随想録~つれづれなる一言日記⇒Part2はhttps://blog.goo.ne.jp/conny_mizukiにて

私こと瑞希祐作が、無秩序・無作為・無節操に自分の思いのままを書きつづってみました。楽しんでください!

”I Love You!"をなぜ言うの?

2009-01-31 | 比較文化論
米国人の男性はなんでいつも自分の恋人や奥さんに“I Love You!”を言うのでしょうか? いや言い続けなければならないのでしょうか? そういうことをみなさんは考えたことがありますか?

 日本人の男性の場合、まず面と向かってそういう言葉を口にすることはありません。せいぜい最初に女性を口説くときとか、プロポーズでそのようなしゃれたことをのたまうことはあるかもしれませんが、それ以外にはまずしないと思います。彼女からそういう言葉をせがまれるようであれば、「そんなの恥ずかしくて、言えるかい!」というのがオチです。下手をすると、つきあってから結婚するまで「愛してる」とかいうストレートな言葉を聞くことなく結婚してしまう人もいるでしょう。

 日本語の場合、例え「愛してる」という表現を使わなくても、湾曲的な言い方から相手に自分の気持ちを伝えることができます。それだけ豊富な表現の仕方が存在するのです。ところが、英語の場合はそういうまわりくどい言い方というか、そういうことを匂わせる表現というのがあまりありません。というよりも、そんなまわりくどい言い方をするのではなく、「もっとストレートにはっきりと意思を伝えて欲しい!」と相手から言われてしまうのです。この辺には日本語と英語の根本的な文化の違いが存在するからだと思います。

 ではこういう文化の違いは何故起きるのでしょうか?

 まず第一に、日本語と英語には「表意文字文化」と「表音文字文化」の大きな違いがあります。日本語はひらがな+かたかな+漢字から成り立っています。日本人として満足かつ十分な表現をするためには、2,000語前後の文字を覚えなければなりません。英語の場合は26の記号文字だけです。漢字に関して言えば、更に一文字ごとに読み方も複数あり、また文字自体に意味もあります。アルファベットのように1記号文字と、1文字に複数の発音と意味を持つ漢字とひらがな・カタカナを持つことで、日本語は途方もない数字の表現力を有することになります。しゃべるだけだったら、同じかもしれませんが、そういう会話の中から漢字の文字が頭に描かれ、更にそれの意味を考えることになるわけですから、たった一言でも日本語と英語ではその複雑さに格段の違いが存在します。英語の場合記号文字の組み合わせですから、どんなに組み合わせても一回に発音できる文字の長さにも限界がありますし、その限界は必然的にボキャブラリーの限界・意味をもつ言葉の数の上限を意味します。組み合わせでの意味に限りがあるわけですから、どれだけ文字を駆使しても「表現力」という点では、日本語にはかないません。日本語だったら、いろんな表現ができたとしても、英語では自ずと表現が限られてしまうのです。

 第二に、歴史的な背景があります。日本という国は非常に長い歴史を有する国です。ところが、米国は建国して300年弱の歴史しかありません。おまけに前者が島国で単一民族国家(ちなみに世界では他に単一民族国家でこれだけ長い歴史を持った国はありません。)であり、後者は移民を中心とした他民族国家です。こういう歴史的背景の中では、日本人は共通のバックグラウンドを持つことが非常に簡単です。だれでも同じような考え方ができる、共通の意識を保てるということは、お互い同士の認識・意思疎通を容易にすることが可能なのです。「言わなくたってわかるだろう?」とか「察してくれよ!」という言葉は日本人だからこそ通じる言葉で、他の国の人にはなかなか理解できないことだと思います。一方米国の場合、前にもいいました通り移民をベースに成り立っている国家です。まず同じ国の中で生活を始める前に、全く文化の違う人間と意思疎通を図らなくてはなりません。英語という共通の言語しかない中で、その理解を始めるにはまず相手に「自分自身を理解してもらう」必要が出てくるのです。どうにかして、なんとしてでも自分のことを相手に理解してもらわなければならないのです。それができなければ、何もはじめられません。したがって、彼らのまず最初の行動は「英語を使って、自分自身の言いたいことをはっきり伝え、相手に理解してもらう」ことからはじまります。要は通じれば良い、通じるためのみの言語が必要なのです。そしてもちろんこれは単に取引などだけにとどまらず、恋愛の手段としても同じです。自分が「相手を好きだ!」とはっきりわかってもらわなければ、決して恋愛に進まないのです。共通の歴史的背景・バックグラウンドがあればいろいろな言い回しで相手に気に入ってもらえるのですが、米国ではまず「自分の気持ち」をわかってもらわないと話にならないので、ストレートな表現が優先されるのです。

 第三に、文化的な背景の違いがあります。日本という国は何事に置いても組織化されています。だから突拍子もないこととか、普段のルールと違うやり方を極端に嫌うのです。「出る杭は打たれる。」ということわざにあるように、自分勝手なやり方、強い自己主張は理解されません。したがって誰もが上や下や横をみながら、どうしたら相手の気分を損なわないようにうまくやれるかということを考えがちです。こういう考え方は、人間関係のつながりをより密着させ、理解しあうことにより「共通の意識基盤」を作ることになります。一方米国の場合、個人の意思が極力尊重されます。「自分の意見を主張し、相手の意見を聞き入れ、その中でベストな選択をしていく。」という基本理念があるわけで、この考え方からすれば、組織的な考え方をする前に、「まずあなたは何を考えているのか?」ということを聞かれることになります。こういう基盤があるわけですから、米国では自ずと自分自身をアピールしなければなりません。好きな彼女に対してもしっかりと、“I Love you!”といわなければならないのです。

 こういうこともあり、日本人に比べると米国人のほうがはっきりとストレートに愛情表現をするのです。普段こういう扱いになれていない日本人女性からすれば、米国人のストレートな表現に参ってしまうのもわからないではありませんが・・・。

 さて、同様なことがメインテナンスの部分でも出てきます。日本人なら「釣った魚にえさをやらない」と言ったように、彼氏・彼女の関係になったり、結婚してからもそんなに「愛情表現」を相手に対しすることはありません。これはやはり「私の気持ちはわかっているだろう? そんなの聞くだけ野暮だよ!」という考え方が根底にあるからです。男も女も長い日本での組織的教育の中で、そのような素養を身につけさせられているわけです。だから、お互いにわかりあっているのです。いや、わかりあっているふりをしているのです。わかりあったふりをしているというのは、昨今の離婚件数の増加は明らかにこのようなお互いの理解が不十分であったが故、時間が経つと「夢から醒める」ことを意味しているのです。そう考えるとストレートな愛情表現でのメインテナンスは日本人には必要なのかもしれません。

 ところが米国人の場合は、お互いに自分を主張しないとわかってもらえないわけです。それも一回だけではダメなのです。というのも、共通のバックグラウンドが存在しないわけですから、相手の考えていることが常にわからないのです。そして常にそういう状態にあるということは、相手に対する自分への考え方に始終疑念が生じる可能性があるということなのです。これを打破するためには、常に愛してる、愛されているというメインテナンスを継続しなければならないのです。だから、彼らはしょっちゅう彼女や奥さんに電話をかけまくるのです。日本人の男性だったら、「なんて面倒くさいことをするのだ?」というかもしれません。でもこれをしないと、彼らは相手からの信頼を得られないのです。

 よくある光景ですが、米国人男性は夜昼かまわず彼女や奥さんに電話をしています。大事な仕事や楽しい宴席でもそうです。そういうのを見ていると、「この人も大変なんだなぁ?」と同情してしまいます。でも彼らからすればこういうメインテナンスは義務であり、相手からの信頼を受けるための必要不可欠手段なのです。こういう風に考えると、「私は日本人に生まれてよかったなぁ・・・。」としみじみ思うことが度々です。もしあなたの周りにそういう米国人を見かけたら、きっと彼らも苦労をしているんだと思ってください。

 こういう風に考えると、彼らを見る目も少し変わってきませんか?

(http://ncode.syosetu.com/n0506g/ にも同じ文章を掲載してみました。)

確定申告を目の前にして・・・

2009-01-31 | 雑ネタ
さてと、恐怖の確定申告の季節がやってきました。こちらは日本とは違い、全部自分でやらなければなりません。この作業が本当に大変なんです。過去3回やってきたのですが、まあ普通にやれば1週間、どれだけ短縮しても2-3日はかかるという代物です。それでも私の会社はインターネットでやれるようになっているので、まだましなほうです。これが何も手助け無く、自分で全部やるとなったら、本当にえらいこっちゃです。

何しろ自分のステータスを全部記載するのです。去年いつどこにいたとか、収入は? 銀行にどれだけ預金があるの? 日本にある家はどうしているの? 雑収入は? 等々ほとんど根掘り葉掘り状態です。もし日本であれば、会社員なら大方は源泉徴収でやってくれます。だから何にもすることはありません。まあ、昔買ったマンションの還付金手続きを税理士さんにお願いしてやってもらうくらいなのです。(そういえば、今年もお願いしなければならなかった。) ところがこっちでは全部しらべて全部記載しないとまずいのです。

まあ3年間の間に少しは進歩しましたので、毎日こつこつとスケジュールをパソコンに入れたり、銀行の明細をとっておいたりといったことはやっていました。最初のころはこれすらやっていなかったので、まずこういう書類を捜すところからはじめなくてはなりません。今にして思えばかなりの重労働でした。

とはいえ、この手の作業は年間1回なものですから、「喉もと過ぎれば・・・」状態で、直ぐに忘れてしまうのです。だから、1年たってこのシーズンが来ると、またまた憂鬱になっていくのです。もちろん日本にも問い合わせをしなければなりません。故に昼夜問わずの作業になってしまいます。

最悪なことに、この手のことをうちの細君は一切手伝ってくれません。ちょうど前回の餅つきと反対の状態です。「私は暮らす人」決め込んでいますから、絶対的に何にもしてくれません。だから一人でやらなければならないのです。

さて、これからこれをやらなければならないと思っているのですが、なかなかやる気が起きません。何しろ書類にして40-50ページの大作です。一気に方をつけないと、気持ちが萎えるのです。だから多分ぎりぎりまでならないと、はじまらないと思います。これが悪いくせなのです。「人間追い込まれないと何もしない・・・。」のは、まずいことです。

でもまだ私はましなほうです。同僚は今回が初めてです。きっと気が狂うでしょう。まあどこで、見切りをつけて、「違法にならなければいいや!」という踏ん切りがつけられるかです。これがつくと、断然スピードアップしますが、できなければ亀の子のようにゆっくりゆっくりしか進みません。彼が早くそれに気づくことを祈ります。

これからこちらにこようとする人は、こういう苦労もあることは是非とも考えておいたほうがいいですよ! 大変です!(笑)

餅つき機

2009-01-30 | Cooking, Drinking
米国でもお餅はあります。アジア系のスーパーマーケットに行くと、意外や売っているものです。こういうのを異国の地で食べると、かなりなつかしさを思い出させられます。でもとっても高いのです。多分日本の倍から3倍近く。まあ確かにソイソース(醤油)や豆腐のようなものは、日本と比べてもそれほど高くないような気がしますが、出し入り味噌とか納豆とかそういう食材は普通倍から3倍くらいします。それでも買わなければこちらでは日本食は食べられないのです。だから必需品は仕方なく買います。でもお餅のようなものは、無ければないで過ごせるが、あればあったでうれしい、という類にはいるわけでして、こういうものはまさに値段と購買欲が非常に微妙な位置にあるのです。そういう意味では、売るほうも買うほうも難しいのです。

私の場合、大方こういうようなものは日本からくる皆さんにお願いをして調達をしてきてもらいます。そうすれば、微妙な購買欲を気にする必要がないのです。でももってくる方には、いつも悪いなぁ・・・、何かしてあげなくてはいけないなぁ・・・、と思うのです。

ところが、昨年から今年にかけて我が家に一時的でしたが「餅つき機」が滞在していました。これは元々現地の補習校のものであり、正月のイベントで毎年使っているものです。でも一年に一回しか使わないものですから、毎年ちゃんと動くかどうかわからないのです。だからいつも係りの人がその前に家に持ち帰って、試しに餅を作ってみるのです。まさに「持ち帰った餅つき機でついた餅を持ち寄って、もちもち感のある餅パーティーをやってみよう!」というような早口言葉でも使えそうな合言葉がどこからか沸いてくるのです。(笑) というわけで、今回うちの細君がこれにチャレンジしました。

結構作るのには準備が大変だったようです。また完成した後、切る作業も手間ひまがかかるようです。「私たち食べる人!」を決め込んだ私と子供たちは一切手伝いません。細君は恨み節を連発です。「まあ所詮、その辺の餅つき機だからたいしたものはできないだろう?」と我々一同はたかをくくっていたのですが、意外や意外、できたものはなかなかのものでした。普段パック入りのものしか食べていないと、本当のお餅のおいしさが身にしみてわかりました。

この話をどうもうちの細君は普段通っているESLの方にしたそうです。すると、やっぱり興味を持つ人が出てきました。「どうやったら手に入るの?」と聞かれたそうで、私たちもいろいろ調べたところ、MITSUWAでも売っているし、インターネットでも購入できることがわかりました。およそ200ドル強で手に入るようです。確かにあると便利です。もち米自体は安いし、こちらでも手にいれようと思えば手に入ります。そこでうちの細君に、「ならばうちも買ったらどうかい?」と提案したところ・・・、

「あなたたちが手伝ってくれたら考えるわ・・・」

「いや、手伝うくらいだったら・・・、また皆さんに頼みます。」と私は即答してしまいました。

やっぱりおいしいものは苦労しないと食べられない、というお話でした。


おいしい水って?

2009-01-30 | Health Care
日本では水道水がそのまま飲めます。キチンと除菌された上水道が各家庭内に引かれているからです。だからどこに行っても、よっぽどのことがなければ飲めないことはありません。

ところがこの常識のまま海外に出るとえらいことになります。日本と違い他の国の水はそういう除菌とかはされていません。されているとしても、キチンとされていません。だから海外渡航者にはどの旅行案内書でも、「決して生水は飲まないように!」と書かれているはずです。(生水で大丈夫という国はあんまりないんじゃないでしょうかねぇ?)

米国に来て、私もこれを知っていましたので、そのまま飲むということはしませんでした。飲み水は別に買う。仮に飲むとしても、やかんで一旦沸騰させて使う、という風にしていました。ところが、何度かやかんをつかううちにそこの方に白いものがこびりついてきたのです。どうやらカルシウム? らしきものが出てきているようなのです。それを見て、やっぱりいろいろな成分が入っていると感じ、それ以来人体に入れる水はスーパーマーケットで買ってきたものを使うようにしています。

さて、スーパーマーケットに行くと、水にもいろいろな種類があります。「Drinking Water」、「Spring water」、「Distilled water」と言った具合にです。どの水を使うかはその人や家庭によって違うのでしょうから一概にどれが良い、悪いを論ずることはできません。でも、このように買わないと安心をして飲めないというところが辛いです。

日本ではここ1年、ギョーザ問題に端を発した「食の安全」ということが盛んに叫ばれています。ただ、海外では「自己防衛」に対する考え方が日本より強いので、食物に関してはより自分の目で見分けなければなりません。くさった野菜や変形したのなど、日本ではどう考えても不良品と思われるようなものがごろごろところがっています。また大きさなどの規格もありません。要はたまねぎならたまねぎであればよいのです。じゃがいもなら、形や大きさの良し悪しは別としてじゃがいもとわかればよいのです。それがどっと並べられればその中かから我々が選ぶのです。それでいろいろと目利きができるのです。

ところが日本では、全てが「安全」という名の下に並べられてるわけですから、皆がそれを信じて疑わないのです。でもひとたびその信頼が揺らいでしまうと、今度はどこまで行っても不安だけが残るのです。「これは大丈夫か? あれは大丈夫か?」などと、神経質になるのです。ある程度目利きができるようであれば、「ちょっとまずいよね?」という感じで、買わないのですが、全部安全だと思ったらそういうところを気にしないのです。

そういう意味では日ごろからきちんと自分で見分けができるようにしておくことが必要です。私もこちらきてからずいぶんそういうことに慣らされました。とにかく自分の身の安全は自分でチェックするというのが必要なのです。

海外での生水は危険です。皆さんも注意しましょう!


雪の降る街を・・・

2009-01-29 | とあるひと時
今日は散々でした。元々NYへ出張にいくはずだったのですが、最近お話しているようにこの近辺相当の悪天候が続いています。昨日の夜もしんしんと雪は降り積もり、外灯に映る雪を見ながら思わず「雪の降る街を~わぁわぁわぁわーーー!」という感じで一人歌いたくなってしまいました。

しばらくその雪を眺めていると、今度は中にきらきらひかる物体があるのです。これは「ダイヤモンドダスト」です。日本では北海道かよっぽど寒いときの本州の奥地ではないと見られないきれいな雪の結晶が光り輝いているのです。しばしその美しさに呆然としてしまいました。

というわけで、そんな状況だったわけですから、今日という日が怖かったのです。

まず朝起きて電話をチェックしたら、いきなり航空会社からの電話記録が残っていました。留守電を聞いてみると、予想通りです。乗るはずだった便がキャンセルになってしまい、勝手に次の便にふりかえられてしまっていました。まあ何とか予定には間に合うので準備をしたのですが、次にまた大問題が出てきたのです。実は昨日というか一昨日から降っていた雪が積もりに積もっていたのです。その厚さ、5-6インチです。5-6cmではありません。センチに直せば15-18cmの雪がどかっと降り積もっているのです。車を出すためにはこれをどかさざるをえません。スコップを持ってしばし肉体労働です。仮にこれをやらなかったら、夜や翌日に溶け始めたころに、また冷やされてアイス化するのです。こうなると、もう手がつけられません。僅か15-20メートルの距離であっても、車を出すことができなくなるのです。そうなるとうちの細君が騒ぎ出すに決まっています。自分の車で出張に行くためにも「しょうがない・・・。」、と思いやり始めました。

さて、その間に今度は電話がなりました。今日打ち合わせをするはずだったクライアントからの電話です。彼曰く「いや~、NYもひどいことになっているよぉ~。」といいう悲しげな表現。これはできれば今日の打ち合わせはキャンセルして、日を改めたいということを言っているのだな? と直感しました。ところが、今回の打ち合わせはここだけではなかったので、今度は他の人たちの状況を聞くことにしました。そうするとやはりうちと同じ状況がどうやらNYのほうでも起こりつつあることが判明しました。まあ確かにそれはそうですね! こっちの雲が偏西風にのって向こうにいくものですから、こっちできびしい雪が降れば、当然向こうでも降るわけです。ということで、せっかく出発するために雪かきをしたにも関わらず、今度は予定も予約も全てのキャンセル作業を開始しなければならなくなりました。クライアントの皆様に電話をして、キャンセルする旨を伝え、次に旅行会社のお姉さんに連絡して、飛行機やホテルのキャンセルをしてもらったり、今週のスケジュール調整やら何やらと・・・。結局午後2時くらいになって漸く作業が完了し、そこには疲れ果てた私しか残りませんでした。

まあこの近辺でも350+100校くらいの学校がこの2日間休校になっています。またTVのニュースでもあちこちで事故やら車線規制が報じられていました。本当に「マヒ状態」という言葉がよく当てはまります。

多分明日くらいから正常にもどるのではないか? と期待していますが、今年はどうもおかしいですね。こんなに寒いとは全く思いもよりませんでした・・・。(ちなみにこの近辺とNYの友人はみなそう言っています。) これも温暖化現象のはねっかえりなんですかねぇ?

日本はどうですか?

冬のリフレイン

2009-01-29 | 比較文化論
この間、書類を探していたときに偶然昔書いた小説が見つかりました。何か読んでみると、やはり「拙いなぁ・・・。」と思う反面、なつかしい友達にあったような郷愁を覚えました。こういう場合、「なんて文章を書いているんだ?」とか「あのころは若かったんだなぁ?」なんて考えてはだめなのです。あのころにはあのころの感覚があって、今は今でこその感覚があるのです。そういうのはやはりいろいろな経験から来るのでしょう。

読んでみると恥ずかしさはあるのですが、それでいて書いていたころの感覚がよみがえってきました。「それではいっちょう、手直しをしてみようか?」という感じではじめたら、直ぐに飽きると思っていた自分が妙に熱中してしまいました。原稿用紙にして20枚くらいの短編だったのですが、結構書いていておもしろいものです。結局2-3時間くらいかかって修正をしました。

さてさて、読んでみるとまあまあの仕上がりかな? でも自分のことを知っている人が読めば、きっと笑われるでしょう。でもやっぱり完成してみると可愛いものです。ということで、どこかに発表する機会はないかなぁ? と思いサイトを調べてみると、意外に小説の投稿サイトというのはあるんですね? 最近は携帯小説もブームになっているから、本当にたくさんの人がいろいろな文章を書いています。ちょっと読んでみると、凄く上手な人もいますし、「携帯小説ってこう書くんだ~!」という人もいるものですから、いろいろとためになります。(笑) 昔と違って堅い書き方ではなく、人それぞれが自分の書き方で表現しているところがやっぱりすばらしいと思います。まあ「美しい日本語」を後世に伝えなければならない、なんていうたいそうなことを言うつもりはありませんし、逆にたくさんの人がどんな形にせよ日本語を使って表現をしているのは、とても良いことだと思います。

英語の場合、伝わればいいし、理解するためだけの表現が主となりますので、本当に細かい部分までのそういうことはまずできません。いや、英語だけでなく、他の表音文字を介する国の言葉はやはり話言葉が優先されるものですから、きっとその文章の持つ本来の意味を微妙に伝えきれていないと思います。その点、日本語というのはひらがな、カタカナ、漢字等々を縦横無尽に駆使し、あらゆる表現が可能です。話し言葉だけではなく、漢字のような表意文字を使った「目で見る表現」もあるわけです。これが幅を広げているのです。同じことを言うにしても、それこそ何通り、何十通りのものがあるわけで、そのひとつひとつが微妙に違うのです。英語でも同じことの言い方を何通りかですることもありますが、日本語と比べたら無いに等しいものです。前にTVでやっていましたが、英語で“I(私)”と同じ日本語の表現を調べたら、私、僕からはじまり、我、某、拙者等100前後の表現があるそうです。でもそれぞれがそれなりに違う意味を有しているとすれば、その表現力たるやまさに無限大になるに違いありません。これはきっと日本語だからこそできる技であり、我々が誇れる一番の貴重な文化ではないでしょうか? やはり我々はこういうものを大事にしていくべきでしょう。

昨今若者の活字離れというものがよく取りざたされていますが、こういう風にいろいろな人がいろいろな形で日本語を表現していくようであれば、きっと中にはきれいな日本語も継承されていくことと思います。昔みたいに鉛筆と消しゴムを使わなくなって、今はワープロでやっている分、修正とかも容易ですし、打ち間違えさえなければ漢字のミスも十分少なくなります。皆さんも一度自分の文章で自分を表現してみてはいかがでしょうか?

さて、私の小説ですが、とりあえず下記のアドレスに置いてみました。このブログでもショートショートみたいな小説は書いていきたいとは思うのですが、もし興味があるようでしたら、ここにあるのも読んでみていただければ幸いです。(下手ですが、笑わないように!) ここで使っているHNは、昔私の友人が使っていたものを拝借しました。(爆笑)

http://ncode.syosetu.com/n0280g/

ちなみに、これからもヒマがあればいくつかネタはあるので書いていきたいとは思っていますが、如何せんなかなか時間がとれないので・・・、どうなることでしょうか?

まああまり期待せず、次回作を期待してくださいね!

Fire place

2009-01-28 | 比較文化論
米国の家に行くと、よく見かけるのは「暖炉」です。英語で言うと“Fire Place”というのでしょうが、これは日本人から見ると非常に特異に見えます。なにしろ日本では、暖炉なんていうのはよっぽどの田舎に行かないと見られません。家の中で物を燃やすこと自体、一酸化炭素中毒になる恐れもあるわけですから、まずそういうことをしません。よっぽどお金持ちの家でのぜいたく品か、田舎の昔ながらのものでなければ我々の目に映らないのです。ところが米国ではこれがあたりまえのように見られます。

日本のような機密性のしっかりした家と比べれば、こちらの家は隙間だらけです。もちろん暖炉があればサンタクロースが入ってこれるような(いや、もっと小さいかもしれないけど、)煙突があります。換気できるところはあるのですが、それを除いたとしても、本当のちゃんとした新築の家で無い限り、機密性はずたぼろです。今リビングのソファーで座ってこのブログを書いているのですが、足元からひんやりとした風がどこからともなくやってくるのです。要は、たとえしっかり窓とかを閉めていたとしても、隙間風が入ってくるのであれば、自然換気されているわけであり、決して中毒になることがないのです。

ところで、米国と日本の空調を考えるとき、非常に面白いことに気づきます。日本は基本的に一室一室ごとに空調がされています。だから夏は冷房の効いている部屋は良いのですが、他の部屋にいくと暑くて暑くて仕方ありません。冬には反対の現象がおきます。一方、米国の場合、一家及びアパートメント一件の冷暖房は集中管理されています。したがって、一旦家に入るとどこも同じ温度になっています。まあ機密性がしっかりしているから個別空調。ずたぼろだけど全館空調と言ったような文化の違いはあります。もしろん全館空調のほうが快適です。だから私は好きです。また日本と比べると電気代・ガス代も安いので、まあまともな家だったら、光熱費は日本の3LDKとこっちの普通の家(同じ3LDKでも広さは倍くらい)でも同じくらいかもしれません。それだったら集中管理されているほうがよっぽどいいことになると思います。

このような快適さを追求した米国の空調システムでありながら、それでいて「暖炉」というのは時代に逆行しているように感じます。「暖炉」あるところだけは、他のところと比べて暖かくなるのです。これはどちらかというと日本式のシステムに近いと言えるでしょう。これはきっと「昔良き時代の名残を伝えよう」という思いと、家族を大事にして一軒に一箇所「家族みんなの集まれる場所」というのをイメージして、暖炉が残されているのではないかと思います。

ところで、最近この米国の暖炉もいろいろ多様化しています。まず昔は薪を燃やしていた暖炉も今ではガスが主流です。また家によっては“Fake”、つまり偽物の暖炉があるところあります。これは形格好だけが暖炉で、実際に燃やすことはないものです。最近では、移動式の暖炉やイミテーション-つまりイルミネーションで燃えてる格好-のものも通販で販売されています。まあ時代が変われば品も変わるといったところでしょうか? でも昔からのいいところは残したいという気持ちがあるのでしょう。

歴史の短い米国でもこういう考え方があるのであれば、我々日本人はもっと自分たちの「歴史」を大事にして、古きよきものを後世に伝えていかなくてはいけないなぁ、と感じるのでした。

気分はスキー場

2009-01-28 | 自然・動物関係
前回に続いて雪の話です。いやはや、まあとんでもなく雪が降っています。

昨日、久しぶりに会社に行っていろいろと仕事をしていました。まあ天気予報でも雪が夕方から2-3日降るだろうという話があったので、ちょっと心配はしていたのです。でもそんなに早くも仕事が終わらなかったので、帰るときの高速はもうどっぷりと日が暮れていました。最初のうちはSnow Danceがちょこっと見えていたのですが、次第に雪が強くなってきました。いつの間にか道路の舗装部分も白い雪で覆われるようになり、「こりゃまずいなぁ?」という域まで達してしまいました。米国の車はスタッドレスですし、今の私の車はパーシャルですが4WDなので、大したスピードさえ出さなければ良いのです。とはいえ、この近辺の道は他の州と比べくねっているわ高低差はあるわと言った感じで、こういう場合はドライバー泣かせの道です。ちょっとでも気を抜くとスピンしそうです。結局普段よりも1.5倍くらいの時間をかけてへとへとになり帰ってきました。

そしてその夜、しんしんと雪が降り積もっていったのです。もうその時点では、「明日はオフィスに行くのは、こりゃ無理だな?」とは思っていました。

朝起きて、それでも真面目な(?)私は、一応Weather Channelとネットで情報を調べました。結局通勤に使う高速が80%以上“Cover”状態になってしまい、これはいくらなんでも往復は難しいと判断しました。だから今日はずっと家で仕事をしているはめになっています。

その後Weatherをチェックしていたのですが、一般的に北のほうが雪は降って、南部は結構あたたかい、というのが大凡の一般人の認識だと思います。ところがここ中西部では、風の流れと雨雲・雪雲の流れによって、北部では雪が降らないのに南部ではドカ雪になるケースもあるのです。これも季節や高低気圧の位置関係とかが微妙に合わさったが故なんでしょうねぇ・・・。個々最近いつもは北よりか南よりによけてくれたのですが、今回はまさに「ブチ当たり状態!」でした。本当に雪雲の真ん中がこのエリアをすり抜けていくわけですから、どう考えたって雪はふりますわなぁ・・・?

思い起こせばこの4年近く、確かにこれだけ降ったのはこっちに来て1度あったかなかったか? ぐらいでしたね。まあ昨年も道路が凍ってしまい、オフィスにいけなくなったことはありましたが、今回みたいに完璧なお手上げ状態は初めてでした。

さて、この雪ですがこちらのほうはほぼ今日中に峠は越えそうです。まあ2-3日交通は麻痺するかもしれませんが、何とかなるでしょう。ただ問題なのはこの雪雲が東海岸-NY-のほうに流れていっているのです。実は明日からそっちのほうに出張があり、この雲を追いかけていくというトンでもないことになりそうです。雲厚いから当然降りるときには揺れるでしょう。時間も遅れるでしょう。既に明日打ち合わせをするクライアントからは、「お前、大丈夫か?」とか「明日、大雪警報がでてるぞー!」という風に脅されています。でも既にチケットを買ってしまっているので、変更はできないのです。もはや運を天に任せていくしかないかな? という感じです。

雪って部屋から見てると情緒があっていいのですが、この中を移動するのはとっても問題です。はぁ~、困った・・・。


Snow Dance

2009-01-27 | Travel
昨日冬の高速道路を走っていました。そこでまあ、めずらしいといえばめずらしい光景に出会いました。「Snow Dance」とでもいいましょうか? 雪が道路の上を舞い踊っているのです。

ここ最近私の住んでいるところは10年ぶりくらいの寒い冬となっています。度々降る雪はそれほど積もりませんが、凍ってしまうと本当に大変です。前にも何度か話したと思いますが、除雪車が頑張ってくれるので、よっぽどのことがない限り高速道路はなんとか通れるのですが、一般道はそうは行きません。おそるおそる走ることもよくあります。

さて、私が命名する「Snow Dance」というのは、高速道路にパウダースノーが降っているときに起こるもので、要は道路の上であるときは波紋のような、またあるときは蛇の動きのように、そして時には飛行機から見る雲が流れるごとく道路の上を雪が舞い踊るのです。一度見てしまえば、「あー、これかぁ・・・。」と言えるようなたいしたものではないのかもしれません。確かに私も以前には何度か見たことがありました。でも昨日のように幻想的だったのは初めてだったので、ちょっと取りあげてみたかったのです。

というのも、これはある程度の条件が揃わないと起きないのです。気温がかなり寒いこと、路面が雪で隠されていないこと、風がそれほど吹いていないこと、適度に交通量があること等々が必要なのです。気温がかなり寒くないとパウダースノーになりませんし、接地面で直ぐに溶けてしまいます。雪で道路がカバーされていると、全然見分けがつきません。ある程度除雪し、道路の色と雪の色がはっきりわかるようでないとだめなのです。それとやはり風速ですね。風が強ければ簡単に吹きとんでしまいます。結構無風に近い状態でないと、道路に雪が滞留しないのです。それにこういう雪は車が走る影響で起こるささいな風力に反応して踊るのです。それほど強くない風がちょっと雪を浮かしてまた落とす。この繰り返しがつながることによりこのような現象が起こるのです。

今回も最初はそれほどではなかったのですが、走るにつれてコンディションが次第に整ってきたのか、かなりきれいに道路の上を雪紋(?)が広がるようになりました。多分今まで見た中では、一番きれいで長い間見ることができたのではないでしょうか?

「そんなささいなことを・・・。」という方もいるかもしれませんが、こういう小さな発見を我々は見逃しがちなのです。でもこういうのにふと自分が気づいたときに、何かこう新しいものを発見できた喜びを感じられるのではないでしょうか? 特に日本にいるのではなく、海外でこういうものに直に接したときに得られる気持ちは大事だと思います。

皆さんはこういう小さな経験をしたことがありますか?

アンバランス

2009-01-25 | ちょっと変わったお話
人間には理性と本能があります。理性と本能の違いを考えた場合、それは何かというのであれば「Control」の一言につきると思います。常識・知識、道徳・倫理、経験・将来をものさしとして自分をうまく動かすのが「理性」である一方。食欲・睡眠・性欲、直感・感情等自分の中で自然とわきあがってくるものが「本能」であると規定できるでしょう。そして、前者は自分で「抑止力」が効くものであり、後者は「自己統制」ができないものです。故にコントロールできるかできないかが、この2つのカテゴリーを区分する絶対的な違いと言えます。

人間は地球に住む全生態系のトップに君臨しているのは、「理性」があるからだと言えるでしょう。これがなければ他の生き物と一緒です。好きなときに好きなことをし、その場限りを生きていくのです。そこには過去からの経験を活かした将来への軌跡というものがありません。動物の中には過去の経験から学ぶというのもいますが、それはあくまでも「その本人」のためだけであり、仲間や子供に教えるということはそうざらにはないことです。しかし人間はこれを「形あるもの」にして残し、それを将来に伝えていくことができるのです。「歴史をもつ生き物」であるかないかが、この地球上では圧倒的な差となって人間を押し上げているのです。

ところがよく思うのですが、「では人間は優れた生き物か?」という問いかけをされれば、それは必ずしも「Yes」とは答えられません。やはり人間も生き物ですから、「本能」が働くのです。自分の欲望を満たすために、つきすすんだり、他を犠牲にしようという気持ちが働くのです。これを押し殺すと人間は単なる「機械のような存在」になりさがってしまうのです。逆に本能のままにすきすすめば、「自分勝手」とか「利己主義」とか言われるようになってしまうのです。

一番大事なことはこの「理性」と「本能」を調和よく自分の中で保つことです。

このことは多分だれもがわかっていることだと思います。でもそれをそうすることがなかなかできないのです。まあできれば「完璧超人」みたいな人間になってしまい、そんな人々がこの地球上にあふれかえったとしたら、どうなるでしょう? 何を聞いても言っても同じことしか話せない・答えない人ばかりで全然面白くありません。この「理性」と「本能」のバランスが人によって違うからこそ、それが当人の「個性」となって現れてくるのです。これが大事なことではないでしょうか?

「個性のある人間」=「魅力ある人間」、ということがよく言われます。「魅力」とは元来自分に無いものを相手の中に認めることで起こりうる「感情」だと思います。つまり「理性」と「本能」のアンバランスが他の人からみると「自分にないバランスがある」と自然に感じられてしまうところから起きるのです。それでは、自分が「魅力ある人間」になるにはどうしたらよいか? ということを考えた場合、どこまでこのバランスを他のひとよりうまく崩せるかにかかっていると思われます。私も「魅力ある人間」になるように努力をし、このバランスの見極めをしているのですがなかなかうまく行きません。

このアンバランスさは時として人には「稀有」に映るときもあるものです。

ただ、人の意見を聞いてばかり聞いていれば、そのたびに個性が揺れ、最後には普通の一般的なところに収束してしまいます。そうなるともうそれは個性でなくなってしまいます。個性を維持するには一定の「信念」が必要なのです。これもまた「理性」から現れるものなのです。

なんかこう書いていると何がなんだかわからなくなってきましたが、人間とは「理性」と「本能」の間をいつも行き来しているような生き物であるような気がします。結論は結局「堂々巡り」なんですけどね・・・。この文章みたいに。最後は「理性」が勝つのでしょうか?それとも「本能」が勝るのでしょうか?

皆さんは自分を分析した場合、「理性寄り」の人間ですか? 「本能寄り」の人間ですか? 一度考えてみると面白いかもしれません。