私の居る職場は人の入れ替わりが激しい。
と言うより様々な意味で条件が極端に厳しいので後から入った若者が長続きしないのだ;
なので私のように長く居ると新入社員との年齢差はどんどん開いて行く。(最初のうちはそれでも4~5歳程度の開きだったが、ここ数年は20歳以上年下の新人がガンガン出入りする状況になっている)
一昨年も新卒の男の子が入ったがまた辞めてゆき、例年通りの総入れ替えとなった。
彼は一年以上居ても全く仕事が覚えられず苦戦を重ねていたようで、ある日書類の端っこに鉛筆で「もう辞めます」という走り書きを残し姿を消した。
今どうしているのかは知らない。こういう消え方をする男の子もそう珍しくはない;実のところ過去何度も遭遇している。
彼は発達障害だと聞いていた。
元々ある程度の適性が必要とされる職種ではあるが、それを差し引いても彼は極端に「指示の意味が理解出来ない」ようで、随分その事に苦しんでいたと思う。
そんな事情もあってか彼はウチの職場に来る前に居た学校でも随分と差別的な待遇を受けたと言う。
高い学費を払っているのに講師は物覚えの悪い彼を別室に隔離し、まともな授業も受けさせなかった、とか。
それでも彼は学校を辞めるでもなく卒業まで在籍した。
「根性で最後まで頑張った」というのとは違うように思う。
どんな学校だろうと「そこを卒業する」以外の道や選択肢を探せる力が当人に無かったのだと思う。かつての私もそうだった。
レールを外れるには担保が居る。
才能、コミュ力、許される環境、選択出来る意思、自信。
何かが無ければ自由に道は選べない。彼の人生には枷が多いのだろうと思う(ただ医師の診断まで降りていながら周囲が対策を講じた風で無いのは気になったが)
それでも彼らの倍以上の年齢になってしまうとついこんな台詞が出てしまう。
「まぁ、彼はまだまだ若いし時間もある。これから何にでもなれるし何とでもなるだろう」
そう言ってしまってからまたふと考える。
二十数年前、私も彼らと同じ年で、同じだけ時間があったが可能性は無限に広がっていただろうか?
何処にでも行けただろうか、何にでもなれただろうか?
私は22で一度仕事を辞め、それから何をすればいいのか悩んだ時、既に可能性は有限で一日一日が過ぎてゆく度未来はどんどん行き詰まった。
十代の頃に抱いていた「やりたい事」や「夢」の類はもう消えていて、なのに「出来そうな事」は何も思いつかず自分の限界に気付くしかなかった。
若さ=無限の可能性ではなかった。
私が9歳でいじめられっ子になってコミュ障を発症した時、世界は突如不安と恐怖だらけに変わった。
教師や大人は「ここ(学校)で馴染めないようじゃ君は世間では生きて行けないよ」と事あるごとに言った。
子供は恵まれているんだ、外は学校のように甘い場所じゃないんだと。
小学校、中学校、高校、専門学校を全て居場所が無いまま糞真面目に通って卒業し、それから二十年以上経つ。
三十代の初めに通った教習所にて学校で聞いたのと同じ終業チャイムの音に幾度も背筋が凍った。
学校という空間に自分を全否定される恐怖は卒業後十年経っても体が記憶していた。少なくとも私の人生に於いては「社会」よりも「学校」の方が怖い場所のままだった。
「外に君の居場所は無いよ」「外じゃ生きて行けないよ」「あの子は普通じゃない」と言われるもそれから二十数年後、「世間様」「社会」に馴染んだ訳でも自力で自分の居場所を作れた訳でもないけれど、とりあえず今生存して文章を打っている。
専門学校卒業後最初についた仕事は条件や会社形態がでたらめだった。所謂ブラック企業。
(それも世間でブラックと言われるワタミや王将に比べても更に非常識なレベルで、その頃の事を話しても酷過ぎて多くの人には信じて貰えない;それは会社でも雇用でもないだろと呆れられた)
二年弱居たその会社が突然消えて、次はビデオレンタルショップに行ったが挨拶や接客が出来ない私は一か月でクビ。
その後居酒屋の厨房に入ったが、説明会当日にいきなり直属上司になるという男性に怒鳴られた。
「おい!おめぇ!こっち来いやぁ!!!ああ?」
なんのミスをした訳でもない初対面の娘をただ「呼ぶ」のに狂ったような怒声貼りあげる中年男性の姿に完全に嫌な予感、いや、嫌な確信がした。
そういう人間の下に入る事。そして初対面の日に「そうして良い相手」として目をつけられた事に一瞬で血の気が引いた。
「この職場はヤバい」と気付いたものの、世間知らずを極めていた私は「雇用を断る」という判断が咄嗟に出来ず;(「三カ月の雇用契約」は「三ヶ月間の雇用をバイトに保障する」意味だと考えず三カ月間は辞めてはならない、だと思い込んでた)予想通りに差別と暴言とセクハラ三昧の厨房で三カ月働いた。
私がここで再度味わったのは「高校入学直後のいじめが始まる時の空気」と同じもの。
「こいつ虐められてた事のある奴じゃね?じゃあ人以下の扱いをしていいんだな?」という共通認識と悪意が殆ど接点の無い周囲の人達の間にまでじわじわ広がってゆく空気は今も思い出すだけでぞっとする。
「対等の人間」と認識している相手にならば通常やらないような態度や発言がさしたる悪意も無く次々吹っ掛けられた。
結局三カ月後にそこを逃げ出した。
人間とみなされないのが当たり前の地獄と化した学校で成人前の長い長い十二年間を暮らし抜いた私の耐性はもう失われていた。
けれどそれはそれでいいんじゃないかとも思う。
学生だった私が別に強かった訳じゃない。選択肢が「死」か「登校」しか無かっただけのこと。
そんな環境を受け入れ続ける「強さ」なんて持つべきじゃない。持たなければ生きられなかった事の方が間違っているのだ。
成人してから十年位は頻繁に学生時代の夢を見た。(今もたまに見るが)当時の記憶を詳細に詳細に思い出しては凄まじくうなされた。
心理学によるとこれは「心の傷の回復過程」の症状なのだと言うが、何となく分かる。
回復したからこそ、「人間である事」を取り戻した魂が過去の人生を激しく拒絶する。
「人間」があんな仕打ちを受けてはならない。
「あの子」は長い間あんな人生を送ってはいけなかった筈だ。
そんな当時は正面から目を向ける事の出来なかった、持つ事の許されなかった「理不尽への怒り」が夢の中で解禁されて汗だくになり、過呼吸のようになり、涙塗れになる。そういう事なのだ。
(この症状は10年ちょっと。学生やってた時間と同じ位の期間続いた)
「人として」耐え難い環境ならば辞めたっていいのだ。
今でも後悔してるのは、説明会の日に引き返せず、結局三カ月も行ってしまった事だ。あの期間にまた山のようなトラウマを貰った訳だし;
汚らしいメタボ親父に毎日ぴったり背後に立たれ、舐めるように眺めまわされながらここぞとばかりに体型をからかわれた。
短期間バイトなのにあれ程執拗に体つきや容姿を話題にされ続けた時期は無かった。
22だった私は容姿体型をからかわれ性経験の有無を大声で問われ、年齢の高い女性は同年代の男性からも執拗に「おばちゃん」「お婆ちゃん」とわざとらしく呼ばれていた。
「女である事」はこんなにも見下される事なんだと知った。
学校にはなかった「辞める」という選択肢があった分「学校」よりも「社会」の方がずっとマシだと思った。
(無論学校をやめるという選択肢もあるし、高学歴から新卒でそれなりの企業へ、という人生送ってる人なら転職という選択肢も簡単ではないだろうが高いレールに乗っていなかったのが却って幸いだったようにも思う)
辞められた、出られた。それは救いだった。
しかし二度のバイトの失敗でもうつくづく外の世界が嫌になり、それから何カ月かは所謂引きこもりになっていた。
ヲタ友達は皆働いていたから平日は暇を持て余しやたらビデオを借りて見ていた。洋画もアニメも沢山見た。
何故かこの時期(20代前半)に見た沢山の映画は忘れられない。
「美しき諍い女」「愛人」「なまいきシャルロット」「膝と膝の間」
映画なんて今もそれなりに見てる筈なのにあの時期の空気と一緒にあの頃見た映画を懐かしく思い出す。
多分「若かった」からだろう。懐かしさというものは楽しかったかどうかが決めるものではないのかもしれない。
あの数か月のニート生活のぬるま湯の中で追い詰められてゆく感覚、あのままハマりきってしまえば行く先は長い引きこもり人生だったろう;
自宅の幾つかの部屋だけが生活空間となり、後ろめたさで溢れ、決して快適ではない筈なのにもう二度とこの生活から抜け出せず、社会に出るのが億劫で怖くて嫌で堪らなくなってゆく。
ぬるま湯の中でじわじわと腐って行く不安感。
それでももう社会には出たくない。
大人には誰にも守って貰えなかったのに十年も休まず耐えて通った学校。
行きたくなかったのに入って1ミリも馴染めぬまま二年通い卒業した専門学校。
そのまま入ったブラック会社。
周囲から浮いてあっさり首になったバイト。
さらに耐え難い思いで通った居酒屋バイト。
もう「世間サマ」「社会」が怖くて疲れきっていた。
もう学校にゆくのも、親しくない人のいる場所で働くのも嫌だった。
その先のなれの果て、とうとうなるべくしてこうなった、そんな気がしていた。
子供の頃、図書室が好きだった。
友達が居なかったから、というのもあるが、本が好きだった。
読むのも好きだったが、読み切れない程本棚に並ぶ背表紙を眺めて歩き回り、年季の入った装幀の下にどんな世界が広がってるのかをただ想像するのも好きだった。
レンタルビデオ店員をやっていた一か月間、接客は上手くこなせず、バイト仲間にも馴染めなかった私は返却されたビデオを棚に戻したりと整理作業をしながら並ぶパッケージを眺めて内容を想像したりと、小学校時代の図書室と似たような過ごし方をしていた。
人間は年を食っても中々変わらないのだ。
しかし母は長期ニート生活を許さず私を強引に家から叩き出し、もう二度とやらないと決めていた筈の最初に就いていた職種に再び舞い戻り、結局そのまま居ついて20年以上経った。
世間に対し一応職を持って長年働いてる、という格好は保ちつつ、何とか現在まで生きてきた訳だ。
「同じ仕事を長くやってるのは偉いね」などと言われる事もあるがそれは「たまたま」だ。結果的に長期居座れる場所があったからに過ぎない。
私は別に「更生」した訳でも何でもないのだ。
昨年書き置きを残して辞めた彼は20年前の私と同じだ。
まだまだ若く、人生はこれからたっぷりと長い。
長いけれど可能性は有限で、多くない選択肢の中で行く道を探さなければならない。
両親とも大変仲が悪いそうで、一刻も早く経済的に独立し家から出たいと言っていたが、当面は難しい気もする。
でも彼に適性のある職場、彼の生きる場所。見つけて欲しいと思う、これから幾度かは転々とする事にはなるかもしれないが。
「世間」は甘くなくても、少なくとも「学校」よりはずっと広い筈の場所なのだから。
【追記】
自分で書いておいて気になったので一応追記です。
過去の上司の事を「汚いメタボ親父」とかなりキツい表現をしていますがこれは他人の容貌をどうこう言いたい訳ではないです。
(若く美しい男性なら文句が無い等の意味でも当然、無い)自分が相手より美しい訳でも何でもない、つまり「どう考えても他人の容姿を堂々とネタに出来るような外見の持ち主ではない」筈の人が(普通に考えれば22の娘よりもマシな外見などではありえんだろう。無論身目麗しければ他人を馬鹿にして良い訳でもないが)「自分は男なので当然品評する側の人間」という思いあがりの理不尽さに対してこういう書き方になりました。
と言うより様々な意味で条件が極端に厳しいので後から入った若者が長続きしないのだ;
なので私のように長く居ると新入社員との年齢差はどんどん開いて行く。(最初のうちはそれでも4~5歳程度の開きだったが、ここ数年は20歳以上年下の新人がガンガン出入りする状況になっている)
一昨年も新卒の男の子が入ったがまた辞めてゆき、例年通りの総入れ替えとなった。
彼は一年以上居ても全く仕事が覚えられず苦戦を重ねていたようで、ある日書類の端っこに鉛筆で「もう辞めます」という走り書きを残し姿を消した。
今どうしているのかは知らない。こういう消え方をする男の子もそう珍しくはない;実のところ過去何度も遭遇している。
彼は発達障害だと聞いていた。
元々ある程度の適性が必要とされる職種ではあるが、それを差し引いても彼は極端に「指示の意味が理解出来ない」ようで、随分その事に苦しんでいたと思う。
そんな事情もあってか彼はウチの職場に来る前に居た学校でも随分と差別的な待遇を受けたと言う。
高い学費を払っているのに講師は物覚えの悪い彼を別室に隔離し、まともな授業も受けさせなかった、とか。
それでも彼は学校を辞めるでもなく卒業まで在籍した。
「根性で最後まで頑張った」というのとは違うように思う。
どんな学校だろうと「そこを卒業する」以外の道や選択肢を探せる力が当人に無かったのだと思う。かつての私もそうだった。
レールを外れるには担保が居る。
才能、コミュ力、許される環境、選択出来る意思、自信。
何かが無ければ自由に道は選べない。彼の人生には枷が多いのだろうと思う(ただ医師の診断まで降りていながら周囲が対策を講じた風で無いのは気になったが)
それでも彼らの倍以上の年齢になってしまうとついこんな台詞が出てしまう。
「まぁ、彼はまだまだ若いし時間もある。これから何にでもなれるし何とでもなるだろう」
そう言ってしまってからまたふと考える。
二十数年前、私も彼らと同じ年で、同じだけ時間があったが可能性は無限に広がっていただろうか?
何処にでも行けただろうか、何にでもなれただろうか?
私は22で一度仕事を辞め、それから何をすればいいのか悩んだ時、既に可能性は有限で一日一日が過ぎてゆく度未来はどんどん行き詰まった。
十代の頃に抱いていた「やりたい事」や「夢」の類はもう消えていて、なのに「出来そうな事」は何も思いつかず自分の限界に気付くしかなかった。
若さ=無限の可能性ではなかった。
私が9歳でいじめられっ子になってコミュ障を発症した時、世界は突如不安と恐怖だらけに変わった。
教師や大人は「ここ(学校)で馴染めないようじゃ君は世間では生きて行けないよ」と事あるごとに言った。
子供は恵まれているんだ、外は学校のように甘い場所じゃないんだと。
小学校、中学校、高校、専門学校を全て居場所が無いまま糞真面目に通って卒業し、それから二十年以上経つ。
三十代の初めに通った教習所にて学校で聞いたのと同じ終業チャイムの音に幾度も背筋が凍った。
学校という空間に自分を全否定される恐怖は卒業後十年経っても体が記憶していた。少なくとも私の人生に於いては「社会」よりも「学校」の方が怖い場所のままだった。
「外に君の居場所は無いよ」「外じゃ生きて行けないよ」「あの子は普通じゃない」と言われるもそれから二十数年後、「世間様」「社会」に馴染んだ訳でも自力で自分の居場所を作れた訳でもないけれど、とりあえず今生存して文章を打っている。
専門学校卒業後最初についた仕事は条件や会社形態がでたらめだった。所謂ブラック企業。
(それも世間でブラックと言われるワタミや王将に比べても更に非常識なレベルで、その頃の事を話しても酷過ぎて多くの人には信じて貰えない;それは会社でも雇用でもないだろと呆れられた)
二年弱居たその会社が突然消えて、次はビデオレンタルショップに行ったが挨拶や接客が出来ない私は一か月でクビ。
その後居酒屋の厨房に入ったが、説明会当日にいきなり直属上司になるという男性に怒鳴られた。
「おい!おめぇ!こっち来いやぁ!!!ああ?」
なんのミスをした訳でもない初対面の娘をただ「呼ぶ」のに狂ったような怒声貼りあげる中年男性の姿に完全に嫌な予感、いや、嫌な確信がした。
そういう人間の下に入る事。そして初対面の日に「そうして良い相手」として目をつけられた事に一瞬で血の気が引いた。
「この職場はヤバい」と気付いたものの、世間知らずを極めていた私は「雇用を断る」という判断が咄嗟に出来ず;(「三カ月の雇用契約」は「三ヶ月間の雇用をバイトに保障する」意味だと考えず三カ月間は辞めてはならない、だと思い込んでた)予想通りに差別と暴言とセクハラ三昧の厨房で三カ月働いた。
私がここで再度味わったのは「高校入学直後のいじめが始まる時の空気」と同じもの。
「こいつ虐められてた事のある奴じゃね?じゃあ人以下の扱いをしていいんだな?」という共通認識と悪意が殆ど接点の無い周囲の人達の間にまでじわじわ広がってゆく空気は今も思い出すだけでぞっとする。
「対等の人間」と認識している相手にならば通常やらないような態度や発言がさしたる悪意も無く次々吹っ掛けられた。
結局三カ月後にそこを逃げ出した。
人間とみなされないのが当たり前の地獄と化した学校で成人前の長い長い十二年間を暮らし抜いた私の耐性はもう失われていた。
けれどそれはそれでいいんじゃないかとも思う。
学生だった私が別に強かった訳じゃない。選択肢が「死」か「登校」しか無かっただけのこと。
そんな環境を受け入れ続ける「強さ」なんて持つべきじゃない。持たなければ生きられなかった事の方が間違っているのだ。
成人してから十年位は頻繁に学生時代の夢を見た。(今もたまに見るが)当時の記憶を詳細に詳細に思い出しては凄まじくうなされた。
心理学によるとこれは「心の傷の回復過程」の症状なのだと言うが、何となく分かる。
回復したからこそ、「人間である事」を取り戻した魂が過去の人生を激しく拒絶する。
「人間」があんな仕打ちを受けてはならない。
「あの子」は長い間あんな人生を送ってはいけなかった筈だ。
そんな当時は正面から目を向ける事の出来なかった、持つ事の許されなかった「理不尽への怒り」が夢の中で解禁されて汗だくになり、過呼吸のようになり、涙塗れになる。そういう事なのだ。
(この症状は10年ちょっと。学生やってた時間と同じ位の期間続いた)
「人として」耐え難い環境ならば辞めたっていいのだ。
今でも後悔してるのは、説明会の日に引き返せず、結局三カ月も行ってしまった事だ。あの期間にまた山のようなトラウマを貰った訳だし;
汚らしいメタボ親父に毎日ぴったり背後に立たれ、舐めるように眺めまわされながらここぞとばかりに体型をからかわれた。
短期間バイトなのにあれ程執拗に体つきや容姿を話題にされ続けた時期は無かった。
22だった私は容姿体型をからかわれ性経験の有無を大声で問われ、年齢の高い女性は同年代の男性からも執拗に「おばちゃん」「お婆ちゃん」とわざとらしく呼ばれていた。
「女である事」はこんなにも見下される事なんだと知った。
学校にはなかった「辞める」という選択肢があった分「学校」よりも「社会」の方がずっとマシだと思った。
(無論学校をやめるという選択肢もあるし、高学歴から新卒でそれなりの企業へ、という人生送ってる人なら転職という選択肢も簡単ではないだろうが高いレールに乗っていなかったのが却って幸いだったようにも思う)
辞められた、出られた。それは救いだった。
しかし二度のバイトの失敗でもうつくづく外の世界が嫌になり、それから何カ月かは所謂引きこもりになっていた。
ヲタ友達は皆働いていたから平日は暇を持て余しやたらビデオを借りて見ていた。洋画もアニメも沢山見た。
何故かこの時期(20代前半)に見た沢山の映画は忘れられない。
「美しき諍い女」「愛人」「なまいきシャルロット」「膝と膝の間」
映画なんて今もそれなりに見てる筈なのにあの時期の空気と一緒にあの頃見た映画を懐かしく思い出す。
多分「若かった」からだろう。懐かしさというものは楽しかったかどうかが決めるものではないのかもしれない。
あの数か月のニート生活のぬるま湯の中で追い詰められてゆく感覚、あのままハマりきってしまえば行く先は長い引きこもり人生だったろう;
自宅の幾つかの部屋だけが生活空間となり、後ろめたさで溢れ、決して快適ではない筈なのにもう二度とこの生活から抜け出せず、社会に出るのが億劫で怖くて嫌で堪らなくなってゆく。
ぬるま湯の中でじわじわと腐って行く不安感。
それでももう社会には出たくない。
大人には誰にも守って貰えなかったのに十年も休まず耐えて通った学校。
行きたくなかったのに入って1ミリも馴染めぬまま二年通い卒業した専門学校。
そのまま入ったブラック会社。
周囲から浮いてあっさり首になったバイト。
さらに耐え難い思いで通った居酒屋バイト。
もう「世間サマ」「社会」が怖くて疲れきっていた。
もう学校にゆくのも、親しくない人のいる場所で働くのも嫌だった。
その先のなれの果て、とうとうなるべくしてこうなった、そんな気がしていた。
子供の頃、図書室が好きだった。
友達が居なかったから、というのもあるが、本が好きだった。
読むのも好きだったが、読み切れない程本棚に並ぶ背表紙を眺めて歩き回り、年季の入った装幀の下にどんな世界が広がってるのかをただ想像するのも好きだった。
レンタルビデオ店員をやっていた一か月間、接客は上手くこなせず、バイト仲間にも馴染めなかった私は返却されたビデオを棚に戻したりと整理作業をしながら並ぶパッケージを眺めて内容を想像したりと、小学校時代の図書室と似たような過ごし方をしていた。
人間は年を食っても中々変わらないのだ。
しかし母は長期ニート生活を許さず私を強引に家から叩き出し、もう二度とやらないと決めていた筈の最初に就いていた職種に再び舞い戻り、結局そのまま居ついて20年以上経った。
世間に対し一応職を持って長年働いてる、という格好は保ちつつ、何とか現在まで生きてきた訳だ。
「同じ仕事を長くやってるのは偉いね」などと言われる事もあるがそれは「たまたま」だ。結果的に長期居座れる場所があったからに過ぎない。
私は別に「更生」した訳でも何でもないのだ。
昨年書き置きを残して辞めた彼は20年前の私と同じだ。
まだまだ若く、人生はこれからたっぷりと長い。
長いけれど可能性は有限で、多くない選択肢の中で行く道を探さなければならない。
両親とも大変仲が悪いそうで、一刻も早く経済的に独立し家から出たいと言っていたが、当面は難しい気もする。
でも彼に適性のある職場、彼の生きる場所。見つけて欲しいと思う、これから幾度かは転々とする事にはなるかもしれないが。
「世間」は甘くなくても、少なくとも「学校」よりはずっと広い筈の場所なのだから。
【追記】
自分で書いておいて気になったので一応追記です。
過去の上司の事を「汚いメタボ親父」とかなりキツい表現をしていますがこれは他人の容貌をどうこう言いたい訳ではないです。
(若く美しい男性なら文句が無い等の意味でも当然、無い)自分が相手より美しい訳でも何でもない、つまり「どう考えても他人の容姿を堂々とネタに出来るような外見の持ち主ではない」筈の人が(普通に考えれば22の娘よりもマシな外見などではありえんだろう。無論身目麗しければ他人を馬鹿にして良い訳でもないが)「自分は男なので当然品評する側の人間」という思いあがりの理不尽さに対してこういう書き方になりました。