白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年五月二十七日(3)

2017年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

木地師と密接な関係がある鋳物師に関して。地名を巡って次のような興味深い記述が見られる。

「現在の小浜市金屋には近年まで鋳物師が住み製作に従事していた。この金屋鋳物師(以下、本文では現金屋地区に活動の跡を残す鋳物師を便宜『金屋鋳物師』と称す)が伝えた文書群が今にのこされているが、その代表格が『芝田孫左衛門家文書』(旧『金屋鋳物師組合文書』)である。そして、この『芝田孫左衛門家文書』を通じて、彼ら金屋鋳物師が、平安時代、蔵人所(くろうどどころ)に所属して燈炉(とうろ)などの鉄製品を貢納するかわりに諸役免除や諸国往反の自由を保証された『燈炉供御人(くごにん)』の末裔を称し、これを根拠に、守護など代々の領主から、独占的営業権や免税特権を認められていたことなどが判明する」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.123」吉川弘文館)

「しかし、これら文書のうち、『燈炉供御人』の末裔であることを示すために保存された平安~南北朝時代の年号をもつ蔵人所牒(ちょう)などは、江戸時代の認可をうけて全国の鋳物師支配にあたった真継家(蔵人所舎人職を世襲)から後世授与されたもので、金屋鋳物師がその年号の時代に得た文書ではない。おそらく、金屋の鋳物師が得た最も古い文書は、天文九(一五四〇)年の若狭守護武田信豊(のぶとよ)袖判奉行人奉書(そではんぶぎょうにんほうしょ)で、信豊はここで若狭国内での金屋鋳物師の独占的営業権を認めている。また、『金屋中』(かなやちゅう)の表現もこの文書が初見である」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.123」吉川弘文館)

「金屋(かなや)(下金屋・小南)の地が鋳物師の集住する職人村的な様相を示すようになるのは、おそらくこの武田信豊の安堵(あんど)を得る十六世紀中盤のことで、蔵人所(真継家)との関係もほどなく構築されたのであろう。金屋鋳物師が『燈炉供御人』の末裔であることを確かめる術はないが、彼らが何を拠り所にして近世という時代を迎えようとしていたかを、『金屋中』の文書は雄弁に語っているのである」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.123~124」吉川弘文館)

「金屋の地は、遠敷川沿いに南下して近江国境に至るルート上にある。後掲遠敷市庭(おにゅういちば)からもほど近い。金屋鋳物師はその原材料である鉄を他国から調達していたし、生産品を販売することで食糧などの生活物資を得る生業であるから、主要街道と市庭に近い立地はその点を配慮したものと知れる。十五世紀初頭にはすでに小浜津に『鉄船』(鉄を積載する廻船)が入津しており(『若狭国税所今富名領主次第』)、鉄の主要産地である出雲などから運ばれた鉄の一部が、金屋鋳物師たちの原材料となったのであろう」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.124」吉川弘文館)

「『燈炉供御人』たちが遍歴性を後退させ、諸国に定着してその地の需要に応えるかたちで『売庭』(商圏)を形成していくのは十四世紀のこととされる。そして、こうした動向のなかで、全国的に金屋という地名が生み出されてくるという(網野善彦『中世の生業と民衆生活』)。これまで本文中でも便宜金屋鋳物師と称してきたが、本来は鋳物師たちが工房を設営したことから金屋の地名が付されたと考えるのが筋である。その意味で、金屋鋳物師の作品が十四世紀末から確認できることは注目される(表1『中世金屋鋳物師の製作品』参照)」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.124」吉川弘文館)

「表1(中世金屋鋳物師の製作品)冒頭の大工来阿は太良荘(たらのしょう)の住人である。彼が拠点をおいた太良荘尻高名(しつたかみょう)は、彼のような職人が生み出す富に対して特設された名で田畠は存在しない(網野善彦『中世東寺領荘園』など)。しかし、銘文に『下金屋来阿』と記したことからみて、梵鐘(ぼんしょう)製作の工房は金屋にあった。鍋・釜などの生活用品を製作する工房は太良荘に設営できても、梵鐘製作が可能な工房は規模も異なり荘外に求められた結果であろう。嘉吉三(一四四三)年に東寺御影堂(みえいどう)梵鐘を鋳造・寄進した太良荘の大工(だいく)行信(ぎょうしん)の証言によると、当時の若狭には大きな梵鐘を鋳造できる細工所は一ヵ所しかなく、(鋳物師の)大工も(自分)一人しかいなかったという(『東寺百合文書』)。行信のいう細工所が金屋をさすのであれば都合がよいが、いずれにしても、十四世紀末にすでに金屋地名があり、ここに梵鐘の製作も可能な規模を有する鋳物工房が存在していたことは確かなようである」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.124~125」吉川弘文館)

「若狭に在来の(あるいは来住した)鋳物師たちが、原材料の調達と商品の販売・流通を考えて選地し設営した鋳物工房が、やがて金屋と呼ばれ、鋳物師たちの集住とあいまって地名化していくという歴史を現小浜市金屋の地もたどったといえよう」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.125」吉川弘文館)


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