旅 ・ 懐かしいもの探しetc

 旅行はあまり有名ではないところをメインに身勝手な感覚で記述し、武漢ウイルス以降はグチばかり・・・

【戦後75年】小野田寛郎氏をご存じでしょうか

2020年08月15日 | その他
日本陸軍 小野田少尉
日本が連合国に無条件降伏してなお29年間孤独な闘いを続けた信念の日本軍人
ルパング島で終戦情報を把握していながら敵国の諜略を警戒し、1974年に上司の命令によって初めて投降・帰国されました。
過日、ルバング島に小野田少尉捜索活動に加わっていた元警視庁機動隊員眞篠和義さんから当時の生の状況を聞く機会に恵まれました。

小野田 寛郎(おのだ ひろお、大正11年(1922年)3月19日 - 平成26年(2014年)1月16日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
最終階級は予備陸軍少尉。
旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒。
情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にしてフィリピン・ルバング島から帰還を果たした。


🔶🔶🔶1974年3月10日に 元日本陸軍の上官がルバング島に赴き、残留していた陸軍少尉の小野田寛郎に任務解除・帰国命令を下された経緯🔶🔶🔶
  30年間も戦い続けた日本兵士・小野田寛郎氏について
 上海の商事会社で働いていた1942年12月、満20歳で徴兵検査を受け和歌山歩兵第61連隊に現役兵たる陸軍二等兵として入営
 同時に歩兵第218連隊に転属、同連隊にて在営中に甲種幹部候補生を志願しこれに合格、1944年1月に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校

 卒業後、中国語や英語が堪能だった事から選抜され同年9月に陸軍中野学校二俣分校入校、主に遊撃戦の教育を受け、退校命令を受領(諜報を学ぶ中野学校軍歴を残さないため卒業ではなく退校を使用)退校となる。
その後に見習士官(陸軍曹長)を経て予備陸軍少尉に任官

 1944年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣
 当地では第14方面軍隷下の第8師団参謀部付になり、
師団長横山中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張れ。重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。」の指示を受けている。

派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった。

 なお派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された(この短刀は帰国後に実家に帰った際に母親に返している)。

 同月31日、ルバング島に着任。着任後は長期持久体制の準備に努めるが、島内の日本軍の一部の隊には引き上げ命令が出ていたため戦意が低かった。
日本軍各隊はアメリカ軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に撃破され、1945年2月28日にはアメリカ軍1個大隊上陸後にルバング島の山間部に潜伏。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共に遊撃戦を続けた。
 ※ルバング島は、フィリピンの首都マニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。

 1945年の8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかったため、赤津勇一陸軍一等兵(1949年9月逃亡し1950年6月に投降)、島田庄一陸軍伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七陸軍上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。

 日本では1945年(昭和20年)9月に戦死公報が出されたが、1949年に赤津が投降したことで、1950年に小野田ら3人の現役で戦闘中の日本兵が存在することが判明した。

 フィリピンは戦後間もなくアメリカの植民地支配からの独立を果たしたものの、両国の協定によりアメリカ軍はフィリピン国内にとどまることとなった。
 これを「アメリカ軍によるフィリピン支配の継続」、またフィリピン政府を「アメリカの傀儡」と解釈した小野田はその後も持久戦により在比アメリカ軍に挑み続け、島内にあったアメリカ軍レーダーサイトへの襲撃や狙撃、撹乱攻撃を繰り返し、合計百数十回もの戦闘を展開した。

 戦闘で使用した武器は使用可能状態に維持された九九式短小銃、三八式歩兵銃、軍刀などであり、その他にも放火等の戦術も用いた。
 弾薬の不足分は、島内に遺棄された戦闘機用の7.7x58SR機関銃弾を九九式実包の薬莢に移し替えて使用する等の工夫をこらしていた。
 これらの戦闘において、米軍レーダー基地司令官を狙撃、重傷を負わせる等々、多くの戦果を挙げた
 地元警察との戦闘では2人の部下を失い、最後の数年は密林の中、単独でありながらも米軍と傀儡政権の警察軍との戦闘を継続して、30年間継続した戦闘行為によって、フィリピン警察軍、抵抗民間人、在比米軍の兵士を30人以上殲滅した。

 手に入れたトランジスタラジオを改造して短波受信機を作り、アメリカ軍基地の倉庫から奪取した金属製ワイヤーをアンテナに使って、独自で情報を入手し、世界情勢を判断しつつ、友軍来援に備えた。

 ゲリラ戦での主な食料として、島内の野生牛を捕獲して乾燥肉にしたり、自生するヤシの実を拾っていた。これにより、良質の動物性タンパク質とビタミン、ミネラルを効率良く摂取して戦闘能力を維持していた。

 日本からの残留日本兵の捜索隊が密林内に残した日本の新聞や雑誌で、当時の日本の情勢についても、かなりの情報を得ていた。
 捜索隊はおそらく現在の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、1964年の東京オリンピック、東海道新幹線開業等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。

 中野学校の教育を受けた小野田は、その日本はアメリカの傀儡政権で満州に亡命政権があると考えていた。

 小野田は投降を呼びかけられていても、二俣分校での教育を思い出し、終戦を欺瞞であり、敵対放送に過ぎないと思っていた。

 朝鮮戦争へ向かうアメリカ軍機を見掛けると、当初の予定通り亡命政権の反撃が開始され、フィリピン国内の米軍基地からベトナム戦争へ向かうアメリカ軍機を見かけると、いよいよアメリカは日本に追い詰められているものと信じていた。

 小野田にもたらされた断片的な情報と戦前所属した諜報機関での作戦行動予定との間に矛盾が起きなかったために、る結果となった。

1974年 (昭和49年) 日本に帰国
昭和49年(1974年)に、一連の捜索活動に触発された、日本の青年鈴木紀夫が現地を訪れ、2月20日に孤独にさいなまれていた小野田との接触に成功する。
鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国をうながし、小野田も直属の上官の命令解除があれば、任務を離れることを了承する。
この際、鈴木は小野田の写真を撮影した。

3月9日に、かつての上官である谷口義美元陸軍少佐から、文語文による山下奉文陸軍大将(14HA司令官)名の「尚武集団作戦命令」と、口達による「参謀部別班命令(下記)」で任務解除・帰国命令が下る。
一 大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル。
二 参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル。
三 参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者ハ直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄ノ上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。已ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ。
        第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

翌3月10日にかけ、小野田は谷口元少佐にフィリピンの最新レーダー基地等の報告をする。

小野田はフィリピン軍基地に着くと、フィリピン軍司令官に軍刀を渡し、降伏意思を示した。
この時、小野田は処刑される覚悟だったと言われる。

ィリピン軍司令官は一旦受け取った軍刀をそのまま小野田に返した。 司令官は小野田を「軍隊における忠誠の見本」と評した。

小野田のマラカニアン宮殿で行われた投降式には、マルコス大統領も出席し、武装解除された。
その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している

小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法の処罰対象になる。
小野田は、終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。
 こうして、小野田にとっての太平洋戦争が終わり、1974年(昭和49年)3月12日に、日本の羽田空港へ帰国を果たした。

小野田は足跡を残すことを恐れて、暦は全て頭の中の記憶だけで把握していたが、30年の暮らしで6日間しかずれていなかった。

小野田は発見時は51歳だったが、自分の寿命は60歳と決めていて、あと9年経って60歳になったら、レーダー基地に決死の突入攻撃をして果てる覚悟だったという。

       🔶🔶🔶当時の情勢🔶🔶🔶
〇 1950年 - フィリピンミンダナオ島で日本軍敗残兵が投降した際、無為に島民に銃殺される事件が生じる。
〇 復員庁では、日本軍将兵の無事帰国のため特別対策本部を設立する。
〇 1951年 - 赤津勇一元一等兵が帰国する。
残留兵の存在が明らかになるが、フィリピンの政情が不安定なため救出活動は行えず。
〇 1954年 - フィリピンの山岳部隊が日本兵と遭遇。
島田庄一元伍長の遺体が確認される。
これを受けフィリピン政府は残留兵捜索隊の入国を許可する。

〇 1954年5月、1958年、1959年5 - 12月 - 赤津元一等兵等投降者の証書に基き援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友によるルバング島の残留日本兵捜索が行われるが、未発見に終わる。
〇 1959年(昭和34年)12月11日 - 戸籍法89条に基づいて厚生省引上援護局は12月10日に「死亡日・昭和29年5月8日」として「死亡公報」を出し、翌11日に公示された。
 なお、これに合わせて翌12月12日には故郷の和歌山県海南市にて親類の手により葬儀が行われた。
 1969年5月31日 - 第62回戦没者叙勲により、戦没者として、勲六等単光旭日章に叙され靖国神社に英霊として祀られた。

〇 1972年1月 - アメリカ領グアム島で横井庄一元伍長が発見される。 日本兵の生き残りが今も各地に潜伏している事実が知られるようになる。
〇 1972年10月19日 - フィリピンのルバング島にて警察軍に小塚金七元一等兵が射殺される。
〇 1972年10月22日 - 25日 - 日本兵射殺事件を受け、厚生省援護局職員および小野田元少尉と小塚元一等兵の家族、戦友が逐次ルバング島に赴く。
 遺体が小塚金七一等兵である事を確認する。

〇 小野田元少尉の捜索が行われるが発見には至らず(後に元少尉は捜索隊を追尾・観察している。また密林の中で兄の姿を目撃していたが、アメリカの支配下の傀儡政権に強制されての行動だと推測していた事を告白している)。
〇 1974年、一連の捜索活動に触発された日本の青年鈴木紀夫が小野田元少尉との接触に成功。
〇 1974年3月にフィリピンに投降し、日本に帰国。

〇 帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだ事や、現地軍との銃撃戦によって、多数の軍人や住民が死傷した出来事が明らかになった事(フィリピン政府当局の判断により、小野田への訴追は行われなかった)
〇 た、マスコミからは「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批判もあった。

〇 小野田に対し、日本国政府は見舞金として100万円を贈呈するが、小野田は拒否する。
 拒否するも見舞金を渡されたので、小野田は見舞金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付している。
〇 昭和天皇との会見も断り(万が一、天皇が謝罪するようなことを避けるため)、小野田は戦闘で亡くなった島田と小塚の墓を参っている。

〇 小野田のフィリピンでの功労は、ニノイ・アキノ国際空港傍にある「フィリピン空軍博物館」に、小野田がフィリピン空軍将軍宛に書いた手紙と共に、展示ケースにて展示されている。

〇 2年前に帰国し、驚くほど早く戦後の日本に適応した横井庄一と異なり、小野田の場合は一部マスコミの虚偽報道もあり、大きく変貌した日本社会に馴染めなかった(マスコミのヘリがゲリラ戦時の敵軍ヘリと重なって悩まされた時期もあった)。
〇 帰国の半年後に次兄のいるブラジルに移住して小野田牧場を経営する。
〇 小野田牧場経営、帰国後結婚した妻の町枝と共に移住し、10年を経て牧場経営を成功させた。
〇 小野田自然学校を設立日本の子供たちを招待して生き方を体験学習に務めた。
  

   🔶🔶🔶その他🔶🔶🔶
★残留兵の小野田さんは「終戦」も「朝日新聞の変節」も知っていた
                       国内    社会        週刊新潮 2019年6月20日号掲載
 この夏は、令和になり初めての終戦記念日が控える。否応なしに昭和の時代を振り返ることになるが、戦後になってもなお異国の地で最後まで闘っていた男が小野田寛郎少尉だ。終戦から29年、51歳で帰還した残留兵は、持ち前の慧眼で大新聞の変節を察知していた。

 1974年(昭和49年)3月、元上官の命による武装解除に応じるまで、小野田少尉は帝国軍人として生き、フィリピンはルバング島の山中を舞台に、米軍基地や現地住民への遊撃戦を仕掛けていた。
 平和を謳歌する戦後ニッポンに、突如現れた帝国軍人の姿は国民に衝撃を与えた。実際、帰国の模様を中継したNHKの番組は、視聴率40%超えを記録したが、「小野田さんブーム」はこれに止まらなかった。
 小野田さんと親交のあった関係者はこう振り返る。
「寛郎さんに対して、“選挙に出ないか”とか“ウチの役員に”とか、利用しようとする人たちも多くいました。結婚話も山のようにあって、親族の家にまで結婚を求める手紙や電話が多く来たので、電話番号を変えたほど。家にまで押しかけ“娘を貰ってくれ!”と言う父親もいましたよ」
 報道各社のスクープ合戦も熾烈を極め、中でも彼の「独占手記」を得るために、水面下では露骨に札ビラが舞っていたというのだ。
「朝日はアカだから」
「朝日新聞は1億出すと言ったそうですが、小野田さんは3500万円しか示さない講談社を選んだのです」
 とは、小野田さんが帰国した年に初めて出版した著書『わがルバン島の30年戦争』の構成を務めた津田信氏の次男・山田幸伯氏だ。
「理由は小野田さんが『朝日はアカだから』と言って、毛嫌いしたためと聞きました。
 現地では捜索隊が日本の様子を伝えようと新聞を残していきましたが、彼はそこから終戦を知ると同時に、各紙の論調を把握するほど熱心に、事細かく読み込んでいたのだと思います」
 戦時中、率先して戦意高揚に筆を揮った大新聞の変節を、帰国直後の小野田さんは見抜いていたのである。
 5年前、91歳で往生を遂げた小野田さん。晩年まで慰安婦問題に抗議する活動を熱心に行っていたという。

元、日本兵。でも同列に語ってはならない
1972年にグアム島で発見された脱走兵の横井庄一氏
◆横井 庄一(よこい しょういち):1915年3月31日 ~97年9月22日、愛知県海部郡佐織村(現愛西市)生まれ。
洋品店勤務後、2度の兵役、伍長。終戦前に軍を脱走。戦後28年目、グアム島で地元民の食料を盗む際に殴られて捕まり、旧日本兵と判明して帰国。
名古屋市中川区富田町に居住して、有名人となった横井に近づいた女性と結婚。各種マスメディアに耐乏生活評論家として活動。1974年には参院選に出馬して落選。
 
◆小野田寛郎(おのだ・ひろお):1922年3月19日→2014年1月16日、男5人、女2人の7人きょうだいの四男。
 和歌山県亀川村(現海南市)生まれ。海南中(剣道部)→会社員(田島洋行)→久留米第一陸軍予備士官学校→陸軍中野学校二俣分校。1974年3月、51歳で日本帰国。
1975年、ブラジル移住、牧場を経営。自然塾開講や講演活動。

・南の島のジャングルで「戦争」を続行し、横井氏は28年、小野田氏は戦後30年を経た70年代、平和ニッポンに衝撃の生還を果たした。
・横井氏は「戦争は嫌だ」「死ぬのは怖い」と逃げ回った末に軍を脱走したため終戦を知っていたが出てくることができなかった潜伏。
・横井氏が召集令状で軍隊入り、小野田氏はスパイ養成陸軍中野学校出身の諜報将校。
・潜伏中に横井氏は武器を朽ちさせ、小野田氏は常時使用可能状態においていた。
・横井氏が盗みから逃げるところを現地人に捕えられ、小野田氏が上司の命令に従って自発的に下山、フィリピン軍に投降。
 🔶🔶🔶発見当時の御二方の画像🔶🔶🔶
 


🔶🔶🔶小野田さんが孤独な闘いを終えた1974年当時の日本の出来事🔶🔶🔶
🔶極左暴力集団の東アジア反日武装戦線「狼」 による三菱重工爆破事件【死者8人、負傷376人を数える戦後日本最悪の爆弾テロ事件 】
🔶極左暴力集団の日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠した通称ハーグ事件
🔶年間の高視聴率テレビ番組は『小野田さん帰国』でNHK総合- 45.4%だった。

コメント (8)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 在北京米国大使館のロゴ | トップ | 『道端の乞食』の話 »

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
よく覚えています。 (maru36)
2020-08-15 11:31:39
まだ子供だったことも有り、
様々な事は知りませんでしたが、
同じ和歌山県人だったという事も有り、
よく覚えています。
今 こうして画像を拝見すると 凛とした という表現が
見事に当てはまる姿ですね。
ご苦労なさいました (続強子の部屋)
2020-08-15 12:49:19
小野田さん、横井さんそれぞれの生き方でした。
お二人を比べる事は実情を知らない人間が
云々すべきでないと思っていました。

小野田さんの写真を見た母が、なんて見事に
軍服を繕っていて素晴しいと言っていました。
良く見ると、帽子も丁寧繕われていました。
どのような道具を使ったのでしょうか。
Unknown (森のくまさん)
2020-08-16 22:54:50
 後期中野学校の出身だった事もあり計画的に
行動されていたのでしょう。部下が2人ともに行動されており亡くなっていたと思います。
 冒険家?鈴木氏?が元上官を探し出して合わせ投降
小野田さんの戦争が終わりました。
 台湾の方だったかな、その後投降された人がいましたが報道がされませんでした。

maruさん (ブログ管理者)
2020-08-18 19:15:35
立派な方がいたということを誇りにしたいと思います。合掌。
続強子の部屋さん (ブログ管理者)
2020-08-18 19:19:31
御母堂さまの仰るとおり、軍服を見事に繕っていますね。帽子も丁寧繕われていました。ジャングルの中で針や糸も無いのにどのように繕ったのか?軍刀や銃をどのように手入れをなさっていたのでしょうか?知りたいものです。
森のくまさんさん (ブログ管理者)
2020-08-18 19:21:52
コメントありがとうございます。
「台湾の方でその後投降された人」について調べてみましたが分かりませんでした。もし、お判りでしたらご教示お願いしたく思います。
Unknown (森のくまさん)
2020-08-30 21:25:11
 中村輝夫さんです。
小野田さんの10ヶ月後インドネシアで投降されています。兵隊になられたのが統治中、投降時は知っての通りです。日本人として誇りをもたれていました。
 どこぞの人とは大違いです。
これから台湾との関係も重要になっていきますので。時代の陰から光が当たる方だと思っています。  
森のくまさんさん (ブログ管理者)
2020-08-30 22:19:45
ご教示ありがとうございました。
中村輝夫さまこと李光輝さまのことは知りませんでした。感動しました。
 霞ヶ浦の予科練にも日本人ではなかった方も存在しており特別に認められて特攻隊員として日本国のために逝き、靖国神社に安まれている方がいらっしゃいます。一部の今の日本人が恥ずかしいです。
    ありがとうございました、今後ともよろしくご指導お願いいたします。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

その他」カテゴリの最新記事