三隈 艦内神社

2015-01-15 23:30:05 | 日記
昭和十五年に「艦船部隊官衙學校等に於ける祭神奉斎に関する件」が発令されるまで、艦内神社はあくまでも慣例として存在していただけであり、それ以前は各艦の裁量に任されていたとも言える。十五年以降は艦名ゆかりの社、伊勢神宮、明治神宮等が祀られるようになる。それ以前の艦は竣工後に艦名ゆかりの地からの推薦[1]で決まる事もあった。以下最上型巡洋艦二番艦「三隈」における事例である。

 會第七五三號

  昭和十年六月五日

   大分縣畠郡町村長會長

    畠町長正七位首藤今四朗

   三隈艤装委員長海軍大佐鈴木田幸造殿

  艦内神社神殿寄贈ノ件出願

我ガ郷土ノ三隈川ニ因ミ命名セラレタル軍艦三隈ン守護神トシテ畠郡民崇敬ノ中心タル縣社大波羅神社御分神ヲ奉祀セラルル趣拜承仕リ郡民一同感激ニ堪ヘス軍艦三隈ノ武運長久ヲ祈願到居候次第ニ有之候就ヲハ此ノ感激ヲ永久ニ表明スル爲大波羅神社社殿ニ象リタル艦内神社神殿(添付面ノ通價格貳百圓)ヲ寄贈致度候條御受納ヲ得度此段出願致候

      (圜面二葉添付)

 三隈川周辺住民が期待の新鋭艦に「三隈」の名が付けられることに対する大きな期待が伺える、昭和十年という諸令則発令前の資料である。なお「三隈」はロンドン軍縮条約に対応するため重巡洋艦(一等巡洋艦)並の船体に6.1inc砲を積載し軽巡洋艦(二等巡洋艦)とするという案のもと建造された。後に主砲換装により重巡洋艦相当の艦となったものの条約失効により部類変更はなされなかった。後にその主砲砲身は大和型の副砲に流用された。「三隈」の最後はミッドウェー海戦よりの帰路において僚艦「最上」と衝突、その後米軍機動部隊艦載機の急降下爆撃を受け炎上、搭載魚雷の誘爆が致命傷となり沈没した。


一度行ってみたいです
ただ九州は遠い