徒然草独歩の写日記

周防東部の徒然なるままの写日記

山口龍蔵寺ボタン・山口三社詣・毛利博物館「福を招く正月飾り」

2014-01-29 19:49:31 | 蔵田教信・蔵田房信

1月14日松岡睦彦先生引率の「柳井歩こう会」バスツアーに参加。

山口「龍蔵寺」ボタン観賞・「山口大神宮」・「今八幡宮」・「八坂神社」の三社詣、帰りに防府の「防府天満宮」と「毛利博物館・福を招く正月飾り」見学。

寒さが厳しい新春早々の旅行であるが、「龍蔵寺」寒牡丹の見頃が1月中旬のため、この時期に設定されたもの。「龍蔵寺」以外は過去数回訪れているが、「松岡節」を聞くのが一番の目的。

吉敷の真言宗瀧塔山(ろうとうざん)「龍蔵寺」は、秋の紅葉と大イチョウが有名なことは知っていたのだが、この時期の寒牡丹は知らなかった。ここの寒牡丹は厳密には冬牡丹と呼ばれる種類のようだ。緑色の葉が茂っている。

      S4002014_01_14_0001

寒牡丹・冬牡丹の寺院での栽培は全国的に散見されるが、この時期花のない殺風景の中、参拝者の心を癒し、仏の心を癒すため栽培に工夫を凝らしているようだ。龍蔵寺では、先々代住職が戦死し、息子の先代住職が遺骨を迎えたとき寒牡丹が咲いていたそうで、牡丹に対する思い入れが強いようだ。平安、平和に対する思いもあるようだ。

      S4002014_01_14_0018

      S4002014_01_14_0019

観音堂の本尊「馬頭観世音菩薩」と上部の「伝雪舟作駒つなぎ絵馬」

     S4002014_01_14_0046

観音堂の「伝雪舟作 駒つなぎの絵馬」

     S4002014_01_14_0043

龍蔵寺境内で珍しいものを...。
八百屋お七の供養塔(宝篋印塔)。

     S3002014_01_14_0055a

このあと、山口大神宮・八坂神社・今八幡宮の三社詣で。この三社は2012年8月、Arrow_red 山口蔵田氏を訪ねて」、三社の蔵田氏寄進の献燈巡りをしたところ。

S1602014_01_14_0075a今回、八坂神社の巨大な大鳥居に蔵田氏奉納を刻した銘盤を新たに発見。

前回、立派な台石を持った燈篭に目を奪われ見逃していた。

「勳五等蔵田精祐、大正十一年六月奉納」とある。
「正六位勲六等 熊野九郎」と連名。

 

 

            S4002014_01_14_0077

今八幡宮では、松岡先生から「蟇股」(かえるまた)「礎盤」について説明を受ける。

蟇股(かえるまた)は梁に設けられ、上部の重量を支える蛙の両足状の花頭曲線が、時代を経過する毎に雲形あるいは龍等の装飾が施されて江戸時代には複雑・豪華になっていくそうだ。今八幡宮の蟇股は室町時代の様式で比較的シンプルである。

      S4002014_01_14_0078

礎石と軒柱の間にある木製「礎盤」も室町時代の様式で、江戸時代になると「木」から「石」に変わるそうだ。

      S4002014_01_14_0080

 ところで、今八幡宮では仰天する出来事が...。 

二年前の「山口蔵田氏巡り」のとき、本殿横の濡れ縁になにやら気持ちの悪い木像が居たのだが、今回忽然と姿を消しているではないか。
風化し、顔も定かでなく、軒があるとはいえ雨風にさらされて放り投げられていて、寂れる一方の神社が無管理状態になりつつあるのではないかと危惧したり、それにしても古くて貴重なものを何であんなところに無造作に出しているのか不思議に思い、虫干しでもしているのかと思ったりもしていたのだが...。案外、あの夏は猛暑だったので外気に当たり涼んでいたのか...?
もっと近くで確認しようとしたのだが、近くに寄れば寄るほど欄干が邪魔して見えなくなる。下から見上げると、仏様の坐像のようにも見えるがここは神社だ。とにかく風化が激しく顔が判別できないので、人気のない境内でみると薄気味悪い印象だけが記憶に残っている。

ついに廃棄してしまったか?松岡先生の「蟇股」説明を聞きながら、またもやびっくり。背後の屏風板状のものに薄っすら人の影のようなものが見えるではないか。透明人間か、亡霊か? 不気味な雰囲気だ。
二年前の記憶に間違いはない。我に返ると周囲には誰もいない。大慌てで後を追う。皆に話しても誰も信用してくれないだろう。

S400dscn0333bcanvas
         2012/08/06                      2014/01/14

気になるので、ブログ掲載前に松岡先生を訪問することに。
 2012_08_06dscn0333bzuishin_3                                                                「あの時、蟇股の説明に集中していて気が付かなかった。良くぞ発見」。・・・「あの場所は、外側というより本殿付属の濡れ縁で欄干も屈曲し一段高くなっている」。・・・ 「あれは、阿吽の阿形の神。左側には吽形があるはず」。・・・ 「へぇ~。あれは仏教の筋骨たくましい半裸の金剛力士像か仁王像だけと思っていたんだが...」。・・・ 「あれは神門を護る兵士。学生時代、何回も見ているが、当時は塗装、彩色がああまで痛んでなかったように思う。あれは一段高い濡れ縁の腰掛に座っていて、後には背もたれがあるはず」。・・・ 「そういえば束帯のような衣装で威儀を正している。肘掛椅子に肘をついている」。 ・・・ 「狛犬もこれが転じたもの」。・・・ 「風化が激しいから、中に入れたか?」。・・・ 「案外盗まれたか。しかし、盗難にあったのなら、マスコミ報道されているはずだが?...?」。・・・「気味悪いので盗人も近寄り難いのだが...」。 ・・・。 ・・・。

この問答、どちらの発言かやめておきますが、想像は容易に出来るはず。 

分かったような、分からなかったような...。帰宅し、パソコンの前に座ると疑問点が噴出。

もう少し詳しく知らないとブログ掲載出来ない。直接、今八幡宮に電話することに。若い宮司さんが丁寧に教えてくれた。

本殿左右の木像は祭神を警固する「隋神」(ずいしん)と呼ばれるもの。平安時代に「隋身」と呼ばれる位の高い要人を警護する官職があった。本殿に向って右側が「豊磐窓命」(トヨイワマドノミコト)。左側は「奇磐窓命」(クシイワマドノミコト)。左右とも口を閉じている。「奇」を「櫛」とも書く。本来は神門の左右にあって神門を護る神だが、山口の神社は特殊なものが多く、当社は楼門になっている。「随神」背後の屏風状板は社殿様式の一部で「随神」の配置とは無関係。製作年代は不明であるが、江戸時代に更新されたのではないかと思う。中に当時の文書が張られている。

「ところで、その随神のお姿が見えないのですが。中にお隠れになったか、はたまた盗難にでもあったのか心配しているのですが...」。「現在、修理に出してます」。「修理?」。「雨風による劣化が激しいので、京都に送り修復中です。春ごろには綺麗に彩色されて帰ってくると思います」。「安心しました。いらぬ危惧を抱きすいません。平にご容赦を」。

非常に勉強になった。二年前の写真をトリミング拡大してみると納得できました。
「名前」が判明したのでwikiやサイトを検索すれば、より詳しいものがあります。左右の「随神」の名を逆に書いたサイトもあるのですが、当方は三回の電話の中で数回念押し確認しているので間違いないと思うのですが...。日本語は「左右」と表現しますが、今回は本殿に向って右を優先し、「右左」。さすがに、もう一度確認する気にはなれません。

最後に寄った毛利本家邸宅・毛利博物館は館長直々の説明を聞きながら見学。ケヤキの一枚板の廊下、屋久杉一枚板を使った板戸や天井の一部、檜の棒木を一本々使った階段(普通の板張りとは踏んだ感触が違います)等々、豪華さに圧倒されました。

     S4002014_01_14_0087a

     S4002014_01_14_0091 

毛利邸二階から毛利庭園を展望し、防府市南部の海岸線と「桑山」を遠望しながら、館長から面白いことを聞いた。

関ケ原の戦いで敗れた輝元の萩指月山築城は、彼の希望思惑通りに進められたそうだ。

防長二カ国に転削封された輝元の居城選定は、「防府桑山」・「山口高嶺」「萩指月山」の順で、家康の意向で山陰の上方への通路遠隔地、便利が悪い萩に決まったと思っていたのだが、山陽側の「桑山」は砂山で周囲も干潟、石垣築き難く、築城費も膨大になり、低山でもあり築城選定に問題があったようである。山口は周囲から攻略されたときに問題があり、「指月山」を候補地に選定していたようで、これが家康の意向と合致し、輝元の思惑通りに進んだらしい。さすが知将毛利元就の息子ではある。この辺の経緯は、以前読んだ「防府市史」に詳しく書かれているが、失念していた。松岡先生によると「山口」は旧大内氏拠点のど真ん中で、これも選定からはずれた大きな要因であったらしい。

ついでに、「一人旅」で生じた疑念に思っていることを二点質問してみた。

・高杉晋作が任命された「学習院」御用掛について
当時の学習院は公家の社交場のようなもので、御用掛は朝廷、公家との顔つなぎ、政治的社交の場で将来を嘱望されたエリート社員が付く重要な役職であったそうだ。これは納得、さもありなん。

・「藩」・「長州藩」の名称について
「藩」は江戸期に使われることはなく、現代になって封建領主(大名)が支配した領域・支配機構をさす歴史用語。
これは知らなかった。そういえば高杉晋作は手紙で「長州」、あるいは「防長」と表現していたっけ...。詳しくはwikiをご覧下さい。
これは、Arrow_red  「周防国西部~赤間関ルート図」巻末の付4:「長州藩領内略図(各宰判・支藩別)」の解説文中に追加補記しました。

ところで、「龍蔵寺」を出て、山口へ向う途中、龍蔵寺の参道(市道)が大田・秋吉台へ通じる435号線と合流する少し手前、良城小学校の少し東の道路北側に「刀匠二王氏の石碑」があるのを発見。大型バスの窓越しに瞬間的に見えたので正確に読み取れなかったが、「刀匠二王」までは確実に読み取れた。大きな石碑だ。ここは、山側からの水筋が道路北側の水筋と合流する付近だ。

鎌倉、室町時代、周東町で作刀活動していた刀工二王氏の一部は、室町時代には大内氏拠点山口の道ノ前あるいは仁保庄に移り製作を続け、大内氏勘合貿易によって注文が増大するが、吉敷でも活動していたのだ。玖珂庄での二王氏の活動は戦国時代までで終息し、江戸時代になると、萩藩や長府藩御抱えの刀工玉井氏として製作を続けることになる。

今回の駆け足旅行は、素人にとって非常に得ることが多かった。 

毛利博物館展示の「福を招く正月飾り」は、毛利家に伝わる正月用品や飾り物。写真撮影は不可。今八幡宮の木像に時間を費やしたので省略。   

  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

丸子坂の城山への山道傍らの供養碑と淡海道

2013-02-25 20:45:12 | 蔵田教信・蔵田房信

今年一番の暖かい日。春ももう直ぐ。蔵田教信末裔通化寺窯田村悟朗氏とハイキング。

丸子坂の竹薮にある「屋敷跡」石垣手前の二又。旧山陽道丸子坂はここを直進するが、今日はここを左折し、城山の東山裾を目指す。ここは未踏査の区間で、去年南谷氏と探索したが途中で折り返し気になっていた所。城山(じょうやま)の三ツ尾城跡への山道だ。この山道は三ツ尾城の城番蔵田冶部が陶晴賢謀反のときこれに敵対し、この道を差川の杵ケ迫に逃れ自刃したと推定した城山への近道だ。

竹薮を左折すると直ぐに大きな岩が山道の両側にある。まるで門柱のよう。

      S400dsc_0023

約400M先の左手に池があるが、これを過ぎる付近から倒木や雑木が行く手を阻む。田村氏が雑木を鎌で払いながら進む。 

      S400dsc_0015

池を過ぎて100M先の左手に七基の無縁仏がある。仏像形と自然石の供養碑。一基は台石のみ。何れも古く苔むしている。六基なら、近くに火葬場でもあったのかと思ったのだが、そんな雰囲気は無い。何れの供養碑も古く苔むしている。

さすがに田村氏は感慨深いのか、途中で伐採した榊を捧げる。蔵田冶部縁者に関係する供養塚なのだろうか。一番左の仏がだるまさんのように見える。頭部が欠落しているようだ。

      S400dsc_0002

      S400dsc_0007

この先も「城山」へ向けて沢沿いに道筋があり、炭焼き小屋の跡を認め、進むことは可能だが今日の目標はここまで。地元の話では、この付近から先は道筋が消えて行き止まりになるそうだが、無理をすれば登れるのかも知れない。最短距離のため急傾斜があって道筋が消えているのかも知れない。
現在の正規の登山ルートは三丘の貞昌寺の背後から。他に石光の三光寺側から夫婦岩経由、中山峠郡境碑付近から平家ケ峰経由の計三ルートが知られているが、縦走ルートのため距離は長い。

帰りに「淡海道」を往復。最近体力が落ちた感じを受けるが、スポーツで鍛えた相棒は元気一杯。

      S400dsc_0025

ところで、丸子坂入り口付近に猪よけネットが張られているのを発見。

去年の3月やっと全線開通したのに残念。

      S400p14_03_15_0077

但し、左側から張られたネットと右側からのネットの中間、中央付近に横にすり抜け可能な隙間があるので通行可能。この隙間は人一人すり抜け出来る程度の狭い幅のため柵とネットを損傷しないよう注意。無神経な旅人が集団通行するようになると将来的に通行禁止柵になるだろう。
本項は「サイト」に追加更新し、「丸子坂付近ルート図」にも追加記入しました。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安芸西條鏡山城と蔵田氏を訪ねて

2012-10-17 00:49:43 | 蔵田教信・蔵田房信

10月16日、蔵田教信末裔「通化寺窯田村悟朗」氏と安芸西條蔵田備中守房信ゆかりの地を訪問。

東広島市教育委員会Y氏訪問のあと、先ずは鏡山城跡へ。

     S40020121016_003

今回は、「国指定史跡鏡山城跡」碑と駐車場のある玄関口の反対側、南西側城郭の史跡が目的です。車で南に大きく迂回し、鏡山城の南西側へ向う。

鏡山城南城郭の向って右側、山裾低部にある「城主平泰院追慰之碑」。頂部に「丸に抱き茗荷」の家紋。備中守房信四百五十回忌に当たり蔵田家一門により建立。1965年巳歳(昭和40年)建立と陰刻されています。途中、「マムシに注意」の看板が...。この南西側城郭は訪れる人は少ないようだ。ひっそりとしている。

 S30020121016_006_2  S30020121016_008
  

南郭中央付近の鏡谷神社。旧蔵田屋敷跡(加茂高校と西条中学校の中間付近)から移設された五輪塔六基があります。ここの石積階段は来年何回目かの巳歳当たり歳を迎える二人にはきつかった。

      S40020121016_019

寺家の臨済宗平泰寺の備中守房信墓碑。頭部に禅宗特有の円相が。

通化寺の尾崎夫婦墓にも刻まれていたのを思い出す。

      S40020121016_023

平泰寺の南方、古屋敷城跡(蔵田城)と城郭跡の祇園社。比高15mの低い丘陵。現在も蔵田姓の方が居住しています。

      S40020121016_027_2 

S300s30020121016_030ri01 S40020121016_031__2

ここも同じ「丸に抱き茗荷」。こりゃあ、我が家と同じじゃないか。

東広島市教委訪問の核心内容が後回しになりましたが、その要旨は

・備中守房信の父「貞信」以前の系譜は、「従信連蔵田備中守貞信迄之續不相知」のとおり不明。何しろ中世の戦乱の世だ。関連古文書でもない限り掴みようがないようだが、他に貴重な話を伺うことが出来ました(一部補記)。

  • 大内氏の領地は、長門・周防・安芸東西條・石見・豊前・筑前の六ケ国だが、大内氏領地の城主等の呼称は、他の戦国大名の考え方と違うらしい。即ち、「城主」はあくまで大内氏。これを任せられる城番は厳密には格順に陶・弘中氏等の大内家臣「城督(城奉行)」「城衆」に分かれる。城督(城代)と表現すれば、大内氏以外の戦国大名配下の城代と比較しやすい。「城督」は代官、又は昇格後の安芸守護代が勤める。「城衆」は城主不在時、城郭の維持管理等を行う。小国人等がこれをを行う。
  • 蔵田氏は東西條に広く分布する「小国人」で、当時は大内氏安芸国守護職補任前で、房信は東西條代官(郡代)陶興房直属部下として「東西條小郡代」を勤める。
  • 大内氏は「国人」レベル以上を配下とする。東西條の「国人」である天野氏や平賀氏は大内氏の配下に属する。戦の際は、大内氏は国人に命令ではなく参戦を依頼する関係。
  • 陶・内藤・杉・弘中氏等大内氏家臣は「小国人」・「地侍」等土豪を直属部下とする。
  • 房信の「房」は陶興房の「房」。「信」は家系をあらわす。従って蔵田氏は陶興房の直属部下。
  • 「鏡山城の戦い」で自害した備中守房信は東西條の小郡代を勤める小国人で陶氏不在時の鏡山城の城代(厳密には城衆)ということになる。陶氏は通常山口に居住。

参考

  • 長禄三年(1459)には安藝東西條は大内氏分国中に編入されているが、大内義興が足利義稙を奉じて管領代として京都にあったとき、これに従って京にあった尼子氏はいち早く帰国、その間隙をついて安芸経略に着手。永正年間(1504~1521)末には鏡山城を手中にしている。この報に義興は回復を図るため山口に帰る。
  • 大永三年(1523)春、大内義興ら大挙出動鏡山城を奪回し、蔵田備中守房信を鏡山城代(城衆)とするが、九州筑前に龍造寺氏ら進入情勢不穏となっため、陶興房は山口(九州方面)に転進。尼子経久はこの留守を狙い同年六月重臣亀井氏に命じ、このとき配下の平賀氏、毛利元就らと鏡山城を攻め、備中守房信自害落城。(鏡山城の戦い)
  • 大永五年(1525)鏡山城の戦いから二年後、大内義興・義隆親子鏡山城奪回。これを廃城とし、八本松に仙城(そまじょう・曽場ケ城)を築き安芸支配拠点とする。このとき元就は大内氏配下として参戦。
  • 天文十二年(1543)大内義隆のとき岩国の弘中隆包「安芸国守護代」としてこの頃完成の槌山城に入り、山陽道沿いの飯田土居跡に「東西條小郡代」から昇格の「東西條郡代」を置く。郡代は菅田宣真と思われる。(安芸国守護代の下位である「安芸小守護代」とは別。)
  • 天文二十年(1551)陶興房の子隆房(晴賢)謀反のときの西條の蔵田氏主君は陶氏ということになる。このとき、安芸国の大勢は晴賢になびき、晴賢は元就に命じ東西條の親大内派の篭る平賀氏頭崎城・菅田氏槌山城を落す。
  • (注):「小」は「こ」と読む。

こうなれば、大内義隆公家臣周防国道前在城蔵田冶部少輔源教信の「陶尾張守晴賢謀反之時主君エ味方局天文廿年ニ討死ス」はどうなるか?

一夜経って、翌日じっくり考える。晴賢の敬語がないではないか。主君は大内義隆だ。

これだから中世の歴史は面白い。鏡山城の戦いで大きな打撃を被った蔵田氏の同族「教信」が大内義興親子安芸東西條奪回後、大内氏に従い周防国道前三尾城の城番となったと考えるのは邪推か?周防国道前蔵田氏の周防での歴史は、いきなり三尾城の城番として悲劇の自害から始まるのだ。「教信」の弟信近「安藝国西條在城」ものちに安藝西條某城で戦死する。神のみぞ知る。仮に判明したとしても「オリエント急行殺人事件」の最後のシーンでありたい。

それにしても、「周防国の街道・古道一人旅」で西條のような複雑な地がなくてよかった。

Arrow_red_6 一応サイトの方には、周防国道前と安藝国西條の蔵田氏の相関関係を分かりやすく漫画チックな図に纏めてみました。独断と偏見色が強いか...?

(参考)

・天野氏 --- 伊豆国天野庄から志芳庄地頭

  志和東天野氏---志和米山城元定のとき元就七男千虎丸(のち元政)を養子として迎え、

            のち毛利元政と名乗る。輝元防長移封により三丘領主。

            次の元倶のとき一斉領地替で右田毛利。三丘に墓と毛利元就公歯廟。

  志和堀天野氏---出雲国熊野城主。元嘉のとき輝元防長移封後、吉川広家組下として

             周防椙杜郷のうち久原・長野等所領。通化寺に墓

・安芸平賀氏 --- 尾張国松葉庄。源平合戦に功あり、安芸高屋保を賜る。他国に分派多し。

            天文二十三年元就が陶晴賢と断交すると毛利側に属し、

            のち輝元防長移封に従う。

ところで、東広島市教委ではびっくりすることが。
応対してくれた中世担当のYさんが城山(三尾城址)をよくご存知なのだ。学生時代に城山(三尾城址)に登ったそうだ。

これには、当方もびっくり。こちらはまだ登っていないのだ。これじゃあ、登らざるを得ないではないか。これは身体と相談しないといけない。最近腰の調子が今一なのだ。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山口蔵田氏を訪ねて

2012-09-14 04:53:51 | 蔵田教信・蔵田房信

8/26(日)は「防長の絵図-美しき古地図の世界」展の最終日、あたふたと山口県立美術館へ。

「御国廻御行程記」と「行程記」の区別が理解できました。「御国廻オン行程記」と読むそうだ。日本語は難しい。

「行程記」は萩から江戸までの地図なので、三田尻から赤間関方面山陽道は記載されていない。折りたたみ製本で、表側からめくれば萩から江戸まで、裏側からめくれば江戸から萩までの見開きが出来るように製本されている。伊能大図(写)はやはりよく出来ている。

山口への途中、富海の安芸吉田毛利祖といわれる「伝大江時親墳墓」の写真撮影。200年前畑のなかから掘り出され、明治40年に至り、現在の玉垣で囲まれた「小祠」と「傳説毛利時親卿墓」と刻まれた標柱が公爵毛利家によって建てられた。石原地区の荒れたみかん畑の中に雑草に埋もれてある。小さな五輪塔の表に「大江時親」、裏に「了禅」とある。
大江時親は元就より11代前、毛利41代で地頭職として安芸国吉田荘へ下向した安芸毛利祖といわれ、出家して名を了禅と改め家督を孫に譲り歴応4年(1341)吉田を出て西へ向ったという。付近には居住を裏付ける土居内、地頭田と呼ばれる地があるそうだ。一般に萩藩士は藩主毛利家のことを「江家」(ごうけ・大江氏)と呼称する。

ここは国道に近い山の手で、椿峠から富海間国道拡幅のため将来支障移転になりそう。この区間は40年前も国道新設改修工事で、旧道に埋設されていた長距離伝送路が支障になったことが。今度は御霊の御移転か...。早速「西方面ルート図」に追加掲載。

             S400dscn0289

今回、山口訪問のもう一つの目的は山口大神宮訪問だ。鯉次郎さんの情報によると献燈に蔵田姓が刻まれているそうだ。ここは過去何回も鳥居の前を通過するのみ、今回じっくり訪問してみたい。出来れば松陰先生が東遊の際登った鴻嶺にも登ってみたい。ここは毛利元就防長攻略最終段階で、大内義長・内藤氏が一時布陣した山城でもある。 

ところで、美術館を出たところで、知り合いのカメラ嬢に出会う。これから昼食後光市の写真展に寄って岩国へ帰るそうだ。光市の方も最終日で5時まで。こりゃあ急がんと。

山口大神宮は永正17年(1520)大内義典のとき伊勢皇大神宮より分霊を勧請。外宮と内宮は21年毎に遷宮されるため、各宮の隣に御敷地が確保されている。文政3年(1820)寄進の木彫神馬が一番印象に残る。神馬のポーズがすごい。現代彫刻をみているようだ。山口の工匠安永貞右衛門の作。石段両側に四基ある蔵田亀吉氏献燈は昭和9年の寄進。片側は台風で崩壊したままだが、大きな常夜燈だ。

       S400dscn0315_2 

       S400dscn0328_6

 伊勢の神霊を迎えた神社は山口の大神宮のみであったため、伊勢信仰の盛んな江戸時代には九州、中国地方から参拝するものが多かった。幕末期山口へ他国者を入らせなかったため、大道市の街道筋と小郡に大神宮遥拝所を設けたほどだ。ルート図作成のため大道市を踏破した際、大道遥拝所の大燈篭を確認しただけの知識だったのだが、大神宮の幅の広い石段を上りながら、鴻嶺を借景とした厳粛な雰囲気と規模の大きさに驚く。さすが西のお伊勢様だけのことはある。

社務所で蔵田氏のことを聞くが、台帳らしきものにも記録がなく不明。今八幡宮と八坂神社にも蔵田氏寄進の献燈類があるそうで、あちらのほうが豪華で大きいらしい。松陰先生も登った鴻嶺登山をあきらめ、そちらへ行くことに。光市の写真展にも寄りたい。時間が気になる。

今八幡宮は鎌倉時代大内19代弘成の頃から続き、社殿は文亀3年(1503)大内義興のとき。本殿・拝殿・楼門は国指定重要文化財。蔵田氏寄進は石段左側の狛犬。台石が大きく高いため狛犬が小さく見える。蔵田亀吉、一郎、その他1名の3名の寄進。

       S400dscn0331_3

       S400dscn0329_2
     

八坂神社は15世紀中頃の大内氏築山館跡にあり、600年前大内弘世が京から勧請。江戸末期毛利氏が高嶺山麓から当地へ移す。本殿は永正年間義興建立のもので、国指定重要文化財。ここの蔵田氏寄進の燈篭は片側のみだが、台石が高さ3Mぐらいの角柱で一番豪華にみえる。蔵田亀吉、清助両名昭和14年の寄進。亀吉、清助は親子か?反対側の寄進は山陽町の醸造業の名前がみられるので、当時相当の財力ある実業家だったようだ。社務所らしきところを訪ねるが不在。別途、電話で照会してみよう。山口に蔵田姓は少ない。お目当ての蔵田氏かどうか。

山口訪問後判明したことは、蔵田亀吉さんの先祖は幕末期毛利氏へ「草鞋(わらじ)一万足」を贈呈し、毛利氏から感状を頂いたそうだ。残念なことに先祖の詳しい系譜は不明なようだ。
これ以上、詳しいことは個人情報に触れるので割愛しておこう。
「草鞋一万足」でご判断を...。

萩藩士となった蔵田房信末裔は明確なので今回追及の対象ではない。「萩藩閥閲録」(享保七年)以降で、当方が知っている蔵田姓は、幕末期文久三年(1863)「教法寺事件」で犠牲となった先鋒隊蔵田幾之進がいるが、父の名はニ百五十石だから関係するかも知れない。幾之進の長子千弥は仇討に晋作の命を狙い、四境戦で小倉城に火が放たれた日、胸の不快から白石邸で指揮していた晋作に切りかかるが失敗に終わる。丁度、作戦会議が行われる日で奇兵隊参謀福田侠平らが遭遇するが、晋作は千弥を逃がす。

       S400dscn0334_3

       S400dscn0344_2

八坂神社の入り口に河村写真館が。TVや新聞でよくみる写真館はここだったのだ。明治20年ごろ築の洋風の建物。持ち主は変わったが建築当初から写真館として続く現役の建物。

       S400dscn0343

帰りに光市の文化会館に寄ったのは閉館20分前。すでに撤収ミーティングをしていたが何とか間に合った。夜の錦帯橋ならぬ錦城橋で知り合いになったSさんと再会談笑。この人、光市の八ッセル軍団の中核としてプロ級。元気そうで何より。

今回も欲張り強行軍でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

周防国道前と安芸国西條蔵田氏縁結び-続編-

2012-08-10 02:55:09 | 蔵田教信・蔵田房信

7月からの続編。安芸西条訪問前の事前検討資料作成がほぼ完了。

東広島市教委に数回電話聴き取りを実施し、安芸西條鏡山城の蔵田備中守房信関係の系譜を中心とした資料を作成することができた。遠隔地のため核心事項や問題点等を事前に整理しておく必要があったのだ。

聴き取りや照会の過程で房信系譜の確定根拠資料として「萩藩閥閲録」を紹介される。素人にはこんな文献があることすら知らなかった。

聴き取りや「萩藩閥閲録」記載内容を纏めてみると(一部関係サイトから補足)、

芸州西條鏡山之城督(?城番)蔵田備中守房信の父は備中守貞信貞信・日向守眞信(注:元就調略に内応、尼子経久これを許さず斬首。元就面目を失う)・備前守盛信(房信と共に自害)は三兄弟。蔵田氏系図は「長兵衛尉長谷部信連」から始まるが、「従信連蔵田備中守貞信迄之續不相知」とあるので、貞信から以前は不明ということになる。備中守房信の長男が房貞で、毛利臣下となった本家ということになる。

サイト「穴水観光ガイド」やwikipedia等によれば、長谷部信連は源平合戦の端緒となった高倉宮以仁王令旨・挙兵に功あり、のちに頼朝の鎌倉御家人となり安芸国検非違使(所)を補任され領地を給わる。このとき安芸西條蔵田氏は信連流派となったか?(注:貞信を大内家臣団安芸国人「蔵田貞信長谷部信連流備中」と表現したサイトがある。) 「長家家譜」によれば、やがて信連は頼朝から文治二年(1186)能登国大屋庄の地頭職を補任され、能登に下国して能登長氏の祖となる。西条や備後にも長姓の方が数名いるそうだ。長兵衛尉長谷部真連がのちに長氏となる意味も理解できる。

別に、「閥閲録」の蔵田氏末家の冒頭に備中守房信次男蔵田東市之助就貞の名がみられるが、これが鯉次郎さんの先祖らしい。別サイトに、「就貞」は毛利輝元家臣で羽柴秀吉九州征伐のとき軍勢渡海に携わる「赤間関渡船奉行」を務め、輝元防長移封後検地の責任者となった。」とあるので、優能な人物だったのだろう。

房信の父「備中守貞信迄之續不相知」となれば、周防国道前蔵田氏(田中氏)の系図の方がこれより数代詳しいが、安芸国西條蔵田氏のどの時代の分派(?)かは不明となる。蔵田冶部少輔教信の周防国道前の三ツ尾城(三丘城・差川城)は、東方面の玖珂に大内氏三家老の一人杉氏居城の鞍掛城、南の祖生に大内血族冷泉氏、西には要衝沼城を控え、蔵田一族郎党は小勢であったろう。安芸鏡山城の戦いから30年後、岩国弘中氏安芸守護代となってからおよそ10年後、反逆陶隆房(晴賢)軍とほとんど戦うことなく逃れ差川杵ケ迫で無念の自刃をしているのだ。陶氏謀反のとき、大寧寺で大内義隆介錯後殉死ののち祖生一帯で反逆陶氏と戦った大内氏血族冷泉隆豊末裔一族は別にして、安芸守護代岩国弘中氏・三家老の一人鞍掛城主杉氏が反逆陶氏を容認するなか、三ツ尾城番蔵田冶部少輔教信が孤軍自刃したことが理解できる。このあと討死の教信弟の安芸国在城信近は、どの城で果てたのだろうか。

また、古地図に記載の「蔵田屋敷」は加茂高校と寺家東端の西条中学校の間付近。寺家の古屋敷城跡(別名、蔵田城)には蔵田姓の方が住んでいるそうだ。古城関係のサイトで調べると房信供養墓のある平泰寺に近い。高さ15mの低い丘だ。まさか鯉次郎さんの先祖では?ここは西条探訪時、ぜひ訪ねてみたい。

ところで、今回の聴き取りで面白い話を聞いた。広く知られる「鏡山城の戦い」は「陰徳太平記」・「吉田物語」等、毛利側文献によることが多いが、攻めあねぐ尼子氏傘下の元就は本丸の日向守眞信を調略、二の丸の城代備中守房信は一門の助命を条件に備前守盛信と共に自害落城。尼子経久はこれを許さず眞信を斬首。元就は面目を失う。首実験立会いを強要された若年の毛利当主幸松丸は気分を悪くし、これが原因でおよそ20日後に病没。このあと、元就の家督相続に経久は干渉し内紛を起こさすが元就はこれを粛清。尼子氏への不信がつのり大内氏傘下となる。以上はどうでも虚偽だそうだ。

その根拠として、

  1. 志和町に古屋城跡があるが、日向守眞信の居城といわれている。眞信が鏡山城に布陣した確認が出来ない。
  2. 尼子氏の戦後褒賞に、平賀氏400貫に対し元就配下粟屋氏に80貫と少なく、元就が貢献した証跡がない。
  3. 厳島神官「棚守房顕覚書」に兵1000名死亡の記載があり、鏡山城発掘調査においても土器類の散乱、楼閣全ての焼失証跡等、房信自害によって一門が助命降伏開城したとは認め難い。
  4. 「陰徳太平記」等は、毛利方歴史小説の範疇で、大内氏配下であった元就が尼子氏南下では尼子氏傘下、二年後の大内義興・義隆大挙鏡山城奪回では再び大内氏傘下となった元就陰徳色が強い。

  また、大内氏(元就)鏡山城奪回後、竹原の木谷備中に預けられた房信嫡子がのちに元就郡山城に迎えられ、輝元防長二国移封に従う件については、のちに請をいれ奉公したと考えた方が無難だそうだ。

そういえば、元就防長攻略最終段階において、長門勝山城を攻める毛利側は大内義長助命を条件にかって三家老の一人であった内藤隆世の自刃を要求する。義長は反対するが内藤氏はこれをのみ自害。長府長福院(功山寺)に奔った義長は毛利勢に囲まれ憤怒のうち自害。
恐ろしや元就。邪悪な気質とされた背信日向守眞信や尼子経久も憤慨しているだろう。ひょっとして幸松丸病死も....?  

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする