白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

自由律俳句──二〇一七年五月二十三日(1)

2017年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年五月二十三日作。

(1)日溜りを風が割れる

(2)早め早めとなかなか進まない

(3)裂けてしまった水ぶくれのあと

(4)唱和すれば独りの深みをなめる

(5)揺れれば揺れるほど骨格

☞「今日も午前中畑仕事をして店に来て、奈津と入れ替わったらしく、汗と脂に湿った指の股にはムレムレの匂いが濃く籠っていた」(睦月影郎「永遠のエロ・P.165」二見文庫)


NHK朝ドラでしばしば見られるような光景も描き込まれている。「午前中畑仕事」、と。

BGM1

そういうこともあっただろうと想像できそうなシーン。

「一人の背広の男が席を立ってくれた。『座りなさい』『あ──、南部大尉──殿!』治郎は驚いて十四郎に言い、遠慮している志保を座らせた。言いよどんだのは、海軍式に南部大尉と呼んでしまったからだ。海軍は、階級に尊称が入っているという考えで、そのまま言えばよい。しかし陸軍では、大尉殿というのが慣習である。ちなみに大尉は、陸軍では『タイイ』、海軍では『ダイイ』と濁って発音する。『縁があるな』『東京憲兵隊へお帰りですか』治郎が言うと、憲兵という語に反応して周囲の乗客がこちらを見た」(睦月影郎「永遠のエロ・P.186~189」二見文庫)

BGM2

「やがて追浜から電車に乗って一駅、汐留(しおどめ)で降りた。この駅は国鉄の横須賀駅に近く、すぐ前に海が広がっている。海兵団の門があり、さらに少し歩くと鎮守府の正門、さらに水交者(将校クラブ)や下士官兵集会所などがあった。この汐留駅は、以前は横須賀軍港駅と名付けられていたが、軍の施設が駅名というのは防諜上よろしくないということで、昭和十五年に改称された(現在は、京浜急行汐入(しおいり)駅)。とにかく、横須賀駅周辺は帝国海軍の町なのである」(睦月影郎「永遠のエロ・P.217」二見文庫)

軍関係の施設に経済的に依存している地域は今なお少なくない。

BGM3

「撃墜王」(睦月影郎「永遠のエロ・P.237」二見文庫)

これで二回目の登場になる単語。関係ないが、アイアン・メイデンに邦題「撃墜王の孤独」(ACES HIGH)という楽曲があった。昨今、急にきな臭くなってきた日本社会。HR/HMなどの洋楽愛好家としては肩身の狭い思いばかりで鬱っぽくなるほかなく、陰々滅々たる排他的国家の中で孤立して行くのは仕方のないことだろうか。

BGM4

時代小説以外では今どき珍しい漢字が登場する。

「(宜(よ)う候(そろ)ーッ!)」(睦月影郎「永遠のエロ・P.251」二見文庫)

しかし謎なのは、英語は使用禁止だったのに漢字はなぜ精一杯使用されていたのだろう、ということ。もう、この作品もほぼラストまで来たわけだが──。

BGM5

赤松啓介から。

「騒動が大きくなれば三俵、五俵と米も集まるし、闘争資金も増えるのは間違いないが、それとともに主導権も地元から離れて、いわゆる闘士、煽動家の手へ移る。争議に勝っても、負けても、騒動を大きくするほど煽動家の手柄になるが、かれらにこき使われて第一線で働かされ、ブタ箱、刑務所へ放り込まれた奴ほどあわれなものはあるまい」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.21」河出文庫)


BGM6

「たとえは悪いが『一将功成り、万骨枯る』は軍人世界だけでなく、どこの世界も同じだ。要するに正直で、頭の廻転が遅い奴は利用されるだけであるし、下っ端でこき使われておるのは、どこの世界であろうと一生、浮かび上がれんということなのである。しかし下っ端の人生には、浮かび上がるような政治屋どもにはわからない面白い世界もあった」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.22」河出文庫)

BGM7

赤松啓介は最初の章で宮本常一「土佐源氏」に触れている。かつてあった純朴な風景。今はどうなっているかまったく知らないが、もし残っていれば面白いコミュニティだろうと思わないわけにはいかない。

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猫は隠蔽を見抜く(解決編)

2017年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

「おおい隠す、あるいは隠蔽、と言っても大袈裟な舞台装置はいらないと考えてよいでしょう。いつ見ても視聴者の側に正面ばかり向けて伝達する報道は、その一方で、背後にどれほどの情報を『おおい隠しているか』、一般の視聴者にはさっぱりわかりません。おおい隠す、あるいは隠蔽する、これほど簡単な情報操作方法もまたとないのではないでしょうか。そしてこれが最も大事なことなのですが、誰が何をどのように『おおい隠しているか』、全然わからなくさせるために最も効果的なものは何でしょう。お察しの通り、特に社会人の方々はよくわかってらっしゃるに違いありません。『貨幣』です。『貨幣』ほど、その背後に様々なものや様々な過程をおおい隠してしまうのに都合のよい便利なものもまたとないと言っても過言ではないでしょう。ここではその分析例を八個ばかり上げておきましょう。

(1)《形態4》(貨幣形態)
───────────
20エレのリンネル  =
1着の上着      =
10ポンドの茶    =
40ポンドのコーヒー = 2オンスの金
1クォーターの小麦  = 
2分の1トンの鉄   =
x量の商品A      =
(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.131」国民文庫)


(2)「商品世界のこの完成形態──貨幣形態──こそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

(3)「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は、運動そのものでは消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.169」国民文庫)

(4)「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.205」国民文庫)

(5)「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

(6)「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されているのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)

(7)「利子生み資本では、資本としてのその還流は、貸し手と借り手とのあいだの単なる合意によって定まる《かのように見える》。したがって、資本の環流は、この取引に関してはもはや生産過程によって規定された結果としては現われないで、まるで、貸し出された資本から貨幣の形態がなくなったことはまったくなかったように見える」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.62」国民文庫)

(8)「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)

思わないでしょうか。これまで一体どれほど大量の事実が他の報道によって『おおい隠され』て来たか。そしてそれはなぜ『おおい隠されなくてはならなかった』のか。さらに、それら『おおい隠され』たままの様々な諸事情は今どこで何のために用いられているのだろうかと」(’17.5.22)

BGM-A

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自由律俳句──二〇一七年五月二十一日(3)

2017年05月22日 | 日記・エッセイ・コラム

音楽コーナー。

「YOUNG GUITAR 2017年6月号」(シンコーミュージック)


P.185。「ギター世界征服計画」。Ex-1:タッピングは馴れが物を言いますね。今回注目したのは譜面の中でタップを使用しない2段目。個人的には次のようにこなす癖が付いてしまっています。3小節目1拍目:3弦9fをハンマリング。1〜2拍に渡る3弦13〜9fをプリング。2弦11fをハンマリング。3拍目頭の2弦15fをピッキング。というふうにこなして行きます。

BGM25

ピッキングでも勿論構わない。でもシーンはどんどん変わってきたようですね。ほとんどすべての音をレガートで、ってアーティストも珍しくなくなった。DRAGON FORCE“VALLEY OF THE DAMNED”のギターソロを見てコピーし出した頃からかな。それまではピッキングしていた箇所もレガートで済ませることに抵抗がなくなりました。だからといっていつもレガートで済ませるってわけにもいかない。ピッキングにはピッキングなりの「味わい」ってのがあります。ハーモニクスだっていつもピッキング・ハーモニクスばかりとは限らない。指弾きしながら、どの指でも構いませんが、指とか爪とかでハーモニクス音を出したりもします。要するに自分自身で考える癖も付けたいと思う今日この頃。

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自由律俳句──二〇一七年五月二十一日(2)

2017年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム

コジェーヴによるヘーゲル「主人と奴隷の弁証法」。「承認」を巡って。

「ところで、人間は、(ホモ・サピエンス種の)動物でもある。したがって人間は、人間として現実存在するためには、自分が動物として現実存在するのと同じ資格で人間として現実存在するのでなければならない。人間は、動物としての資格で現実存在するのと同じ存在論的次元において、人間としての資格で自らを実現させねばならない」(コジェーヴ「法の現象学・P.277~278」法政大学出版局)


BGM12

「ところで、二つの本体が同じ存在論的次元にあるのは、それらが相互作用を行う場合、すなわち──極限では──、一方が他方を無効にしうる場合である。だから、承認たる人間は、動物としての自分を無効にしうるのでなければならない。その欲望の欲望が、動物的または自然的欲望を無効にしうるのでなければならない。自然的欲望とは要するに『自己保存本能』、つまり自分の動物的生命を保存しようとする欲望であるから、人間発生的欲望は、この『本能』を無効にしうるのでなければならない。言い換えれば、人間は、人間存在として自らを《実現する》ためには、承認を求めて自らの生命を危険にさらす=賭けることができるのでなければならない。この生命を賭けること(Wagen des Lebens)こそが、承認欲望の関数としてのみ行われる場合に、人間の真の誕生となるのである」(コジェーヴ「法の現象学・P.278」法政大学出版局)

BGM13

「ところで、承認への欲望は、こうした生命を賭けることを必然的につくり出す。それは次の理由による。人間が欲望しうるのは他の人間の欲望だけである。しかし、この他者もまた、人間である以上、彼の欲望を欲望する者の欲望を欲望する。この他者もまた、承認されることを欲望し、承認されることをめざして自分の生命を危険にさらす覚悟がある」(コジェーヴ「法の現象学・P.278」法政大学出版局)

BGM14

「だから、欲望の欲望は、承認を求めての生死を賭けた闘争(Kampf auf Leben und Tod)のなかでかつそれによってのみ実現されうる。生命を賭けることが人間を実現するのは、このような生命を賭けることを含む闘争によってのみ人間が自らを実現しうるからである」(コジェーヴ「法の現象学・P.278」法政大学出版局)

BGM15

「もし人間発生的欲望が両者において同じであるならば、承認を求める闘争が行き着く先は、敵対者の両方かそのうちの一方の死でしかありえない。この場合には承認はなく、したがって人間が実際に現実存在することはないだろう。だから、人間が自らを実現しうるためには、闘争は、敗者による勝者の一方的承認に到るのでなければならない」(コジェーヴ「法の現象学・P.278」法政大学出版局)

BGM16

「しかし、これが可能であるためには、人間発生的欲望が、二人の敵対者において同じであってはならない。未来の勝者の人間発生的欲望は、その自然的欲望よりも強くなければならないし、未来の敗者の人間発生的欲望は、その自然的欲望よりも弱くなければならない。闘争を放棄して屈服するためには、敗者は恐怖を抱かねばならない。だから、敗者の承認欲望は、自己保存への自然的欲望に従属するのでなければならない」(コジェーヴ「法の現象学・P.278~279」法政大学出版局)

BGM17

「敗者のなかの人間は、この人間を支える役割をする動物よりも弱いものとしてあり、そのようなものとして開示される。敗者の人間性は、潜在的状態にとどまり、顕在化されず、動物的生命によって規定される現実的次元に達しない。これに対し勝者は、その自己保存への動物的本能を、承認への人間的欲望に従属させることができた。だから勝者は、自らの人間性を顕在化し、彼が動物であるのと全く同じ程度の現実性をもって人間である。まさしくこうしたことが、一方的承認によって開示される──より正しくは、実現される」(コジェーヴ「法の現象学・P.279」法政大学出版局)

BGM18

「敗者は、勝者の人間的現実(または価値、尊厳)を承認し、そしてこの人間的現実は実際に現実存在する。勝者は、敗者の人間的現実(または価値、尊厳)を承認せず、そしてこの人間的現実は実際には現実存在していない。人間的現実は、それが現実存在するかしないかに応じて承認されたりされなかったりすると言ってもよいし、人間的現実は、承認されるかされないかに応じて現実存在したりしなかったりすると主張してもよい」(コジェーヴ「法の現象学・P.279」法政大学出版局)

BGM19

「敗者によって承認されはするが自分の方では敗者を承認しない勝者は主人(Herr)と呼ばれる。勝者を承認するものの自分は承認されない敗者は奴隷(Knecht)と呼ばれる。そして次のことがわかる。人間が創造されうるのは、主人と奴隷とのこのアンチテーゼのなかでのみである。つまり、顕在的に現実存在し、自らを顕在的に現実存在させ続けようとする人間と、潜在的に現実存在し、自らを顕在化しようとする人間とのアンチテーゼのなかでのみである」(コジェーヴ「法の現象学・P.279」法政大学出版局)

BGM20

「しかし、もっと詳しく検討するとわかるように、主人の顕在性は全くの幻想である。なるほど、主人は《潜在的に》現実存在するのではない。なぜなら主人には、変化し、自分が今あるのとは別物になり、自分が今そうでないものであろうとする傾向が全くないからだ。主人と別のものは奴隷であり、主人は奴隷になりたいとは全く思わない。しかし、主人は顕在的に現実存在してもいない。なぜなら、人間の顕在性とは承認であるからだ」(コジェーヴ「法の現象学・P.279~280」法政大学出版局)

BGM21

「ところが主人は承認されていない。主人は奴隷によって『承認され』てはいるが、奴隷は、人間発生的な生命を賭けることを拒否して動物的生命の方を選んだのであるから、動物である。だから、奴隷による『承認』は主人の人間性を顕在化しない。主人は、奴隷により承認されるという事実によっては少しも満足しない。なぜなら主人は、この奴隷を厳密な意味での人間として承認していないからだ」(コジェーヴ「法の現象学・P.280」法政大学出版局)

BGM22

「しかも彼は、主人である以上、奴隷を承認することはできないし、また主人であるのをやめることもできない。だから、この状況は出口のないものだ。主人は、自分の承認欲望の満足を決して獲得しない。だから、彼の人間発生的欲望は満たされないし、実現しない。言い換えれば、主人は人間存在として自分を《実現し》ていない。そして主人は、《潜在的に》人間存在であるわけでもないのだから、主人は人間存在では全然ない。だから主人は、真に人間的な存在として実際に《現実存在してはいない》」(コジェーヴ「法の現象学・P.280」法政大学出版局)

BGM23

「これはつまり、(承認を求める闘争において)主人として《死ぬ》ことだけはできるが、《生きて》主人たることはできないということだ。さらに言えば、主人が歴史のなかに現れるのは、消滅するためにのみである。奴隷が存在するためにのみ主人は現存在する」(コジェーヴ「法の現象学・P.280」法政大学出版局)

BGM24

マルクス参照。

「こうして価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)

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自由律俳句──二〇一七年五月二十一日(1)

2017年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年五月二十一日作。

(1)請求書の耐えられない居眠る

(2)次にその次にさらに休日がすり減る

(3)布団を干す空が大きい

(4)米洗い上げた一服

(5)治療薬も水が流れていく

☞「『き、貴様、何者だ。憲兵に反抗するか、うわッ!』伍長は、いきなり激しい往復ビンタを食らって悲鳴を上げた。往復ビンタなのに、音が一発しか聞こえないほど、男はビンタに慣れているようだった。『こ、こいつ──』よろめきながら伍長が軍刀に手をかけると、男が背広の内ポケットから手帳を出して見せた。黒地に金で、六角形の菊のマーク。『憲兵大尉、南部十四郎(なんぶじゅうしろう)。東京憲兵隊より出張してきた』『は──、はッ──!』言われて、伍長が青ざめて直立不動になった。『内地で威張ってる憲兵連中を、外地に送る人選をしている。お国のため、兵に混じって銃を取る名誉な仕事だ。お前を選んでやろう』『か、勘弁してください、大尉殿──』」(睦月影郎「永遠のエロ・P.131~133」二見文庫)


この手のエピソードはあったようでなかったような。「往復ビンタなのに、音が一発しか聞こえない」とある箇所は面白い。しかし「内地で威張ってる憲兵連中」は確かにいただろう。

BGM1

再び「南方」というフレーズから一つの場面が導かれる。

「『南方か──』十四郎が呟くように言い、ほまれ(軍用煙草)の紫煙をくゆらせた。彼も来たばかりらしく、奈津がコーヒーを出し、一口すすった。『これは、本物のコーヒーか──』十四郎が驚いて言った。『ええ、海軍さんから回してもらっているんです』『そうか、久々だ──』十四郎は、コーヒーが好きらしい。この時代、輸入は途絶えているので、コーヒーといえば大豆や百合根などの代用品しかないのだ」(睦月影郎「永遠のエロ・P.135」二見文庫)

BGM2

「『そろそろ行ってやるか。長いこと整列して待っているのも辛いだろうからな』十四郎は治郎の方を見て苦笑して言い、財布から十銭玉を二つ出した」(睦月影郎「永遠のエロ・P.136」二見文庫)

「十銭玉を二つ」。相場が類推できる点でリアルかも知れない。

BGM3

「『すごい雰囲気の人ね。刑事さん?』『憲兵大尉と言うことでした』『まあ恐い。海軍さんから回してもらってるコーヒーのこと、追及されないかしら──』」(睦月影郎「永遠のエロ・P.136」二見文庫)

「軍部からの横流し」という言葉が思い出される。’七〇年代の漫画などではまだ死語化していなかった。

BGM4

リアルを感じさせる部分が続く。

「やがて巡検ラッパが聞こえてきた。陸軍では消灯ラッパだが、海軍では当番が巡回を終えて眠ることになっている」(睦月影郎「永遠のエロ・P.148」二見文庫)

BGM5

「翌朝、治郎は起床ラッパで目を覚ました。起床ラッパは、♩ドドドドミドドドソドドミド~ミミミミドミドミドミソソド~/起きろよ起きろよみな起きろ~起きないと班長さんに叱られる~♩という歌詞が当てられている。起きて着替え、急いで厠(かわや)をすませて顔を洗う」(睦月影郎「永遠のエロ・P.148~149」二見文庫)

BGM6

「続いて点呼ラッパ。♩ド~ソソド~ソソドドドミ~ソソソソ~ミミミソミド~ソドドドミド~/点呼だ点呼だ週番兵士は週番班長に報告したか~まだか~♩」(睦月影郎「永遠のエロ・P.149」二見文庫)

BGM7

「そして食事ラッパだ。飯に肉のない豚汁に少量の漬け物。食事は味わって食う暇がないので、かっこむ、と言う。♩ドドドドミミミミドミドミソソソ~ドドドドミミミミドミドミド~/かっこめかっこめかっこめかっこめどんどんかっこめ~かっこめかっこめかっこめかっこめ噛まずにかっこめ~♩これは正露丸CMのラッパだから治郎もよく知っていた」(睦月影郎「永遠のエロ・P.149~150」二見文庫)

治郎は過去へタイムスリップしたという設定になっているので、このようなテレビCMの話題を想起できる。

BGM8

「ちなみに零式艦上戦闘機の零とは、正式採用になった皇紀二千六〇〇年(昭和十五年)の末尾『〇』からつけられた」(睦月影郎「永遠のエロ・P.151」二見文庫)

BGM9

次の文章は以前にも一度引用した。

「零戦は一人では動かず、整備兵の補助が必要なのである」(睦月影郎「永遠のエロ・P.152」二見文庫)

戦後の憲法もまたそうだ。「一人では動か」ない。

BGM10

「目の前には、九八式射爆照準器と計器板。上部左右には水平儀と旋回計。下の中央に羅針儀、左右に昇降度計、高度計、油圧計、回転計などが美しく並んで、ガラスもピカピカだった」(睦月影郎「永遠のエロ・P.152」二見文庫)

ここから数ページは戦闘シーンが続く。が、空中戦なので派手な流血が出てこない。関心のない読者は退屈してしまいそうだ。

BGM11

「三日後のヒトフタマルマル(正午)」(睦月影郎「永遠のエロ・P.162」二見文庫)

「12:00」を指す。1(ヒトツ)2(フタツ)0(マル)0(マル)。



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