二極というものは、対となるものが向かい合ったまま・或いは向かい合いたい気持ちだけで、二極という対の存在として成り立つ。
しかし二極がたとえ引き合う事があったとしても、どちらかが逆の対(極)を向いてしまえば、引き合う事にはなった一つの二極は、対となる『一つの陰と陽』に、なり得る事は無い。
また、好意という思いではない思いにて引き寄せた一つの極については、同じく、好意ではない思いしか宿らない。
何故ならば、そういった思いで引き寄せる事を選んだのだから、自分の(本当に望んでいた)意図するところで望んだものではないので、そうした結果を引き寄せる。
人の引き寄せるものとは、本当に望むものに焦点を合わせなければならない。
また、自分が望んでやって来た結果について、不平不満を抱くのはエゴである。
例えるなら、自分が食事をする為に注文した内容があったのだが、途中で全く別のものを欲しいと思ったとする。
そして注文したものが出された時、あなたが注文したものであるにもかかわらず、欲しいものが変わった…という勝手な理由を押し付けて、出されたものに不平不満を言う…という、実に自分勝手な内容なのだ。
それ故、自分の思考には十二分に注意をしながら、本当に望むものに焦点を当てて、正しい選択をしなければ、本当に望む結果は得られないのだ。
それは即ち、極の反発であり、対とはならない。
本当に望むものに焦点を当てているものは、たとえ苦しい思いをしていたとしても、離れてしまう事はない。
それが、正しい陰と陽の在り方である。
(某サイトにて私が投稿した内容の、再掲載である)
しかし二極がたとえ引き合う事があったとしても、どちらかが逆の対(極)を向いてしまえば、引き合う事にはなった一つの二極は、対となる『一つの陰と陽』に、なり得る事は無い。
また、好意という思いではない思いにて引き寄せた一つの極については、同じく、好意ではない思いしか宿らない。
何故ならば、そういった思いで引き寄せる事を選んだのだから、自分の(本当に望んでいた)意図するところで望んだものではないので、そうした結果を引き寄せる。
人の引き寄せるものとは、本当に望むものに焦点を合わせなければならない。
また、自分が望んでやって来た結果について、不平不満を抱くのはエゴである。
例えるなら、自分が食事をする為に注文した内容があったのだが、途中で全く別のものを欲しいと思ったとする。
そして注文したものが出された時、あなたが注文したものであるにもかかわらず、欲しいものが変わった…という勝手な理由を押し付けて、出されたものに不平不満を言う…という、実に自分勝手な内容なのだ。
それ故、自分の思考には十二分に注意をしながら、本当に望むものに焦点を当てて、正しい選択をしなければ、本当に望む結果は得られないのだ。
それは即ち、極の反発であり、対とはならない。
本当に望むものに焦点を当てているものは、たとえ苦しい思いをしていたとしても、離れてしまう事はない。
それが、正しい陰と陽の在り方である。
(某サイトにて私が投稿した内容の、再掲載である)