久々の活弁であった。私達夫婦にとって、公演可能な映画の中でも
最も難しい映画である。何しろ場面の展開が早い上、登場人物が実に
多い。自分たちで脚本を作るのだから登場人物を少なくしようと思えば
簡単に出来る。そうなると映像と映像の間は音楽で繋ぐか解説で繋ぐ
ことになる。そうすると映画自体が単調なものになってしまうような気が
して、次第に登場人物が増え台詞も増えていった。
息を繋ぐ暇もないくらい矢継ぎ早に語らなければならず、過去には
20数分間がとても長く感じられていた。しかし、続けていると言う
ことは大したもので、五回ほどの練習で元の状態に戻れるから不思議
である。あの言い回しの難しい台詞も大半は覚えてしまった。
台詞を覚えると画面を見る余裕も生まれてくる。そうなると画面の
移り変わりに的確に付いていける。と言うようなわけで、音楽担当の
Nさんに言わせれば「最初聞いた時よりは良くなったよ」とのこと。
ずっと、そばで聞いていていてくれた人からの評価はうれしい。
私達夫婦間では一生懸命で自分たちの語りを評価する余裕などない。
後になって後悔することばかりである。素人芸だから許されることで
あって、お金を頂いての公演となるとこうはいかない。
その点、師匠の佐々木さんは、さすがと言う他はない。やはりプロ
とアマチュアの違いだ。
さて、この日の夕方には「王子ヶ岳 夕日のしらべ」と称する行事
があった。例年であれば秋に行う行事である。補助金を受け児島商工
会議所が主催団体になって行っている。いずれ補助金なしでも地元の
行事として続けていくべき行事ではなかろうか。
その点に於いて今回の試みは、それを見越したものであった。
演奏者も地元周辺の人で何とかという考えは正しい。今後は隠れた
音楽家を捜していく必要もあるのではなかろうか。
さて、開催場所は王子ヶ岳の山頂、ここには東屋が建っている。
山頂を境に児島と玉野に分かれている。ロケーションは最高である。
ここからは児島湾が一望できる。残念ながら瀬戸大橋の一部は鷲羽山
のある半島に隠れている。
しかし、大きく湾曲した児島の街が海を囲み、南の方に目を転じる
と多島美の素晴らしさと四国方面までが見渡せる景色が素晴らしい。
実は夕日の鑑賞スポットなのだが、この時期なかなか美しい夕日を
見ることが出来ない。この日も夕日は厚い雲の中に消えてしまった。
夕日を撮影しようと、このこの日を待っていた人にとっては残念な
事になってしまった。昨年もわずかながらの夕焼けを見たに過ぎない。
この地が日本夕日百景の一つだと言われても、なかなか素晴らしい
夕日に出会うことは少ない。
さて、当日の演奏は4組、作陽音大の生徒さん達のようなユニーク
な演奏を聴かせてくれるグループもあれば、瑜加太鼓のような勇壮な
太鼓の音で山頂に揺るがせるグループもあって変化に富んでいた。
後の二グループは地元のお琴のグループと大月氏率いる岡山の和楽器
の演奏グループであった。
今年は夕日の鑑賞を期待できないこともあってか、あるいは小学校
の運動会で疲れたのか山頂を訪れる人は昨年より少なかった。また、
人々の好みも聞く耳も肥えて来たのか、ありきたりの演奏では受けなく
なったように感じられ、今後の検討を要することではなかろうか。
良いものには素直に感動する。その点、演奏者任せの演出では限界
があるように思われる。何事に寄らず鑑賞者を感動させるような工夫
が必要なのではなかろうか。
ともあれ山頂から眺める景色だけは演出なしでも感動できる。やはり
自然は偉大だと言う他はない。
わざわざ、行を起こしてまでニュースとして取り上げるほどのこと
ではないので続きに書いておこう。北朝鮮の挑発的な核実験のニュース
に付いてである。実に子供じみたことをする国だと思う。
人工衛星打ち上げと称しての長距離ミサイルの実験に続いて核実験。
挑発行為はどこまでエスカレートするのであろうか。また、ロシアや
中国はいつまでこの国の所行をかばい続けるのであろうか。
どこの国でも何も変わらないところに問題があるように思われる。
それぞれの指導者達の発想が実に貧困である。時代は温暖化問題や
経済問題で大きく転換すべき時である。それなのに旧態依然たるもの
の考え方では何も変わるまい。愚かだとしか言いようがない。
。
最も難しい映画である。何しろ場面の展開が早い上、登場人物が実に
多い。自分たちで脚本を作るのだから登場人物を少なくしようと思えば
簡単に出来る。そうなると映像と映像の間は音楽で繋ぐか解説で繋ぐ
ことになる。そうすると映画自体が単調なものになってしまうような気が
して、次第に登場人物が増え台詞も増えていった。
息を繋ぐ暇もないくらい矢継ぎ早に語らなければならず、過去には
20数分間がとても長く感じられていた。しかし、続けていると言う
ことは大したもので、五回ほどの練習で元の状態に戻れるから不思議
である。あの言い回しの難しい台詞も大半は覚えてしまった。
台詞を覚えると画面を見る余裕も生まれてくる。そうなると画面の
移り変わりに的確に付いていける。と言うようなわけで、音楽担当の
Nさんに言わせれば「最初聞いた時よりは良くなったよ」とのこと。
ずっと、そばで聞いていていてくれた人からの評価はうれしい。
私達夫婦間では一生懸命で自分たちの語りを評価する余裕などない。
後になって後悔することばかりである。素人芸だから許されることで
あって、お金を頂いての公演となるとこうはいかない。
その点、師匠の佐々木さんは、さすがと言う他はない。やはりプロ
とアマチュアの違いだ。
さて、この日の夕方には「王子ヶ岳 夕日のしらべ」と称する行事
があった。例年であれば秋に行う行事である。補助金を受け児島商工
会議所が主催団体になって行っている。いずれ補助金なしでも地元の
行事として続けていくべき行事ではなかろうか。
その点に於いて今回の試みは、それを見越したものであった。
演奏者も地元周辺の人で何とかという考えは正しい。今後は隠れた
音楽家を捜していく必要もあるのではなかろうか。
さて、開催場所は王子ヶ岳の山頂、ここには東屋が建っている。
山頂を境に児島と玉野に分かれている。ロケーションは最高である。
ここからは児島湾が一望できる。残念ながら瀬戸大橋の一部は鷲羽山
のある半島に隠れている。
しかし、大きく湾曲した児島の街が海を囲み、南の方に目を転じる
と多島美の素晴らしさと四国方面までが見渡せる景色が素晴らしい。
実は夕日の鑑賞スポットなのだが、この時期なかなか美しい夕日を
見ることが出来ない。この日も夕日は厚い雲の中に消えてしまった。
夕日を撮影しようと、このこの日を待っていた人にとっては残念な
事になってしまった。昨年もわずかながらの夕焼けを見たに過ぎない。
この地が日本夕日百景の一つだと言われても、なかなか素晴らしい
夕日に出会うことは少ない。
さて、当日の演奏は4組、作陽音大の生徒さん達のようなユニーク
な演奏を聴かせてくれるグループもあれば、瑜加太鼓のような勇壮な
太鼓の音で山頂に揺るがせるグループもあって変化に富んでいた。
後の二グループは地元のお琴のグループと大月氏率いる岡山の和楽器
の演奏グループであった。
今年は夕日の鑑賞を期待できないこともあってか、あるいは小学校
の運動会で疲れたのか山頂を訪れる人は昨年より少なかった。また、
人々の好みも聞く耳も肥えて来たのか、ありきたりの演奏では受けなく
なったように感じられ、今後の検討を要することではなかろうか。
良いものには素直に感動する。その点、演奏者任せの演出では限界
があるように思われる。何事に寄らず鑑賞者を感動させるような工夫
が必要なのではなかろうか。
ともあれ山頂から眺める景色だけは演出なしでも感動できる。やはり
自然は偉大だと言う他はない。
わざわざ、行を起こしてまでニュースとして取り上げるほどのこと
ではないので続きに書いておこう。北朝鮮の挑発的な核実験のニュース
に付いてである。実に子供じみたことをする国だと思う。
人工衛星打ち上げと称しての長距離ミサイルの実験に続いて核実験。
挑発行為はどこまでエスカレートするのであろうか。また、ロシアや
中国はいつまでこの国の所行をかばい続けるのであろうか。
どこの国でも何も変わらないところに問題があるように思われる。
それぞれの指導者達の発想が実に貧困である。時代は温暖化問題や
経済問題で大きく転換すべき時である。それなのに旧態依然たるもの
の考え方では何も変わるまい。愚かだとしか言いようがない。
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