2015年3月25日
退屈なので暇に飽かして遠い昔の日本橋筋一丁目界隈の街並みを思い起しつつ当時の地図を作ったんだけど、でかすぎて縮小したら字が読めないんだね。
馬鹿だねえ、読めなかったら意味がないんだね。無駄な汗をかいてしまったよ。思いついたら即行だから間が抜けるんだね。
1970年(昭和45年)から着工した千日前通りの拡幅工事で消え失せた街並みを思い出して作ったんだけどね。
仕方がない、また、いつか当時の話をした折に関連する箇所だけ切り離して載せることにしようか。
『1955(30)~1970年(昭和45年)の間の大阪日本橋筋一丁目界隈の地図』
1955年(昭和30年)当時が、こうだったとは云えないよ。早い話が、千日前の千日デパートは、まだ、歌舞伎座だったはずだからね。
オレが、当時、この辺りに住んでいて印象に濃い部分を思い起しているから、幾分か前後して存在したものもあると思うよ。
オレの場合は、記憶力が悪いから特にそうだろうと思うんだけど、50年も経つと人の記憶なんてまばらでしか残らないもんだね。
なのに、当時の街並みの雰囲気は残っているんだね。朝の日差しに照らされた交差点の風景や南の日差しの影になってる消防署の前の通りなんか
当時のままに甦るんだね。其の前の歩道は、いつも綺麗に掃かれてるの。今、思うと。毎日、消防隊員さんが早朝に掃除されていたんだろうね。
千日前の繁華街に向って歩いて行くと、なんか気だるいような空気が混ざりだすように感じるんだね。
スケベどもの戦の後って感じだよ。ガス抜きの空気だね。「ウソつけっ、ガキがそんなの解るかっ」 おませなオレの感性は見抜いていたね。
道路に打たれた水が日差しに照ってキラキラ輝いてるよ。天然色のおばはんどもが、様子するでもなく疲れた顔して家路に着くんだろうね?
通りでタクシー拾って乗り込む際に、次を待つおばはんに、なにやら大きな声で話すと、じゃあって、小さく手を振って走り去る。
夜のスケベども相手に、おばはんらも大変だねって労う気持ちが湧くようだったよ。「おまえ、幾つの時やねん?」 ランドセルが重いんだよ。
『もう何度も貼ってるけど、オレにとっては貴重な写真だよ、昭和40年前後かね? 日本橋筋一丁目交差点、向こうに千日デパートが見える』
今日の話に出た南消防署の火の見櫓(やぐら)の鉄柱も見えてるね。「おまえ、でだしに、いつか当時の話をした折にって、云っててしてるがな」
そうだね、話も通過すると忘れてしまうね。じゃあ、切り取って拡大しようか? 「話の流れでは、そうなるね」
市電の駅は、此方側に両方面が設置されていたんだね。地図製作時では交差点を挟んで在ると思ってたよ。
写真で乗降している駅は、地図では日本一食堂の前辺りだね。この市電は、今里、上本町方面(地図では、向って右へ向う)行きだね。
千日デパートは左側になる。住友銀行前から北側を、当時、撮った写真が手元にあったんだけど何処へいっちゃったのかなあ?
あの写真には、交差点北側のお店の並びが映ってたよ。超貴重な写真だよ。北側の写真は、ネットで虱潰(しらみつぶ)しに探しても無い。
記録も削り取られて街並みは消えたね。生きた時間は記憶で量る、甦らぬ過去は記憶でしかない。
人は、その記憶が容(かたち)になったものに触れると当時の残像が一気に甦って、あたかも、その当時の自分に戻ったかのような懐かしみに酔うんだね。
何処かの人が撮って溜め置かれた貴重な古い写真を勝手ながら貼りまくってるけどええのんかいな? 「ええはずないやろっ」
まあ、怒って来られたら、其の一枚一枚に対する人の想いを伝えて、ご理解頂いて許して貰おう。
作品は、人の目に晒して価値を生む。懐かしみを共有して、多くの人の記憶を甦らせて生きた足跡に感慨させる。それでこそ作品も生きるんだよ。
「講釈垂れて罪の意識を薄めてるなあ?」 それもある。
『日本橋筋一丁目の写真を見つけたよ、どうも、上の写真と関連してるように思えるんだね、角度を変えて撮ったものかも知れん』
説明では、1959年5月ってなってる。昭和34年だね、同じ人が同じ日に撮ったのかも知れん、そんな雰囲気だよ。
上の写真と同じ場所から、少し角度を変えて右寄りに撮ってるね。これも貴重な写真だよ、ありがとう。「誰に云うてんねん?」 写真撮った人。
見つけた写真は小っこいの、でも鎌田特許事務所の看板が見える。この建物のお陰で見落とさずに気付くんだね。ええのん見つけたよ。
よくよく見ると、停留所の車止めの形と駅名表示灯の様子が違うね。下の写真は34年で、上は、もう少し新しいのかも知れんよ? うん。
下の写真当時には、千日デパートの屋上には観覧車はない。千日デパートは、1958年(昭和33年)12月1日に開業したんだけど、
屋上の観覧車は、後、1960年(昭和35年)に設置されたんだね。上の写真には、観覧車が写ってる。上の写真は、昭和35年以降だね。
『千日前通りなんだけど、どの辺りか定かでない、向って左側は拡幅工事中だね、これも映ってるのは南側なんだね、尤も、もう潰されて面影はない』
『千日前通りを東へ下寺町、松屋町筋を越えて上町台地の坂を上がると谷町九丁目交差点、向って左側、拡幅工事中だね。上六の近鉄百貨店が見える』
『千日前筋(北側)だね、竹林寺までの建物が削り取られた後だね。左手の男女三人が歩いてる処に工事用の柵が見える、奥にスバル座が映ってるよ』
スバル座の向こう側、日差しが当ってる脇道の角の建物、記憶に鮮明だね。この写真から匂う雰囲気がそのままだよ。
手前にレコード屋さんが在って角引き回しのガラス張りだから、棚のレコード探しながら、この一角の建物が視界に入るんだね。
今より、もっとアホなオレの姿も思い浮かぶよ。真面目なんだけどアホって居るだろ? オレは、そういう馬鹿者、違った、若者だったよ。
この頃には、我が家は島之内の一軒屋に移り住んでたね。此れから数年後かね? 道路が拡幅されて広々してたよ。
僅かでも生活圏が外れると何かの折でないとそうそう戻って来るもんじゃなくなるんだね。此の頃は、よく深夜映画に通ってた。
何処の映画館だったかなあ? 映画を観て、深夜の帰り道、日本橋筋一丁目の交差点手前で星に紛れるUFOを目撃して追跡したんだよ。
「上の地図は拡幅工事前だから。実際は、酒屋の上の横線明示まで道路は広がってたから、その道路脇辺りから追跡してることになるね」
もう、何度も書いてるので内容は省くけど、何処かのおじさんとオレが走ったのは赤い点線で、黄色いラインが輝く星の航跡だね。
俯瞰的に描き入れてるよ。直角だったね、目撃したものは衝撃を受ける。話で聞くものは懐疑的で想像でしかない。此の差は埋まらんね。
見上げる空の永遠の宇宙には、人類以上に優れた生物が、必ず、居るね。でも、そいつは無様なタコってところで人類に負けてるね。
其の容姿が無様故にチョロチョロと来ては去って行くんだね。恥ずかしいんだろうね、賢いが故に己を知っているんだね。「それ本気で云うてんか?」
『これは千日前の千日デパートだね、千日前通りを走って渡るうら若き乙女らは、今じゃ婆だね 「なんやねん、当たり前やろ」 念の為に云ってる』
「気分の悪いおっさんやで」 道路も建物も、みんな様変わりする。人もそうだよ、画像の中では、時は止まってその時を生き続けるんだね。
レンズに意識がいってない自然な姿ってのは、より一層、其の時の、その瞬間の時間を生きて居るって感じるね。時よ、止まれだね。
この乙女たちは、この躍動する姿で生き続けるんだろうね。「そういうことを云ってるのか?」 実際は、婆だよ。「おまえなあ」
思うに、話ってのは転がす板さえ見つければ造作もないね。「勝手に喋ってコロコロ変えるな」 板だよ。板を探しに出よう。
『日本橋三丁目辺りを軽快に走る市電だね。真ん中の建物に覚えがあるんだけど、通りの西か東のどちら側に在ったのかが思い出せん』
「また戻ってんか?」 話は自由だよ、拘束するものなど無いんだよ。言葉は、我より先に走るもんなんだよ。それで失敗するときもあるけどね。
写真の年代を知りたいから、市電の頭に貼られた広告「万国こども博」ってのを検索したんだけど珍しく無いね。
凡その年代は、昭和40年前後ってとこじゃないかね? 市電と併走する車のスタイルからして其れ以前とは考えにくいよ。
真ん中の建物の下の看板に「店舗を新築移転しました」旨の断りが書かれているね、あれに覚えがあるんだよ。当時、オレ、たしか読んだねえ~。
検索して探してたら、ちょうど同じ辺りを走る市電を紹介されている方が写真を貼られてたよ。大変申し訳ないですがお借りします。
『1960年(昭和35年)1月撮影とある、やはり、併走する車が古いよ』
市電は、パンタグラフを見れば向こう行きに映ってる。市電の後方、レールの敷石が左へカーブを切ってるってことは難波に繋がる軌道だね。
映ってる市電は北(一丁目方面)へ走ってるね、と云うことは、上(モノクロ)の市電は南(霞町、阿倍野方面)行きになる。
三丁目から南の街並みは電気屋さんで埋まってるから、背景からして三丁目から北側だね。
下の写真には、三和銀行の向こう隣りには高いビルはないけど、モノクロ写真の方には三和銀行を越すビルが出来てる。〇〇橋ビルって見えてるね。
モノクロ写真の方が新しいことになる。市電は、たしか1969年(昭和44年)3月一杯で全廃になったから、其の間の写真だね。
隣りに建ったビル、車の型など勘案すると昭和40年前後ってとこだね。こんなのを調べるのが好きだね。「暇やのお~」
『1966年(昭和41年)日本橋筋三丁目市電南行き停留所から北方面(日本橋筋一丁目)を望む』
右隣の松坂屋(現・高島屋別館)の向こう端から少しの処で交差点になってる。左へ折れると難波へ繋がる。
其の交差点の向こうが上の2枚の写真になってんだね。堺筋を市電は難波へ行くのか、一丁目に向うのか、左側軌道を走って北方面に向ってるね。
後ろの市バスは左に曲がって難波へ行くよ。
このとき、市電を走らせていた運転手さん、バスを走らせていた運転手さん、それらの後ろに乗って運ばれていく人たちや車を走らせる人たちも、
通りの会社や商店で働いている人たちも、其れを取り巻く世間の人たちも、いろんな思いを抱きながら、みんな同じ空気を吸って生きていた。
世は移り変わっても人の営みに変わりなく義務を果たして次に引き継ぎ消えていく。何十何百億の足跡さえも残すことなく消えていく。
人ってのは、なんなんだろうかね? 言うなれば水だね、田を潤し肥やす水に似てるように思うよ。
そこで、懐かしい地図を見つけました。
そこに私の父がやっていたお好み焼き屋が記入されてました、細長いのでそうだと思います。
ありがとうございました
古林君のお店には、一度、遊びに行って店から奥の住まいまで案内して貰ったことがあります。
お好み焼きのいい匂いが漂って「いいなあ」って、思ったのを覚えています。だから、忘れません。
退屈な折に見てやってください。ありがとうございました。遠い昔のオレが、とても喜んでいます。
家に来たことある?
懐かしい友達?
日本橋に住んでいた?
精華の同級生?
同じクラスだったことがある?
誰?
元気に居られるようで何よりです。懐かしさのあまり、何も考えずに返事をしてしまい、考えたら早まったなあって反省してます。
オレは、可愛い気がないから繋がりに執着しない。相手さんが元気で幸せならそれでいいって考え方で生きています。
これだけ恥曝して馬鹿なことを書き続けている手前、名を明かす訳にはいかないんで、ごめんなさい。
名を伏せて、大変、無礼者ですが、退屈な折にでも見てやってください。ありがとうございました。
お元気で暮らしてください
なんてことでしょうか。お断りのご理解を頂いて、タイトルにUnknownとありましたから、「ありゃっ」って、全て繋がりました。
くたばるまでに駄文の芸術をばお見せできるよう精進致します。できなくても、其の心意気です。重ね重ねてありがとうございます。
古林様へ (Unknownさんは、このブログの初期からの訪問者さんです。わたしの思い込みで間違っていましたらお許しください)
日記が長く途絶えて心配してます