hanana

二度目の冬眠から覚めました。投稿も復活します。
日本画、水墨画、本、散歩、旅行など自分用の乱文備忘録です。

●ゴールドマンコレクション「これぞ暁斎」展2

2017-02-27 | Art

ゴールドマンコレクション「これぞ暁斎」1の続き


第五章:百鬼繚乱ー異界へのいざない

妖怪、地獄の者たち、幽霊、骸骨といった、異形異類のものが踊る章。

でも4章まで見てきた今となっては、奇想だとか突拍子もないだとか思えなくなってしまった。それらと暁斎の間には、壁がなく分け隔てもない。人間を描いたのと同じく、心ある存在として描いている。存在感が前に出ている。

 

「幽霊図」は、妻お登勢の臨終の時のスケッチをもとに描いた。最初の妻(其一の娘)は2年で亡くなり、その年に再婚したお登勢は、(後の)暁雲を生み、1年で亡くなる。ヒットを着実に重ねつつある、暁斎が30歳の時。

五代目尾上菊五郎の注文。菊五郎の幽霊画コレクションを研究して、スケッチから下図をおこし、本画を描いた。

スケッチは展示されてなかったけど、下絵がある。それはまだ、人間の感じがした。やせ細ったお登勢の浮き出た骨も、静かな表情、着物の裾も。

それが本画になると、片目は青く、表情はなにやらの念を漂わせ、影の部分もまさに幽霊。

妻の臨終を絵にするなどよく・・と思ったけど、この幽霊は、これより前の慶応3年に描いた幽霊よりも、少なくともずっときれい。ある意味、暁斎のリスペクトがあるのかも。幽霊だから怖く不気味に描いとけばいいだろうみたいな絵ではない。イメージだけの幽霊ではなく、実態がある。

 

この後に並ぶ、「地獄絵」では、暁斎が馴染みすぎていて、どちらの世界の人かわからなくなる。もちろん、火あぶりやら、舌を抜かれるシーンなど、かなり凄惨に描いているものもある。絵師としては、いかに怖く描くかが、腕の見せ所。

でも、ユーモラスな地獄絵がやっぱり多い。

閻魔の前の鵜飼い」は、閻魔大王に叱責されるとともに、鵜にも責め立てられる「鵜匠」が、情けない感じ。

地獄太夫のシリーズでは、美醜の対比なのか、地獄太夫の無垢な美しさが際立っていた。

129の「地獄太夫と一休」(明治4~22年)

細密な大夫に、一休と屏風は墨絵。打掛には、閻魔はじめ地獄の様子を細密に描きこんでいる。水墨の蓮のつぼみと蓮の葉は今にも開こうとし、一つの花ははっと開いたところのよう。前世の罪を悔いた太夫の悟りの瞬間なのかも。


129「地獄太夫と一休」(明治4~22年)は、その次のステージかな。解脱の境地に達しております。

骸骨(大)が三味線、一休と骸骨(小)たちが踊る。背景の「秋草図屏風」のほのくらい夜がきれい。美しい地獄太夫の着物は、珊瑚に宝物と、欲望のパロディみたいな七福神模様を細密に描いていた。死んだら皆一緒だ。一枚めくれば皆一緒だ。ということなのか?。


暁斎の死生観、地獄観が独特。ぶっとんでいるし、達観している。

暁斎には、死はわりと身近で、地獄の者や骸骨も怖がる対象でもなさそう。絵でもこれだけお友達のように描いてるんだから、向こうの世界もさぞ楽しいことでしょう。「地獄戯画」では、閻魔や鬼はおそばを食べていたし、「蓮の葉をかぶった死者たち」は、笑顔で彼方へ向かっていた。


そして妖怪が、愛らしい。

「道化百物語」は悪そうなネコがたまらない~。このツチノコみたいなの(右上)の、口や目のマークはなんだろう?


影絵のシリーズもおもしろい。なかでも慶応3年の「新版影づくし」は、星のような手、踊る人が、マティスのよう。

維新前夜のこのシリーズは、明治維新前夜の混乱と狂乱が映し出された諷刺画だった。ほかのも、西洋人に銃を向けられたり、官軍が大砲を放ったり、かと思えば妖怪たちまで騒ぎ立てたり。


「化け物絵巻」明治14年 は、こんなふうに楽しく暮らせたらいいね、みんなずっと一緒にいようね、みたいな。幼いヒナたちみたいに邪気のない顔をしている。これは暁斎オリジナルの妖怪なのだそう。

 

「百鬼夜行図屏風」明治4~22年 はすごい。

太い線も細い線も、力強く、強い意志をもっているような筆。そもそも妖怪を描いた6曲1双の大きな屏風があるってことに驚くし、妖怪をこんなに堂々と力強く描き上げていることにも驚く。狩野派の画力が妖怪にいかんなく発揮されている。

ここでは、妖怪たちは、醜いもの怖いもの、社会の忌むべきもの、ではない。妖しさはなくて、みんな堂々と楽しそう。

力強く進んでいく。と思ったら、左隻では火の玉が飛んできて、妖怪なのにおののいている。

 

暁斎のパーソナリティが不思議。

権力にはシニカル。異形異類のものや、社会の端や裏・影にいたりするものには、分け隔てがない。むしろ心が近い。人間よりも優しく純粋な存在のようだった。絵に描くと、空想のものじゃない実在感だった。

暁斎は7歳から二年間、歌川国芳に入門、その時に神田川で拾った生首を写生したという。幼少期からすでに興味が芽生えてている。

1の日記で、暁斎は貴賤・国籍とわず平等意識が進歩的・・と書いたけれど、その感覚が異形異類のものにも及んでいるのには感嘆。コスモポリタンぶりが超越しているのか、そもそもそちら側の人間なのか。

 


5章:祈るー仏と神仙、先人への尊祟

暁斎の仏画は、心にしみた。なけてきそうだった。

解説には、人々の祈りに絵を描くことでよりそう、晩年には毎日観音をかいた、描くことが祈りの行為であり、日々の祈りがあの修練となった、と 。

これまでは描いたものが前にでていたのに、この章の作品では暁斎自身がとても謙虚。

 

李白観爆図(明治4~22年)、山水に学ぶ姿勢というか、自分を押すのでなく。


それは「雨中山水図」明治17年 もおなじ。自分をひいて、風景自然から入ってくるものに、謙虚に耳を傾け心をすますよう。


「竜頭観音」明治19年 も実直に真摯に観音の姿を描いた。悲しみの向こうにあるような。何も語らず、そっとそこにいてくれるような観音様。

 

だるまは、前を見たり、うしろを見たり。自分を客観視したり、心の真の声を聞いたり。

明治18年の「半身達磨」

明治21年の「達磨」

どちらも、強い筆致で一筆一筆に意識を集中して、全身をこめながら、描く。

でもどちらも、どこか表情が、母親に怒られた子供のような無垢さ。傷ついたものの悲しさが一抹に。


「祈る女と鴉」明治4~22年、祈る遊女に、マグダラのマリアを思い出す。どのような者であれ、祈る気持ちを丁寧に見つめかいている。鴉は、マリア様か菩薩のように見守っているように見えた。大いなる存在であり、慈悲であり。

 

どうして暁斎の祈りの絵は、こんなに心打たれるのだろう。他の絵のように前に出るのでなく、ただただそっといるような。心の痛みに寄り添うような。

最後に、ほろっとする、

暁斎ずるい、と思う。最後にこんなフェイント。あれだけカエルや鯰で毒を吐いておいて、酔っぱらって描いといて、最後にこんな姿をみせる。悪役みたいに見せてるけど、最後に謙虚で真摯な姿。やさしい。

この展覧会の構成にも、暁斎にも、やられた。


●ゴールドマンコレクション「これぞ暁斎」展1

2017-02-25 | Art

ゴールドマンコレクション「これぞ暁斎」展 Bunkamura 2017.2.23~4.16

 

見終わって思ったこと:

・暁斎は、仲間が好き。市井の人々が好き。

・権力に媚びない。権力をカサに着る者にはシニカルだ。

・動物が好き。なかでも鯰や蛙といった(あまりかわいくない地味な)生き物が好き。妖怪にも愛を注ぐ。

・なんでも描ける。狩野派から浮世絵まで。水墨から本の挿絵、戯画、花鳥図まで、なんでも。

・しかも何を描いてもすさまじくうまい。人も動物も骸骨も、骨相と動きが正確。

・たまに、西洋画や抽象画のような域を行き来する。

・暁斎の家には、外国人がいっぱいやってくる。

・暁斎の春画は、笑える。

・暁斎の仏画は、心を打たれる。泣けてきそうになる。

 

今まで「奇想の系譜」というイメージだったのが、すっかり変わってしまった。

どんなものでもありきたりには描かない。その面では「奇想」かもしれないけれど、奇をてらって異類のものたちやカエルたちを描いているのではないのだった。すべては近しいものであり、心を重ねたものであり、愛すべき者たち。そういうものに暁斎は心を持たせて描いたので、描かれたものは命を注入されて、絵のなかで生きているみたいだった。

◆序章:出会いーゴールドマンコレクションの始まり

ゴールドマンさんのもっともお気に入りの作品が集めている。

「象とたぬき」明治3年以前、コレクションの始まり。一度は売却してしまったものを、夜中に後悔の念にかられ、数年がかりで買いもどしたという話の絵。

 1863年に横浜に象がやってきた。象の目がやさしい。象をみようと前にでで転んでしまった子たぬきに触れているよう。お母さんみたいな象。


他も動物の絵が並ぶ。カエル、ネコ、きつね、なまず。

かわいすぎて私はふにゃふにゃ。

暁斎は彼らを自在に動かし、人間がしているようなことを彼らにさせる。暁斎のしもべ、暁斎の筆を持つ指先の化身みたいに。人間は自分の客観的な姿をみて、ドキッとする。綾小路きみまろさんみたい。

とりわけ「鯰の船に乗る猫」(明治4~12年)のアネゴみたいなネコがお気に入り。

暁斎は鯰をよく登場させる。これは船にされてひげを引っ張られていたけど、「鯰の引き物を引く猫たち」(明治4~22年)では、車にされて引き回され、ヒョウタンでぎゅっとこらしめられている。

大津絵にこういうモチーフがあるらしい。

暁斎は安政の大地震後に出した鯰絵では、鯰を役人や悪政の風刺として描いている。酔った暁斎が自作の戯画を「外国人にへいこらする役人の姿だ」といって、即逮捕。伝馬町の牢に3か月+むちうち50回の刑に処せられてしまったのは、明治3年。情けない鯰は、暁斎の恨み?


ゴールドマンさんはなぜ暁斎をコレクションするのかと聞かれ、「暁斎は楽しいからですよ」と答えた。本当にそうでしたし、きっとゴールドマンさんって人も楽しい。

◆1章:万国飛ー世界を飛び回った鴉たち

当時も、暁斎といえば「鴉」で名をはせていたらしい。

明治14年に第二回内国勧業博覧会で絵画の最高賞を取った「古木寒鴉図」は、暁斎の言い値の100円で榮太郎総本舗が購入。暁斎は、その常識破りな高値を、鴉一羽の値段ではなく、50年の対価だと言った。でも後で榮太郎さんにお金を返しに行くところが、いい人なのね。そのまま購入した榮太郎も粋だねエ。

この一件以降、国内からも海外からも、暁斎の鴉の絵の注文が殺到したらしい。この章に並ぶ鴉だけでも、その数20数羽。(鴉が苦手な私はちょっとぞわっ。)

これだけあっても、同じものは全くない。似ていても、その世界が全く違うのがすごい。鴉の思っていること、狙っている先がすべて異なる。

№11「枯れ木に鴉」明治4-22年は、「日本の筆峰」と印章が。自信が見える。

たった一本で枯れ木を描きだす。老いても枯れても威厳と貫禄がすごい。ジャコメッティを思い出したりした。この鴉は首をもたげ、次の動きのスタンバイ中の瞬間のよう。

 

№12「枯れ木に夜鴉」は、金砂子のついた藍色の紙が夜の暗さを。

先のと似てるんだけど、鴉は首をすぼめて少し丸くなり、古木もかすれを抑え、音のない静かな夜。

 

「烏瓜に二羽の鴉」は、目が鋭く、激しく威嚇しているような。点在する赤い烏瓜と、黒々した鴉、ともに鮮烈な印象。全体的な到達感がすごい。

 

№15,16の「柿の枝に鴉」は、枝のライン、鴉の狙いビーム(?)のラインとで作る交錯感が、双方で違っている。見比べると面白い。

 

一番のお気に入りはこの鴉。全然違うけど、ミレイ「よい決心」を思い出した。

枝と鴉なのだけど、一羽一羽が墨が濃かったり薄かったり、かすれてたり、湿潤な墨だったり、日輪が上にあったり下にあったり、千差万別。

一枚一枚に向き合った暁斎の、修行の軌跡のように見えてくる。暁斎は部屋に鴉を放し飼いにし、鴉が師であるといった。

 


二章:躍動するいのちー動物たちの世界

鴉だけでなく、いろいろな動物を飼っていたらしい。

動きがすごい。体勢がすごい。動物の生き生きした様子。そして、筆意というのがあるとしたら、動物意?を描きだしたような絵から、かわいい絵まで広い。

暁斎邸を訪れたメンペス(ホイッスラーの弟子)は、暁斎が鳥の描き方について語ったことを書き残している、「1、まず観察。2、描くときは記憶のみで描いてみる。3、イメージが消えると再び観察し、記憶に刻む、1~3を繰り返す。」

 

●狩野派の基礎をしっかりと習得した墨の肉筆は、素晴らしかった。

虎、サル、鷺たちが、見とれるほどの墨の美しさ。筆目の迷いのなさ。象の皮膚やサルの毛並みの触感まで巧みな筆力。

暁斎は19歳まで狩野派を学び、その傍らで四条丸山派や琳派も研究していた、と。細部まで観察しているのがわかる。象ってまつげがあるんだ、猿ってこんなところに長い毛が生えてるんだって、絵に教えられた。

象や虎は、中身の骨格までわかるほど。竹内栖鳳にも負けてない。もし明治維新がおこらずに武家や大名が顧客でいられたなら、暁斎はどういう道を進んだんだろう。

余白に漂うというのとは違う。動物が圧倒的な存在感なのは暁斎らしいのかもしれない。

虎も象も、光景の一部ではなく、なにしてるのか、なにを考えているのか、なにを狙ってるのかが絵の前面にでていた。見世物の巡業中の象にも一歩踏み込んで、象的にはちっともうれしくない気持ちを描く。サルは枇杷を白猿に受け取ってもらえるかどきどきしていたし、虎は水に映る自分の姿に張り合っていた。

そういえば「雪中鷺」の外隈の不思議な揺らぎは何だろう?

幽体離脱中??雪が落ちてきた瞬間とか??柳も下の枝も異空間のようだ。

 

●判本の仕事でも、いろいろな動物の絵を描いている。鳥獣戯画風の絵、イソップ童話を描いたもの

「通俗伊蘇普物語」明治8年 は判本。「獅子とクマとキツネ」は漁夫の利のような場面。「鳥と獣と蝙蝠」は、動物満載。鳥と獣はすったもんだに喧嘩しあっているけれど、蝙蝠は様子見。


月に手を伸ばす足長手長、手長猿と手長海老」は、トルストイの「大きなカブ」のお話のよう。


版本はたくさん展示してあってきりがないけれども、どれも楽しい。左下の得意げな猫がたまらないんだけど!。


と思っていたら、錦絵の「雨中さぎ」にどきり。エッセンスのみ描きだす。絵が前に出ているというか。そして白いところには羽のすじがびっしり!細密な線で立体的に入れられてた。

 

錦絵は、芸が細かい。「天竺渡来大評判」文久三年は、見世物で見た象を、自由自在に動かしている。こんなに百変化な動態を描けるんだなあ~~。

暁斎は写生する際に、骨格や動きまで記憶していたのだという。

中でも、鼻でシャボン玉して「タマヤ~」っていうのがお気に入り。人間がこんなにも大喜びしてて。

このシリーズはほかにも数枚あったので、きっと売れたのでしょう。

暁斎の動物は、かわいくてたまらないうえに、どの動物も肢体の動きが自然で動きに満ちていて、たまにひねりが効いていて。見飽きることがなくて困ってしまう。

 


3章:幕末明治ー転換期のざわめきとににぎわい

黒船来航、安政の大地震、下関戦争、長州征伐、西南戦争、暁斎の生きた時代は、動乱の時代だった。

でも暁斎の絵を見ていると、悲壮感とか精神的な混乱などはあまり感じない。暁斎だって武家などの上得意が減ってたいへんじゃないわけなかったと思う。でもきっと暁斎は周りがどんなに動乱の渦にあっても、画業がすべて。画業のことが先にくるから、周りに左右されない。安政の大地震でもまずは死体の写生に飛んでったというのだから。

町の変化は、さっそく絵に描かれる。「各国人物図」を見ると、今の東京よりも日々驚きに満ちた町なのかなと思う。

象にラクダ、辮髪の中国人、西洋人。ラクダをひいている人はどこの国から来たんだろう。

電信柱が町に登場し、人力車をカエルが引いている絵もあった。。この頃って、江戸と明治、国産と外来が、配合の比率を変えながらまじりあっていたんでしょう。


「暁斎楽画」の「化々学校」明治7年 は、妖怪たちが英語のお勉強をしている。と思ったら黒板に「SHIRIKODAMA」。

面白さの中に、自虐がまじる。

 

そしていくつも起こった当時の戦争すら、カエルの合戦や、放屁合戦にすり替わる。

レーザービームみたいな放屁がすごすぎる。

この合戦には、一体何匹のカエルがいるのだろう。

 

一番のお気に入りは、天王祭りのカボチャ人がいっぱいの「家保千家の戯れ」。「畑狂人」と銘がある。子供のカボチャは、頭がまだみどり色で、かわいいなあ。

 

時代の転換期といっても、庶民の暮らしが急に変わるわけではないんだなあ。

暁斎は、世の中から超越した芸術家ではなく、目線と立ち位置は変わらず、庶民。どっぷり市井の人。それでいて体制や、乗せられやすい群衆を、冷静に見ている。そして笑いにしている。

 

ひとつ感じたのが、暁斎のコスモポリタンぶり。暁斎は進歩的なのか?それとも士農工商が廃止されて人権意識が高まった世の中だからなのか?。「人類みな平等、人種、貴賤にかかわらず同じ人間じゃねえか」と思っていたのじゃないか、と絵を見ながら感じる

「五聖奏楽図」では、磔刑の状態でキリストと、お釈迦様、孔子、老子、神武天皇が一緒に演奏をしている

「墨合戦」では、侍も庶民も公家も一緒に墨を飛ばしまくって大暴れ。

それでみんないい笑顔している。

 


4章:戯れるー福と笑いをもたらす守り神

これまでもさんざん笑ってきたので、いまさらという章タイトルだけど、暁斎にかかると、定番画題の吉祥画も生き生きしてる。

鐘馗図は売れ筋の画題。私も大好きな画題。暁斎のはアレンジが楽しい。鐘馗が真面目な顔して、鬼をつりさげたり、蹴り上げたり。やりたい放題。

一番のお気に入りは、鬼の「しりこだま」をおとりに河童を捕獲しようとする鐘馗。これは北斎のパロディなのだとか。

鬼の恥ずかしい赤面が、かわいい×お気の毒〇。

 

蓬莱七福神図もまたまた好きな画題。蓬莱山に遊ぶ七福神が細かい。そしてほのぼのかわいい。恵比寿さんはトレードマークのタイをもうすぐ釣り上げるところ。

 

こんなに笑いのある絵が並ぶなかで、「貧乏神」だけは、笑いがない。

あぶない危ない。こんな顔してたら、こういうヤツが寄ってくる。笑いのないとこには寄ってくる。気をつけなくては。この貧乏神、骨相は正確、細密にあごひげまでしげしげと丁寧に描いていた。その長い時間を暁斎はこの貧乏神とともに過ごしたんだ・・。

 


独立した春画ルームがあった。

春画にも、官能的なの、美しいの、倒錯したの、とかいろいろあるようだけれども、暁斎の春画はおおらかに笑えるタイプ。そもそも登場人物がいい顔して笑っている。解説には「暁斎は、性を笑う「笑い絵」の伝統を生き生きと受け継いだ後の絵師といえるだろう」とあった。

そんななかで「狐のあやかし」明治4~22年は、古い日本の怪奇映画のように趣のある世界だった。笑いではないが、あやかしの狐、背景の妖しい空気感、朱色の薄絹だけまとった女性の表情といい、いったいこの役を演じる女優さんは誰がいいだろう。

 

「5章:百鬼繚乱ー異界への誘い」「6章:祈る」は、次回へ。

 


●東博(7室)呉春と芳中

2017-02-19 | Art

東博の楽しみスポットのひとつ、屏風襖絵ルーム。この日の三作も圧巻だった。

 

呉春(1752(宝暦2年) ~1811(文化8年))「山水人物図襖」18世紀

襖に広がるすてきな時間。水辺で着物の前をはだけて、うちわでぱたぱた。暑い日に涼を得る。

文人たちの理想の境地。この襖を開けて入った者は、お茶を入れる下男ににこやかに迎えられ、納涼おじさんたちのお仲間いり。

「衣服の柔らかな質感描写、樹木や岩のボリュームある立体表現」は応挙の影響、とある。特に岩は応挙に重なる。呉春ははじめ与謝蕪村に学び、31歳で師蕪村を亡くす。生涯蕪村を敬愛しつつ、それから応挙との付き合いを深め、影響を受ける。

これは呉春晩年の作。人物の表情はしっかりと描きだしつつ文人画のゆるさも漂うのは、蕪村を思い起こしたりする。

3室の冒頭には、「室内を仕切ることにより場を作り出し、空間を演出する機能をもつ屏風や襖には、権力を象徴し、場を荘厳するなどの目的のために、絵が描かれたり、書が揮毫されたりしました。ここでは安土桃山時代から江戸時代の屏風を展示し、これら大画面の作品によって生み出される空間の効果を感じ取っていただきます。」と。

芸事や俳諧、食も楽しむ文化人であり、社交的な呉春のもとには、面白い面々が訪れたでしょう。だらりと飲んだり興を尽くしたり、そんな時間にこの襖はぴったり。江戸初期の権力の象徴のような機能の屏風や襖絵と違って、文化も成熟した感。

 

作者不詳の「紅白梅図」17世紀 東京・光林寺

細部びっしり埋める花の濃厚さ。大きな黒い月、水の流れ。

この屏風で生み出される空間は、なんとドラマティック。気持ちも煽られそう。外に行かなくてもここでデートできでしまうくらい、ロマンティックにも耐えうる。(でもお寺だったか...)。

勢いのある町絵師が描いたのかなと想像する。

 

中村芳中「許由巣父・蝦蟇鉄拐図屏風 」6曲1双 に、目が釘付け。

(これだけ写真不可だったので、2014年の千葉市美術館の芳中展のチラシから)

画像が小さいので、記憶をよすがに不完全に記録。

右隻は許由と巣父

中国故事の理想の高士、栄華を嫌う二人。帝から天下を譲ろうと聞いた許由は、耳が穢れたと川の水で耳を洗っている。

巣父は、そんな穢れたものを流した川の水を牛に飲ませることはできないと、牛をひいて引き返す。(どれだけ潔癖なん...)。

とにかく光琳に私淑した芳中、岩も草も牛もたらしこみがこれでもかと。特に牛は、顔の輪郭が判別しがたいくらいにたらしこみまくり。草のピンピンとした自由な感じも心地よい。楽しそうな芳中が目に浮かぶ。

そして人の顔がいいのです。ゆるふわの犬などかわいい芳中ですが、このおじさんたちはちょっとだけヒトクセあり。

岩場にしゃがんで指で耳の中まで洗う許由の顔は、意外と垂れ目で平常心な顔。

巣父は、あ、そういう水って俺イヤだからみたいに、しれっと引き返していく。たらしこみでほとんどまだらみたいになった黒牛まで、くるっと。その巣父と牛のシンクロぶりがなんともいい感じ。のど乾いているでしょうに、さすが飼い牛までしつけが行き届いている。その黒牛の眼は、達磨みたいに立派。

二人+一牛を見ていると、理想の高士というより、Going My Wayな感じ。気持ちがおおらかになる。


左隻は、蝦蟇鉄拐。

鉄拐仙人は、ふううと気を吐いている。気は画面の外へ広がっていく。

蝦蟇仙人は、肩に蝦蟇を乗せて、その蝦蟇がまた気を吐いている。こちらの気はくるりと一回転している。

この二人と蝦蟇の顔がまたいいのです。特に上を向いた蝦蟇の顔が、えらそうで。下の蝦蟇仙人のほうが、重いよどけよみたいにちょっと困り顔。

蝦蟇仙人は多くの絵師に描かれ、肩や頭の上に蝦蟇を背負っているのも多いけれど、だいたいは豪快に笑っている蝦蟇仙人。芳中の描く人は、高士も仙人も全然えらそうじゃない。平常心。

そして、たらしこみの竹の美しさ。見とれて動きがたい。

 

右隻も左隻も、線もとげとげしくなくゆるく、自由。描き込んだ絵も好きだけど、こんなふうに線の数が少ないのもいいもの。この屏風で演出された「場」は、ゆるくて肩の力も抜ける。

「空間の効果」ならば、大きく空いた余白は、その向こうにも広がりを生み出し、頭の中の空き容量も増やしてくれそう。

**

隣の部屋には、芦雪(1754~99)の蝦蟇仙人図 18世紀 

これもまた、定型をぶち壊した蝦蟇仙人。画面いっぱいに、後ろ姿が妙にどっしり存在感。荒野をいく孤高の男と相棒、といった感じ。蘆雪の破天荒ぶり。

ガマは定型の三本足だけど、なぜ背負おって描こうとと思ったのかな。わからないけれど、つながった仙人の手とカエルの手には、二人の絆は感じる。後ろ足が一本のガマが肩に上るのをひっぱってあげているのかな。

 

もう時間が無くなってきたので、あとは急いで。

「夜着 紫緞子地鶴模様」 18世紀 インパクトあるかけ布団。鶴のびっくり目と、絞りの細密さと地の光沢が美しい。

 

梅樹据文三味線 石井直 1798 鉄刀木の胴に螺鈿の棹。

胴部は、金銀、象牙をちりばめた梅の花。こんな宝物のような三味線があるなんて。

 

琳派の経脈が並んでいました

尾形乾山「桜に春草図」、ほっこり

 

酒井抱一の弟子たち 花や枝の戯れが見えるようで、抱一のエッセンスを受け継いでいるよう

山田抱玉「紅白梅図屏風」

 

田中抱ニ「梅鴛鴦・春草図」 抱一の晩年の五年を学んだ

丸い背中の山に、松の木のコドモ、タンポポやすみれ、ワラビが遊んでいて、思わず目じりが下がる。

 

狩野探幽の大作もさらっと展示する東博。「周茂叔・林和靖図屏風」

前景に近い時代、古い時代は奥の方に。中国故事の有名人が散らばっている。

右隻に、北宋の故事

蘇東坡のロバかわいい。

林和靖は梅を眺め、お供の鶴もちゃんといる。雪がふんわり積もっている。

左隻に、東晋の王義之

元信を見た後なので、江戸に移って、探幽になるとずいぶん線が細くなったと実感。

 

浮世絵はいつも残り五分になってしまう。今度は浮世絵から先に観なくては。

 北斎「信州諏訪湖 水氷渡り」 北斎では今日のベスト

 

その北斎に私淑した、ご近所さんの渓斎 英泉。最近、英泉のクールで妖艶な美人画にひかれるているので、風景も楽しみにしていた。

この日は木曽街道シリーズ
渓斎 英泉「木曽街道 野尻伊奈川駅遠景」

渓斎 英泉「木曽街道 馬籠駅より遠望の図」

美人画や春画のなめらかですべらかな感じと違って、風景は硬質な感じなのが意外。でも色が大人。


歌川広重「木曽街道 六十九次のうち三渡野」

のところが好きで。

 

最後に、通路わきに普通にあった黒電話。ぽっちゃりかわいい形。またね。


 

 


●上村松園「牡丹雪」

2017-02-19 | Art

先日山種美術館で見た上村松園「牡丹雪」

いつもの清らかな感じとはと少し違う眼差し。これはどうしてだろうと思っていたところに。

昨夜の美の巨人で、込められた松園の思いについて取り上げていた。

この絵は、1944年、太平洋戦争末期、軍の資金調達のための献納画展に出品されたもの。

主催者の大観は、堂々たる富士と日本を思わせる赤い太陽を描いていた。

松園の絵は、一見、国威発揚とは趣が異なる。

松園は、”このような未曽有の事態でも、穏やかさを送るのが女性であり、それが皇国の女性の姿である”、というようなことを言っていた。

番組ではこの二人の関係を解く。前を歩く娘は、着物の家紋、帯の締め方、べっ甲の飾りから、身分の高い裕福な商家の娘。後ろを歩く娘は、着物に描かれた家紋から、前を歩く娘の侍女であろうと。

萌黄色の着物については、「着物は自分も装いを楽しむとともに、季節感を届けるもの。」であり、「松園は、まもなく戦争が終り、春の訪れがちかいことを伝えようとしたのではないか」と、手描き友禅の匠は考える。次女の葉付きの牡丹の柄もその意味なのだとか。

装飾品については、和傘は、邪悪なものから守る力があり、傘の範囲だけは別世界となる。かんざしも、古来より厄をよける力を持つ。

日本古来の装飾品は、不思議な力を持っている。女性の風俗については、おしゃれとかいう意味だけでなく、女性のプライドや精神性をも表すもの。戦争で失われようとする時局に、松園は、傘やかんざしで、自分の大切にするものを守ろうとしたのではないか、と。

そのような内容だった。

 

全体の絵としては、美しい一瞬。その中でも、この目の強さ、意志を持つ眼。どんな邪なものをも清らかな気持ちにしてしまういつもの眼差しではない。

戦況の悪化の中でも、傘のなかの眼は、それに惑うことなく、りんと。降り注ぐものを傘でよけつつ、芯は動じていない。女性の強さであり、しなやかさであり。

ふと、戦うものの眼であるように見える。冷たい炎。でも戦い方が、男性と違う。戦う対象も違っていたのかもしれない。戦争で書き換えられてしまった価値観を、真のところでは保持していることを、伝えていたのかもしれない。松園にとっては戦いとは、そういうことだったのかもしれない。

そしてまなざしの奥には、冷静さが。傘に隠しつつ、見透かすようにも。様々な経験を超えてきた70歳の松園にとって、この戦争のむこうが見えていたかもしれない。

 

松園の描く女性のファッションはいつもはっとするほど美しい。着物、装飾品、それから背景に描くもの。思っていた以上に、松園は精神的なものを込めていたのかも。古来よりの美意識や風俗や季節感を背景に込めて、選び取り描いている。

私は松園の絵を観ると、元気が出る。落ち込んだ時に見る一枚もある。番組では「プライド」という言葉を使っていたけれど、それをテコに、着替えて出かけよう。

 


●東博(本館二階)ー池大雅「楼閣山水図屏風」、伝狩野元信「囲棋観曝囲屏風」

2017-02-18 | Art

1と2の続き

時間が無くなってきたので、お目当ての池大雅の「楼閣山水図屏風のある国宝室から、狩野元信のある水墨の部屋までを見て帰ることに。

池大雅「楼閣山水図屏風」18世紀

少し前まで、「南画」にささるものが何もなかった私。中国の景色画ばかりだけど、この人たち行ったことないのに描いているのよね、どれも同じに見えるのよね、とか思っていた。すみません。

その浅慮を一蹴してくれたのが、私にとっては池大雅。誰とも違う。ぶっとんでておもしろい。その池大雅の作品のなかでも、「大雅のベストオブベスト」(解説)というこの大きな屏風、ずっと見たいと思っていた。

この楼閣山水図屏風は、行ったことないからこそのイメージ世界。宋の范仲淹(はんちゅうえん)の『岳陽楼記』欧陽脩『酔翁亭記』の記述、清初期の邵振先の小画帖「張環翁祝寿画冊」に出ているたった二つの小さな図をもとに、池大雅はここまで壮大に膨らませて描いた。

これを開いたとたん、所有者のお部屋はもう、当時の憧れの先進国・中国に一変したでしょう。

右隻は、唐の詩人孟浩然李白ゆかりの洞庭湖を眺望する「岳陽楼」と、湖水が長江に注ぐところ。

とにかく、大雅のエネルギーに圧倒され、巻き込まれる。

木の葉は燃え立ち、山は内から山意?をあふれさせている。木は濃淡つけて墨でここまで立体化させる。

そんななかに、くつろぐ人、何か言っている人。彼らの目までしっかり、表情と状況を描きだしている。

自在に自由に曲線が走る中、屋根のすじの線と舟のマストはまっすぐひかれている。でも、まっすぐなのに尖った線ではなく、どこか丸みとリラックス感ある線。人がひいた線はまっすぐでも、やわらかい。

そして、真ん中の曲。柳の葉の流れに海風を感じながら、波のゆらぎに気持ちを任せると、広やかで開放感。屏風の紙の上と思えない。長江に舟がこぎ出している。

沖合に出るに従い、波はどんぶら、どんぶら感。舟では、一生懸命帆を操る人の姿。自然が支配する世界になっていく。

絶妙に散らされた青色と、差した赤色のバランスが絶妙なのだろう。粋だ。

 

左隻は、「北宋の詩人欧陽修が琅?山(ろうやさん)に建てた、「酔翁亭(すいおうてい)」のたたずまい。

大気が満ちてくる山。自然の山の気のなかに、人工的な酔翁亭をも違和感なく溶け込ませている。

そして、やっぱり飲んだくれてるおじさんズ。

自在に描き分けられた木の葉のリズムが途切れず、その線から、大雅の気というか木の葉の精というか、放出されている。

岩は生き物のよう。よく見ると上から胡粉を足して、際立たせている。屋根や人のシルエットにも少し足していた。

山も岩も木も大気も気を放ち、そこにいる人々もいい感じで酔い、釣りをし、浮遊し。自然のリズムとなんら違和感ない。それは最高の心地だと思う

筆を走らせる大雅の腕や体にみなぎるパワーに引き込まれた時間。細部までこれほど緻密に描き切っているのに、神経使って描きましたよ的な力みが、全くない。力量あるものが、さらにキャリアを経て得られるこのステージ、かっこいい。

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そしてもうひとつ、心打たれた屏風も広やかな世界。

伝狩野元信(1477~1559)「囲棋観曝囲屏風」

楽しみにしていた元信。狩野一族でも絵の持つ強さで言ったら、元信、山楽、永徳が浮かぶ。「狩野派は、雪舟や周文といった画僧に代わり、15世紀末期には水墨画製作の担い手として台頭した」と。元信の政治力はすごい。

絵もすごい。いやすごい。

池大雅は、筆が沸き立ち、踊る。

元信の筆は、走る。進む。そして線を目で追うごとに、筆の先の先で止める瞬間、放す瞬間を感じ、元信の気持ちと腕力の強靭さを想像する。

 

右隻は囲碁、左隻は滝だった。少し離れて見ると、右隻は横ライン、左隻は縦ラインな構成。そして右隻はおおむね静、左は動の世界。

右隻:飲み物も用意してのんびり囲碁を。

でも囲碁を打つ人の顔がしかめっつら、苦戦しているらしい。元信は細かいとこを見ても楽しい。

でも松の枝ぶりは走る走る。

遠くで霞む林は、等伯「松林図」を思い出してどきり。

ひとつ上の写真の松にも、その向こうに林が霞んでいる。遠近を意識しているのかな。この霞んだ林は、元信の画の好きなところである。他の狩野派絵師たちの線やぼかしより格段に雰囲気がある。

 

左隻は迫力のある滝。

まっすぐな筆致のすごさ。せまるようなアバンギャルド感ある岩は雪舟ぽい?

そしてもうもうとした水煙に目を見張る。なんともいえずあいまいにふんわりとして、陰影まで美しい。

ここまででもう胸がいっぱいなくらいなのに、これでもかと、遠方の山の美しさ。

松の枝には、立体になるように陰影をつけていて、枝の構成自体も前後3Dに立ち上がって見えてくる。

建物のなかから滝を観る人と滝の間には、たっぷりな余白に濃厚な大気が立ち込めている。どきどきしそうなライブ感。

緻密で大胆。元信すごい。

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 他に見たものの記録

 北野天神縁起絵巻 13世紀 先日の戦国時代展では、道真の幼少期の場面を見たところ。これは、その後。タタリか天変地異の場面。

 

八幡大菩薩縁起 南北朝時代14世紀 写真は第一段。修験道の祖、役行者が中国への渡航を神に祈ったという話。

 3人とも妙にリアル。とくに役行者に付き従う赤鬼、青鬼のおにいさんたちは人間味あふれている。若いけど、どうして付き従うことになったのか、役行者に出会うまでなにか苦労してきたのではないか、など彼らの身の上が気になったほど。

 

「白衣観音」伝一之 室町時代

 画家により違う描き方が楽しみな観音様。波がすてき。


いったんここで。


●東博(平成館) 春日権現験記絵模本III―写しの諸相―

2017-02-18 | Art

春日権現験記絵模本III―写しの諸相―

平成館 企画展示室  2017年1月17日(火) ~ 2017年3月12日(日)

1の続き

あんこトーストのあと、ちょうど始まったところの春日大社展のビデオに誘いこまれ。春日大社展はまだいけてないけど、ロビー階の関連展示は、チケットなしでも鑑賞できる。

 

ビデオでは、春日大社の神事の多さに感嘆。春日山は、霊やどる神域の深い緑の映像が美しかった。水の源流でもあるそう。古来より日本人は「自然を怖れるとともに、あがめお祀りしていた」と。絵巻にも「神気が描かれて」いたとのこと、山並みに立ち上る霊気も描かれていた。

 

企画展示スペースでは、春日権現縁起絵巻の複製画が見ごたえあり。展示替え含めいくつかの複製本の同じシーンを開いてあり、見比べられる。

春日権現験記絵(紀州本) 巻三(部分) 冷泉為恭ほか筆 江戸時代・弘化2年(1845)(以下画像は東博HPより)

  
 

原本の「春日権現験記絵(三の丸尚蔵館所蔵)宮廷絵所の高階隆兼が描いたもの)」は、当時も拝観が厳しく制限されていたけれど、江戸時代中期にいくつかの模本が作られた。

よって、摸本といっても、原本を一定期間拝観できうるだけの力のある者によるもの。

興味深いのは、剥落の部分まで細密に写したものと、修正をくわえたものとがあること。目的によって違う。

文化4年(1807)の春日大社蔵、春日は、松平定信の命で作られた剥落まで正確に再現した「剥落模写」。松平定信が編纂した「古画類聚」も後の方に展示されている。

 

もう一つ、皇室の命で作られた1925年の絵巻(帝室博物館本、前田氏実筆)も、剥落模写。これは12年もの時間を要したそう。本当に剥落しているようで、描いているとは思えないほど。

 

続いて、彩色をした「復元模写」

陽明文庫本:(享保20年(1735))、摂関家筆頭、近衞家凞(1667~1736)の命により渡辺始興 (1683~1755)が描いたもの。

 始興が手掛けたというところから見惚れるのだけど、さらに家凞の字の素晴らしさ。ため息でそうな流麗な文字。

 剥落部分は補って描かれ、大変美しい絵巻に仕上がっていた。これは家凞はじめ公家衆の鑑賞のためのものなのでしょう。

 始興は、なんでも描けるのだと改めて感嘆。簾のメ、畳の縁、襖に描かれた牛の黒白模様まで、細密。柳の葉や桜の花、聞き耳を立てる女房たちの黒髪もいっそう美しく見える。これも三年かかったそう。

 

紀州本:弘化2年(1845)、 東京国立博物館蔵 州藩主徳川治宝の命により冷泉為恭(1823~64)らが描いた

 

一部に彩色したものも。これは研究の一環でしょう。

 新宮本:丹鶴文庫伝来、山名行雅筆


収める箱も立派なものだった。

春日大社展を見ていないので、よくわかっていないのが残念。会期近くになりずいぶん混んできたようなので、もう行けないかな・・。

 


●東博(18室)ー旧久邇宮邸障壁画・天井画ー

2017-02-14 | Art

2月に入った少し暖かい日に東博へ。いつも全部は見られないので、まず一階の第18室へ直行。

 

旧久邇宮邸の障壁画と天井画が公開されていました。

 「旧久邇宮御常御殿」は、現在の聖心女子大の敷地内に保存されている旧宅。昭和天皇の皇后様のご実家だそう。(こちらから)

本館もあるようですが、大正13年の築のこちらの「御常御殿」は、日々の生活に使われていた棟。

建物の設計は森山松之助(ディーン様、じゃなくて五代友厚の甥)。日本統制下の台湾で仕事をしていたとのこと。新宿御苑にいくといつも「何故ここで中華風?」となぞだった「台湾閣」を設計した人だった。(こちらから)

 台湾閣は、昭和天皇のご成婚を祝い、台湾在住の日本人が寄贈したのだとか。


森山は、御常御殿にも台湾産の木材を使用している。さすがは宮家。普段使いの建物にこの顔ぶれの障壁画・天井画とは。

障壁画は横山大観(大正15年(1926))。居室の襖らしく、優しい雰囲気でしつらえている。大胆な枝ぶりにほんわかした色彩。(これだけ写真不可だったので、画像は東博のHPから。この画像は、右側の二枚の部分。実際は4枚の襖×二面。)

右側は、紅梅。女性的なしなやかな枝ぶりだった。左側4枚の白梅は、幹も老練な古木。苔むし方も、紅梅の方は清新な感じ、白梅の方は年季を感じる苔。どちらも、びっしりと花も蕾もついていた。

紅梅も白梅も枝ぶりは、ゆったりとためつつ、どちらも大きく左へ枝が流れているのだけれど、二つの樹は真ん中でからんでいる。これは横に並んで設置されていたのかな?二面にまたがる部分が少しずれていたけど、直角か向かい合わせか?どちらでも穏やかで華やかなお部屋になったでしょう。

 

天井画もじっくり堪能。大観以下、日本美術院系統の画家が顔をそろえている。

嬉しかったのは、大好きな小川芋銭(1868~1938)があったこと。

「水芭蕉」 58才ごろの作。

花弁の先のくるんに、ドキドキ。湿度を含んだような線が、芋銭らしい。花の精気を立ちのぼらせている。きっとその辺に小さな河童や妖怪たちがいると思う。


椿は、安田靫彦と北野恒富を見比べてみる。

北野恒富(1880~1947)「椿」

厚塗りされた花弁はなまめかしげ。茎の線までもカクカクと強く際立せて、花も茎も葉も、全部が主張している。洋画のように強烈な印象だった。

11月に千葉市美術館で回顧展が開催される。これは46才ごろの作。北野恒富のここまでの道のりを知ることができるかも。

 

どちらが好きかといえば、個人的には、安田靫彦(1884~1978)「椿」の世界が好きだと思う。

葉の描き方は、どこかで見た靫彦らしい感じ。葉は墨だけれど、少し緑色ものせて、ほんのり。こんなに簡略化しているのに、葉の肉厚感がわかる。花も抑えた赤。後ろにそっと隠れるような茎や蕾は淡く。でも確かに呼吸している。

蕾のがくも神秘のレベル。靫彦の絵は上品と言われるゆえんを満喫しました。

 

荒井寛方「紅梅」 天窓越しに外の世界を覗いたみたいで、なんだかお楽しみ感がある。梅と、青空まで見えてすてきだ!

 

堅山南風(1887~1980)「桔梗」

 

 南風の植物の絵は、見るたびいいなあと思う。細部もどのひとつひとつも脇役にしないで見て描いている。胡粉は少し剥落していたけれど、花も蕾も葉も、生き生き。


前田青邨「紅梅」 

 抽象みたいで、つぼみはほとんどドット。なんかシャーレの中でなにかの培養してるみたい。

 

川端龍子「白梅」

丸の中にデザイン的に納めつつ、枝も花も立体的に踊らせていた。日本美術院を脱退する前の作。

 

速見御舟「枇杷」

1926年というと、前年に「炎舞」を書きあげ、墨で木蓮(岡田美術館)を描いた頃。


中村岳陵「雪松」

地味なんだけれども、他の花々の絵の中にこういうのがあるといいなあ。天井画らしく、松の枝の下にいて、高い松の枝を見上げている。たっぷり雪がのっていて、ちょっと枝が重そう。


下村観山「牡丹に雀」、これだけは一回り大きくて、テイストが違う。

天井画というより、壁にかけていたのかな?。

風が吹き、その逆方向へ鳥が飛び。絵が動いている。そういえば、他の天井画は、こんなに動いていなかった。

53才の作。70、80歳の絵を観たかったひとのひとり。

 

**

18室はほかにも見どころ満載。

春日大社展と関連して、鹿がいた。

「神鹿」竹内久一(1857~1916)、ドレスコードあり。

鹿島を経って、三笠山まで神様を乗せてくる。茨城からてけてけ歩いてくるなんてエライわとずっと思っていたのだけれど、この鹿は足元に雲が。そうか雲に乗ってきてたのか。正面からみても、とても精神性の高いお顔をしていた。

 

「牝牡鹿」森川杜園(1820~1894)奈良一刀彫。

奈良の鹿はおじぎして礼儀正しいと、外国人客に大人気みたいですが、この二頭も明治26年のシカゴコロンブス博覧会に出品されたもの。日本展示場の入り口両脇で、世界のお客様をお迎えした草分けだった。

 

「海士玉採図石菖鉢」山尾侶之 1873 ウイーン万博に出品されたもの。金沢の石菖鉢は、他にも多数出品され人気を博したと。

4匹のウサギが持ち上げている。荒波でてんやわんやしているのは、竹取物語のお話なのか、龍の首の玉を取りに行くところだろうか?反対側の図柄は、波にもまれた海士が玉を手にしていた。

あ、一匹こっそりぶらさがっているウサギが(‼)。

プロジェクトにぶらさがっているヤツはいねえかァと前職の役員の声を思い出してちょっとヤな気分になったけれど、この丸いうさぎがとてもかわいい。日本の工芸っておちゃめ(と思って帰宅したけれど、もしや下の展示台が平らじゃなかっただけ?)

 

そして西洋画の流入のなかで、存在を放つ明治の三人。

「竹林猫」橋本雅邦(1835~1908)1896 岡倉天心の指導下で「日本画の革新」に取り組んでいた時期の作と。

ちょっと挑発するかのような雀たち。今はお休み中だよと余裕の猫。

あ、でもちょっと肉球がうずいている?

春日大社展に竹林猫図柄の刀があったそうなので、関連展示かも。

 

「春亭鴛鴦」狩野芳崖(1828~88) 「伝統的な花鳥画に依りながらも近代的な調和を見せる」と。

筆がさえる。芳崖の先端まで全く途切れない集中と迫力、すごいと思う。

   

 

「黄石公張良」小林永濯(1843~1890)1874

 

ここのところ続いて永濯が見られるのがとても嬉しい(山下先生のサシガネかな)。前回の浮世絵風の絵もこのあたりだった。

このひとは不思議な存在感。狩野派を学び、西洋を取り入れ、日本や中国の伝統的な題材を描く。背景にも西洋的な遠近、陰影、人物にも写実を器用に取り込んで、ワンシーンのような劇画タッチ。

でもこの線描の美しさ。西洋風のドレスのようなひだ。でもバターじゃなくて出汁をとったようなキレのあるすっきりさ。

 

 下村観山「豊太閤」1918

年老いた秀吉のしわや皮膚のいろに対して、幼い秀頼の肌の白さが際立っている。秀吉は金キラ金のイメージと違って、落ち着いた色合いの地味な着物を着ている。秀頼の着物も、いいものだけれど華美ではない。

安田靫彦の秀吉の絵のように、秘めた恐ろしさや行く末を暗示するような雰囲気はないよう。年老いた身であるからこそ、かわいい子供をしっかりと守っている、一介の父親の秀吉という感じ。

 

秀吉は、26聖人を磔けにしたり様々な残虐なこともしたなあと思いつつ見ていたら、こんな絵も。

前田青邨(1885~1977)「切支丹と仏徒」1917

キリシタン虐殺図を背景に発つ若者。天草四郎をイメージしたそう。地獄絵図を背景にする仏教徒。青邨は、寺と教会が混在する長崎を訪れた際に着想を得たとか。

 

18室だけでおなかいっぱい、もう疲れた根性なしで、早くも一休みランチにしました。

平成館の鶴屋吉信で、あんこトーストとコーヒー。

こんがり焼きたてパンに、冷たいマスカルポーネがおいしい。

続きは次回に。


●「青龍社の女性画家 小畠鼎子」吉祥寺美術館

2017-02-12 | Art

青龍社の女性画家 小畠鼎子 ~井の頭恩賜公園100周年記念~
~苦しみながら描くことの楽しみ~ 2017年1月14日(土)~2月26日(日)

企画展示室 | 武蔵野市立吉祥寺美術館

初めて聞く名前の女性。4人の子育てをしながら吉祥寺に住み、井の頭公園など身近なものを描いた。それであの劇場型大画面の青龍社に参加していたという。これだけ聞くと、なんだかそぐわない感じ。

(HP)小畠鼎子(こばたけ・ていこ 1898-1964)は、大正末期から昭和にかけ吉祥寺に暮らした日本画家です。師・川端龍子が昭和4(1929)年に創立した青龍社に当初より参加し、65歳で亡くなるまでの35年間、一貫して活動拠点を同社に置き、〈主婦〉として4人の子どもを育てながら、ひたむきに画に向かい続けました。
 
武蔵野市では、鼎子没年に受贈した1点に加え、当館開館前の平成8(1996)年にはご遺族から〈まくり〉状態 ―木枠やパネルから外された、本紙のみの状態。多くのものは、巻かれて保管されていました。― の鼎子作品46点の寄贈を受け、以来、修復処置を段階的に進めて参りました。本展では、平成26年度から28年度までに額装作業が完了した受贈後初公開作品を中心に、戦前・戦中・戦後にかけて制作された約20点の大作をご覧いただきます。
 
現存作例や文献資料に乏しく、また、残された作品それぞれも決して雄弁とは言えないながら、それらを通じて私たちは、身近な草花・鳥・動物に丹念に注がれた鼎子の視線に接近し、そして、鼎子が見つめた〈戦争〉への直面を迫られることとなるでしょう。
 
描くこと、あるいは思いのままに描けないことに苦しみながら、筆を持つ時間「只それのみの世界に入る事」を楽しんだ、鼎子。忘れられた女性画家の画業を、今、あらためて振り返ります。
 

1898年に生まれ、

1915年 東京府立第一高等女学校卒業。この頃から日本画家・池上秀畝に師事。

1922年(24歳)画家仲間の遠藤辰之助と結婚、吉祥寺に転居。川端龍子に入門。長女誕生

1923年(25歳)長女が亡くなる

1924年(26歳)長男誕生

1926年(28歳)次男誕生

1931年(33歳)次女誕生

1935年(37歳)三男誕生

昭和39(1964)年 1月、吉祥寺の自宅にて没。享年65歳。


見終わると、最初の印象はすっかりくつがえされていた。

初期のころの絵では、写実的な小品。

それから川端龍子に入門し、師の特徴である、大きな作品へ。構図も明快。

ちょうど期を同じくして、結婚、育児が始まる。乳飲み子を背負って、大森の龍子邸へ電車で通っていたとは。この大変さと意欲は、わかる~~。泣き出した子供を龍子の妻が面倒を見てくれたこともあったとか。

絵を描くのに、まとまった時間なんかとれなかっただろうと思う。夫の小畠辰之助はインドへ画業旅にでたりなんかしているけれど、鼎子の描くものは、身近な場所ばかり。そうなってしまうよね。

それでも、この子育てまっ最中のころの絵が、一番心に残った。

時間のない中で、折に触れ、近くの井の頭公園や自宅の木を見上げていた視線に、感じるものがあったんだと思う。時間がないから、描きたいものは増え、描きたい気持ちも描ける喜びも、自然と筆にのっていく。

でも、決して天才肌に絵がうまいとかでもない。子育てをしながら絵に生ききった三岸節子のように、強烈な個性を放つとかというわけでもない。

三岸節子も苦しんでいたけれど、鼎子も描く喜びの一方で、苦しんでいた。

1929年、31歳頃、「この頃の私は、どうしてこんなに絵が描けないのかと思うほどです。時間がないばかりでなく、絵というものの実に難しく、少しでも満足できるものが描けないのでございます。一昨年より去年、というように次第に難しくなるように思われます。」

思いだけではなんともならない気持ちのにじみ出る言葉が、ずしっと。

「ひとさまから、子供があり、家庭のことに追われて、何苦しんでるの、とよく言われます。しかし、人間には、何か楽しみがなくてはと思います。他に何か楽しみがない身には、筆をやめては生き甲斐がないのでございます。少なくとも、筆を持っております間だけは、何事もなく、ただそれのみの世界に入ることができると思いますので、先生はじめ社中の皆様にご迷惑と知りつつ・・(略)」

鼎子は、家庭の中のものや子供の寝顔とかそういうものは描いていない。遠くには行けないけれど、外にあるもの。

「青艶」 1937(39歳) 

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大きな絵。川端龍子の求めるものに答えようとしているような。家庭のことに追われようと、青龍社の個性的な面々と切磋しあう画家さん。

藤田嗣治はこの絵を観て重苦しいといったとか。

でも、私はいっぱい咲きほこる感じが好きだと思った。もっともっと花の呼吸にむせかえるほどになってほしいくらい。白い花びらは透けていて、緑も黄色も、色がきれいで。

と思っていると、孔雀の眼の、線の強さ、気迫。闘争的なほどで、息をのむ。

鼎子は、鳥に対して思い入れが強い。自宅に鳥小屋をつくっていろいろな種類の鳥を飼っていたそう。鳥を調達してきてくれるのは夫だったとか。

 

「桃枝三禽図」1944も、好きな絵。

青い鳥はりんとした目をしていた。去年の茶色い枝の合間に、今年伸びた枝が縦横無尽に。そこから出る小さな蕾。丸い蕾の、そのわきから少し顔を出した青い芽に気付いた時には、彼女が身近にあるこの木を見ていた、すき間の時間を実感して、なんだかじーんと。

ぱっと見じゃ見えない細部に、彼女の存在が静かに、細やかな描写。

ごつい古木の太い幹は激しいタッチだった。

彼女の絵は、パッと見たときの印象と違って、実はほんわかした感じではない。


育児や画業との戦いの一方で、鼎子の絵には戦争の影響も垣間見える。


突進 1943(45歳)

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 すうっと連れ添う鴨たち。うらに黄土色を施した裏彩色によって、水面の波紋が透けている。公園の池の橋の上で、眼下にこちらに向かってくるのをみていたのかな。

これは1943年の第11回に出品されたもの。遺族からは「鴨遊図」として送られてきたけれど、龍子目録の中には「突進の意」とあったとか。

やはり戦争画なのだと思う。

一見青く明るい色調の鴨の絵が、近づくと、印象が一変。鴨の眼は鋭く、一点を目指していた。逆立った羽根も俊敏に強くはらわれ、まるで戦地の爆撃がふりそそいでいるよう。鴨たちの気迫は、突進する兵士の小部隊。

日常の愛すべきものを描いたような絵ではない。彼女の性格的なものを見たような。彼女もまた日本の勝利を確信していたのだと思う。

三男(次男だったかな?)に、「良妻賢母で、皇国の母と身をもって呈す教育を受け、それを範として家庭があった」と回顧せしめた鼎子。

鼎子が戦争に対しどのようにかかわったかはわからない。1943年の三岸節子や長谷川君子らの女流画家美術奉公隊に、同じ青龍の谷口ふみえは入会したが、彼女はかかわった形跡はない。龍子は戦時中も青龍展を継続し続け、時流に反しない絵を描いた。


「増産」1944

数少ない人物の絵だそう。戦時中の食糧難にイモや麦などの栽培が奨励されたと。後方支援の意味ともとれる。

娘でしょうか、上に伸び上がるようなラインで、元気に芋を抜きあげて、ほこらしげ。ほっぺがかわいい。青々した葉っぱと、土から抜いたばかりで光合成してない白いつるが、臨場感ある。

 

「寒暁」1945

終戦の年の2月に、長男が戦死。まだ20歳。

これは6月の青龍展に出品されたもの。冷たい夜に、身をさらすように見上げていた心情を、察することもはばかられてしまう。むしろ、読み取れない。後悔なのか、脱力なのか、怒りなのか。読み取れないのは、彼女自身が心情を整理していないまま描いたからなのかも。

それにしてもそんなときによく絵を描きあげられたものと驚くけれど、やはり枝の一本一本にも幹にも、筆に力がないよう。龍子も前年に息子を戦地で亡くし、そんな中で「水雷神」という特攻隊を思わせる絵を描いている。鼎子も自らに課すしかなかったのかもしれない。

彫刻家でもある三男の宏志は、「敗戦後、ほとんど彼女の心に占めたのは、戦死した兄へし向けたしつけへの強い反省と向けばのない悲しみの日々」と。戦時下に忠実に「皇国の母」であろうとした彼女だったのに。

それでも彼女は絵の中に、自分の苦悩や悲しみを全面に描くことはしない。「ただそれのみの世界」なのでしょうか。彼女の絵から、彼女が心に抱えていた感情を読み取ることは、男性の絵よりも難しいかも。

「ぶどう」1945 戦争が終り10月の作。

背景に色を塗らないのは、絵の具不足のせい。下から見上げて光に透けるよう。ぶどうも瑞々しい。

やっぱりこの人の絵は、木を見上げて描いたのが好きだなあ。

 

1950年代には絵を発表する機会にも増えたそう。子育ても一段落したのでしょうか。

入口で出迎えていた「紅梅」1952は、戦後の絵の中で一番印象深かった。

銀地に、丁寧にしべは金。古木の質感がいいなあ。その中にグリーンの今年の若い枝が。

 

この後も青龍社一筋に描き続ける。少し画風が変わったかな。

「冬を楽しむ」 1954

ペンギンかわいいけれど、近づくと雄々しく立っている。水かきのうろこまでしっかり見ている。

他には「凍解け」1957、「鵜の春」1958、「鸚鵡図」不詳など、少し描く対象も広がってきたようにも。構図の狙い方も少しかわったような。

「ひな誕生」1960

 

最後の章のほぼ最後に展示してあった「かいつむり」不詳は、葦が印象的だった。金色が少し葉に入り光を浴びていた。透明感があって、わりに細密で、初期のころの作品かな。

1964年の一月に亡くなるその前年まで、青龍展に出品し続けている。あちこち人脈や他の会に活動の幅を広げたりという感じの女性ではなかったのかもしれないけれど、35年連続出品記念賞受賞ってすごい。二年後に龍子の死によって、青龍社も解散。


鼎子は多分、子育てが終わって時間のゆとりができても、やっぱり苦心しながら、描き続けていたんだろうと思う。「絵というものは、(略)下図ほどよくはできないんです」と。

感情を前面にあふれさせた絵ではなく、「奔放」「解放」「冒険」とかそういう言葉とも反対の感じの印象だった。

けれども近づくと、鼎子の感情が、わかりにくくその痕跡を残してあって、もどかしさを覚えつつも、そのもどかしさに自分が重なったりもする。

 


●萩原英雄の版画(吉祥寺美術館 萩原英雄記念室)

2017-02-11 | Art

吉祥寺美術館の中に小さなお部屋があった。
萩原英雄記念室 

会期:2016年11月17日(木)~2017年2月26日(日)

会期といっても、展示のタイトルは特にないようだけど、行ったときには、萩原英雄(1913~2007)の富士山のシリーズといくつかの抽象画の展示。

静かで、ただただそこに在るような、小さな版画。小畠鼎子展の合間のチラ見のつもりだったのが、すっかり足が止まってしまった。


抽象画はとてもよくて(私の理解なんてあやしいもんですが)、しばらく漂う。言葉として把握できるような感想もかけませんが、いいないいなあと。

「虹」1959 初期の作品

 

「港風景」1988 夕方前?海面が西日に輝く港を想像。

 

「星月夜」のシリーズはいつまででも見ていたくなる感じ。

「星月夜6」1980

「星月夜7」1980

星や月や空といった宇宙的なものと、体内の細胞が交感しあうような、つながっているような感じは、高山辰夫の絵を思い出す。高山辰夫が交感の道すじを描いているなら、萩原英雄は宇宙を体内の内側から描いているような。

 

「富士三十六景」のシリーズは、「星月夜」の翌年1981年から86年の作品。

富士山でありながら、その向こうにあるものを見ているような不思議な感じ。富士山は小さかったりシルエットになっていたり。けれどその時々の時間の光、季節、気象といったいろいろなものに、富士山がつつまれている。豪壮とか霊峰とかいうよりも、いつも一緒にいる愛すべき存在みたい。

「三十六富士 実りの時」

 

「三十六富士 雨後幻想」

 

「三十六富士 山又山」

 

あいまいな時間の空の色と雲が心地よい三十六富士シリーズ。萩原英雄は「三十六富士は故郷を、父母を恋いうる、私の心の詩である」と。山梨の生まれなのでした。

 

「大富士」シリーズになると、一変していました。富士が正面に大きく存在し、富士の内面に迫ったような。富士を包む空気や気温が、見ているとだんだん自分の肌感覚として感じられてくる。

「大富士 曙富士」1900

ピンクの空が美しくて。

 

「大富士 月夜富士」1900

 

静かな時間を過ごすことができました。頭で考えるとか美術鑑賞するとかいう時間じゃなかったみたいで、このお部屋を出たときには、休息したあとのような安らいだ感。

 

萩原英雄は、自然から学ぶという姿勢で、ひたすら写生に取り組んだそう。芸大では油絵を学び、戦争、戦後の極貧生活、肺結核の長い療養生活。(あまりによかったので買ってしまった)図録をめくると、初期の「二十世紀シリーズ」は重いテーマを突き付けてくるよう。ギリシャ神話シリーズ、イソップ童話シリーズ、砂上の星シリーズ、星月夜シリーズと、抽象の作品を通して見たいもの。

数ヶ月ごとに展示替えななっているので、また訪れたくなる時がありそう。


●織田一麿「大阪の河岸」(吉祥寺市立美術館)

2017-02-11 | Art

吉祥寺市立美術館 浜口陽三記念室「静かに、想うー浜口陽三・織田一磨」 

2016年11月17日(木)~2017年2月26日(日)

 

小畠鼎子展の隣の小さな浜口陽三記念室。その小さな一角に、織田一磨(1882-1956)(Wikipedia)の小さな版画が10数点。

そういえば近代美術館の版画の小部屋に、織田一磨の東京の風景の版画があった。その時はさらっと通り過ぎた記憶がある。

でもこの日はキラッと心に飛び込んでききた。(画像は絵ハガキから。)

川村清雄に絵画を習った織田一磨。あ、清雄に似てる!とうれしかったせいかもしれない。(川村清雄の以前の日記

織田一磨 「大阪の河岸「道頓堀夜景」」1934

河ににじむ灯りがきれい。障子ごしの灯りもいい感じ。そして煙突の煙や小舟をこぐ人影が好きなところ。左上の光まぶしいあたりは、今の道頓堀のメインのあたりかな。

縦に割った構図が、川村清雄の「ベニス風景」と重なる。

清雄は、パリを経て、1876年(明治9年!)から5年間ヴェネチアの絵画学校で学んだ。生涯ヴェネチアを懐かしんでいたそう。

一磨は1903年ごろから、風景画を清雄から学ぶ。

山水画の感覚に通じるこの割り方が好きなうえに、一磨の切り取る水辺の風情がとってもよくて。清雄から運河が走るヴェネチアの魅力を聞いたのだろうか。一磨はなにげない大阪の生活の場に、水辺都市としての美しさを認識している。

東洋のベニスと言われたのは堺だけれど、いやいや大阪も美しい。一回しかいったことがないのでよく知らないけど、グリコの人が走る以前の道頓堀は、今とは違う趣きだったのね。(グリコの人の初代看板が設置されたのは1935年。この版画の翌年。)


「心斎橋遠望」1934

建て込む木造家屋や竹垣。生活感ごしに、遠くに石造りの眼鏡橋が霞んで見える。

 

「千秋橋より」1934

河岸の蔵や密集した家屋のむこうに、ヨーロッパのような尖った屋根の教会や洋館。大阪の方は、どのあたりかわかるんでしょうか?

生活感を排除しない街中の水辺風景。雑多で混然としたものの魅力。旅人の気分になれる。

「明治の終わりか大正初期にかけて、大阪の美観が河岸の風景になったのでは。徳川からの並蔵や古い民家が所せまく重なり合い、暗い色調からは廃滅の詩情というような感傷的文学的内容を忍ばせ、(要約・略)」

「絵画的に見れば、線の錯綜からくるおもしろみと、色彩の対照から感じられる美観と(要約・略)」

近代化や開発の中で変容し、姿を消していく風景を惜しんで、一磨は「日に日に旧態の失われつつある河岸の魂に対して、慰めに贈る(略)」と、この自画集を発行した。

 

続いて、3~4枚だったか、廃墟の多色版画が。

「なつくさやつわものどもが夢のあと」シリーズ。コンクリの廃墟、あるものは軍艦島みたいな廃墟群。割れ落ちた壁から鉄筋がむき出しになったいる。すでに草にさえぎられそうな廃墟も。


失われつつあるもの。滅んだもの。生活感。都市。混在したもの。織田一磨の視線をもう少し感じてみたい。

 

東京・芝生まれの一磨は、幼少期を大阪で、そののち広島や東京、富山での疎開、再び大阪、東京・吉祥寺へと転居。視線の中には、風景への愛着のなかにも、どこか外から来たものの見る感覚が目隠れするような気もする。

16歳から広島の石版印刷所や大阪市役所の図案調製所に勤務し、分業で定型のものを作成していた時代から、絵を学び自力で図柄から印刷までを創作して「自画集」を出すまでの道も、彼が描いた都会の風景の中にも織り込まれているかもしれない。初期の「東京風景」1916年「大阪風景」1917年のシリーズの人間臭さやにぎやかな街に対する感覚も感じてみたいところ。

北斎をリスペクトしていたというのもひかれる。水彩画もよさそうで、その中に清雄的感覚を感じるのも楽しみ。

いつか機会がありますよう。

ついでに:織田一磨の家系をどんどんたどっていくと、織田信長にいきつく。織田有楽、織田しつしつ(以前の日記)と、織田家の系譜はアーティスティックなのかな。