お祭り 歴史探索の旅   ~尾陽雑記抄~

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藤田元司 前讀賣巨人軍監督

2006年02月12日 23時35分50秒 | プロ野球(きょうろぐ)
私がプロ野球を観はじめた頃の巨人軍の監督で、かなり鮮明に記憶に残っています。
(その頃読んでいた少年誌コロコロで、西部ライオンズ清原、森監督、巨人桑田 藤田監督を題材にした漫画があったからだが)
 というよりかなり影響を受けました。もっとも私が知っているのは、第二次藤田政権時代(平成元~四年)の時、
 斎藤雅樹、桑田真澄、槇原寛己投手らを先発完投型の球界を代表する投手へ育て上げた、
内外野、守備力の高さを要とした守備の野球、
自らクジで引き当てた原 辰徳選手を4番として信頼し、スター選手だけでなく、
 送りバントの代名詞となった川相昌弘選手や、
怪我からの復帰後の吉村貞章選手を代打の切り札にしたり、本来なら主軸を打つ実力を持ちながら、あえて恐怖の7番打者として置いた駒田徳広選手、俊足の緒方耕一選手ら脇役と呼ばれる選手を巧みに採用した。
 冷徹なまでの選手への観察眼、我慢して使い続ける忍耐強さ、選手をアクシデントからかばったり、情を持ち合わせた采配。
 周りから見れば以外に写る選手起用も、ちゃんとしたデータや観察眼から導き出された結果。
 ピッチャーに打順がまわり、本来なら「代打」だがあえて投手を打席に、それがサヨナラホームランに。(木田投手だったっけ?)


 先発完投型にこだわったイメージがありますが、水野、橋本、石毛投手といった、中継ぎ、抑えも充実していました。

 平成元年(1989)には、仰木彬監督率いる近鉄バッファローズと対戦。
近鉄が三連勝し、近鉄悲願の球団史上初の「日本一」の栄光へ王手をかけますが、逆に、巨人が四連勝して劇的な日本一に (この時、テレビで野球観ていなかったなあ)
共に「仰木マジック」「藤田マジック」と称えられた監督。
(仰木マジックは私の中では、オリックス時代の打線を毎試合組み替える采配というイメージですが)

 唯一、無敵を誇った森監督の西部ライオンズに勝てなかったが、
 監督7年で4度のリーグ制覇、2度の日本一、名将としてもっと評価して欲しいというのが本音。

 「藤田元司の情のリーダー学」といった藤田氏自身が書いた本も好んで読んでいましたが、譲ってしまったのは後悔。

 これは蛇足ですが、現在、セリーグでは藤田監督の采配に近いのは中日ドラゴンズの落合監督ではないかと思います。
 平成17年の中日の戦いぶりは先制されても、終盤に打線が火を噴いて逆襲する「逆転の竜」中継ぎをどんどんつぎ込む野球というイメージが強く又は「オレ竜」と呼ばれてわかりにくいかもしれませんが、
 先発完投型の投手の育成、若い先発投手の時は、多少荒れても我慢して続投しますし、打者も不調でも使い続ける。ここぞという時は「送りバント」を多用する。
セカンド、荒木選手、ショート井端選手のセンターラインの高い守備力、怒った顔を見せない(見えないところで怒っているでしょうが)

 観察眼の鋭さなどは、藤田監督に通じるのではないかと思うのです。
(川相昌弘選手の著書「明日への送りバント」でも書いてあるし)

 私は人を率いる立場にはありませんが、鋭い観察眼、度量の深さといった、藤田監督の「藤田マジック」に憧れます。

 藤田監督がクジを引き当て、巨人の4番打者として全幅の信頼を寄せた原辰徳氏が巨人軍の監督に就任し、少しは安堵しておられたのではないか、と思うのです。藤田マジックの継承者として

 もう一人のマジック使い三原脩氏 この方も、独特の選手観、独特のデータの使い方で「三原魔術」「三原マジック」と呼ばれましたが、三原氏の薫陶を受けたであろう西鉄ライオンズの中西太氏や昔の横浜(太洋ホエールズ)近藤 昭仁氏を
ヘッドコーチに起用したり、三原マジックをかなり参考にしたのではないか?とも思えます。

 川上哲治監督時代のヘッドコーチ、藤田第一次監督時代の、牧野茂氏が元中日の選手だったとは知りませんでした。


 謹んで、藤田元司氏のご冥福をお祈り申し上げます。


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川相昌弘 「明日への送りバント」 前編

川相昌弘の背中を追う者


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