なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

じっと手を見る

2009-08-15 02:35:17 | Weblog
 北の国の大詩人が「働けど働けど・・・じっと手を見る」と詠った繊細な心はわかるようで難しい・・・私の性格ならついつい「そんなに働いたのですか」と聞きたくなってしまう。
 尤も「我が暮らし楽にならず」の部分は共感できる・・・但しこれは口に出してはいけない事情がある。
 我が家では我が暮らしを支えたのは女房殿の力が大なので、この件についての私の発言権は0に近いくらい希薄。
 
 ある時すぐ上の姉にこんなことを言われました。
 「家の息子と娘が○○おじちゃん(私のこと)みたいに生きたいなんて、全く困ったことを言う」
 「好きなことをやって悠々と生きている。ああいうのが理想」なんだそうで、確かに親としては頭を抱えたくなるに違いない私が親ならきっと落ち込む。
 すぐ上の姉は私とは3才しか違わないから、その子供たち甥・姪の中では私と一番年が近い
 彼らから見れば叔父の中では一番年が近いので一族の中で一番上の兄みたいなところはあるかもしれない。
 姉としては「全く困ったもの」と頭を抱える子供の発言。
  こういう事を面と向かって言われる私の心情も複雑。

 甥と姪に目標にされるのは良いとして、言っておかなければいけないことはある。
 「好きなことだけをして生きるというのは実は見た目ほど楽ではない」
 「好きなこと=自分らしさに反することはやらない。でもその反作用はあるはずで、それでも生きて行くというのは楽ではない」
 「出世したいとかいい暮らしがしたいとかを基礎に考えないで、囲碁を打てて幸せ(囲碁でなくてもいいけれど)と思えるかどうか・・・」
 「そういう意味で、家族の物質的な幸せはかなり犠牲にして、尚且つそういう事に無頓着を装っていることが出来るかどうか」
 甥と姪に姉に代わって「ああいう叔父さんに似てはいけない」と説得するにはこういうことだろうか。

 マアそういう事ですから、同期の仲間だったものは真面目に、イヤ普通に頑張っていればそれなりに出世して社会的地位もあるとは思う。
 そういう意味では言葉として「友がみな偉く見える時・・・」いつものことだし、自分の選んだ事の裏返し的報酬なので凹んでばかりはいられない。
 
 そういう意味ではネットで観戦していて「みんな熱心で強い」と感じるときは、気持ちは謙虚ですが勝負としては闘争心に欠けるだろうか?
 逆に観戦していて「なんでこの場面でこんな手?」と思うような時
 「こういうひどい手も・・・しかしこういう状況を作った事が問題!」みたいに傍目的に見下し加減の時の方が闘争心としては表に出やすい状態だろうか?
 マア打ってみれば自分で自分のメッキを剥いでしまいます。
  「打っても打っても我が棋力・・・じっと手を見る」
 暮らしの心配などしていたら囲碁は打てませんね。

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