RURUのひとりごっち

「博多にわか」な「独り言」と「ごちそうさま」を鍋に放り込んでなんだか煮てみたら・・・ひとりごっちが生まれました。

2本しゃもじの変と降車ベルの怪はこれでいいのだ

2008-08-08 17:29:23 | もうよういわんわ

(市場でお預けをくらう犬~この暑いのにおでんかい!とは言っていない)


(市場とは小倉の担過市場のこと)


昼ご飯の時のお話
ご飯が炊けてしゃもじを釜の横のしゃもじ立てに
普段なら立てておくのだが
(ご飯は自分でつぐ我が家)

なんとなく
ほんとに何となく
お茶碗にしゃもじをポンと入れておいた
お昼できたよ~と
自転車君を呼び
るるはやりかけの用事に戻り
それで
自転車君は自分でついだ白米一杯目を食べていたんだ
その日一緒に小倉に行くから
バスで酔わないようにと
普段なら昼はヨーグルト一個のるるなのだけど
さっきテレビでやってて美味しそうだった
和風チーズトーストなるものを作ってみた
玉子を食パンの上に割って
焼いて
その上に桜えび、海苔、チーズをのせ
(桜海老が無かったからわかめふりかけ代用)
で再び焼いて
その上にかつおぶしをかけて出来上がりなんだな
それを
ご飯を食べていた自転車君の横で食べてたら
2杯目のご飯をつごうと
自転車君が電気釜の横のしゃもじ立てを見て

『あれ?何で二本もしゃもじがあるのかな?』
と言うんです
『何のこと?』
と言うと
『さっき、ご飯つぐ時、しゃもじがなかったから
自分で食器棚の引きだしから出してついだのに、ほら二本。』
とおっしゃる
確かにしゃもじ立てにはしゃもじが二本ある
『えっ?だってしゃもじはお茶碗に入れておいたよ』
とるる
「そうなの?」

以下るるの心の声

だって気がつかない訳ないよね
もし
しゃもじ立てにないと思ってしゃもじを出しても
お茶碗を持ってつぐ時に
お茶碗にあるしゃもじを見るし
そのしゃもじをお茶碗から出さなきゃつげないし
今、しゃもじはしゃもじ立てに二本あるわけだから
一杯目つぐ時しゃもじを出して
しゃもじ立てに入れて
自分で出したしゃもじでつぐか
自分が出したしゃもじをしゃもじ立てに立てて
お茶碗に入ってるしゃもじでつぐか
どっちかで
その行動を実際したわけで
いまさら何でしゃもじが二本あるの?
なんて疑問はありえないじゃないと思うわけで



(コメントはない・・・。)

前略おふくろ様
おとぼけがすぎる
何故なのか?
そんなことは結構いままでもあった気はする
しかし
自転車君は今だ理解を超えたところにいるな
と思うるるです

もしや!
ありえない荒技?
しゃもじを二本右手にもって二本重ねでご飯をつぎ
二本重ねでしゃもじ立てに入れた?
。。。。。

そして
その夜の話
謎が謎を呼ぶバス降車ベルの怪

小倉で打ち合わせを終えた帰りのバスの中
自転車君はバスにゆられ心地よい眠りについていた
夢の中でチャイムが何度となく鳴る
なんだろう?

思いながらまだ夢の中
そのうち少しうるさいくらい
頻繁にチャイムが聞こえてきて
夢から少しさめる
うるさいなあと思う
バスの降車ベルの音だ
でも途中バス停にほとんど留まらないのに
何故ベルが鳴る?
また鳴った
その時運転手さんの声がマイクから聞こえる

『お客様でお荷物が降車ベルにあたっておられる方がいらっしゃいませんか?』

とそこで
自転車君ははっきり目が覚めて
自分の荷物を見る
膝のあたりの降車ベルも見る
自分の仕業だったと気付く
という訳である

おそまつサマ
どどまつジュウシマツさま
赤塚不二夫様
バカボンのパパは植木屋です
植木屋はすばらしき職業です
とにかく
ご冥福を祈ります
今日の落語はあなたに捧げます
(落ちてないけど)
おあとはよろしく。


(鍵穴の向こうに青空が見えた)

しかしこんな男にあたしゃ恋した覚えは無い
恋という字が変に見える今日この頃
昔々、恋と言う字は、いとし、いとしと言う心。




という字だったねえ

恋という字に変わって変に近付くのは
心が久しくふるえることが無くなるからだ
しかしどうしてだか
恋より変が好きなのも事実だ

これでいいのだ





という字を使った時代の

森鴎外「獨身」  ~壱~より



小倉の冬は冬という程の事はない。西北の海から長門の一角を掠めて、寒い風が吹いて来て、蜜柑の木の枯葉を庭の砂の上に吹き落して、からからと音をさせて、庭のあちこちへ吹き遣って、暫くおもちゃにしていて、とうとう縁の下に吹き込んでしまう。そういう日が暮れると、どこの家でも宵のうちから戸を締めてしまう。外はいつか雪になる。おりおり足を刻んで駈けて通る伝便の鈴の音がする。伝便と云っても余所のものには分かるまい。これは東京に輸入せられないうちに、小倉へ西洋から輸入せられている二つの風俗の一である。常磐橋の袂に円い柱が立っている。これに広告を貼り附けるのである。赤や青や黄な紙に、大きい文字だの、あらい筆使いの画だのを書いて、新らしく開けた店の広告、それから芝居見せものなどの興行の広告をするのである勿論柱はただ一本だけであって、これに張るのと、大門町の石垣に張る位より外に、広告の必要はない土地なのだから、印刷したものより書いたものの方が多い。画だっても、巴里の町で見る afficheのように気の利いたのはない。しかし兎に角広告柱があるだけはえらい。


(再現広告塔、昔はこの3倍あって下にはトイレが・・・。)

これが一つ。今一つが伝便なのである。Heinrich《ハインリヒ》 von《フォン》 Stephan《ステファン》 が警察国に生れて、巧に郵便の網を天下に布いてから、手紙の往復に不便はないはずではあるが、それは日を以て算し月を以て算する用弁の事である。一日の間の時を以て算する用弁を達するには、郵便は間に合わない。Rendez-vous をしたって、明日何処で逢おうなら、郵便で用が足る。しかし性急な変で、今晩何処で逢おうとなっては、郵便は駄目である。そんな時に電報を打つ人もあるかも知れない。これは少し牛刀鶏を割く嫌がある。その上厳めしい配達の為方が殺風景である。そういう時には走使が欲しいに違ない。会杜の徽章の附いた帽を被って、辻々に立っていて、手紙を市内へ届けることでも、途中で買って邪魔になるものを自宅へ持って帰らせる事でも、何でも受け合うのが伝便である。手紙や品物と引換に、会社の印の据わっている紙切をくれる。存外間違はないのである。小倉で伝便と云っているのが、この走使である。伝便の講釈がつい長くなった。小倉の雪の夜に、戸の外の静かな時、その伝便の鈴の音がちりん、ちりん、ちりん、ちりんと急調に聞えるのである。それから優しい女の声で「かりかあかりか、どっこいさのさ」と、節を附けて呼んで通るのが聞える。植物採集に持って行くような、ブリキの入物に花櫚糖を入れて肩に掛けて、小提灯を持って売って歩くのである。伝便や花櫚糖売は、いつの時侯にも来るのであるが、夏は辻占売なんぞの方が耳に附いて、伝便の鈴の音、花櫚糖売の女の声は気に留まらないのである。こんな晩には置炬燵をする人もあろう。しかし実はそれ程寒くはない。翌朝手水鉢に氷が張っている。この氷が二日より長く続いて張ることは先ず少い。遅くも三日目には風が変る。雪も氷も融けてしまうのである。


(昭和の香りがするがコインランドリー)

PS。。。
という訳で
かりんとうを食べる時には
「かりかあかりか、どっこいさのさ」

つぶやいてから食べることにしようと思う
これで終わっていいかしら
これでいいのだ



(おにいちゃん・・・これでいいの?)