5 入学前の遊び仲間
5歳。
ひとつ上の中野忠夫、阿部貢が毎日の遊び仲間。よく遊び、よくいたずらをした。
三人で近所の畑に入り、スイカやウリをもぎ取って畑の持ち主に追いかけまわされたこと
もあった。
ちびだったが、三人の中では、大将役。
遊びほうけて、夕方になると貢が決まっていじめられ役、それでも来る日も来る日もよく遊
んだ。
だが、翌年になると中野忠夫も阿部貢も一足先に小学入学、全く拍子抜けのつまらない
日々がしばらく続いた。
6 入学、転向に次ぐ転向
間もなく、義父の転勤で、阿武郡須佐町に移り、時を経ずに須佐育英小学校に入学。
敗戦前夜の食に不自由なひもじい日々が続いた。
鍋の底に付いている焦げをこさいで食べ、学校の帰り道、友達とミカン畑で落下ミカンを
よく食べた。
そんなひもじい毎日だったが、配給の大豆かすだけは、まずくて食べる気にはなれなかっ
た。
空襲もしばしばあり、勉強らしいことをした記憶は全くない。
入学後、三月も経ないで阿武郡地福小学校へ転校。
泉知久平、岩村基、江山 は、しっかり記憶に残った。
知久平は、義父の縁戚、岩村は、小学1年ですでによくできた。自宅まで遊びに行ったこ
ともあった。だが、貸した雑誌を返してくれずつまらないこととして心に残った。
江山は、2クラス中ぬきんでて勉強ができたが、木や竹の棒を振り回して手当たり次第に
人をいじめる悪癖があり、私も例外ではなく、空襲非難などの際にはよく標的にされた。
そんな学校生活の中、麻疹(はしか)が流行り、罹患した私が、病弱の妹にうつしてしまっ
た。
阿川医院にかかったが、適切な薬がなく医師もなす術がなかった。数日後には、医院か
ら帰る途中、妹は、母の背中で息を引き取った。
私が、麻疹にかかりさえしなければとの悔いの気持ち、妹は私が殺してしまったも同然と
の気持ちが、何十年も我が心をさいなんだ。