hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●法華経寺に、立正安国論、伊東忠太、本阿弥光悦

2018-01-23 | Art

 日が経ってしまいましたが、千葉県市川市の東山魁夷記念館(日記)に行ったあと、すぐ近くの日蓮宗 大本山正中山 法華経寺にもお参りしてきました。

せっかく市川まで行くので近くにもうひとつ見どころはないかな、と思ったところ、こちらの法華経寺がhit。

伊東忠太(築地本願寺の設計など)の設計の「聖教殿」があり、しかもその中には、日蓮の国宝「立正安国論」が保管されているとは。

 

日蓮というと、千葉の鴨川生まれというのは記憶にありましたが、市川は日蓮にとって深い縁があるようです。

ざっくりとメモ:鎌倉時代、この地に館を構える武士、富木常忍は、鎌倉に出向いた際に布教中の日蓮と出会い、熱心な信者となる。1260年、日蓮が立正安国論を北条時頼に建白した40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされると、日蓮は常忍を頼ってここに逃れた。さらに1264年に襲われた際にも常忍のもとに身を寄せ、常忍は館の中に法華堂を建て、日蓮に説法を願う。この若宮法華堂で日蓮は、百回に及ぶ説法を行う。1282年、日蓮の入滅後、常忍は出家して日常と号し、法華堂を改めて法華寺とする。

 

仕事ついでだったので、法華経寺に着いた時にはすっかり夕暮れどき。

五重塔(国指定重要文化財) 本阿弥光悦の甥、本阿弥光室が両親の菩提を弔うために、加賀藩主前田利光公の援助を受けて建立したもの(こちらから)。

本阿弥家と日蓮宗との縁は、本阿弥光悦の曾祖父・本阿弥清信が、将軍足利義教の怒りに触れて投獄された際に、たまたま日親上人(1407~88。法華経寺で修行し、京に上る。将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、迫害を受ける。焼けた鍋をかぶせられるという拷問を受け、鍋かぶり上人と呼ばれたとか。)と獄中で出会い、帰依するに致ったことを端緒とする。ムショなかまなのね。清信は、出家して本光と称し、日親の本法寺の再再建に協力する。

 

大仏様(1719年鋳造)はメンテナンス中

 

祖師堂(国指定重要文化財)1678年

「祖師堂」の扁額は、本阿弥光悦の筆

 

刹堂 十羅刹女・鬼子母尊神・大黒様を安置。

 

法華堂(国指定重要文化財) 法華経寺の本堂。上記の富木常忍が若宮の館に建立し、後にここ中山に移されたと伝えられる。

禅宗様を基調に和様を取り入れ、室町時代後期に再建されたものと思われるとのこと。

扁額は光悦。

 

振り向くと、四足門(国指定重要文化財 )室町時代後期 鎌倉の愛染堂にあったものを移築したと伝えられる。

 

「こけら葺」の屋根の肌が印象的。

 

宇賀神社

 

宝殿門

この門をくぐると、聖教殿へ。ひっそりとした小径の向こうに。

 

聖教殿 昭和6年 国宝の観心本尊抄、立正安国論ほか重文数十点が保存されている。

伊東忠太らしく、いろいろと神獣に守られている。フェンスの向こうにあり、スマホではうまく撮れなかったのが残念

毎年11月に公開されるそう。

 

引き返すと、さきほどの宝殿門の太鼓が見える。

ぐるっと参道へ出たころには、すっかり暗くなってしまいました。

 

赤門(仁王門)

扁額は光悦

日蓮というと、激しい人、というイメージ。

京成中山駅へと続く参道に黒門

黒門のたもとに和菓子屋さん

戻って、先程の赤門の仁王様

参道は、通勤帰りの人が通り抜けています

参道のお店が静かに灯りをともしていました。初詣のころはたいへんにぎわっていたでしょうね。お花見にも人気だそう。

 

龍渕橋(龍閑橋)昭和20年 欄干はざくろの形

 真っ暗になってしまいました。

 

和菓子屋さんで買った「鶴もち」♪

花びら餅

周辺にも塔頭などお寺が集積していました。短い時間でしたが、楽しい散歩でした。