我が闘争(出雲王朝総裁佐々木信夫)

第1巻(自叙伝)、第2巻(草の根裁判)、第3巻(続草の根裁判)

我が闘争(民事司法革命)

2012年09月29日 | 第7巻 本人訴訟の本質

第7巻 本人訴訟の本質

序章 本人訴訟とは、究極的には、民事訴訟における司法革命に連なる闘いである。

    国家制度を根本的に覆す革命が単なる一人では行いえず、多数の民衆が蜂起して

    為されるのと同様、民事司法革命も単に一人の行動のみでは達成できないことは云

    うまでもない。

    だが、逆説的ではあるが革命は優れた指導者による理論的実践的指導なくしては達

    成できないことも確かである。

    と同様ではないが、類似した考察として司法革命は、その先鞭をつけるという意味で

    は単なる一人からの闘いも充分に意味をなす。 

    必ずしも目的意識的ではないが、結果的に民事訴訟に於いて、その(司法革命)先鞭

    をつけたと評価されうる若干の先達は存在する。

    私にとって、それらの人々は同志である。

    本論では、俗に草の根裁判と称する私がこれまで闘い続けた本人訴訟の実践の中か

    ら理論的教訓をくみ出し民事司法革命としての本人訴訟について考察したい。

 第1章 本人訴訟の前提的理論

  本人訴訟は、法典の中に成文規定はないが、その淵源は遠くフランス革命によって確保

  された市民権の一つである。

  以下、試論的に本人訴訟の実践的、外観的考査を行う。

 (1) 本人訴訟は、訴状、答弁書、準備書面、意見書や(訂正などの)申出書、請求の趣旨

    や請求の原因等に関連する「訴えの変更申立書」、控訴状、控訴理由署、上告等申

    立書、上告等申立理由書等を全て自ら執筆・作成し、又、書証を整理検討して、必要

    なものを提出する。

    さらに、このような活動を踏まえて、およそ月一回の頻度で行われる口頭弁論期日

    (弁論準備手続等を含む)に於いて、自ら法廷に立ち弁論を行う。

 (2) 以上のような活動は、通常は、原告又は被告当事者が弁護士に代理委任して行うこ

    とが一般的である。

    しかし、本人訴訟は、自らの事件を代理人すなわち弁護士に依頼せず、全て自らの

    手で行うところに大きな特徴がある。

 (3) だから、本人訴訟は、弁護士同様、裁判所(法廷)を中心に据えて法的手続や法的

    技術を目いっぱい思う存分に駆使することを普段の活動とする。

    では、裁判所という土俵の上で法律(とりわけ訴訟手続法)を扱う訳だから、本人訴訟

    というものの本質は弁護士に代わるものか。それは否だ。

    弁護士は、法の専門家として事件を扱うが所詮代理人である。

    事件当事者が経験した(遭遇した)全てを把握して弁護するなどと云うことは至難の

    業、およそ不可能に近い。所詮は当たらずとも遠からず、客観的真実を離れた弁護

    に終始する。

    依頼者である事件当事者は、不満を抱きつつも弁護士との力関係から表向き納得す

    るしかないのが実情だろう。

    その上、何よりも多額の費用報酬を用意しなければならない。

 (4) だが、本人訴訟は全く違う。

    本人訴訟は、事件当事者である本人が訴訟の全てを行なう訳で、本人は事件の当事

    者として、事件の全容を熟知している。

    本人の事件に対する知悉度は100%、これは大きな宝であり、武器である。

    これに比して弁護士の知悉可能度は凡そ4割、余程努力しても6割だろう。

    本人訴訟では、相手方(被告又は原告)の防御や攻撃に対しては瞬時にして、打てば

    響くように対応できる。

    弁護士は、当事者からの聞き取りに基づき創造する過程を経るから、到底、打てば響

    く様な活動は所詮、望むべくもない。

    だが、本人訴訟は、当該事件について、自ら全てを経験し熟知しているから、事件内

    容を、当たらずとも遠からずのように創造する必要は全くない。だから、およそ事件の

    本質(客観的真実)に迫る可能性の度合いとスピードが全く異なる。

 (5) 確かに、法を駆使して訴訟を展開することは弁護士同様ではあるが、その活動の本

    質は異質(哲学と世界をことにする)であると考えるべきだ。

    本人訴訟の当事者は、内に秘めた闘争心を必要に迫られて否応なしに掻きたてる。

    その精神状況は、生死をかけた革命の前衛的精神、その精神の緊張と類似の精神

    活動だと言える。

    この点、弁護士は仕事請負人ではあるが、絶えず生死を背後にする闘いをする訳で

    はなく、又、する必要もない。

    だが、本人訴訟は、自ら生きるか死ぬかの真剣勝負、その求められる精神的エネル

    ギーの湧出の力は、金のためのありきたりの請負人とは天と地ほどの差がある。

    本人訴訟は、精神の深奥に打ち寄せ、砕け散る波しぶきの破壊力に晒されながら、

    自ら生き抜く力を醸成しなければならない。

    本人訴訟は、無意識のうちに萎える心、安逸を貪る怠惰に抗し、自らの精神を鼓舞

    し、精神のみずみずしさを、たえず蓄え続けることが必要であり、又、それは可能で

    ある。

    そして、苦闘の中に限りない幸せを見出し、現存する生への感謝の気持ちが生ずる。

    したがって、本人訴訟の本質は、凡そ、代理人とは異質の精神的営みを行う主体的、

    闘争的活動体であるといえる。

    本人訴訟は、のんびり、楽しみ、苦しまず、さほどの責任の追及も受けることのない、

    平和な恵まれた者とは対極に位置する。

    この活動、すなわち本人訴訟の本質は、法(訴訟法)によって武装した闘牛士であり、

    又闘牛そのものであると比喩することもできる。

    そして、本人訴訟は、苦闘の中に喜びがあり、真の幸せがある。

    だが、その為には、不断における血と汗の滲む研鑽が必要だ。

 (6) 博識的に法を知っていなくともよい。ただし、当該訴訟に関する限り、相手方代理人

    (弁護士)の力量を凌駕する力を持つことは必須の要件であると覚悟し、決意する必

     要があるが、これは決して不可能なことではない。

     何故なら、本人訴訟は、その本質の中に、それを可能にする思想・鉱脈を潜在的に

     有しているからだ。

     それは、最初の一歩で、悔しいと思って立ち上がる気持ちさえあれば、必ずその鉱

     脈・思想を掘りあて我がものにすることができ、その積み重ねによって、相手方代理

     人を凌駕する力を確保することが可能となる。

     この様な力を確立し、本人訴訟に取り組めば、これにすぐる「強力」はなく、この「強

     力」こそ、たまさかの訴訟の結果を乗り越え、いかなる権威や権力を壟断する者に

     も、普遍的に互角の戦いを経て勝利の展望を切り開くことが可能であり、保障され

     る。