スケッチブック

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お風呂

2015-01-25 00:50:53 | 生活




最新のペロヤン2世

















今日はペロヤンのことから離れて「お風呂」につていお話したい。自宅は建築以来十数年経っている。
だから、最新の設備が備わっているわけではないだろう。だが、私は我が家のお風呂に入るたびに
湯船につかりながら両手を合わせる。決して神仏を意識しているわけではない。自然とそうなるのだ。

心の中で、「今日も一日無事に過ごすことが出来ました。そればかりかこんな暖かいお湯に浸かることが
できる。なんと幸せなのだろう」というような気持ちだ。

ほんの70数年前の私は、この時間帯は風呂焚き係りでカマドの前でゴホンゴホンと咳をしながら、
竹筒を吹いていた。先端に穴があって空気を吹き付ける仕組みとなっている。薪を放り込み竹筒を吹く。
10にも届かない子供が風呂焚き番なのだ。丁稚小僧に出されているわけではない。自宅でのことである。

一番風呂は父、二番風呂は兄、三番風呂は母等々と順番が決まっていた。私は大抵最後に入った。
当時の風呂桶は「五右衛門風呂」と言って、鉄製で底がU字型になっていて、火が直接当たる場所を
避けるために、木製の「スノコ」を敷いていた。木製だから厄介なことにプカプカ浮かんでくるのだ。
うっかりドボンと入ろうものなら、炎に熱せられた鉄の分部に足が届く。熱くてあつくてとても我慢できない。
飛び出して水をかけて冷やしてからもう一度挑戦する。木製のスノコをゆっくりと沈めるのだ。
うまくゆけば、それの上でアクラをかいて体を全部沈めることが出来る。
当時、入浴は私にとって「大仕事」であった。

今はどうだ。夕食後に、壁に付いたボタンを一つ押してトントントンと二階に上がり着替えを持って
降りてくる。用を足したり歯を磨いたりしてから湯殿に入る。暖房が効いていて裸でも寒さを感じない。
温度は一定に保たれて、湯量も自動で適度に注がれる。熱すぎて湯加減をする必要などない。
手を合わせたくなるのは至極当然だとお分かりいただけたでしょう。

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