所在地:栃木県日光市足尾地区
■ブログ内足尾銅山関連URI 足尾銅山観光 / 本山鉱山神社 / 通洞鉱山神社■
東洋一の銅山とよばれた足尾銅山。ここには日本の近代化産業遺産が数多く残る。
明治新政府の富国強兵、殖産興業を推し進める中、明治10年(1877年)、
古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手したのに始まり、最新の技術や
設備によって足尾銅山は急速な発展をとげた。
しかし、その発展の光の陰に、大きな陰を生み出した。日本の公害の起点ともいわれる
足尾鉱毒事件である。渡良瀬川の魚の大量死に始まり、農林にも大きな被害を及ぼした。
田中正造が立ち上がり鉱業停止要求をするも、政府は鉱毒対策を行わず言論封殺を行った。
鉱毒被害地の農民が大挙して東京に押出し(東京への陳情)を行い世論が動き出すと、
古河鉱業側に予防装置を付けるように指示が出たが、殆ど効果がでなかったため、
再び反対運動に発展して、押出しが決行された。川俣事件では多くの逮捕者が出て、
言論弾圧が行われた。その後も、明治天皇に直訴状を提出しようとして弾圧され、
川俣事件公判の際には、あくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役している。
渡良瀬川下流には、渡良瀬遊水地が造られた。現在でも遊水地の土壌には銅など
鉱毒物質が多く含まれているという。田中正造死後も、住民と企業で昭和後期まで続き、
近代産業の陰は長引いたのである。しかし、田中正造の死をも恐れぬ行動によって、
後に起きてしまう日本各地の公害の被害者に対して光を与えたともいえる。
また、明治40年(1907年)には、労働者の不満から暴動が起った足尾暴動事件があり、
労働者側の権利を尊重する社会主義への動きだった。
足尾銅山の歴史を振り返ると、帝国主義から社会主義・民主主義へ遷り変わる
大きな布石であったように感じる。足尾銅山は、栄枯盛衰の歴史を伝える重要な遺産だ。
わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線「足尾駅」。トロッコわたらせ渓谷号も走る。
足尾一の賑わいどころであった「上間藤」
江戸期嘉永6年(1853年)に二宮尊徳が足尾郷を廻村したときの間藤村は、僅か19戸90人が
静かに農耕を営んでいたが、明治10年(1877年)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手し、
近代の技術と設備の導入によって飛躍的な発展を遂げるに至り、全国から坑夫達や商人などが
集まるところになり、足尾隋一の商業を中心とした最も賑わう街並みに変貌した。
やがて足尾銅山は「鉱都」と称され、最盛期の大正5年(1916年)の人口は38428人で
宇都宮市に次ぐ市制が期待されていたが潰えた。その時の上間藤の人口は不明であるが、
昭和10年(1935年)は330戸1488人を有していた。同45年188戸591人、現在(平成11年10月)
166戸359人となった。昔日の夢は泡沫(うたかた)となったが道筋は往時のままである。
日光市指定史跡「間藤水力発電所跡」
古河財閥の「古河掛水倶楽部」は、迎賓館として建設されたのに始まる。
日本初の民間電話「銅山電話資料館」などが公開されています。
内部の一般公開は、土曜日・日曜日・祝祭日です。
旧足尾鉱業所事務所付属倉庫
足尾銅山社宅 愛宕下
江戸時代の愛宕下は赤倉村字「坂詰」という地名で農家が3戸あったが、明治20年(1887年)に
松木から起った山火事で消失し、以後草っ原となっていた。その後、足尾銅山の社宅地として
開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人の
飯場が建てられたが、工事が終わると撤去された。次いで同40年代になると対岸の製錬所の
社宅14棟(1棟7戸建)が建ち「赤長屋」と呼ばれるようになり、大正10年(1921年)に久蔵の
社宅がこの地に移されるなどの変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから
「愛宕下」と呼ばれ、昭和31年(1959年)には18世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により
徐々に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、足尾製錬株式会社設立時
(昭和62年4月1日)49世帯127人、平成9年(1997年)で13世帯24人が住むのみとなった。
煙害で木が生えず足尾を象徴する山だ。現在は改善に向けて植林が行われている。
近辺には足尾砂防ダムがあり、銅親水公園になっている。
日光市指定文化財「古河橋」
明治中期までに架設された道路用鉄橋として、原位置に現存する極めて貴重な橋で、
足尾銅山の誇れる産業遺産である。明治24年には、日本初の実用化した電気鉄道
(単線)を敷設していた。平成5年に「新古河橋」が下流側に架設されたので、
古河橋は歩道橋として残された。現在は渡ることは禁止である。
足尾銅山盆踊り「直利音頭」は、大正13年(1924)に赤倉町務会が「八木節」を
始めたことが切っ掛けだと云われ、足尾銅山労働大協議(大正8年・10年)で
荒れた後でもあり、文化・スポーツの振興に気運が高まる中、銅山に相応しい
盆踊り唄を作ろうという中で生まれた。今でもこの踊りは盆踊りで歌い続け
られている。かつては、古河橋手前の広場で盆踊りが行われていたらしい。
また、足尾石刀節という唄もある。足尾の抗夫が過酷な坑内で、命がけの
仕事に気を紛らわすために唄ったといわれる。
古河橋の辺りが錆びた製錬所が立ち、足尾銅山の栄枯盛衰をよく伝えている場所だろう。
ここに入りたい人が多いと思われるが、今も会社の人が出入りしているので立入禁止だ。
本山
本口抗・たかの巣抗の開削に続き、明治17年(1884)に有木抗(本山抗)が開発されると同時に、
鉱山所・選鉱所・鍛錬所・医局などの施設がおかれ、その後火力発電所や本山小学校の
全身となる学校が設けられたりして、名実ともに足尾銅山の中心として大きく発展し、足尾は
日本一の銅山になったのです。明治40年に、本山の労働争議をきっかけに、鉱山所が掛水へ
移りましたが、本山は北部地域最大の集落に形成されました。しかし、昭和48年(1943)2月28日に、
足尾銅山が閉山となり、本山には、そのとき138世帯477人(10年前の昭和38年4月には、290世帯
1167人)が住んでいましたが、その年の8月に遂に無人となりました。今は、鉱山神社がぽつりと、
「つわものどもの夢の跡」を見守っているだけとなりました。
国民宿舎 かじか荘では日帰りの温泉に入ることが可能で、鉱山料理も食べることができます。
画像は鉱夫御膳 1260円(豚カツ、小鉢2品、香の物、ご飯、味噌汁)で、銅山で大鉱脈が発見
されると「大直利」だと喜びました。銅山はお酒と貴重な豚肉を振舞って鉱夫の苦労に報いました。
鉱夫はそれを豚カツやしょうが焼きにして食べたそうです。他にも、女房丼とか鉱山にまつわる
食事が用意されています。
小滝抗跡
明治10年(1877年)小滝の旧抗(250m先までの掘止)し、明治18年(1885年)7月に
この小滝抗を開抗しました。明治26年11月には本山抗(間隔3005m)と貫通し、次に
立抗で通洞抗(間隔3276m)とも連絡するようになり備前楯山に向かって三抗から
採鉱がすすめられました。画像の橋は旧小滝橋で大正16年に架設されました。
抗夫浴場跡
小滝抗の抗夫達は、仕事を終えると何よりも先に身体の汚れを流し疲れを癒すために、
この「風呂」に入った。そして、四方山話やギャンブルに明け暮れたという。
小滝小学校、第三中学校跡
明治26年銅山私立小の分校として開校。大正7年児童991人。中学校は昭和28年に
統合され、小学校は昭和31年に廃校した。この辺りは、今では想像がつかないが、
木が植えられているところなど、家が多く建っていたらしい。また、小滝抗が開抗され、
この地に製錬所(明治30年廃止)・選鉱所(大正9年廃止)が設けられた。
江戸期の「通銅地区」は新梨子村(今の松原地区)の農地であった。明治10年(1877年)に
古河市兵衛が足尾銅山を経営するに至り、新技術を駆使し飛躍的発展を遂げることになるが、
同18年意通洞抗の開発に着手し、本山抗、小滝抗と貫通(同29年)させたのが大きな要因である。
開発時の通洞は50~60戸の人家であったが、通洞抗の発展と共に社宅が建ち並び同40年には
最盛期に近い社宅が形成され、大正9年(1920年)に鉱山所が掛水から移されるなどして、
銅山の中心となっていった。昭和30年(1955年)の社宅は329世帯1581人であったが、
同48年3月の閉山直後は197世帯669人となった。以後、通洞は大きく変貌の一途をたどり、
同50年社宅地に一般住宅(9戸)が建ち、町民センター(同52年)、銅山観光(同55年)、
警察署(同57年)などの開設が進み、更に、平成7年(1995年)からの町の住宅政策により
同9年に社宅91世帯204人の改築が始まり、遂に通洞社宅は姿を消すこととなった。
画像は足字銭と鋳銭座跡。鋳銭座が作られた経緯は、江戸時代に一時期は銅がよく取れていたが、
しばらくして減退したために、銅山師を救うために寛保2年(1742)7月から永享4年(1747)まで
6年間の間、2億1千万枚余が作られたといわれる。
足尾で鋳造された寛永通宝一字銭は「足尾銭」と称されるが、背面に「足」の字が印されて
いることから、通称「足字銭」とも呼ばれている。かつて、お銭のことを「おあし(お足)」と
言っていたが、足字銭が語源とも言われている。
■ブログ内足尾銅山関連URI 足尾銅山観光 / 本山鉱山神社 / 通洞鉱山神社■
東洋一の銅山とよばれた足尾銅山。ここには日本の近代化産業遺産が数多く残る。
明治新政府の富国強兵、殖産興業を推し進める中、明治10年(1877年)、
古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手したのに始まり、最新の技術や
設備によって足尾銅山は急速な発展をとげた。
しかし、その発展の光の陰に、大きな陰を生み出した。日本の公害の起点ともいわれる
足尾鉱毒事件である。渡良瀬川の魚の大量死に始まり、農林にも大きな被害を及ぼした。
田中正造が立ち上がり鉱業停止要求をするも、政府は鉱毒対策を行わず言論封殺を行った。
鉱毒被害地の農民が大挙して東京に押出し(東京への陳情)を行い世論が動き出すと、
古河鉱業側に予防装置を付けるように指示が出たが、殆ど効果がでなかったため、
再び反対運動に発展して、押出しが決行された。川俣事件では多くの逮捕者が出て、
言論弾圧が行われた。その後も、明治天皇に直訴状を提出しようとして弾圧され、
川俣事件公判の際には、あくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役している。
渡良瀬川下流には、渡良瀬遊水地が造られた。現在でも遊水地の土壌には銅など
鉱毒物質が多く含まれているという。田中正造死後も、住民と企業で昭和後期まで続き、
近代産業の陰は長引いたのである。しかし、田中正造の死をも恐れぬ行動によって、
後に起きてしまう日本各地の公害の被害者に対して光を与えたともいえる。
また、明治40年(1907年)には、労働者の不満から暴動が起った足尾暴動事件があり、
労働者側の権利を尊重する社会主義への動きだった。
足尾銅山の歴史を振り返ると、帝国主義から社会主義・民主主義へ遷り変わる
大きな布石であったように感じる。足尾銅山は、栄枯盛衰の歴史を伝える重要な遺産だ。
わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線「足尾駅」。トロッコわたらせ渓谷号も走る。
足尾一の賑わいどころであった「上間藤」
江戸期嘉永6年(1853年)に二宮尊徳が足尾郷を廻村したときの間藤村は、僅か19戸90人が
静かに農耕を営んでいたが、明治10年(1877年)に古河市兵衛が足尾銅山の再開発に着手し、
近代の技術と設備の導入によって飛躍的な発展を遂げるに至り、全国から坑夫達や商人などが
集まるところになり、足尾隋一の商業を中心とした最も賑わう街並みに変貌した。
やがて足尾銅山は「鉱都」と称され、最盛期の大正5年(1916年)の人口は38428人で
宇都宮市に次ぐ市制が期待されていたが潰えた。その時の上間藤の人口は不明であるが、
昭和10年(1935年)は330戸1488人を有していた。同45年188戸591人、現在(平成11年10月)
166戸359人となった。昔日の夢は泡沫(うたかた)となったが道筋は往時のままである。
日光市指定史跡「間藤水力発電所跡」
古河財閥の「古河掛水倶楽部」は、迎賓館として建設されたのに始まる。
日本初の民間電話「銅山電話資料館」などが公開されています。
内部の一般公開は、土曜日・日曜日・祝祭日です。
旧足尾鉱業所事務所付属倉庫
足尾銅山社宅 愛宕下
江戸時代の愛宕下は赤倉村字「坂詰」という地名で農家が3戸あったが、明治20年(1887年)に
松木から起った山火事で消失し、以後草っ原となっていた。その後、足尾銅山の社宅地として
開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人の
飯場が建てられたが、工事が終わると撤去された。次いで同40年代になると対岸の製錬所の
社宅14棟(1棟7戸建)が建ち「赤長屋」と呼ばれるようになり、大正10年(1921年)に久蔵の
社宅がこの地に移されるなどの変遷を経て増大した。戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから
「愛宕下」と呼ばれ、昭和31年(1959年)には18世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により
徐々に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、足尾製錬株式会社設立時
(昭和62年4月1日)49世帯127人、平成9年(1997年)で13世帯24人が住むのみとなった。
煙害で木が生えず足尾を象徴する山だ。現在は改善に向けて植林が行われている。
近辺には足尾砂防ダムがあり、銅親水公園になっている。
日光市指定文化財「古河橋」
明治中期までに架設された道路用鉄橋として、原位置に現存する極めて貴重な橋で、
足尾銅山の誇れる産業遺産である。明治24年には、日本初の実用化した電気鉄道
(単線)を敷設していた。平成5年に「新古河橋」が下流側に架設されたので、
古河橋は歩道橋として残された。現在は渡ることは禁止である。
足尾銅山盆踊り「直利音頭」は、大正13年(1924)に赤倉町務会が「八木節」を
始めたことが切っ掛けだと云われ、足尾銅山労働大協議(大正8年・10年)で
荒れた後でもあり、文化・スポーツの振興に気運が高まる中、銅山に相応しい
盆踊り唄を作ろうという中で生まれた。今でもこの踊りは盆踊りで歌い続け
られている。かつては、古河橋手前の広場で盆踊りが行われていたらしい。
また、足尾石刀節という唄もある。足尾の抗夫が過酷な坑内で、命がけの
仕事に気を紛らわすために唄ったといわれる。
古河橋の辺りが錆びた製錬所が立ち、足尾銅山の栄枯盛衰をよく伝えている場所だろう。
ここに入りたい人が多いと思われるが、今も会社の人が出入りしているので立入禁止だ。
本山
本口抗・たかの巣抗の開削に続き、明治17年(1884)に有木抗(本山抗)が開発されると同時に、
鉱山所・選鉱所・鍛錬所・医局などの施設がおかれ、その後火力発電所や本山小学校の
全身となる学校が設けられたりして、名実ともに足尾銅山の中心として大きく発展し、足尾は
日本一の銅山になったのです。明治40年に、本山の労働争議をきっかけに、鉱山所が掛水へ
移りましたが、本山は北部地域最大の集落に形成されました。しかし、昭和48年(1943)2月28日に、
足尾銅山が閉山となり、本山には、そのとき138世帯477人(10年前の昭和38年4月には、290世帯
1167人)が住んでいましたが、その年の8月に遂に無人となりました。今は、鉱山神社がぽつりと、
「つわものどもの夢の跡」を見守っているだけとなりました。
国民宿舎 かじか荘では日帰りの温泉に入ることが可能で、鉱山料理も食べることができます。
画像は鉱夫御膳 1260円(豚カツ、小鉢2品、香の物、ご飯、味噌汁)で、銅山で大鉱脈が発見
されると「大直利」だと喜びました。銅山はお酒と貴重な豚肉を振舞って鉱夫の苦労に報いました。
鉱夫はそれを豚カツやしょうが焼きにして食べたそうです。他にも、女房丼とか鉱山にまつわる
食事が用意されています。
小滝抗跡
明治10年(1877年)小滝の旧抗(250m先までの掘止)し、明治18年(1885年)7月に
この小滝抗を開抗しました。明治26年11月には本山抗(間隔3005m)と貫通し、次に
立抗で通洞抗(間隔3276m)とも連絡するようになり備前楯山に向かって三抗から
採鉱がすすめられました。画像の橋は旧小滝橋で大正16年に架設されました。
抗夫浴場跡
小滝抗の抗夫達は、仕事を終えると何よりも先に身体の汚れを流し疲れを癒すために、
この「風呂」に入った。そして、四方山話やギャンブルに明け暮れたという。
小滝小学校、第三中学校跡
明治26年銅山私立小の分校として開校。大正7年児童991人。中学校は昭和28年に
統合され、小学校は昭和31年に廃校した。この辺りは、今では想像がつかないが、
木が植えられているところなど、家が多く建っていたらしい。また、小滝抗が開抗され、
この地に製錬所(明治30年廃止)・選鉱所(大正9年廃止)が設けられた。
江戸期の「通銅地区」は新梨子村(今の松原地区)の農地であった。明治10年(1877年)に
古河市兵衛が足尾銅山を経営するに至り、新技術を駆使し飛躍的発展を遂げることになるが、
同18年意通洞抗の開発に着手し、本山抗、小滝抗と貫通(同29年)させたのが大きな要因である。
開発時の通洞は50~60戸の人家であったが、通洞抗の発展と共に社宅が建ち並び同40年には
最盛期に近い社宅が形成され、大正9年(1920年)に鉱山所が掛水から移されるなどして、
銅山の中心となっていった。昭和30年(1955年)の社宅は329世帯1581人であったが、
同48年3月の閉山直後は197世帯669人となった。以後、通洞は大きく変貌の一途をたどり、
同50年社宅地に一般住宅(9戸)が建ち、町民センター(同52年)、銅山観光(同55年)、
警察署(同57年)などの開設が進み、更に、平成7年(1995年)からの町の住宅政策により
同9年に社宅91世帯204人の改築が始まり、遂に通洞社宅は姿を消すこととなった。
画像は足字銭と鋳銭座跡。鋳銭座が作られた経緯は、江戸時代に一時期は銅がよく取れていたが、
しばらくして減退したために、銅山師を救うために寛保2年(1742)7月から永享4年(1747)まで
6年間の間、2億1千万枚余が作られたといわれる。
足尾で鋳造された寛永通宝一字銭は「足尾銭」と称されるが、背面に「足」の字が印されて
いることから、通称「足字銭」とも呼ばれている。かつて、お銭のことを「おあし(お足)」と
言っていたが、足字銭が語源とも言われている。