静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

色心不二

2009-12-15 21:20:34 | Weblog
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仏教に色心不二(しきしんふに)という言葉があります。
『仏教語大辞典』によれば、「物(仏教では色という)と、心とは別々のものではなく、一体不二であるということ」と説明されいています。

昨日、見ましたとおり、「物質」から成り立っているはずのこの世界を、細かく細かく観察していって、原子、さらに極微の素粒子の世界にまで入り込むと、そこにはもう常識的な「物質」像、というものが成り立たなくなっているのです。

常識的な「物質」像とは、何かパチンコ玉のような、中身のギッシリ詰まった目に見えない小さな粒(原子)の寄せ集まり、といったイメージではないかと思いますが、原子よりさらに小さい、素粒子というものになると、私たちが普通考える「粒」というものではなくなっているのです。

それは、私たちが「観察」すれば、粒のような姿としてあらわれますが、「観察」していない時は、粒ではなく「波」のような、「ある状態」としか言いようのないものに変わってしまう。
どうしてそうなるのか?それはだれにも分かっていません。

ただ、言えるのは、この「現実世界」を成り立たせている究極の物質は、私たちが「観察する」、あるいは「観察しない」という心のはたらきによって、その状態が決まるということです。

ここから、「心」と「物質」は、同じものではないけれど、かといって別物でもないという関係にある、という結論を導き出してもよいのではないでしょうか。それこそ、仏教で教える「色心不二」に近い世界観ともいえそうです。

イメージできない、よく分からない、と言われる方もあるでしょうから、夢を見ている時のことを考えてみましょう。

そこでもやはり私は、「物質」で出来た世界の中に居ます。
でも、それが夢の中であるならば、物質に見えたものも実は、自分の意識が生み出したものに過ぎません。心と物質の区別をつけても、そっくりそのまま「夢」なのですから、本来は区別のない「不二」のものです。

これは一つの思考実験ですが、
夢の中でサイコロを壷に入れ、伏せたとします。壷を開けば、サイの目は決まっているでしょう。しかし、壷を開くまで、サイの目はどうなっているのでしょうか?あくまで夢の中での話です。

壷を開けるまで、つまり「観察」される前は、壷の中は何ものでもなく、壷を開け「観察」した瞬間、サイが現れ、サイの目も決まるのではないでしょうか?

何か、素粒子の性質と通じるものを感じないでしょうか?

さて、

以前から、私たちが生きている「現実」も夢みたいなものだということは述べてきました。そんな馬鹿な、と思った人もあるでしょうし、それも一つの考え方と、聞き流した人もあったかと思います。

しかし、ミクロの世界を扱った量子力学の世界では、今見てきたように、心と物質を別個のものとみなす、常識的な物質観、世界観が通用しなくなっているのです。

「物と心とは別々のものではなく、一体不二であるということ」
つまり色心不二ということは、現実は、現実という名の夢ということを意味しているのかもしれない。だとすると(つづく)


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