前回は葬儀やお寺とのやりとり等、
自分自身で体験する機会が限られているが故に
「未知の領域」のまま人生を過ごしてしまうことが
たくさん存在しているのではないでしょうか?
というお話をしました。
こういった実際にその立場に置かれて初めて、
どういうことなのか理解できる機会、
それまで頭では何となくわかったような気になっていたとしても
実際に体験してみると「未知の領域」だった、と感じるケースは
葬儀やお寺とのやりとりに限らず世の中いくらでも存在しています。
例えば前回の雑感コーナーで触れたような天災の被災者の立場
例えば宝くじに当たって高額な当選金を手に入れた場合
例えば世界的に大きな注目を集めたテロで家族が死んだケース
例えば起業をして日々商品開発や販売ルート確保、金策に走り回る
例えば人知れず新築マンション完成直前に全室掃除をする関係者
などなど。
思いつくままに書いているので、ばらばらとしていますが。
戦争や天災、テロの被害者といった事例は努力して
経験値を積むということは難しいものばかりです。
ですから、その場その場で「未知の領域」に対して歯を食いしばって
対応する必要があるのだと思います。
そしてひとたびそういったエクストリーム体験を経験したのであれば、
例えその時は極めて不幸な状況であったとしても、将来的には
貴重な経験を持った人間として生きていけると捉えることもできます。
(こういった考え方に至るまでに、
Ozakiの場合は友人が複数死亡した
阪神大震災から約15年必要でした。
ただ、父の不慮の死は震災経験があったためか、
比較的早く消化できました)
一番上の被災者の事例にしても阪神大震災と
その他の地震では状況は全く違うと思います。
まして地震よりも津波の被害が大きかった東日本大震災では
「大きな地震の被災者」という共通項が意味をなさないほどです。
↑に書いた事例は世界中どこかで発生しており、自分たちも
そういった出来事を認識しているはずのものです。
しかしながら、実体験として未経験であれば、「未知の領域」のまま。
本当の意味でその状況を理解することはできません。
その状態に置かれた時に
どんな心境になるのか、
どういう考え方、悩みが生じるのか、
具体的にどういった支援が必要なのか、
想像はできてもそれが的外れであることも当然あり得るわけです。
頭でわかったつもりになっていたとしても
現実問題としてどのような状況になっているか、
はっきりと認識できていないことは無限に存在するということ、
この事実は謙虚になって頭の片隅に置いておく必要がありそうですね。
インターネットの広告欄は過去のクリック履歴や検索履歴を基に
自分の関心事項の周辺情報しか表示されませんが、新聞広告はそういった
バイアスのかかっていない情報も多々含まれています。
例えば、お墓のセールスや老人ホームの案内などは
Ozakiの場合、父の死まで自分が受け取っていたことすら知りませんでした。
今のネット中心社会で自分でも気づかないうちに「未知の領域」を
意識しないまま暮らしている、ということになっていないでしょうか?
起業であるとか、他業種(お寺等も)の日常であるとか、
普段まったく興味がない、そもそも存在すら認識していないような世界
で普段過ごしている方との交流は自力で「未知の領域」の未知度合を
下げられるはず。
普段から情報感度を上げるだけでも「未知の領域」を少しずつ減らす、
ということはできます。
また常に情報を集め続けるという姿勢を維持していれば、
次々に新しい情報が入ってくるわけで、
どれだけ情報を集めてもなお知らない世界が存在すること、を
常に意識するという大事なポイントを忘れずにいられるのかもしれませんね。
特殊な事例も含め「未知の領域」が存在すること、
どんなに経験を積んでも理解しえない「未知の領域」が残ること、
これを理解した上で「未知の領域」に迫る心構えをしておくとよいのでは?
というOzakiの考え方をお伝えしたシリーズでした。