静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

唯物論への疑問(5) 行為の責任はどこに?

2009-11-29 17:29:44 | Weblog
唯物論者の説くように、人間も突き詰めれば「物質」の集合体で、「心」という一見、物質とは異なる現象も、あくまで「脳」という物質から生じた、とするならば、どういう問題が起きるのか。それについて書いています。

肉体は絶えず新陳代謝を繰り返しているように、昨日の自分と、今日の自分とは、物質的には微妙に変わっているはずです。昨日書きましたように、7年もたてば、ほぼ完全に入れ替わっているですが、それでもなおその肉体という物質が「私」と呼ばれ続けるのはなぜでしょうか?
私はどこにいるのでしょう。

私の住んでいる近くに、神通川という川が流れております。
「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と言われるように、神通川は私が生まれる前から神通川と呼ばれ、これから先もそう呼ばれ続けることでしょう。しかし、神通川自体はずっと前から滔々と流れているので、流れる水自身は、当然、刻々と入れ替わっています。

つまり、昨日、神通川と呼ばれた水の流れと、今日、神通川と呼ばれる水の流れと、明日、神通川と呼ばれる水の流れとは、まったく別物であることはお分かりいただけると思います。

なのに、同じ「神通川」と呼ばれており、だれもそこに不審を抱くことはありません。不審を抱くほうが、変だと思われるでしょう。

そこから、
「私」というのもそういうことなのだ。物質が入れ替わっても「山田太郎」は「山田太郎」。不審を持つほうがおかしいのだよ。という意見も、一部とはいえあることはあります。

ただ「神通川」と違って、「私」はややこしいのです。

もし、変わらないのは私に付けられた名前だけであって、実体は変わっているとするならば、行為の責任はどうなるのか?という問題が出てきます。

先日、英国女性を殺害し、整形で顔を変えて逃走していた男が逮捕されましたが、いくら顔を変えても、殺害した本人とみなされたからでしょう。でも男が、顔だけでなく、肉体全部を移植手術していたらどうなるのか?唯物論者は、それでも男を犯人と認定する何らかの根拠を示さねばならなくなるでしょう。

現在、殺人罪が時効となるのは15年だそうですが、15年間逃げおおせれば、移植手術などしなくても物質的には別物です。せっかく犯人を捕らえても、「ああ、あれは15年前のオレがやったことで、その時の≪オレ≫は、今のこの肉体のどこにも残っていないのサ。裁判にかけるなら15年前のオレに言ってくれ」と開き直られた場合、どうするのでしょう?

現実問題としては、
「ふざんけんな!バシッ!」と一発、ぶん殴っておしまいでしょうが、あくまで論理的に考えるならば、私というものはどうなのか。唯物論の立場に立つと、歴史や社会などグローバルな視点で語るには都合がいいかもしれませんが、こと「私」の問題に関しては、現実と折り合いをつけるのに無理がかかるように思います。

それでも唯物論の立場を崩さず、因果の道理など真理とはいえないと言い張るとするなら、それは合理的精神からというよりも意地と我慢で言っているような気がします。
(つづく)

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