RURUのひとりごっち

「博多にわか」な「独り言」と「ごちそうさま」を鍋に放り込んでなんだか煮てみたら・・・ひとりごっちが生まれました。

はぐれもんの20年目の探し物

2009-01-08 14:05:41 | つぶやき

(あなた様はもしや・・・。)

ブログを始めて
早くも3度目の七草を迎え
年も三つ食ってしまいました
七草粥とケーキの取り合わせ
次の日はなんとなくお腹が痛い

プレゼントに娘から貰った
椎名林檎を聞きながら
今年は去年にも増して厳しい年になる
その覚悟ができていない自分に
活を 克を 喝を 入れたいのに
入れる心がはぐれもんになって
どこにもいない
探しています
自分のはぐれた心の臓

覚えておきたいこと
気になること
を綴る日はいいとして
新聞やニュース腹立たしい報道に
やるせない怒りなど
を綴る時
怒りに任せて言葉をはしょり
何をいいたいのかわからぬ文になり
後で気がつき
改訂してみる ていたらく
(前回記一部改訂しました)
べつに誰かが文句を言う訳でなし
どうでもいいさ
と思うのに
あんた
結構几帳面じゃないさ
大雑把なふりしてさ
そうね


(やはりオスカル様!ですね)


男と女の間には
深くて暗い川がある
などと
えんやこ~ら
歌う人も昔 いたが
私は男と女の間には
大した川はないと思っている
一人の人間の中には大抵
男と女が
同居しているもんだって
思うから

それより
成長期と青春期を過ごした地方が
まるで違う夫婦には
かなり深くて暗い川がながれている
どちらかがどちらかの地方で
ほとんど帰ること無く
暮らすことになると
自分の心を離れた自分の地方に
置いて来ることになる

心がないまま暮らしていると
自分が誰だかわからなくなってくる
そのうち異邦人という人格ができてきて
異邦人として暮らし
異邦人として孤独に死ぬしかない

ひとり対 多数の中で
違和感をごまかしながら暮らし
自分の心を置いてきた地方にも帰れない
何年も何年も何十年の間に
自分を無条件に受け入れる場所は
なくなるのだ
行き場をうしなった心が
浮遊しながら
どこにも落ち着くことなく
さまよい
肉体と心は
別れ別れのまま朽ち果てる


(影はついてくるのに心は・・・。)

異邦人がその地方人になることはない
はぐれもんははぐれもんでしかない

成長期、青春期を過ごした土地の影響は
おもったよりも ずんどこ大きい
むしろ混血に生まれるよりも
もどかしい
二つの血が体にあるなら
まだ生きられる気がする

たとえその地方が暮らしやすく
良い人ばかりの地方であっても
たとえようもなく
からっぽのひとりぼっち感は
消えることはない
いやむしろいい人ばかりの中で
行き場を失う悪い心
なのだろう


まあ一般論じゃなくあんたの話か!

言われても
そのとおり正解です
と言うしかないが
友達や親族にも結構多く
自分の地方を離れて
嫁ぎ暮らす人はいて

どうやって
つじつまを合わせて
暮らしているのだろう?
と思う
私にとっての二つの地方は
九州と関西である
九州人という人種があるとするなら
関西人という人種もあるだろう
細かな県民性の話ではない
大雑把ではあるが
この間に確かに流れる深くて暗い川
しかも九州も関西も
どちらの土地も私は愛している
どちらの土地も
何十年分かの人生を分けあった場所である
土地は人だから

愛している
愛しているから 憎らしい
20年間
九州に溶け込もうと励んで見たが
溶け込もうとすればする程
自分は関西の人であると思い出させられる




関西人のまま九州で生きればいいんじゃない?
などと
軽く言う やからを憎む
その人には この孤独はわからない
わかろうとする 気もないのだ
そうやって不器用に
溶け込もうと
もがかねば 生きられないのだ

それに
人の名字でこの地に骨を
埋めなさい
知らない人ばかりの墓に
入りなさい
と言われてもそんな覚悟はない
ただ
死んでしまえばどこに
埋められようが
もう無に帰するから
気にすることはない

生きている間だけの
もどかしさなのだ
とわかってはいる
生きている間だけの
苦悩だから


(音楽と水のコラボは一つの環境美)

もどかしさが理解されるなら
それでなんとか生きていける
そんな一見簡単な欲求は
実は
天地が逆になる位難しい
多分死ぬまで満たされないことを
気付いているから
人は絶望し
はぐれもんの夜を
泣きながら過ごすのだ

20年目のホームシックに捧ぐ
20年て!
あんた遅すぎる


(好きなだけ泣いたらええやん)

写真人形はは母の新作