村田氏死去については詳しいことは分からないが、以前から糖尿を患っており、活動はしていなかった模様。
5年前、知り合いを通じて取材を申し込んだが、断られたことがあった。知り合いの話では「体調も悪いから面倒くさいのだろう」ということだった。
村田氏は力道山刺傷事件当時、「大日本興業小林会・小林楠夫氏(故人)」の舎弟だった。小林楠夫氏死後、住吉会村田組組長をしていたという。女子格闘家の篠原光の父。
それにしても電話があったのはちょうど赤坂の氷川神社前を歩いていた時だけにびっくりした。なぜなら、この近くにナイトクラブ「ニュー・ラテンクォーター」があって、そこで力道山が刺されたからだ。「ニュー・ラテンクォーター」には取材で何度か行ったことがあるが、照明がやけに暗く、なんともキナ臭い空間だった記憶がある。
昭和38年12月8日深夜、当時、暴力団「大日本興業・小林会」の組員だった村田氏は「ニュー・ラテンクォーター」のトイレで酔っ払った力道山と口論になり、取っ組み合いとなったが、危機感を感じて持っていた刃渡り13㌢のナイフで力道山の左下腹部を刺した。
力道山は自宅のリキ・アパートに戻ったが、下腹部の激痛のために知り合いだった山王病院で開腹手術。30針縫う重傷だった。力道山は快復に向かったが絶対安静の病室に客を呼んでアルコールの飲み、寿司も食べたらしく12月15日、急変。再手術したが午後9時50分、帰らぬ人となった。
村田氏は力道山の命日は毎年欠かさす池上本門寺に墓参していたという。
5年前、知り合いを通じて取材を申し込んだが、断られたことがあった。知り合いの話では「体調も悪いから面倒くさいのだろう」ということだった。
村田氏は力道山刺傷事件当時、「大日本興業小林会・小林楠夫氏(故人)」の舎弟だった。小林楠夫氏死後、住吉会村田組組長をしていたという。女子格闘家の篠原光の父。
それにしても電話があったのはちょうど赤坂の氷川神社前を歩いていた時だけにびっくりした。なぜなら、この近くにナイトクラブ「ニュー・ラテンクォーター」があって、そこで力道山が刺されたからだ。「ニュー・ラテンクォーター」には取材で何度か行ったことがあるが、照明がやけに暗く、なんともキナ臭い空間だった記憶がある。
昭和38年12月8日深夜、当時、暴力団「大日本興業・小林会」の組員だった村田氏は「ニュー・ラテンクォーター」のトイレで酔っ払った力道山と口論になり、取っ組み合いとなったが、危機感を感じて持っていた刃渡り13㌢のナイフで力道山の左下腹部を刺した。
力道山は自宅のリキ・アパートに戻ったが、下腹部の激痛のために知り合いだった山王病院で開腹手術。30針縫う重傷だった。力道山は快復に向かったが絶対安静の病室に客を呼んでアルコールの飲み、寿司も食べたらしく12月15日、急変。再手術したが午後9時50分、帰らぬ人となった。
村田氏は力道山の命日は毎年欠かさす池上本門寺に墓参していたという。