徒然草独歩の写日記

周防東部の徒然なるままの写日記

山口龍蔵寺ボタン・山口三社詣・毛利博物館「福を招く正月飾り」

2014-01-29 19:49:31 | 蔵田教信・蔵田房信

1月14日松岡睦彦先生引率の「柳井歩こう会」バスツアーに参加。

山口「龍蔵寺」ボタン観賞・「山口大神宮」・「今八幡宮」・「八坂神社」の三社詣、帰りに防府の「防府天満宮」と「毛利博物館・福を招く正月飾り」見学。

寒さが厳しい新春早々の旅行であるが、「龍蔵寺」寒牡丹の見頃が1月中旬のため、この時期に設定されたもの。「龍蔵寺」以外は過去数回訪れているが、「松岡節」を聞くのが一番の目的。

吉敷の真言宗瀧塔山(ろうとうざん)「龍蔵寺」は、秋の紅葉と大イチョウが有名なことは知っていたのだが、この時期の寒牡丹は知らなかった。ここの寒牡丹は厳密には冬牡丹と呼ばれる種類のようだ。緑色の葉が茂っている。

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寒牡丹・冬牡丹の寺院での栽培は全国的に散見されるが、この時期花のない殺風景の中、参拝者の心を癒し、仏の心を癒すため栽培に工夫を凝らしているようだ。龍蔵寺では、先々代住職が戦死し、息子の先代住職が遺骨を迎えたとき寒牡丹が咲いていたそうで、牡丹に対する思い入れが強いようだ。平安、平和に対する思いもあるようだ。

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観音堂の本尊「馬頭観世音菩薩」と上部の「伝雪舟作駒つなぎ絵馬」

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観音堂の「伝雪舟作 駒つなぎの絵馬」

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龍蔵寺境内で珍しいものを...。
八百屋お七の供養塔(宝篋印塔)。

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このあと、山口大神宮・八坂神社・今八幡宮の三社詣で。この三社は2012年8月、Arrow_red 山口蔵田氏を訪ねて」、三社の蔵田氏寄進の献燈巡りをしたところ。

S1602014_01_14_0075a今回、八坂神社の巨大な大鳥居に蔵田氏奉納を刻した銘盤を新たに発見。

前回、立派な台石を持った燈篭に目を奪われ見逃していた。

「勳五等蔵田精祐、大正十一年六月奉納」とある。
「正六位勲六等 熊野九郎」と連名。

 

 

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今八幡宮では、松岡先生から「蟇股」(かえるまた)「礎盤」について説明を受ける。

蟇股(かえるまた)は梁に設けられ、上部の重量を支える蛙の両足状の花頭曲線が、時代を経過する毎に雲形あるいは龍等の装飾が施されて江戸時代には複雑・豪華になっていくそうだ。今八幡宮の蟇股は室町時代の様式で比較的シンプルである。

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礎石と軒柱の間にある木製「礎盤」も室町時代の様式で、江戸時代になると「木」から「石」に変わるそうだ。

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 ところで、今八幡宮では仰天する出来事が...。 

二年前の「山口蔵田氏巡り」のとき、本殿横の濡れ縁になにやら気持ちの悪い木像が居たのだが、今回忽然と姿を消しているではないか。
風化し、顔も定かでなく、軒があるとはいえ雨風にさらされて放り投げられていて、寂れる一方の神社が無管理状態になりつつあるのではないかと危惧したり、それにしても古くて貴重なものを何であんなところに無造作に出しているのか不思議に思い、虫干しでもしているのかと思ったりもしていたのだが...。案外、あの夏は猛暑だったので外気に当たり涼んでいたのか...?
もっと近くで確認しようとしたのだが、近くに寄れば寄るほど欄干が邪魔して見えなくなる。下から見上げると、仏様の坐像のようにも見えるがここは神社だ。とにかく風化が激しく顔が判別できないので、人気のない境内でみると薄気味悪い印象だけが記憶に残っている。

ついに廃棄してしまったか?松岡先生の「蟇股」説明を聞きながら、またもやびっくり。背後の屏風板状のものに薄っすら人の影のようなものが見えるではないか。透明人間か、亡霊か? 不気味な雰囲気だ。
二年前の記憶に間違いはない。我に返ると周囲には誰もいない。大慌てで後を追う。皆に話しても誰も信用してくれないだろう。

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         2012/08/06                      2014/01/14

気になるので、ブログ掲載前に松岡先生を訪問することに。
 2012_08_06dscn0333bzuishin_3                                                                「あの時、蟇股の説明に集中していて気が付かなかった。良くぞ発見」。・・・「あの場所は、外側というより本殿付属の濡れ縁で欄干も屈曲し一段高くなっている」。・・・ 「あれは、阿吽の阿形の神。左側には吽形があるはず」。・・・ 「へぇ~。あれは仏教の筋骨たくましい半裸の金剛力士像か仁王像だけと思っていたんだが...」。・・・ 「あれは神門を護る兵士。学生時代、何回も見ているが、当時は塗装、彩色がああまで痛んでなかったように思う。あれは一段高い濡れ縁の腰掛に座っていて、後には背もたれがあるはず」。・・・ 「そういえば束帯のような衣装で威儀を正している。肘掛椅子に肘をついている」。 ・・・ 「狛犬もこれが転じたもの」。・・・ 「風化が激しいから、中に入れたか?」。・・・ 「案外盗まれたか。しかし、盗難にあったのなら、マスコミ報道されているはずだが?...?」。・・・「気味悪いので盗人も近寄り難いのだが...」。 ・・・。 ・・・。

この問答、どちらの発言かやめておきますが、想像は容易に出来るはず。 

分かったような、分からなかったような...。帰宅し、パソコンの前に座ると疑問点が噴出。

もう少し詳しく知らないとブログ掲載出来ない。直接、今八幡宮に電話することに。若い宮司さんが丁寧に教えてくれた。

本殿左右の木像は祭神を警固する「隋神」(ずいしん)と呼ばれるもの。平安時代に「隋身」と呼ばれる位の高い要人を警護する官職があった。本殿に向って右側が「豊磐窓命」(トヨイワマドノミコト)。左側は「奇磐窓命」(クシイワマドノミコト)。左右とも口を閉じている。「奇」を「櫛」とも書く。本来は神門の左右にあって神門を護る神だが、山口の神社は特殊なものが多く、当社は楼門になっている。「随神」背後の屏風状板は社殿様式の一部で「随神」の配置とは無関係。製作年代は不明であるが、江戸時代に更新されたのではないかと思う。中に当時の文書が張られている。

「ところで、その随神のお姿が見えないのですが。中にお隠れになったか、はたまた盗難にでもあったのか心配しているのですが...」。「現在、修理に出してます」。「修理?」。「雨風による劣化が激しいので、京都に送り修復中です。春ごろには綺麗に彩色されて帰ってくると思います」。「安心しました。いらぬ危惧を抱きすいません。平にご容赦を」。

非常に勉強になった。二年前の写真をトリミング拡大してみると納得できました。
「名前」が判明したのでwikiやサイトを検索すれば、より詳しいものがあります。左右の「随神」の名を逆に書いたサイトもあるのですが、当方は三回の電話の中で数回念押し確認しているので間違いないと思うのですが...。日本語は「左右」と表現しますが、今回は本殿に向って右を優先し、「右左」。さすがに、もう一度確認する気にはなれません。

最後に寄った毛利本家邸宅・毛利博物館は館長直々の説明を聞きながら見学。ケヤキの一枚板の廊下、屋久杉一枚板を使った板戸や天井の一部、檜の棒木を一本々使った階段(普通の板張りとは踏んだ感触が違います)等々、豪華さに圧倒されました。

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毛利邸二階から毛利庭園を展望し、防府市南部の海岸線と「桑山」を遠望しながら、館長から面白いことを聞いた。

関ケ原の戦いで敗れた輝元の萩指月山築城は、彼の希望思惑通りに進められたそうだ。

防長二カ国に転削封された輝元の居城選定は、「防府桑山」・「山口高嶺」「萩指月山」の順で、家康の意向で山陰の上方への通路遠隔地、便利が悪い萩に決まったと思っていたのだが、山陽側の「桑山」は砂山で周囲も干潟、石垣築き難く、築城費も膨大になり、低山でもあり築城選定に問題があったようである。山口は周囲から攻略されたときに問題があり、「指月山」を候補地に選定していたようで、これが家康の意向と合致し、輝元の思惑通りに進んだらしい。さすが知将毛利元就の息子ではある。この辺の経緯は、以前読んだ「防府市史」に詳しく書かれているが、失念していた。松岡先生によると「山口」は旧大内氏拠点のど真ん中で、これも選定からはずれた大きな要因であったらしい。

ついでに、「一人旅」で生じた疑念に思っていることを二点質問してみた。

・高杉晋作が任命された「学習院」御用掛について
当時の学習院は公家の社交場のようなもので、御用掛は朝廷、公家との顔つなぎ、政治的社交の場で将来を嘱望されたエリート社員が付く重要な役職であったそうだ。これは納得、さもありなん。

・「藩」・「長州藩」の名称について
「藩」は江戸期に使われることはなく、現代になって封建領主(大名)が支配した領域・支配機構をさす歴史用語。
これは知らなかった。そういえば高杉晋作は手紙で「長州」、あるいは「防長」と表現していたっけ...。詳しくはwikiをご覧下さい。
これは、Arrow_red  「周防国西部~赤間関ルート図」巻末の付4:「長州藩領内略図(各宰判・支藩別)」の解説文中に追加補記しました。

ところで、「龍蔵寺」を出て、山口へ向う途中、龍蔵寺の参道(市道)が大田・秋吉台へ通じる435号線と合流する少し手前、良城小学校の少し東の道路北側に「刀匠二王氏の石碑」があるのを発見。大型バスの窓越しに瞬間的に見えたので正確に読み取れなかったが、「刀匠二王」までは確実に読み取れた。大きな石碑だ。ここは、山側からの水筋が道路北側の水筋と合流する付近だ。

鎌倉、室町時代、周東町で作刀活動していた刀工二王氏の一部は、室町時代には大内氏拠点山口の道ノ前あるいは仁保庄に移り製作を続け、大内氏勘合貿易によって注文が増大するが、吉敷でも活動していたのだ。玖珂庄での二王氏の活動は戦国時代までで終息し、江戸時代になると、萩藩や長府藩御抱えの刀工玉井氏として製作を続けることになる。

今回の駆け足旅行は、素人にとって非常に得ることが多かった。 

毛利博物館展示の「福を招く正月飾り」は、毛利家に伝わる正月用品や飾り物。写真撮影は不可。今八幡宮の木像に時間を費やしたので省略。   

  

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~土が動く~ “通化寺窯” 田村悟朗氏(その2 登り窯)

2014-01-04 11:34:37 | 通化寺窯田村悟朗

 ~土が動く~ “通化寺窯” 

前回に続き、陶芸作家田村悟朗氏の紹介です。

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先月の記事で、自然釉と窯変の話をしましたが、焼成中、窯変の素地(土)が化学変化を起こし、カイラギ状(鮫皮状)に変化し、これが成長し粒状態が大きく成長していくさまを田村氏は「土が動く」と表現されています。

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さて、今回は、秋の「登り窯」を中心にまとめてみました。

登り窯は、短期間に陶磁器を大量に焼成するのに向いていますが、「通化寺窯」の登り窯は、焼成室を三室擁し、周防東部ではかなりの規模の窯です。
焚口は、正面下部の「大口」と各焼成室(間という)横の「小口」とに分けられます。

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 素焼き作品内部に釉薬を塗っています。

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慎重に窯入れ作業。今回は一の間と二の間を使います。

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焼成室は結構広い。最後に煉瓦で封をしています。
この人、お弟子さんです。女性です。自分の作品は特に慎重、念入りに棚積みしています。岩国市由宇で陶芸店を開き頑張っています。
 「KOUNO TOUKITEN」  http://kounotoukiten.com/
写真のセンスは抜群です。勿論作品も。

いよいよ窯炊きの日がやってきました。お弟子さんや、助っ人の応援得て、四人体制の不眠不休の24時間です。

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午前9時、神酒と榊を窯に捧げ、塩で清めてから火入れ。

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湿気を飛ばす焙りが終わり、午後になって、本焚きによって窯の温度が上がり始めると、一の間(第一焼成室)の”さま穴”と呼ばれる火格子から燃焼ガスが「ゴォー・ヒュー」と音を立てながら赤い糸を引いて吹き上がってきます。

夜になって、さらに温度が上がってくると、窯の両側にある火吹き穴から黒煙や炎が噴き出すさまは壮観です。

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横焚きを終えた一の間の小口を塞ぎ、二の間の小口から薪を投入するうち、大梅山の空が白ばんできます。
さすがに、この頃が疲れと眠気がピークに...。

二の間の温度が上がり、最後部の煙道から真っ黒な煙と炎が吹き上がる状態になると、今回の作業も終盤です。

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いきなり、突風が吹いて炎が向ってきました。体をそらす瞬間、何とかシャッターを。下から「大丈夫か!」の声が。

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横焚きを終了して炎が静まり、最後に各煙道を瓦で塞ぐと窯焚き の終了です。この最後の作業は、熱風陽炎が立ち上がるなか、両腕を防火処理し、皮手袋をはめて腹ばいに。
熱風のため、吹き出し口のあちこちに赤い火の粉が消えずに付いたままのが見えますか?悟朗さんも熱さに顔をしかめ歯を喰いしばっています。

9時15分に封を完了。予定通りの24時間だったようです。

お疲れ様でした。窯出しは五日後です。

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田村悟朗氏については、別に特ダネニュースがあるのですが、詳細は当方の拙筆サイト「周防国の街道・古道一人旅」のうち「通化寺」付近をご覧下さい。

                      徒然草独歩

 

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~土が動く~ “通化寺窯” 田村悟朗氏(その1:半地上式穴窯)

2014-01-03 15:36:43 | 通化寺窯田村悟朗

「いわくに写遊倶楽部」が解散。ブログも2013年12月末で閉鎖されたため、独歩が投稿していた「通化寺窯」関係記事を本項に移項掲載しておきます。これは、岩国近郊で活躍している人物を紹介する特集コーナー「いわくに人物百景」に二回に分けて掲載していたものです。

 

~土が動く~

通化寺窯 陶芸作家田村悟朗氏を二カ月にわたって紹介します。

田村悟朗氏は周東町午王ノ内の古刹通化寺境内に、半地上式穴窯と登り窯を設け、自然釉窯変と萩焼の作品を焼いている。

当初、萩市椿で小迫窯を開設、創作活動をしていたが、昭和六十二年から郷里に帰り、通化寺窯を開設。東京、広島、県内で個展を開く等意欲的に活動している。

 

日々の活動は、ブログ「石霜庵~山里の暮らし~」を参照。
     http://sekisouan.exblog.jp/

(伝)雪舟庭園を有する、黄檗宗大梅山通化寺。
幕末四境戦のとき遊撃軍本営が置かれ、高杉晋作詩碑や遊撃軍招魂碑等
の史跡があり、遊撃軍ゆかりの品々も保存されている。

 

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田村悟朗氏は、学生時代に柔道やラグビーに励んだスポーツマンらしく、笑顔を絶やさない大らかで気さくな方だが、一方、郷里の自然や山里を愛し、大黒山の山麓に位置する自宅を「石霜庵」と名づけ、自然の息吹と四季折々のうつろいの中で“侘び寂び”の美を追求している。

特に、田村氏の作品は、釉薬をかけないで長時間焼成することで灰が作品にかかり、あたかも釉薬をかけたようになる自然釉(しぜんゆう)にあり、信楽焼にその真髄をみることができる。

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焼成中、化学変化によって素地や釉薬に様々な、予期しない色や質感の変化が生じるが、この窯変(ようへん)と呼ばれる現象は、決して相手任せで自然に出来上がるのものではなく、土と造形、窯焚きの際の50年以上の赤松の古材を使用した薪と、その投入数、回数、投入場所、温度管理と窯内での作品の置き場所によって生じるもので、灰と火によって自然釉窯変の独特の作品を生み出すところに陶芸作家田村悟朗氏の匠の技が発揮されているようです。

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「通化寺窯」では、春と秋二回の窯焚きが行われますが、今月は春の半地上式穴窯による作陶、焼成を紹介しましょう。

 

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          焚口付近の素焼き作品。ここが灰被りの特等席。

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3日間の湿気を飛ばす乾燥焚きのあと、いよいよ本焚き開始。
通常は10日間焚くそうですが、今回は、7日間です。
常時1200度を維持するため、三交代制で薪を7、8分おきに投入するハードな作業です。

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4日目の焚き口。コロナが舞い、自然釉が変化し溶けていくさまが...。
ND8フィルターを装着して撮影。

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窯焚き終盤には、時々、轟音と共に炎が煙突から噴出します。

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7日間の窯焚きを終えて、焚口を閉じると煙突と火吹き穴から炎が吹き出し、やがて煙突から吹き出るガス(炎)が微妙に変化し幻想的です。最後に煙突を閉じて窯を密閉します。

 

窯出しは7日後ですが、下の写真は封をする直前に取り出したもので、自然釉窯変の見事な作品に仕上がっています。

 

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次回は、秋の「登り窯」を中心とした記事を紹介します。

これは、迫力がありますよ。

               徒然草独歩

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