cadenza

にっき。

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2017-03-20 20:17:14 | コンサート
この前新国立劇場ドニゼッティの「ルチア」に行った。
新演出だそうで、どんな演出が採用されたのか気になってたんだけど……いやはや。

前半は素晴らしかった。まずお兄ちゃんのエンリーコの人がうまい。一つの大道具を使い回しながは話を進めていくのも良かったし、場面替えに映像を使いつつ、薄い幕で次の場面を提示するという手法は新しくはないけどきれいだった。

そしてなにより、ヒロインルチアのキャラクター設定が秀逸だった。
ルチアといえばもっとおとなしめの女性で、運命に翻弄されて自我を失う可哀想な悲劇の人という解釈で私はいつもみていたんだけど、この演出は違う。

まずルチアはズボンを履いて出てくるの。
恋人との密会のための変装ととらえることもできるし、頑固で男勝りの強い女性という設定付の強みとしても良い小道具となっていたと思う。

あたりは沈黙に閉ざされってアリア、私はいつもレチタティーヴォの後いきなり明るくなって音が転がっていく意味が全然わからなくて、これだからイタリアオペラは…って半ばうんざりしていたんだけど、このルチアが歌うと妙にしっくりくる。

ルチアは根は強い女性なんだという設定は今まで考えたことなかった。
元々弱々しく大人しい女性だからこそ、狂ってしまうのだと思ってたし、その痛々しさが涙を呼ぶのだと思っていたから。
そういう私のなかのルチア像を見事に破り去ったわけである。
だからエドガルドの誓いは強い意志と情熱をもって歌いあげられるし、お兄ちゃんとのぶつかりあいも激しい。平手打ちまでくらう。
そして絶望に対しての悲しみも強く激しい。

あーたしかになるほどって、今までもやもやしていたところが腑に落ちた感覚もあった。
このルチアならわかる、って感じが面白くてわくわくしたの。

そう一幕…二幕までは素晴らしく新しい演出だなと楽しくみていたわけです。
こういうルチアもありだな、といっときは思った。

でもね、生意気なことをいうけど、私的に三幕が最悪だった。原因ははっきりしている。

首。

ルチアの見どころである狂乱の場。
そう、お兄ちゃんに騙され好きでもない男と政略結婚をさせられた挙句、愛する恋人に責めたてられたルチアは狂って、結婚相手を刺し殺し、幻想の世界に囚われながら狂い死んでいく。
ソプラノの凄まじい超絶技巧がおかしくなった彼女の哀れさをこれでもか、と強調するあそこ。

最悪だった。
いや演奏者は素晴らしかったの。音楽も。
私が最悪だったと何度でもいいたいのが、あの首。

人によって、ちょうど良い加減っていうものは違うと思う。
あのくらい衝撃的でグロテスクな演出がちょうど良いと感じる人が多いのかもしれない。

だけど私はやりすぎだと思ったし、悪趣味だと思いました。だって不必要だもの。
なんでルチアに結婚相手の首が刺さった槍を持たせる必要があったのか、全く理解ができない。
あのルチアのキャラクターであったとしても、あれは成立しないのでは?
ただただ視覚的効果を狙っただけにみえた。
衝撃的な演出は確かに舞台映えするし、人に大きなインパクトを与えるとは思うけど、あれはない。
しかも音楽の邪魔までしている。
なんのためにフルートでなくグラスハーモニカを使ったの?新しくも正しい音楽的挑戦を、自ら台無しにする必要はなかったのではないかと、ただただ残念でならない。
首がきになりすぎて音楽どころじゃないじゃない。むなくそもわるくなるじゃない。

なんで首なの。ほんとうに。

あーあ。オペラの演出色々あるけどらここ数年多い抽象的すぎて意味不明な自己満足の世界みたいな演出は確かにどうかと思う。
でもわかりやすすぎてやりすぎる演出をするのも、違うのではないだろうか。

血まみれってだけでじゅうぶんだと思うんだー……なのにさ。
最早ヒロインに生首を晒させるといった衝撃的なことをしないと、客の関心も話題も得られない時代になってきたってことなのだろうか。
だとしたら悲しいことであるよ。

まあ首が出てきたところで、人が何にも感じないような時代に突入したってだけかもしれないけど。
それはそれでどうなんだろう。

それはそれ、これはこれって受け入れる姿勢が整いすぎている気がする。
とにかくサロメじゃないんだし、ルチアに首は無いと私は思いました。
サロメの首には意味があるでしょう。

でもあの首の意味は本当によくわからない。
あれがただインパクトだけを狙った演出だとしたら、悲しみだけにとどまらず怒りすら感じる。

私はあんなの一回でいい。
二回目はたくさん。