我が闘争(出雲王朝総裁佐々木信夫)

第1巻(自叙伝)、第2巻(草の根裁判)、第3巻(続草の根裁判)

4 入学前の遊び仲間

2011年07月19日 | 自叙伝(入学前の遊び仲間)

5 入学前の遊び仲間

  5歳。

  ひとつ上の中野忠夫、阿部貢が毎日の遊び仲間。よく遊び、よくいたずらをした。

  三人で近所の畑に入り、スイカやウリをもぎ取って畑の持ち主に追いかけまわされたこと

  もあった。

  ちびだったが、三人の中では、大将役。

  遊びほうけて、夕方になると貢が決まっていじめられ役、それでも来る日も来る日もよく遊

  んだ。

  だが、翌年になると中野忠夫も阿部貢も一足先に小学入学、全く拍子抜けのつまらない

  日々がしばらく続いた。

 

6 入学、転向に次ぐ転向

  間もなく、義父の転勤で、阿武郡須佐町に移り、時を経ずに須佐育英小学校に入学。

  敗戦前夜の食に不自由なひもじい日々が続いた。

  鍋の底に付いている焦げをこさいで食べ、学校の帰り道、友達とミカン畑で落下ミカンを

  よく食べた。

  そんなひもじい毎日だったが、配給の大豆かすだけは、まずくて食べる気にはなれなかっ

  た。

  空襲もしばしばあり、勉強らしいことをした記憶は全くない。

  入学後、三月も経ないで阿武郡地福小学校へ転校。

  泉知久平、岩村基、江山  は、しっかり記憶に残った。

  知久平は、義父の縁戚、岩村は、小学1年ですでによくできた。自宅まで遊びに行ったこ

  ともあった。だが、貸した雑誌を返してくれずつまらないこととして心に残った。

  江山は、2クラス中ぬきんでて勉強ができたが、木や竹の棒を振り回して手当たり次第に

  人をいじめる悪癖があり、私も例外ではなく、空襲非難などの際にはよく標的にされた。

  そんな学校生活の中、麻疹(はしか)が流行り、罹患した私が、病弱の妹にうつしてしまっ

  た。

  阿川医院にかかったが、適切な薬がなく医師もなす術がなかった。数日後には、医院か

  ら帰る途中、妹は、母の背中で息を引き取った。

  私が、麻疹にかかりさえしなければとの悔いの気持ち、妹は私が殺してしまったも同然と

  の気持ちが、何十年も我が心をさいなんだ。