白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年五月十八日(1)

2017年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年五月十八日作。

(1)解決できそうにない山積

(2)車に慣れて歩き方を忘れた老い

(3)片方の屋根が落ちたまま

(4)石走(いわばし)る不意にこうもりの夕映え

(5)あたふたと初夏を着替え干して居る

☞「三人もの微妙に異なる生娘の股間を続けて見られ、しかも味わえるなど、何という幸運であろうか」(睦月影郎「永遠のエロ・P.102」二見文庫)

戦争でラッキーな記憶を刻んだ人々は決して多くはない。が、実にラッキーな思いをした人々も少なくはないのである。それを「ラッキー」と呼ぶかどうかは別として。

再び「海軍さん」というフレーズが上手く配合されている箇所。

「治郎は、三人分のミックス唾液を味わい、飲み込んでうっとりと喉を潤した。『顔じゅうにも思い切り吐きかけて──』『そんな、大切な海軍さんに──』『綺麗な唾で清められたい──』言うと、物怖じしない真知子が顔を寄せた。『いいのかしら──、こう──!』言うなり息を吸い込み、思い切りペッと吐きかけてくれた」(睦月影郎「永遠のエロ・P.109」二見文庫)

戦後の今の時点から振り返ってみると、「思い切りペッと吐きかけ」ることが出来なかったことが、戦後民主主義をも複雑化させる要因になっていることが窺えよう。

さらに再び「チリ紙」が出てくる。今ではすっかり「風物」でしかない懐かしい光景だろう。

「三人はチリ紙で割れ目を拭い、顔を寄せ合ってペニスを舐め回し、すっかり綺麗にしてくれた」(睦月影郎「永遠のエロ・P.111」二見文庫)

戦記ものではないにもかかわらず、畳み掛けられる「南方行き」というひと言。

「『そう、それがいいわね。出航前は慌ただしいから』百合子は、微かに眉を曇らせながらも、笑顔で言った。自分の夫も音信不通になっているので、南方行きを案じているのだろう」(睦月影郎「永遠のエロ・P.111~112」二見文庫)

次のセンテンスは非常に短いが実に苛酷なリアリズムの様相を厳密に伝えている。

「この時代、子作りしなければ路頭に迷ってしまうという、百合子の寂しくも辛い事情を察しているのだろう」(睦月影郎「永遠のエロ・P.114」二見文庫)

「彼の意向など無視するかのように、女同士でヒソヒソ話し合う様子が実に淫靡(いんび)」(睦月影郎「永遠のエロ・P.116」二見文庫)

確かに「淫靡(いんび)」だ。しかしなぜ「そう見える」のか?確固たる証明を目にしたことがない。

「治郎はヌメリをすすりながら、美人教師の味と匂いを心ゆくまで堪能」(睦月影郎「永遠のエロ・P.120」二見文庫)

「美人教師」とある。今これを読む場合、年齢性別を問わず、存在論的な見地に立って、「自分にとって」の「美」であるかどうかという点に絞って論じるのが妥当だろう。でないと議論するにも迷走することはわかり切っている。

「美人教師の甘い息を嗅ぎながら余韻を味わい」(睦月影郎「永遠のエロ・P.124」二見文庫)

ここで問いたいのは「美人」にも「教師」にも関係がない。そうではなく、「余韻」、である。「息」が「甘い」か「辛い」かは、多分、思うほど軽い問題ではない。読後感とは少し異なった意味で「余韻」を考えることはできないだろうか。概念ともまた違ったイメージがある。そしてこの「余韻」の「性質」とその「濃淡」並びに「インパクト」の長短次第で、その作品は純文学かそれともエンターテインメントかが決定されることがしばしばある、と差し当たり見ておこう。

打って変わって次のような文章がさりげなく挿入される。リアル。言われてみれば「役所」はどこも、似たような場所にある。どうしてだろう。都市計画に関心のある読者は考えてみると面白いに違いない。

「新大津駅から十五分ほど電車に乗り、横須賀中央で降りた。市役所は小川町にあり、歩いて五分ほどだ。繁華街を抜け、役所へ向かう通りに」(睦月影郎「永遠のエロ・P.130」二見文庫)

さて前回に引き続き、谷崎潤一郎から。猫の性質について。

「抱かれることが嫌(きら)いなリリーは、あまり強く締められたので脚をバタバタやらしたが、バスケットの中へ戻されると、二三度周囲を突ッついてみただけで、とても出られないとあきらめたらしく、急に静まり返ってしまった」(谷崎潤一郎「猫と庄造と二人の女・P.41」新潮文庫)

「それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬よりも薄情であるとか、不愛想であるとか、利己主義であるとか云うのを聞くと、いつも心に思うのは、自分のように長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分るのか、と云うことだった。なぜかと云って、猫と云うものは皆幾分か羞渋(はにか)みやのところがあるので、第三者が見ている前では、決して主人に甘えないのみか、へんに余所(よそ)々々しく振舞うのである」(谷崎潤一郎「猫と庄造と二人の女・P.49」新潮文庫)