いを現実としてしまう…
ヴラジーミルの外見描写は皆無に等しいが、彼のキャラクターからは、確かに子役時代のえなりのような素朴な容貌を連想させる。

そんなある日、ジナイーダの様子が変わる。
傲慢で、時に残酷で活き活きとした女王だった彼女が酷く物憂げになり、深い苦しみに囚われているように見える。
それまで誰のものでもなかったジナイーダが誰かに恋をしていた。

大変な事になった!相手は誰だ!軍人のアイツか、イケメンのコイツか!と、取り巻きの男達を探りながら心は千々に乱れ、益々全身全霊で想い人に囚われてゆくヴラジーミル。
やがて近所一帯が騒ぎとなって相手が判明する。彼女はヴラジーミルの父親と不倫関係にあった。

(ウィキペディアではこの辺りの話が「嵐の晩に主人公がナイフ持参でその男を待ち伏せしていたらそれが親父でビックリ」となっているが、原作にそんな展開は無く、事情通の召使に聞かされて知ります。多分映画版か何かでそういうドラマティックなアレンジが入っていたのを見た人があの記事を書いたんじゃないかな。原作読む限り主人公は恋敵をナイフで襲おうとするようなデンパではない。何しろイメージキャラがえなり…;)

この父親、そんなに長く出番がある訳でもないんだけど「ああきっと女性にとっては抗い難い魅力があるんだろうなー」というキャラクター。
財産目当てで年上の資産家の女(主人公の母)と結婚した上で浮気を繰り返しているイケメンさんで、この騒ぎで起きた夫婦喧嘩の際もあれこれ言い訳を繰り返した挙句に最後は逆切れして妻の年齢の事を罵ったりと、所謂善人の類では全く無い。

最後若くしてこの父は亡くなるのだが、主人公曰く「自分の短い寿命を知っていたからこそ、父はあんなにも刹那的に生きていたような気がする」と。
…あー何か、若い娘を恋に狂わせる要素を色々と身に纏っていたんだろうなと。
「私に服従するような男に興味はない。興味があるのは私を支配出来るような男だけ」と言い切る女の子にとっては理想通り、もう命の終末すらどこかで悟っているが故に、恋に全力で溺れる事などしない年上のジゴロ。何でも手に入れられた娘だからこそ、決して自分のものに出来ない男に振り回されたんかなーと。

この騒ぎによって主人公一家は遠くに引っ越す事になり、ジナイーダとの別れの日「例え貴女が何をしようとも僕は貴女を尊敬し、愛します。永遠に」と告げ、彼女からの深い別れの口付けを受ける。
女王のようだった女性が輝かしい未来を投げ打ってまで、決して幸福にはなれない相手に身も心も捧げてしまう。これが恋なのだ、とヴラジーミルは思う。

その後、引っ越し先の町でジナイーダと父の密会を目撃する。どうやら諦めきれない彼女と父の別れ話が拗れているらしい。
父はジナイーダに「貴女はもう思い切らなければならない」と告げると、彼女に向かって馬用の鞭を振りあげる。まさか?と思う間に父はその鞭で彼女の白い腕をぴしりと打ちすえた。
覗き見ていたヴラジーミルは凍りつくが、ジナイーダは跪き、自らの腕の傷にうっとりと口付ける。
あのジナイーダにこんな事の出来る男が居る事に、あの誇り高い人が鞭打たれるような仕打ちを許す事に、愛する人が与えたものなら痛々しい傷ですら愛おしむ献身に、ただ衝撃を受ける。
彼女のこの時の姿を決して、決して忘れる事は出来ないだろう、そうか、これが恋なのか、と。

ヴラジーミルは戻ってきた父が鞭を持っていなかった理由を、素知らぬ振りで尋ねる。
「何処で失くされたのですか?」
父は今まで見た事も無い程の優しさを浮かべた顔で「失くしたのではない」と答える。
「捨てたのだ」と。

それから暫くして父は急な病で他界し、あれから他家へ嫁いだジナイーダもまた、出産後に他界したと知らされる。
(はっきりは書かれないが、ジナイーダが命懸けで生んだのは父の子だったのではないかと想像出来る。全てが16の少年の視点なので、結局大人の事情の細部までは分からないのだ)

結局主人公は終始憧れの女性に振り回されただけで、彼女は一度も一人の男性として彼を振り向きはしなかった。つまり完全な片思い。
ごく単純に出来事を追うなら、片思いの女性が実は自分の親父と不倫してた、ってだけの話なのだ。
だからプロローグ部分で大人になった主人公が、自分にとって尊く大切な青春の記憶が「話しようによっては単なるゴシップになってしまう」事を懸念した訳だ。

一つの事件、出来事にどんな解釈を加えるかは人それぞれで、完全に正しい解釈が存在する訳ではない。

だからこそ誰かに心から惹かれ掻き乱された日々、それが性質の悪い女に傷付けられただけの苦い記憶なのか、それとも己の人生にとって何より尊い真実の恋の記憶なのかは本人にしか決められない。

これが恋愛小説の古典たりうるのは、語り手である主人公の純粋さと敬虔な視線の力だと思う。

鞭打たれ捨てられたジナイーダが、その傷すらも愛しむ程恋に身を捧げたように、ヴラジーミルもまた無垢な心を振り回された日々、心に受けた忘られぬ衝撃の一つ一つまでを尊いものとして恋に魂を捧げたのだ。

自分の出会ったものをどう受け止めるか、それが「どんな経験をしたか」に繋がり人生の意味は変わってゆくのだと思う。



PBC なりきりチャット(後編)

2013-07-06 00:19:28 | ネット関係
しかしそれからは待てど暮らせど「彼」は姿を見せなくなった。
心理的に区切りの付いていた前回とは違い、自分の感情を自覚した後に待つ時間は長く、連絡方法が分かっていながら勇気が湧かず悶々と「彼」の出現を待ちわびていた。

逢いたいと切実に思いつつも、以前「彼」が姿を消していたのは三ヶ月間だったならまた三カ月待ってみよう、などと問題を後回しにしつつ動きの無いプロフィールページを眺めて溜息を吐いているうち、冬に出会った相手と再会出来ないまま季節は初夏に移行していた。

他のプレイヤーに相談すれば、いつも
「最近見かけないけどどうしてるのー?また会いたいなー、ってメールすればいいのに」
というごく真っ当な答えが返って来る。
それに対しデモデモダッテと躊躇を繰り返して呆れられつつも、ある朝漸く近況伺い程度の短いメッセージを送った。

返事はその日の昼に届いた。
自己満足の為の行動だったから、返事は期待していなかったのだが、気付いた瞬間思わず声を挙げてしまい、次の瞬間慌てて周囲を見まわした。


「彼」はこちらの事をよく覚えていた。
「わざわざ声掛けて来たって事は、逢いたいんだろ?いいよ、逢ってやる」
という相変わらず尊大な、そして懐かしい物言いは何カ月も探し続けた「彼」の欠片そのものだった。

その短いメッセージからは再会に乗り気な様子がはっきりと見え、仕事中にも関わらず嬉しさが抑えきれずにそのまま仕事机に音を立てて突っ伏した。
こんな場面での人間の行動は、ありきたりなラブコメ漫画の通りなのだと、この時初めて知った。

架空の世界で、自分の架空の分身が落ちた架空の恋。
でもそれは私にとって二次元ファンジンにハマる事とは確かに違っていた。
結末の決まっていないシナリオが自分の行動ひとつひとつで息もつけぬ勢いでどんどん変わってゆき、心が振り回される。


数日後チャットサイトで再会した「彼」は会えない間に勝手に頭の中で膨らませていた憧れの人とは少し違っていた。
ロールの文体は「ちょっと国語的にどうか?」という下手さがあったり、イメージしてしていたよりも性格に幼さを感じたりと、アレコレと欠点も見えて来たが、だからといって幻滅するという事も無く、寧ろ今までは遠巻きに憧れていただけだった相手の生身の姿が見えて来る度に達成感が湧き、行動するって素晴らしい!近付いてゆくって凄い事だ。と感動にふわふわと浮いていた。

この「彼」との時間のごく初期の頃のわくわくと満たされた時間、世界はとても明るく、とても幸福だった事を初夏の太陽の明るさと共に覚えている。
好きな相手に出会うという事は、突然世界に生きた宝物が現れるという事。
宝物の居る世界と今までの居なかった世界は、景色がまるで違って見えた。


けれどある日を境に、どうやら惚れた相手が悪かったらしい事を散々に思い知る展開となり、幸福感はごく初期の短い期間のみで終わりとなった。
その事は今でも、とても残念に思う。


それは再会が叶って三度目の事。
「彼」と明け方まで過ごした翌朝、寝不足の目を擦りつつ入院中の親戚の見舞いに出かけた。
外の日差しは金色で、車内では松崎しげるの「愛のメモリー」が流れた。(親のCD;)

『美しい人生よ 限りない喜びよ この胸のときめきをあなたに』

初夏の景色の中で明け方までのやり取りを思い出しながら、独特の暑苦しい歌唱とシンプルで古典的な歌詞にうっとりと聞き入った。
けれど楽しい記憶はここまでで、これ以降の長い時間、私の哀れな分身君は長い長い暗い道を歩く事になる。


その日の明け方の「彼」は実は寝落ちで消えていた。
再会してから会ったのは三回、そして寝落ちも三回目だった。要は自己管理若しくはマナーに対する認識が甘いタイプのプレイヤーだという事だ。
とはいえ当時の自分はそれをさして気にしてはいなかった。
過去二回とも、翌日の昼頃に謝罪のメッセージと、次に会った時の埋め合わせを約束する一文を送ってくれていた。
きっと今度もそうしてくれると思っていた。

「彼」はプレイヤーの打ち込む文字の連なりの中にいる。
だからもうじき送られて来るに違いないメッセージを心中の熱で身体がほんのりと温まっているように幸福な高揚の中、今か今かと待ちわびるのは贅沢な時間だった。

親戚を見舞いつつ何度もトイレの個室に行ってはメールチェックを繰り返したが、その日は時間が過ぎても中々来ない。
…そのまま正午を過ぎても、夕方になっても。
期待は不安に容易く変わって行き、夕方6時頃には、薄暗い自室でどっぷりと凹んでいた。

その日を境に「彼」はまた姿を消した。


「彼」…というか「彼女」はつまりそういう人だった。
自身のマナーや自己管理は甘く、その一方で謝罪などのフォローを繰り返すのは億劫(若しくはプライドが傷つく)というタイプの人。

会うたびに寝落ちし、でも何度も謝るのが億劫になった、と。
…それが面倒だから「コイツとの縁はココで終わりで良いや」と考えたらしい。

三カ月以上も前から、私の頭の中は「彼」の事で一杯だった。
再会してからは尚更、寝ても覚めてもだった。

けれどそんな自分(自キャラ)の存在は「一言の謝罪の手間」と比べられ、あっさりと切り捨てられた。
「片思い」という事象の残酷さか、一方的に見染めたのが自分だという事くらいは分かっていたけれど、このあまりにも自分の存在の軽さは辛い現実だった。
片思いの相手としての「彼女」はかなり相手が悪かったのだ。

この後も地の底まで落ち込みつつ、ベソベソ涙ぐみながら色んな人に相談したが、返って来る答えは大抵
「仮に恋人なり何なりになれたとしても、その人相手だと苦労すると思うよ?自分ならやめとくけどなぁ」
と、諌めるものだった。しかしいくら相手が悪いと諌められても他人の忠告などでは諦められない振りきれない、そんな事も漫画や小説や実体験投稿に描写されてるありきたりな描写通りだった。
結局そういう困った人程、その一方で忘れ難い魅力があったりするものなのだ;


ある人の
「一度はっきり告白してみたら?そうすれば振られてもスッキリ出来ると思うよ?」
というアドバイスに従い
「また会えるのを待ってる」
という内容を添えて告りメールを出した。

実の所、出会いの初めから怖気づいていて、「彼」を所謂「高嶺の花」と認識していたので「恋人」に収まる展開よりは、いつかキッパリと振られて終わる、それで良い、それまでの過程を楽しもう、それまでの道程にきっと沢山の楽しい記憶が持てるだろう、とも思っていた。

しかし二度目の「行動」の結果は…
「彼」はそのメッセージに対し「真面目に返答して区切りをつけるべきもの」とは考えず「自分のオモチャが一人増えた」と認識したのか、思わせぶりな態度でのらりくらりと返答を避け続け、その後の長い時間は山のようなストレスやらショックやらに振り回される時間が続き、盛夏の頃は体調共々かなり危うくなっていた。

この年の夏、私は普通に出勤し、普通に働き、普通に外出して暮らしていた筈だった。
夏の蒸し暑さは体感として思い出せるのに、昼間の景色や明るい日差しがリアルに思い出せなくなっていた。
その代わり記憶にある景色は、現実には存在しない筈の夜の街の風景ばかり。
全てが文字の連なりのみで、映像ひとつある訳ではないのに、深夜の街のアルコール臭やネオンや喧騒。湿った都会の路地の空気や「彼」の愛用する香水の匂いまでが、まるで現実の記憶のようにリアルだった。

スピードラーニングのユーザーの「気付くと英語で考え事をしていた」という体験談のように、一日中「彼」の事を考えていた頃は、気付けばキャラクターの言葉遣い(つまりは男言葉)で思考している事が多く、うっかりしていると咄嗟に男言葉が口から出そうにもなり、キャラクターと自分の境界はどんどん曖昧になっていった。

窓の外が暗くなる七時ごろから精神状態が不安定になる。
頻繁にPBCサイトを覗き始めるその時間に「また一日が始まる」という感覚がようやく起きて、精神が現実の生活を置き去りにしてゆく。
「彼」に振り回されるストレスから、空が暗い時間は食物を受け付けなくなり、夕食を度々抜いた為夏バテした;
「彼」が誰かとクローズに入った姿を見れば、その名前表示が消えるまで(時には朝6時過ぎまで)ストレスで一睡も出来ず、
その年の記録的な暑さも手伝って、生活サイクルと共に身体の調子も狂って行く。(サイクルは現在もちゃんと治っていない;)

つまりはこれが「この遊びは危険」というあのPL達の言葉の正しい意味だったのだと漸く理解した。
どうやら私はネット廃人になりかけていた。


……とはいえ、私も「相手が悪い」事には早くから気付いてはいたのだ。
「彼(彼女)」のような人を私は過去に知っていた。

高校時代にクラスメイトで親友だった「Y子」という女の子。(このブログの「親友たち」カテゴリに出てきます)

ああコイツY子と同じ人種だ。
だから深入りするのはマズい。と。

Y子は、彼女と同じ部屋の空気を吸っただけで男性が次々と恋に狂ってゆくような女の子だった。
そして、ごく幼い頃からそれをがっちり自覚して生きて来ていた。
男性のいる大概のコミュニティで常にアイドルだったし、かなりの人数の下僕(としか思えない男性)が常に居た。
会ったばかりの男性に恋をされるのすら当たり前で、自分に恋している人の存在がごく日常的な人生を暮らしていたからか、とても傲慢な部分があった。

自分から遊びの約束をしてはその時の気まぐれで簡単に反故にし、しかも悪い事に、キャンセルを決めた事を相手に言わない。
相手にキャンセルを知らせる為のささやかな手間を、何故かとても嫌がる。
まだ携帯電話もメールも無かった時代、約束した彼女が来ないとも知らずにその場所に出向いた相手が何時間も待ち続けて一日を台無しにしても全く悪びれない。

キャンセルの連絡一本入れる事に屈辱感を感じるらしく、その後私がすっぽかしは嫌だと伝えたら大変に不貞腐れていたし、すっぽかし常習の彼女に「約束の時間を一時間過ぎても来なかった時は帰るからね」と事前に告げたら
「酷い!酷い!親友の私を愛してないのね!?」
と散々食ってかかられ、当日は約束の時間きっちりに来たものの、バッタンバッタン凄い足音とともに大げさに息を切らして現れて「とても酷い事をされた」とばかりに睨まれた;
(や、愛だとか何だとか言うなら、そもそも平然とすっぽかしをやらかす貴女こそ親友を愛してないだろと;)

理不尽に耐えさせ、それで相手の愛情を測ろうとするような人。
それを受け入れて貰えない事こそ理不尽な仕打ちだと怒るような感覚の人。
「彼」もまたそんなタイプのようだった。
いずれも私に限らず、自分を慕う周囲の人間にほぼ同じ行為を繰り返していたし(口約束はほぼスルー、20回会えばうち18回は寝落ちでフォローなし、みたいな;)


こんな子は本来、どこのコミュニティからもハブられて終わりそうなものだが(そして若い時分に周囲から人が消え続ければそういう欠点は必然的に直さざるを得ないだろう)そうはならない。
Y子にしろ「彼」にしろ、それが許される人生を送ってきた雰囲気があった。

私も、Y子に恋する周囲の男性陣も、理不尽な態度に怒るよりも女王様の機嫌を損ねる事を恐れていた。
彼女も自分から逃げないであろう人間を見分けてそうしていたように思う。

だからといって、誰もがその時の気持ちを水に流して忘れてしまう訳じゃない。
関係を壊すのを回避する為に、傷付いた気持ちを飲みこんで押し殺して折れただけの事で、待ち合わせ先で何時間も置き去りにされた挙句悪びれもせずヘラヘラと笑って応対され、私が前夜に着て行く服を選んだり目覚ましを掛けたりしている時、彼女はもうとっくに出かける気が無かったと聞いた時の惨めな気持ちは今でも忘れられない。
当然のように「無かった事」にされながら積み重なった悲しみや傷が、必ずいつか人間関係を軋ませる。

Y子嬢との付き合いは20代の初めまで続いたが、この悪癖は成人しても全く治っていなかった。
私含め周囲が許し続けていた以上反省するきっかけは無かったろうと思う。

「彼」に関しても同じことで、マナー違反の挙句謝罪もせず放り出した相手が、それを責めもせずに後日「告白」して来たのだから、当人にとってそれまでの行動を反省する理由なんか無いに決まっている。


その後他のキャラさんとのやり取りもよく観察していたが、「彼」はやはりY子と同じで自分から気まぐれにアレコレと約束しては、気が変わればそのまま放置で悪びれず、を繰り返していた。

どちらにせよ「彼」の背後の彼女もまた、何らかの魅力故にそれを許されてきた、許され慣れた人間の匂いがした。
それが幸運な事なのか不幸な事なのかはよく分からないが。

ただ私の見た所、「彼」はY子に比べてやや天然さんで、Y子程自覚的な悪意は無かったようにも見える。
Y子は毅然と対応するタイプの人や、自分に好意を持っていない相手にはそれなりの距離と外面を保ったが「彼」は身勝手に振る舞う相手を見極めも選びもしなかった。

だから熱狂的な取り巻き達を長期に渡って振り回す半面、裏では陰口も飛び交った。
そしてそのうちに付き合い始めた本命の恋人とも同じような理由で揉めて破局し、そのまま姿を消した。

(「そうなった理由」は傍目にも分かり切っていたので、一度長々とメールで話し、それに対してあちらも反省を繰り返しでいたが、結局そのやり取りさえまた突然ぷつりと音信が途絶える形で終わった;
半年以上後に「面倒になったとかじゃなく、図星指されて腹が立ったから返事をやめた」と謝罪されたけど…うん。だからね「自分がこう思ったからやめた」って後になってから伝えても理解して貰える、ってその考え方をやめて、相手を待たせる前にそれをちゃんと伝えなさいよ、ってまさにその話をコッチはずーっとしてたんだけど;私も、他の人たちも多分。…話の内容を真剣なように見えて浅くとらえる人のままだったなぁ;)


哀れな自キャラは振り回すだけ振り回されて、結局報われずにその世界に一人置き去られる事となった。


「返事をしなかったり謝らないのは自分にとってはいつもの事で、お前だけにそうしてるじゃない、だからあんまり気に病むなよ」

という、開き直ってるんだか優しいんだか分からない、相変わらずなメッセージを残して(苦笑)




今はほんの時折、気が向いた時ごく少数の決まったプレイヤーさんと気晴らしに遊ぶ程度になり、この遊びにハマり始めた頃の物珍しさも自分の中からは消えた。
元通りキッチリとヴァーチャル世界との距離が出来た今、もうあの数年間のような訳のわからない事態は起きようもないだろうと思う。

始まりの頃のほんの一時以外は、ただただストレスフルでキツい日々だった;
……でも、もう二度とあんな精神状態は味わいたくないか、といえばそんな事もない。


この先の人生で一度でも、また突然前触れも無くああいう事件が舞い降りて来る事があるなら、人生やっぱり面白いなと思う気持ちもあるのだ。




PBCなりきりチャット(中中編)

2013-05-06 18:21:46 | ネット関係
(この記事は本来「後編」になる筈だったけど一回に収まらなかったので変なタイトルになってます;済みません;)



それからまた1~2年経った頃、たまたまごく気楽に参加出来そうなサイトを見つけた。
未成年プレイヤーばかりだった今までのサイトよりも年齢層はやや高いのか、皆文章が整って見える。
無料プロフィール作成サイトの使用が普及し、キャラクター達の容姿や職業といった細部の設定も作り込まれている分、以前よりずっと面白そうにも思えた。
とりあえず自分も同じようにキャラクターの絵を描き、プロフィールページを立ち上げて久しぶりに参加してみる事にした。(プロフは名刺、キャラ画像は写真と呼ばれる)

それまで使用していたのが「内気な青年」だったが故に、あらゆる場面で必要以上に流されてしまった事から今回は「アクティブな不良」に設定。
やがて他キャラとくっついたり離れたりと色々ありつつ以前よりはかなり楽しく遊べたが、誰かを「恋人」にした場合、やはり毎日何通もメールしたり他の人との接触が制限されたりと実生活にも制約が多くなるんだろうな、という気遅れは常にあり、そうならぬよう一応注意深く行動していた。
やはり私にとってPBCは気晴らしや暇潰しであり、現実との境目が見えなくなる程のめり込んだり、まして現実の恋愛感情に準ずるものではあり得なかった。

その頃、遊ぶのと同時に情報収集やマナー習得の為に2chの専門スレも頻繁に覗いていたが、そこでこんなやり取りを見つけた。

「私のダーリンがクローズ(鍵がかかる為、他人からログが見えないチャットルーム)で誰かと会ってる。辛い、苦しい」
「落ち着け、冷静に考えろ。ソイツはお前のダーリンなんかじゃない!日本の何処かで携帯打ってるお前と同じただの腐女子だ!」

……その通りだと思った。
クローズルームに二人で入室したところで、彼等(彼女等?)の間で何が起きている訳でもない、文章のやりとりが行われているに過ぎないのだから。


しかし、そのサイトに出入りするようになって2~3カ月した頃の事。

オープンルーム(入室しなくてもログが読めるチャットルーム)に一人のキャラクターが待機しているのを見つけ、初めて見る名前だなと、リンクされているプロフィールページを見たその瞬間、不思議な衝撃を感じ強く惹き付けられた。
貼られている画像は流行のフォトショ絵とは違うややリアルタッチの個性的な絵柄で、ロールも台詞回しも少しアクが強く独特な文体。
容姿も性格設定も口調も好みで、漫画や小説やアニメに登場していればすぐ贔屓にするであろうタイプのキャラクターだった。

オープンルームに一人で待機しているのだから、その人は今夜の話し相手を探しているという事だ。
興味が湧いたなら自分も入室して話しかけてみれば良いだけの話なのだが、何かポカをやって嫌われたらどうしよう、などとせんのない思考が渦巻き何故か動けない。
画面に映る「彼」の動向から目が離せないまま入室を躊躇しているうちに別の人が入室したので、そのまま二人の会話を目で追った。

「彼」はプロフィールの性格説明に「プライドが高い」とある通りのようで、入ってきた相手に満足出来ないとなるや、辛辣な皮肉をさらりと浴びせて華麗に退場し、取り残された相手はショックを受けて暫くポカンと固まった後、無言で部屋から消えて行った。

正直見ているだけヒヤリとした。マナーという面でも実際褒められた態度じゃない。しかし何故か終始全く目が離せなかった。
そして今夜この辛辣な拒絶を受けたのが自分でなくて良かったと、心底安堵した。

目が離せない、と感じたのはこの時の相手も同じだったのか、「彼」にあれだけにべもなく振られたにも関わらず、掲示板でもう一度会いたいと呼びかけたり「彼」を見つければ追い回したりと暫くの間熱心だったが、後日再度恋人にする気は無い(寧ろお前にその資格は無い、というニュアンス)旨を掲示板で告げられて漸く諦めた様子だった。

「彼」がどうやら手ごわい性格らしいのが分かれば分かる程気遅れし、それから数度見かけたは良いものの、入室ボタンを押せないまま観察するだけの日が続いた。
……掲示板での他人同士のやりとりにまで注目していた事で分かると思うが、当時の私は既に半ばストーカー化していたと思う;
頻繁にプロフィールページを覗き、掲示板でのやりとりを覗き、チャットルームに現れればつい、一挙一動に見入ってしまっていた。

やがて「彼」の手ごわさにめげずにアタックし続ける人も他に現れ、一途に追い回す姿そのを見かけるにつれてこちらも焦りが湧いてきた。
このまま「彼」が特定の恋人を作れば、一度も話せないまま姿を消してしまうかもしれない(特定の相手が決まればツールを携帯メールに限定して地下に潜る人も多い)

そうなる前にせめて一回は話してみたい、と思っていたある深夜の事。
もう二時にもなった頃「彼」が一人でいるのを見つけた。
この時間帯になればもう今から入る人はあまりいないだろう。という事は話が出来る絶好の機会でもある。散々逡巡した後、思い切って入室した。
緊張の余り何度もタイプミスを繰り返したが「彼」は退屈して途中で立ち去るという事も無く(これを一番恐れていた)冷や汗をかきながらも会話は弾み、やり取りは明け方まで続いた。
ようやく接した「彼」は外から眺めていた時以上に魅力的に感じ、その時の高揚感、充実感は数日経っても消えない程だった。

しかしそれから幾らもしないうちに「彼」は姿を見せなくなった。
珍しい事ではない、プレイヤーが忙しくなったり飽きたりで会う人が入れ替わるのはよくある事だ。
一度話せた事で満足もしていたし、そもそも何度も同じ相手を追い回す度胸は無かったし、寧ろ一度楽しい思い出の持てた自分の中では、それが丁度良い区切りになったようにも思えていた。


しかし、それからまた三カ月程経った夜。
ずっと見かける事の無かったあの名前があるのを見つけ、思わず息を呑んだ。
別に驚く事でも何でもない。プレイヤーさんに暇が出来て久しぶりに遊びに来たのだろう。

「彼」が復活したという事。それはつまり、また他の人と話したり火遊びに興じたり恋仲になったり(BLサイトなので)という行動を目の当たりにするという事でもある。

それを思うと何故か平静で居られず、どうしよう大変だ!と、半分パニックになった;
……どうやら私の分身(使用キャラクター)は、いつの間にか恋に落ちていたらしかった。

そこにPBCという遊びの不思議さがあった。
夢中になった相手が漫画やアニメのキャラクターならば、そのキャラクターは印刷された紙に、ブラウン管の向こうに描かれた「表現」の中に居る。
演ずる声優さんやらが居ても「その人」自体は架空の存在であり、それを愛するのは二次創作にせよコスチュームプレイにせよあくまでも「一方通行」の形を取る。

PBCのキャラクターも同じくプレイヤーの創作物であり架空の存在ではあるが、「その人」が存在するのはチャットやメールというコミュニケーションツール上での「文章」の中。アニメや漫画とはまた違う場所に居て、「彼」は話しかければ答えるし、誤解や擦れ違いで喧嘩になる事もあれば、キャラクター同士で恋仲になる事もある。
刻一刻と形を変える生身の人間関係の起きうる存在だ。

同人界では俳優やアイドルを対象にした活動を「ナマモノジャンル」と呼んで二次元ファンジンと区分けしているが、生身の俳優が演じている「キャラクター」が対象の時は「半ナマ」と呼び表すらしい。
一方通行ではない。けれど生身の人間関係でもないPBCのキャラクターも、また違った意味で「半ナマ」と呼べるように思う。

印刷されて売られている有名なキャラクターではない。けれど生身で存在している人間でもない。ならどこに存在しているのか。
心を強く動かし揺らした「彼」はプロフィールページに置かれたたった一枚の絵と、誰とも知らぬプレイヤーが打った、時間が経てばどんどん流れて行くログ、文字の連なりの中にしか存在しない。

その頃からその人のログや掲示板でのメッセージ、プロフィールページの日記、新しい文章を見つける度に、そのごく数少ない「彼の欠片」を集めては保存した。「彼」はその欠片の中にしか存在しない、この欠片が彼なのだと思ったからだ。
…もしかしなくてもストーカーである;

そして再び話しかける機会を伺い迷っている間にパソコンが不調になり、修理が終わらぬうちに「彼」は再び姿を見せなくなった。
元々出没が不定期な人だったので予測してはいたが、どうやら惚れたらしいと自覚した以上、今度はホッと安堵という訳にも行かず、クヨクヨ鬱々と再会の機会を待つ事になった。


(次で終わります;)

PBC なりきりチャット(中編)

2013-05-06 18:07:38 | ネット関係
彼女の話を聞いて以来、PBCへの興味がまた僅かばかり再燃したので、早速そのオリジナリとやらが行われているサイトを検索で探すと、登録手続き等不要、年齢やプレイヤー歴問わず、管理人も居ない、というごく初心者向けのフリーダムなサイトがあり、ボーイズラブ専用の部屋も見つけたので早速覗いてみた。
公開されているログを一通り閲覧し、ブランクはあるがこれなら何とか出来そうだ、と判断しとりあえず試しに入ってみる事にした。
まずは他の人達のプロフィールを参考にキャラクターを作成してみるも、以前は版権(既存のキャラクター)で遊んでいた為、即興でオリジナルキャラクターをとなると、どうも勝手が解らない。

周囲のキャラクターはというと、芸能活動のかたわら学生をしていたり、国籍不明の名前に絶世の美貌やら緑やピンクの長髪や紫の瞳の日本人やら…後で理解したが、年齢制限の無いサイト故、集まるユーザーはもっぱら十代。中学生高校生が作成する己の分身ならばそういった傾向になるのは必然だろう;

少女コミック辺りに登場しそうなこのテのリア充キャラは、私にはどうも馴染みが無く(私が十代の頃愛読していた少女漫画雑誌はもっぱら「花とゆめ」…今は知らないが、当時は魔夜峰央、和田慎二、柴田昌弘、美内すずえ辺りが主力作家の、少女マンガ雑誌の名を冠したオタク層向け雑誌だった;)二次創作に於いてもこのテのキャラクターを弄った経験はあまり無い。

ヴァーチャルの世界とはいえ、そうはっちゃける事も出来なかったので、とりあえず無理の無い所で
「年齢は周囲と同世代に、外見はその年代の平均身長程度、普通の髪色に地味目の髪型服装、当時活躍していた芸能人と野球選手の名前を掛け合わせた平凡な名前」
の内気な青年が出来上がった。
オリジナルキャラクター第一号である。

……正直我ながら面白味の無いキャラだが、初心者が試しに動かすのならまぁこんなものだろう。
どうしてもチャットのやり取りには自分の性格が反映されるだろうし、そう自分からかけ離れたキャラではボロが出る。

何度かチャットルームに待機したり他のキャラさんと話してみたりはしたが、自分と周囲はノリも違うし、正直あまり会話も盛り上がらない。
自分には合わない遊びなのかもな、などと思いながらも待機していたある夜、時間も遅いしそろそろ寝るかな、と思った所で珍しく人が入ってきた。
早速相手のプロフィールをチェックしてみる。

名前こそ所謂キラキラ系ではあるが、このサイトでは珍しく平均的な容姿と普通の髪色服装、性格も訳あって暗い、とある。
…コレなら何とかイケそうだな、と思いつつやり取りが始まった。

この先が結構なカルチャーショックだった。
初心者同然で気の小さい私(のキャラ)を相手は何の恨みかと思う程罵倒して来る;
一応ヴァーチャルの世界であり、罵倒されてるのはあくまで「キャラクター」なのだが、文字だけのやり取りとはいえ(寧ろ「だからこそ」かもしれないが)
冷や汗が出そうな時間だった…が、その後展開は二転三転し、明け方近くには「お互いの考えを理解して仲直りし、再会を約束する」という場面に着地し、その日は終了となった。

「遅くまでお付き合いありがとう」とプレイヤー同士の挨拶を交わしパソコンを切ると、漸く緊張感から解放され、長い溜息を吐き軽く涙を拭った。
喧嘩中に使用キャラが泣き出した際、私も連動していたらしい;

ちなみに私にとってそれは別段珍しい現象ではない。
それなりに感情を込めて文章を打つ時はよくある事で、以前二次創作にて「意地を張って長年愛した人と離れ離れに暮らした主人公が、最期の瞬間に幸せだった日々を思い出し、恋人の名を呟きながら死んでゆく」っつーベタな場面を書いてた時などは、側にティッシュの箱を置いてボロボロ涙を流し、何度も鼻をかみながらキーボードを打っていたものだ。

成程「見知らぬ相手」と対峙して展開の読めない緊張感の中で文章を考えて打つ、という作業は中々面白いモンなんだな、と思った。

ちなみにその罵倒君は「誰に対しても基本攻撃的だけど、心に傷を負ってるせいだから理解して包んでね」というスタンスのキャラクターだったらしいが、やはりというか他のプレイヤーさん方には敬遠されがちなようだった(まぁそりゃそうだろう)この時上手く運んだのはひとえに私が初心者だった為、混乱しつつも最後までつい合わせてしまったが故であろう。

その後、どうやらその時の相手に深く気に入られたようで、多少疑問を抱きつつも勝手が分からず、相手に求められるままに携帯番号やメールアドレス等の個人情報を渡してしまい(さも当たり前のように尋ねられた事で、そんなモンが何故必要なんだろうと思いつつもまぁ相手は女性なんだし…位の感覚だった)その後ちょっとしたトラブルに発展する事になったが、それはまた別のお話。

この出来事の際に感じたのは、同じゲームのプレイヤーとして、互いの大きな温度差、だった。
当時の私にとってPBCは「ネット上の他人と一緒に制作するリレー小説」であり、複雑な過去と独特な個性を持つ相手キャラとどのように関わってゆき、今後どんな展開を持って信頼関係と友情を築くか、「面白そうだな~」という方向でとらえていたが、相手プレイヤーにとって私のキャラは「ヴァーチャル世界に存在する恋人」であり、それはある部分で「プレイヤーにとっての恋愛に準ずるもの」だったという事。

そこに非常に戸惑う事になった。(そのサイトのユーザーの年齢層を考えれば「彼女」も恐らくは十代の少女だったのだろう。ならば尚更無理も無かったのかもしれない)
成程「中毒性があり危険な遊び」と一部で言われる訳だ、とその時なんとなく納得したのだけれど……

…実際の所、まだ私はPBCの本当の「危険さ」を少しも理解してはいなかったのである;

そう、本番はこの後、だった(笑)

PBC なりきりチャット(前編)

2013-05-06 18:07:21 | ネット関係
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なりきりチャット[PBC(Play By chat)]とは、インターネットの掲示板やチャット、メールなどを使い既存の漫画、アニメ、ゲーム、または全くのオリジナルに設定された世界のキャラクターになりきって架空の世界で起こるドラマや会話を楽しむ遊びである。

ジャンルは版権物からオリジナル、ノーマルラブ(NL)GL(ガールズラブ)BL(ボーイズラブ)など多岐に渡っており、専用サイトの世界観もまた学園、街、ファンタジーなどさまざまである。

【以下、一部の用語解説。】
「ロール」 :ロールプレイの略で、台詞とは別に、括弧内にて表記されるキャラクターの「行動部分」を表す文章。

「半なり・完なり」 :プレイヤー同士が挨拶や雑談をしたりと、ある程度「素」を見せる遊び方と、完全にキャラクターになりきってプレイヤーの素顔を一切見せない遊び方の区分。サイトによっては半なりが全面禁止されてる事もある。

「背後交流」 :チャット上のキャラクターを介さず、それを動かすプレイヤー(背後・中の人といった呼び方もある)同士で交流を持つ事。
=================================
↑以上ウィキペディアの解説を一部抜粋して大幅に書き足し&編集したもの(元の文章がかなり微妙だったので…;)


実はこれは私が以前、廃人になりかける程ハマっていた遊びである。
私は所謂ネットゲームの経験は無いが、これもインターネットを使用した見知らぬ相手とのゲームだから、ある種のネットゲームと呼べるのかもしれない。

初めてこの遊びに触れたのは十年以上も前、まだあまりインターネットに馴染んでいなかった頃、ある少年漫画の二次創作活動で知り合った人に誘われての事だった。
その時はコミュ下手の私には正直あまり馴染めない遊びだなと感じただけだったが、昔職場の後輩に誘われて少しだけ触れた「テーブルトークRPG」などに比べれば相手の顔も見えず声も聞こえない「チャット」という媒体は役になりきる、という方面においてとても便利なものには思え、ハマればさぞ楽しい遊びなんだろうな、とも思った。
それから間もなくして、その一般的には人気漫画とも呼べない作品の中でも、更にマイナーなカップリングにハマった私は、ふとしたきっかけで暫くの間、同好の士と共にこの遊びにハマる事になった。
所謂「BLチャット」である。

週末毎に相手に誘われて朝まで付き合っていたが(当時私既に30代、お相手は20代前半。正直相手の若い体力と底なしのエネルギーに振り回されていた感はあった;)
ある時期を境に、その相手が突然飽きて辞めてしまったので、ならばこちらも代わりの相手をと、適当な人に声を掛けて再開してみたが、その結果は…ペースの合わない相手との呆れる程退屈な時間を過ごす羽目になりそのまま何となく辞めてしまった。
以前の相手が特別に文章力や表現力に優れていたという訳でもなかったと思う。
チャット内で「なりきる」キャラクターの性格や関係性の解釈が一致していたが故に、あれ程楽しめたのだろう。(所謂「萌えが合う」という奴だ)
そりゃそうだ「チャットによる一対一のコミュニケーション」で成立する遊びである以上は相手との相性こそが最重要なのは当たり前の事だったのだ。
(けれどチャットでの相性=リアルでの相性という訳でもないのが、また不思議なもので;)

そしてハマった、とは言ってもその頃の遊び方は所謂「半なり」と呼ばれる遊び方で(まぁ当時はそれ以外の遊び方は知らなかった訳だが)
開始前には「今晩は、今日もよろしくお願いします。明日仕事なので○時には落ちますね」といった挨拶を交わし、プレイ中もキャラクターとしてレスポンスする度に、お互い素の言葉でその感想をも送り合い、たまに雑談もしたり…というやり方だった。

だからそれは当時の私にとって「それぞれが攻キャラ・受キャラの台詞と行動を担当してリレー小説を制作する遊び」に過ぎなかった。
(現在そういう遊び方をするプレイヤーも多い事と思う)…つまりは、それなりに楽しんではいても「のめり込む」のとは程遠い関わり方だった訳だ。

そうでない、つまりは「現実との距離の取れなくなる程のめり込むプレイヤー」もいるらしいと知る事になったのは、それからまた5~6年経ったある日の事。

その頃には、そんな遊びがあった事すらすっかり忘れていたが、久しぶりにあるTVアニメにハマり、ネット上でまたファン同士の交流をしていた所、その中にいたある若い女の子がPBCにハマっていると聞いた。

あーあれか懐かしい、昔ちょっとやった事あったなー…などと思いつつ話を聞いていた所、色々と驚かされた。

それはいつの間にか(もしくは私が知らなかっただけで、当時から既にそうだったのかもしれないが…)無数のユーザーを持つメジャーな遊びとなっていて、数多い専用サイト、初心者向けマナー解説サイト、プレイ中に起きた事の愚痴を吐く為の裏サイトやウォッチサイトまであり、多くの専門用語やローカルルールがある事。
更に当時驚いたのが「オリジナリ」と呼ばれる、版権ではなくプレイヤーの作成したオリジナルキャラクターになりきる、という遊び方がある事。
今となれば「自分が使用するキャラクターのプロフィールを、名前年齢容姿まで0から作成する」という特におかしくもない部分が、当時は「なりきり」が二次創作やコスチュームプレイと同様、ファンによる表現活動の一つ、とカテゴライスしていた私にとっては酷く不思議なものに思えた。

更には、使用キャラ同士が恋人関係になった時に、それを動かすプレイヤー同士(ジャンルがボーイズラブであれば無論どちらも女性)がそのまま恋人関係に至るケースもあるらしく、その子もまた現在プレイ中のパートナー(リアルで顔を合わせた事は無いとの事)を「恋人」と呼び、それ以前は別の女性プレイヤーと現実に同棲していた時期があった、との事だった。
BLチャット用キャラクターのプロフィールページの多くに「背後恋愛の可・不可」という項目が普通に設けられている所を見るに、「女性プレイヤー同士の恋愛発展」は決して特殊なケースでは無い、という事だろうか?

今その彼女とは?という私の問いに、リアルでの関係が破綻した後もPBCでは繋がっているとかで『私達は「お互いの中に居る人格同士」ではまだ愛し合っいてるんです』という返答が返って来た。
自身の使用するキャラクターを「人格」と呼ぶ感覚も、チャットで創作した架空の恋愛関係を現実に持ち込む事も、当時の私には理解出来るものではないように思えた。
これは所謂ジェネレーション・ギャップというものか、と(何しろ17歳違い;)


……そう、この時は、であるが;


嫌われヒロイン 

2013-03-22 04:11:57 | 我が愛しのヒロインたち
女性読者にに嫌われがちなヒロイン、というのはいるものである。
有名どころでは「タッチ」の南ちゃんとか。

私は南ちゃんは特に嫌いではなかった為、あちこちでやたら毛嫌いされてるのを見て少しばかり驚いた記憶はあるが、書き並べられているその理由を読んで行くうちに、ああそう言われれば確かに敬遠される要素は持ってるんだなとも思った。
まぁ南ちゃんに関しては元々「好きでも嫌いでもない」キャラクターだから別に良いんだが、実は私が好む女性キャラクターはこんな風に女性に嫌われているケースが多く、これが結構辛い事なのだ;


決して判官贔屓であえて人気の無いキャラクターを好んでいる、とかではない。
たまたま読んで(観て)「ああ好みだ!」と、思うとまず彼女らは人気が無いのだ。

ネットの海で二次創作やイラストを求めて検索掛けても全然出て来ない。
……つまりは、そのキャラクターが好きなお仲間は全く見つからない訳だ。
(ちなみに男性読者には嫌われてこそいないものの、やはり人気はさして高くはない為、エロ系の創作物も同様に見つからない)


その代わりにやたら検索で引っかかるのがその作品のファンサイトに置かれている所謂「100の質問」の
「○○(キャラ名)をどう思われますか?」「○○に一言!」といった質問項目。

===========================
100の質問(ひゃくのしつもん)とは、あるテーマに沿った複数の質問文の一群、並びにその質問文に対する回答のこと。
名称は通常質問文が100個で構成されることに由来する。
=====================(ウィキ)

前述したようにファンコミュニティでは嫌われがちなキャラ故、回答者の「苦手、嫌い」等々ネガティブなコメントとセットになって、ズラズラと検索結果に並ぶ。



反対に女性人気を集めるヒロイン、というのも無論いるものである。
私も人気キャラクターを好きになる事はあるが、人気キャラの魅力が私の琴線を素通りしてしまう事も結構多かったりする。
……まぁそれは単純に「好みは人それぞれ」って事で、多少嗜好が世間の流行と逆を行った所でそこに何も問題は無い…筈なのだけど;

問題は、100質や掲示板などで私の好きな不人気ヒロインを叩く方々の大半は、この「人気ヒロインファン」だったりする事だ。
しかも彼女らはファンコミュニティ人口の大半を占めている…ように見える(あくまでネットサーフの印象であり、実際どうなのかまでは分からない、単にその層の声が大きく聞こえるだけかもしれないが)

…それがやがて人気ヒロイン&そのファン、そしてファンコミュニティへの抵抗感、警戒感という形でいつも私の中で負の感情をじわじわ育ててゆくのが地味に辛かったりもする。

これはもう大昔からの嫌なサイクルで、古くはアニメ「ビックリマン」の愛然かぐやに惚れた頃から…いや待てよ、よく考えたら私は幼稚園児の頃「キャンディキャンディ」のアニーちゃんが好きだったな;アニーもそういえば嫌われヒロイン…(汗)


そういうパターンになった数多い作品のひとつに北条司の「シティーハンター」がある。
北条先生の漫画は、前作「キャッツアイ」の頃から好きで、小学生時代、都会的な大人の魅力を放つ美しい姉妹に強く憧れていた。
(そういえば北条先生は昔から愛ちゃんのように女子高生は「乳臭い子供」として描く人だったよなー「女」はあくまで成人以上、みたいな…よく考えたら少年誌の作家としてはちょっと珍しいスタンスのような気もする…)

シティーハンターも同じく好きで、主人公のリョウも好きだったが、それ以上に他のジャンプ連載陣よりもリアルタッチの絵柄で描かれる美しい依頼人達が特に好きだった。
ただ主人公のパートナーでありヒロインの香に対しては、あまり思い入れが無かった。

初登場時は結構好きだったのだが、絵柄とキャラが安定していった頃から徐々に彼女にピンと来なくなっていった。
北条先生の絵柄はリアルタッチであり「グラマラスな女性」という設定であってもバストが極端に大きく描かれたりはせず、肩幅もしっかりあり、ウエストや太腿などの肉付きもバランス良くリアルに描かれていて、少年漫画というより美術のデッサンのような印象を受ける。
香も同様、誰が見ても上から下まで成熟した女性の顔と体つき。
顔立ちも当然女性的で、服装もミニのタイトスカートにストッキング、パンプスとそれなりにフェミニンな服装もしているし、これで「度々男に間違えられる」という設定なのにだんだん納得が行かなくなった、ってあたりが多分一端。(序盤は作画も割と中性的だったんだけど)

ナイスバディの水着美女が長髪ウィッグ外れたくらいで「オカマがいる」と騒がれるか?
長髪のカツラを被るだけで男達が争い合う程の美女になれるんなら、ちょっと髪伸ばしてとっととコンプレックス解消すりゃいいんじゃ?
……とか、瓶底眼鏡外したら美女、みたいな本来「漫画のお約束的なもの」に過ぎない部分へのせんのない突っ込み感情があった。

それからもうひとつ。
ボーイッシュタイプのヒロインによく冠される「女性特有のいやらしさが無いのが良い」みたいな評価についていつも思うが…そもそも「女特有のいやらしさ」って何だ?
陰湿で嫌らしい男だって世の中にゃ腐る程いるぞ?

また登場する依頼人や他のレギュラー女性も皆魅力的なので、特に香嬢が際立っている印象も受けず、ますますその辺りがピンと来なくて連載後半に登場するミックというジゴロの「何て真っすぐな女だ、こんな女は初めてだ、この俺が初めて本気で惚れた」という彼女への評価にも
「真っ直ぐな性格の女性って結構出て来てなかったっけ?」という戸惑いが先に立った。

ちなみに「リョウが香とくっつく」事には別に何ら異論はなかった。
(というかその辺りの恋愛模様にはあまり関心が無く、どうせ両想いなら長々引っ張らずさっさとくっつけりゃいいじゃん、みたいな)途中から度々「本命は香」という伏線が張られてたので「まぁ最終回付近で纏めるんだろうな」程度に認識してた。あと女好きの30男が主人公の漫画で、最終回に至っても本命とはキスもさせなかったのは徹底してるなとも思った。


とはいえ「あまり思い入れが持てなかった」というだけで、読んでる間は別段強い苦手意識を感じてた訳でもないし、本来「ピンと来なさ」「思い入れの低さ」なんてのは特別に意識するような事ではない筈…だった。

こと改めてそれ意識するきっかけとなったのが、コミックス30巻に登場するゲストキャラクター「及川優希(ユキ・グレース)」
この漫画で唯一私が思い入れた依頼人である。
(前置き長ぇ;)

記憶喪失のスタントマンにして実は異国の王女、というキャラで、彼女が登場するストーリー終盤にちょいとリョウとの「身分違いの悲恋モノ」風に盛り上げた演出が入った為に香ファンの反発を受け、めでたく嫌われキャラとなったという事らしい。

大使館前にて車を降りる直前にキスを交わし、その後「王女と一般人」としての短い再会ののちに永遠の別れ、という演出は明らかに映画「ローマの休日」のパロディになっている。
及川優希編のかなり前に「アルマ王女」という別の別の王族キャラの話があったけれど、確かあちらは北条先生が「ローマの休日はまだ見たことが無いけれどこんな話なのかなとイメージして描いた」みたいなコメントをしていたかと思う。
及川優希編は「ローマの休日」を見た後、改めて描かれた話だと思われる。

「リョウの本命は香」がハッキリ提示されて以降は、依頼人がリョウに恋する展開になってもリョウの方からそれとなく一歩引いたり、リョウと香の絆に気付いた彼女らが「香には叶わない」と諦めたりする事が多くなっていた為、及川優希編のラスト演出はちょっと異色ではあったと思う。
(そうは言っても「まず二度と逢えない」設定の女性ならではの盛り上げでしかないんだよな)
おかげで検索かけりゃファンコミュニティに配布されてるアンケートの「嫌いなキャラは誰ですか?」項目とともに彼女の名前が並ぶ羽目になったと。

異国の王女、というドラマティックな設定ながら、彼女自身にはあまり目立った特徴は無い。(容姿も一応外国人風に描かれ、貴人ならではの性格付けもされていたアルマ王女と比べると)
ビジュアルはこの漫画に出てくる美女キャラに最も多い、前髪に軽いウェーブのかかった長い黒髪で、性格面も楚々として淑やかな印象ではあるが、香のハンマーでリョウをぶっ飛ばしたり、風呂を覗かれれば熱湯ぶっ掛けたりとそこそこ気は強い…と、まぁ見た目も性格も過去の依頼人との明確な差別化はされてないというか、特に強い印象は無い人。
(北条先生は確か、依頼人達のビジュアルはあえて描き分けしてないと言ってた気がする。あだち充漫画のヒロインの顔が皆同じだとよくネット上で揶揄されているようだが、北条先生がそう言われないのは男性読者の支持度の違いが出ているのかな。…ちなみに私はあだちヒロインの描き分けはちゃんと付いてると思うんだけど)


私が彼女に惹かれたきっかけはというと、別にそういった事情やら演出やらとは何も関係無く、リョウの発した「あの日本人とは思えないような白い肌は~」というたった一言である。
これはアルマ王女と違い日本人女性の外見を持つ彼女が「実は異国の血を引いている」事を指すささやかな伏線なのだが。

「王女ユキはこの世で最も自殺とは縁遠い人格だから、自殺させれば暗殺が疑われる」というのが彼女にスタントマンをやらせる理由となっているが、当の彼女は憂い顔のシーンが多くそこまでポジティブな女性というイメージは無いし、日本で普通にアパート暮らしも出来ていて、王族らしい一般人との感覚のズレも見られない。
…要は設定の割にキャラが薄いのだ。

……だからなのか、私の中で彼女の最大の個性は「肌が白い事」とインプットされた…らしい;
長い黒髪の楚々とした日本人女性の容姿ながら、有色人種ではありえぬ程白く透き通るような肌を持つ女性。…こりゃ好みだ、と。
(「日本人とは思えないような」なんて、余程際立って白くなきゃ言わないよな、と。それが単なる「白人とのハーフであるという伏線」だとは知りつつも;)

最も絵柄が安定し、女性キャラが美しく描かれた時期に登場した彼女は、ヌードっぽい扉絵やシャワーシーンや水着シーンやらと何気に作中での肌の露出度は高かった。
…成程、このお肌はそんなに白いのか、と;モノクロの絵から幾度もイメージしつつ、そう考えてみれば

「いい子だ…私の言う通りにするんだ…」
「君はそのまま溺れるんだ…いいね?」

と、退廃的なムードを持つ暗殺者(アニメ版ではキモい変態になってたが;)に優しい口調で残酷な死の暗示をかけられる「催眠術」というシチュにも倒錯したエロスを感じる。

…と、一度膨らんだ想像から、彼女への強い思い入れはどんどん強くなっていった。

で、無いと知りつつアレコレ検索したりした結果、同志が見つかるどころか、またもや「愛したキャラは嫌われていた」パターン;
こんなマイナーゲストキャラでさえこのパターンになるのか、と;
そしてネガティブコメント発信者は「カオリスト」と呼ばれる香ファンの女性陣らしいと知る事になり…


印象的だったのは、ある女性のコメントで
「実は私、この人結構好きなんです…!皆さんにいつか言おうと思ってました」
…みたいな奴。

それは「彼女を嫌っていない」事をカムアウトするだけの事に一定の覚悟が必要なコミュニティの存在を伺わせ、何やら脱力したが、今後も女性キャラに惚れた時はあちこちのコミュが「閲覧注意」になるパターンは続きそうな予感がする。

…茨の道はいつまで続く!(泣)

危険な好奇心(オカルト板より)

2012-09-30 22:06:21 | ネット関係

「危険な好奇心」は2006年にオカルト板に投稿された長編恐怖体験談。
数多い投稿の中でも未だに人気の高い話らしい。

http://syarecowa.moo.jp/126/52.html(←全文はコチラに)

内容は創作っぽいが、一応実話体験談として投稿されたもの…なのかな?

『小5の夏休みの深夜、三人の少年がに裏山に作った秘密基地で遊んでいる時、他に人の居る筈もない場所で響く物音と人の気配。逃げ帰ろうとするも好奇心に負けて「見てはいけないもの」を見てしまい、そこから長い恐怖が始まる』

というお話。
以下、結末に纏わるネタバレを含みますので御注意下さい。




この話は文章を読んだ訳じゃなく、you tubeの怪談朗読動画でたまたま聞いて知った。
怖いと評判の人気作だが、個人的には他の投稿に比べて別段怖さが際立ってるとも思わなかった。

何しろオカ板には、他に怖い体験談が無数にある。
例えばこの「リアル」という長編。
http://syarecowa.moo.jp/264/5.html

リアル、というタイトルは投稿者ではなく、まとめサイトなどで後につけられたものと思われるが(危険な好奇心も、無論そうだろうが)
タイトル通り、読後感が他の怪談に比べてずっしりと重い;
描かれる怪異の描写は別段際立ってはいないが、難病や事故の怖さを伝える啓蒙映画同様、これ読んだ後は霊障というものの理不尽さと怖さ、「軽い気持ちで霊的なものに関わってはいけない」という投稿者からの警告が重く気持ちに圧し掛かる。
お坊さんや神主さんや、霊感のある友人などが解決に力を貸してくれたり、怪異が起きた理由などがある程度は提示される事が多い他の怪談とは並べると、付けられたタイトルに妙に納得してしまう別個の怖さ。

そして定番怪談のひとつ「猿夢」シリーズ
(注:この怪談は所謂「自己責任系」で、読んでしまうと怪異が伝染し祟られる、と言われている系統の物なので、気になる人は読まないで下さい)
http://syarecowa.moo.jp/1/009.htm
http://syarecowa.moo.jp/102/074.htm

「猿夢」は、妙に生々しい感覚で殺されそうになる夢を繰り返し見て、辛うじて目を覚まし夢の中の危機から逃げ切る事が出来たが、もし今度夢の続きをてしまったら、自分は現実に死んでしまうのだろうか?と締めくくられる怪談。
「夢」という、当人にはコントロールのきかない世界の事ゆえ、この怪談を聞いてしまった記憶に影響されて、今夜にもそんな夢を見てしまうのかもしれない、という怖さがじわりと後を引くのが特徴。
…実は私も遥か昔、二度(子供の頃と20代の頃)に「夢の中での行動が違えば生きて帰って来られなかったのだろうか?」と思う夢を見ているのだが、オカルトが好きだという知り合いに、何となくこの夢の内容を話した所「それって猿夢っぽいですね」と言われて、そういえば、と感じたのが最近の事。

夢の記憶など、日々どんどん流されて消えてゆく中(私は元々夢見は悪い方で、今朝もゾワリと来る夢を一つ見たが、多分この文を投稿する頃には細部は忘れているだろう)
そのふたつの夢は、目覚め前後の不可解な出来事を含めて今も妙に忘れられない;



で「危険な好奇心」だが、個人的にこれは怖いというより、ホラー要素のあるジュニア向け小説というか、夏休み映画のような感覚で普通に楽しんだ。
恐怖を体験する三人も、語り手である主人公、裕福な良家の子息で頼れる兄貴分の慎、優しく気弱な淳、と王道の配置で、モンスターである「中年女」も含めて登場人物が親しみやすいし、また夏休みに裏山の秘密基地で二匹の犬達と過ごす一夜から始まる物語のどこか懐かしい空気も含めて、この長編は人気が高いのだろうとも思った。

映画「スタンド・バイ・ミー」とか。こういう作りの話しは、皆好きだものね。そういえばスタンドバイミーも「事故死した少年の死体を探しに出かける話」(原作のタイトルは確か「死体」だったっけ?原作者は元々ホラー作家だし)で死体捜しの冒険、という要素と、終盤に画面に映し出される少年の亡骸の、しんと見開かれた青い瞳のインパクト。そんな身近にある「死」の鮮明な影が映画に影を齎している訳で。
「学校の怪談」しかり「夕闇通り探検隊」しかり、ホラー要素とノスタルジィは元々抜群に相性が良いのだ。


三人が目撃したのは、幼い少女の写真に一心に五寸釘を打ち込む見知らぬ中年女性の姿で、見られた事に気付いた女は、少年達を庇う犬達を惨殺し、正気を失くした形相で追って来る。

丑の刻参りは、呪詛が成就する前に他人に儀式を目撃されると呪いが自分に跳ね返ってしまう為、万が一見られたらその目撃者を消さなければならない、というルールがある為らしいが、それが理由というよりは、たまたま出会った子供達に理不尽な憎しみが向かってしまった、という感じだ(電波さんと化した人間にはよくある事だと思う。訳分からんキッカケで信じられない程他人を憎悪する人間は実際この社会に幾らでもいるのだ;)

そして、逃げる際運悪く名前入りの所持品を落とし、相手に身元を知られてしまった少年、淳は、女に名指しで盛大に呪詛されてしまい(「淳呪殺」とそこら中の木に刻まれ、所持品に釘を打たれた)そのショックからか体調を崩し、そのまま不登校になってしまう。
狂った女は怖いものの、親に嘘をついて外泊した事がバレるのもマズい、という子供らしい事情からあの恐ろしい一夜の出来事を大人に打ち明けられずにいるうちに、子供達の間である噂が流れるようになる。

夏場だというのに厚手のコートを着込んだ変なおばさんが通学路に現れ、子供の顔をひとりひとり物色し、誰かを探しているというもの。
少年達は「トレンチコートの女」はあの時の中年女性ではないかと恐れる。
…この辺、都市伝説とか現代妖怪っぽい。
口裂け女とかトイレの花子さんとか。

ちなみに「口裂け女が流行した頃集団下校した小学校」っつーのが伝説化してたらしいのはちょっと笑った;
それウチの母校ですよ;確かに下級生が集団で帰るの見てました。(口裂け女の噂発祥の地、の候補として挙がってる地域だったので)
ただ、あんだけ大流行し、校区である○○地区で目撃した!と校内大騒ぎだった割に、怖がりの筈の私が一ミリも怖かった記憶が無い。
…理由はごく単純。私がぼっちだったからだ;
インターネットが存在しなかった時代、現代妖怪が生きていたのは「子供の噂話」の中。
子供同士のコミュニティの中にしか存在しない妖怪だったから、集団下校騒ぎに至った辺りでようやく存在を知ったレベルの奴には、怖くも何とも無かったんだな~;


と、また話しがそれた;

少年達は不安と危険を感じ、再び山に入って証拠集めをして交番に届けたりと必死で抗うも、交番では「本当なら先生か親御さんと一緒に来て」とあしらわれたりと、親バレしない範疇での子供達だけの戦いには限界があり、下校時に尾行してくる女に自宅がバレないように遠回りして帰るといった、まるで子供にしか見えない幽霊と戦っているような孤独な攻防が続く。
(…しかし、変質者に付け回される危険よりも親にしかられるのが怖い、という心理はいかにも子供の発想だな)
不登校になって家から出てこない一人は置いといて、秘密を共有する二人の少年の孤独な戦い、という場面で、得体のしれない女の脅威により、主人公が自分の弱さに気付いた時、さらりと支えてくれる慎に励まされた時の一文。

『普段対等に話しているつもりだったが、慎はまるで俺の兄のような存在だと』

↑ここで私の心に若干の「萌え」が入った;
こりゃもう彼は他の二人よりやや背が高めのイケメンに脳内設定するしかないな、みたいな;

しかし結局自宅は突き止められ、敷地に侵入されて磨りガラス越しに覗きこまれたりと脅威はMAXに達し、ようやく親に全て打ち明ける決心をする。
大人が介入してからの展開は早く、女の身の上と動機、彼女が山で呪っていた少女の正体なども警察によって明かされ、事件は一旦の解決を見る。

ここまでが前編。
(モンスターもまた不幸な身の上であった事が明かされはするが、特に同情する気が起きないあたりもアメリカのホラーっぽい)



それから五年後、高校生となった三人は進路がバラバラになり付き合いも途絶えていたが、バイク事故で入院していた淳からの一本の電話によって三人は再び集い…。
あれから五年…スティーブンキングのノスタルジックホラー「IT」のようです。

ただ、
「語り手である主人公」
「良家の子息で頼りになる兄貴分」
「優しく気弱な少年、ずっと不登校の為出番少なめ」

と、小学生編はキャラ配置が絶妙だった事も魅力だったが、高校生編は皆「イマドキの子」に成長してて;特に前編にてやんわりと萌えさせてくれた慎くんが(東京に進学していた為、中々登場しない)満を持して(?)再登場した時は唯のギャル男になってたり、まー実際はそんなもんか、とガッカリしてみたり(笑)


夏休みの一夜、仲好し三人組と裏山の秘密基地、そこで飼ってる野良犬達。
少年達と狂人との深夜の遭遇と恐怖、ショッキングな出だし。
大人の介入のない子供の世界をじわじわと追い詰めてくる不気味な現代妖怪と少年達の孤独な攻防と友情の描写。
とうとう怪物に身バレし、留守番中の自宅で主人公が追い詰められるクライマックス。
その後の急展開と、事件の真相や怪物の正体など、全てが読者に提示される前編の終盤。
それから月日がたち、五年前の事件では不登校になっていた為、夜の山で遭遇したきり女の顔をまともに見ていない淳くんが入院先から「どっかで見たような気がする掃除のおばちゃんが、夜中にニタニタ笑いながらカーテンの隙間から俺の顔を覗きに来る」という相談を持ちかけてくる出だし。恐怖再び!
……そして苦い余韻を残すあっさりとしたバッドエンド。

オカルトのようでもあり、サイコホラーのようでもある。(淳くんが二度も変調きたしたのは、呪いの効果にも見えるし、多感な年ごろに受けた精神的ショックのせいかも、と思えば思える微妙さ)
そして実話のようにも、創作のようにも見える。そんな微妙なバランスもまた魅力的な怪談だと思った。

エピローグの「あれから八年」という締めくくりからすると、この話は現在25歳前後の語り手による少年時代の回想、になるんだけど、全般に妙に濃い昭和の香りがするなーとも思った。
や、小学生が学校の裏山を一時間歩いて遊べるくらいの田舎なら、案外今もこんな空気なのかもしれないが.