36℃の経年優化

日々一歩一歩自然体で成長し、経年優化を実現するための奮闘ブログ

『未知の領域』が存在するということ(その2)

2017-02-25 21:11:11 | 意識を整える


 前回は葬儀やお寺とのやりとり等、
自分自身で体験する機会が限られているが故に
「未知の領域」のまま人生を過ごしてしまうことが
たくさん存在しているのではないでしょうか?
というお話をしました。

 こういった実際にその立場に置かれて初めて、
どういうことなのか理解できる機会、
それまで頭では何となくわかったような気になっていたとしても
実際に体験してみると「未知の領域」だった、と感じるケースは
葬儀やお寺とのやりとりに限らず世の中いくらでも存在しています。

 例えば前回の雑感コーナーで触れたような天災の被災者の立場
 例えば宝くじに当たって高額な当選金を手に入れた場合
 例えば世界的に大きな注目を集めたテロで家族が死んだケース
 例えば起業をして日々商品開発や販売ルート確保、金策に走り回る
 例えば人知れず新築マンション完成直前に全室掃除をする関係者
 
などなど。
思いつくままに書いているので、ばらばらとしていますが。

  戦争や天災、テロの被害者といった事例は努力して
経験値を積むということは難しいものばかりです。
ですから、その場その場で「未知の領域」に対して歯を食いしばって
対応する必要があるのだと思います。
そしてひとたびそういったエクストリーム体験を経験したのであれば、
例えその時は極めて不幸な状況であったとしても、将来的には
貴重な経験を持った人間として生きていけると捉えることもできます。
(こういった考え方に至るまでに、
Ozakiの場合は友人が複数死亡した
阪神大震災から約15年必要でした。
ただ、父の不慮の死は震災経験があったためか、
比較的早く消化できました)


 一番上の被災者の事例にしても阪神大震災と
その他の地震では状況は全く違うと思います。
まして地震よりも津波の被害が大きかった東日本大震災では
「大きな地震の被災者」という共通項が意味をなさないほどです。
↑に書いた事例は世界中どこかで発生しており、自分たちも
そういった出来事を認識しているはずのものです。
しかしながら、実体験として未経験であれば、「未知の領域」のまま。
本当の意味でその状況を理解することはできません。

 その状態に置かれた時に
 
 どんな心境になるのか、
 どういう考え方、悩みが生じるのか、
 具体的にどういった支援が必要なのか、

想像はできてもそれが的外れであることも当然あり得るわけです。
頭でわかったつもりになっていたとしても
現実問題としてどのような状況になっているか、
はっきりと認識できていないことは無限に存在するということ、
この事実は謙虚になって頭の片隅に置いておく必要がありそうですね。


 インターネットの広告欄は過去のクリック履歴や検索履歴を基に
自分の関心事項の周辺情報しか表示されませんが、新聞広告はそういった
バイアスのかかっていない情報も多々含まれています。
例えば、お墓のセールスや老人ホームの案内などは
Ozakiの場合、父の死まで自分が受け取っていたことすら知りませんでした。
今のネット中心社会で自分でも気づかないうちに「未知の領域」を
意識しないまま暮らしている、ということになっていないでしょうか?

 起業であるとか、他業種(お寺等も)の日常であるとか、
普段まったく興味がない、そもそも存在すら認識していないような世界
で普段過ごしている方との交流は自力で「未知の領域」の未知度合を
下げられるはず。
 普段から情報感度を上げるだけでも「未知の領域」を少しずつ減らす、
ということはできます。
また常に情報を集め続けるという姿勢を維持していれば、
次々に新しい情報が入ってくるわけで、
どれだけ情報を集めてもなお知らない世界が存在すること、を
常に意識するという大事なポイントを忘れずにいられるのかもしれませんね。


 特殊な事例も含め「未知の領域」が存在すること、
どんなに経験を積んでも理解しえない「未知の領域」が残ること、
これを理解した上で「未知の領域」に迫る心構えをしておくとよいのでは?
というOzakiの考え方をお伝えしたシリーズでした。

『未知の領域』が存在するということ(その1)

2017-02-18 17:22:23 | 意識を整える


 父親の葬儀や納骨の手続きをやってみて、

 世の中にはいかに自分の知らないことが多いか、
 特定の業界の日常を自分自身無視して生きてきて来たか、
 実際にある立場、経験を積まなければわからないことがあるのか、

といった点を深く、考えさせられました。


 日本人の場合お葬式、納骨を仏教に基づいて行うのが多数派だと思います。
その場合、当然ながらお寺にお願いする必要があるのですが、
では具体的にお寺には何を依頼することになるでしょうか?
そして、その依頼に対してどの程度お金がかかるものでしょうか?

 お葬式や49日といった儀式の名前や概念はある程度理解していた
つもりのOzakiではありましたが、住職がそのためにどのような準備をし、
遺族がどのような依頼や準備をする必要があるのか、
恥ずかしながら今回の事態に至るまで全く認識していませんでした。

 もう一歩踏み込んで言えば、今回一通り、故人を送るという
プロセスを体験したわけですが、お寺が経済的、物理的に
どのように成り立っているのか、
住職やお寺の関係者がどのような日常を過ごしているのか、
についてはまだまだ分からないことが多いな、というのが
住職と何度かお話をしてみての素直な感想です。

 一口に仏教とまとめていますが、
おそらくは宗派によっても細かな違いが多々あるはずです。
最も初歩的なところで言えば、
Ozaki自身今回お世話になったお寺が何宗の何派であるのかすら
知りませんでした。
宗派というものがざっと13もあり、○○宗という中にも
細かく派が分かれているらしいです。

 大多数の日本人は何となく仏教徒として生活されていると思いますが、
仏教の宗派と開祖をなんとなく日本史の時間にやったような…、
というのが多数派ではないかと想像しております。

このメルマガの読者の皆様も実家がお寺です、という方を除けば
よほど何か事情がない限り、
 
 各宗派の違い
 住職の日々の暮らし、
 お寺における一年間のさまざまな行事の流れ、

といったものを
本当に理解し、日常生活の中で意識している方は
いらっしゃらないのではないでしょうか?


 数十年生きていれば、曾祖父母や祖父母がお亡くなりになった際等、
何度か御通夜やお葬式にはご出席されているとは思いますが、
ただ出席するのと、自分で取り仕切るのとではまた世界が違うように
思います。

 いざ自分の両親等が亡くなってご自身でお寺にお願いしてはじめて
これまで全く知らなかった「未知の領域」が存在していることを認識し、
その時点で未知との遭遇を経験することになるのだと感じます。



 こうした事例はおそらくお寺やお葬式関連だけではないでしょう。
読者の皆様にもさまざまな日常があるかと思います。
ただ、その日常の範囲内で起こることは思っている以上に
「閉じた」世界の中でまとまってしまってはいませんか?

 そうは言っても毎日いろいろなことが起こって大変だよ、
 あっちもこっちもトラブルだらけで波乱万丈なんだ、
 人付き合いの幅は広いから、「閉じた」世界にとどまってなんかいないよ


とおっしゃる方もおられるかもしれませんね。

人それぞれ活動の範囲も人脈も異なるので、
一概には言えないと思いますが、
それでも世の中にはこれまでの数十年自分たちが全く知らずに、
場合によっては存在すら認識していないまま生きてきているような
「未知の領域」というものがたくさん転がっているように思います。


(次回に続けます)

水が流れ出さないから『死の海』になる

2017-02-11 16:58:29 | 意識を整える


 みなさんは中東にある死海をご存知でしょうか?
英語名Dead sea、その名の通りほとんど生物が生存していない湖です。
(英名、和名とも「海」ですが、実際には海の一部ではなく湖です)
死海と聞くと水面にぷかぷか人が浮きながら
新聞や雑誌を読んでいる写真を思い浮かべる方もいらっしゃるかも
しれませんね。


 この死海、生物が生存できないのも人間が浮かぶのも
普通の海に比べて相当濃度の高い塩分が原因です。
なめるとしょっぱく感じる海の水が塩分濃度約3%なのに対し、
死海の塩分濃度は30%程度とのこと。
そのため生物は生きられませんし、湖水の密度が高いため人が浮かびます。


 さて、ではこの死海、なぜこんなに塩分濃度が高いのでしょうか?

それはこの死海が海面よりも400メートル以上低く、水がここから先に
流れ出ていかず、水分は太陽の光にさらされて蒸発する一方だからです。
通常の湖では流れ込んでくる水量と出ていく水量が均衡しているのに対し、
死海では流れ込んでくる水量と蒸発する水量が均衡しているわけです。
つまり、水が流れ出ず水に含まれる塩分が凝縮され、
生命が住めない文字通り「死の海」になってしまっている
ということになりますね。



 この死海の状況は人間にも当てはまりそうです。
 
 たくさんお金をため込んでも、誰のためにも使わない
 読書をしても頭の中にだけとどめておいて実際に活用しない
 役に立つノウハウを教えてもらっても周りの人に教えない

といった事例はまさに水が流れ込むだけ流れ込み、外に流れ出ない状況。
お金も知識もノウハウも実際に使ってナンボなのだと思います。
使わずに自分だけのものにしておくといずれは自分自身が誰も近寄らない
「死の海」になってしまう危険性すら感じさせますね。


 自分に入ってきたものはお金であれ、情報であれ、ノウハウであれ、
必要としている人にどんどん出してみるのがよいのだと思います。
そうすることによって、助けた相手からはなんらか御礼や別の情報、
人脈が提供され、自分自身の環境を充実させることにつながります。


 自分自身を「死の海」にせず、魚や水鳥が集まる豊かな湖になるために、

 お金を頂いたらお金を使う
 教えてもらったら教える
 人を紹介してもらったら紹介する

などなど、「水を流れ出す」ことを意識してはいかがでしょうか?


人は皆十一面観音(その2)

2017-02-04 16:26:27 | 意識を整える
 
 先週は人は皆、多面性を持っていますよ、
そう簡単に一人の人を

 「あの人はこういう人だよね」

と結論づけられないですよね、という話でした。

 Ozakiなりに自分が持つ十一の面を紹介しましたが、
皆さんも

 そういえばこんなこともやっているな、
 昔はあんなこともやっていたな
 こちらのグループの人から見ると職場とは違って見えるだろうな

と、少しばかり想像されたのではないでしょうか?
普段自分がどのような属性を持っているか、について
あまり考えることはないと思います。
しかしながら、皆さんが一つの捉え方しかできない、
そんな生き方をしてきていないのは間違いありません。

 そう考えると、自分以外の人にも当然の事ながら
いろいろな性質があり、属性があり、考え方があるわけです。
ですので、短絡的な人物像の決めつけというのは無理がある、
Ozakiはそう感じます。


 その一方で、他人が自分を見た時にどのように感じるか、に
少し思いを巡らせてみましょう。
既に述べた通り、一人の人間の人となりは
そう簡単に捉えられるものではないのですが、
往々にして、人は第一印象で

 「あの人はこういう人だよね」

と決めつけがちです。
これは↑でも書いた通り意識しなければ読者のみなさんも
陥りがちな罠ではないかと感じます。


 具体的な事例を言えば、

 背が高く、ハーフ風の顔立ちで
 有名な海外の大学を出ていることになっており
 落ち着いたしっかりしたしゃべり方をする

という人と初対面で一時間程度話をした場合、
この人はコンサルタントとして有能な人なのかもしれないなぁ、
という印象を抱くに違いありません(苦笑)

 
 中身が伴っているのか、
 どういった分野が専門なのか、
 具体的な強みはなんなのか、
 発言の背景にはどんな実体験があるのか
 人間として間違ったことをしていないか

といった点についてはじっくりと付き合う中で
見極めざるを得ないのです。

 しかしながら、人間にとって第一印象は極めて強く将来に影響します。
実際には十一の顔があったとしても最初の一つの顔が
後々までその人の「代表的な顔」として記憶されるわけです。
場合によっては、本来のその人とは全く違った姿であっても、
その人のイメージはそういうものだ、という先入観が
出来上がってしまう、そんな事態が発生してもおかしくありません。


 
 つまり、人は皆十一面観音状態であることは間違いないのですが、
他人から一度に、特に最初に見える顔は実はとっても大事なのです。

 初対面で

「この人は!」

と思わせる、そんな顔を見せることができなければ、
いくら中身が素晴らしくとも
他の十の顔、中身を見てもらうところまでたどりつきません。
だからこそ

 「人は見た目が9割」

といったタイトルの本が売れるわけですし、

 「コミュニケーションの55%は視覚情報」

という法則も人口に膾炙するのでしょう。


 人を見る時には第一印象に振り回され過ぎないよう
気を付けるのと同時に、
自分が他人から見られるときには第一印象もしっかりと意識して
相手の方の記憶に残るよう心がける必要がある。
異なる二つの立場から十一面観音を意識することが
大事なのではないか、とOzakiは考えています。