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「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

「学びの共同体」・・・その6 英語の授業における「学び」

2009-02-25 17:04:43 | 協同学習
国立大学の二次前期が終わり一段落。3時から添削を開始しそのまま出校する生活から何とか抜け出すことができた。というわけで、久しぶりに「学びの共同体」の話、後半戦は批判的な視点が多くなりますがご容赦のほどを。

いきなり核心をつく。今回見学した授業の多くで「学び」の課題として和訳が課されていたが、グループで和訳をすることは本当に「学び」に適した活動なのか。また、和訳は「学び」のゴールになり得るのか。

たしかに、和訳に慣れていない生徒にとって、友人と一緒に和訳作業を体験することは助けになることだろう。友達から辞書の引き方や訳し方を学ぶのは、スローラーナーには必要なことかもしれない。

しかし、共同作業で和訳をすることを目標として授業を組み立てるのは、「英語力とは和訳する力をつけること」というメッセージを与えてしまうことにならないか。読解と和訳は異なるのだという視点を生徒は身につけることができるか。

和訳作業をするときに、たとえば辞書を引いたり和訳する箇所を分担したりすることが見受けられた。これは作業の負担を軽減するだけで、むしろ学習の質を落としてしまうことになってしまいそうだ。学校における共同学習を通しての「学び」が学習の自立に繋がらなければ、その「学び」に十分な価値があるといえるか。

和訳を通して共同学習をするのであれば、むしろ個人個人で訳したものを持ち寄って他人の和訳と比較し議論することによって「学び」が成立しそうである。その意味では個人で考える時間の保証が非常に重要になりそうだ。

指導者から細かい訳にこだわらずに全体的な意味を捉えなさいという指示があったが、その活動と和訳は対極的なのでは。生徒は断片的な情報から全体を推測するように指示を出されたのか、個々の文を積み上げて和訳した後にそれをまとめるように指示を出されたのかわからずに混乱してしまう。

そして、いくつかの疑問点の中でもっとも大きなものは、これまで英語教育が得てきたものとどう折り合いをつけるのかということである。英語を用いたコミュニケーションは「学び」には不要なのか。音読やクイックレスポンスなどのトレーニングは授業からいっさい排除するのか。

和訳が「学び」の授業の核として据えられているというのは、あくまでも今回見た授業からの印象である。いずれ、他校(特に高校)の実践も見せていただきたいと思っている。


お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。

 


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「学びの共同体」・・・その5 午後の研究授業

2009-02-14 06:55:40 | 協同学習
今回は午後の研究授業から。授業は昼食休憩後、体育館に机を持ち込んで行われた。担当者はF先生。授業見学者は100人くらいだろうか。例によってコの字型に組まれた机に14人の生徒が座り授業に臨む。見学者はその周りを取り囲んで授業全体を観察する。

授業の主な教材は以下の三つの文である。対象が中学二年生であることを考えれば確かに教材のレベルは高いと言えそうだ。(パンクチュエーションなど、できるだけ現物に忠実にしています)

① When parents talk in front of their children, the husband calls his wife "okasan" or "mama", and the wife calls her husband "otosan" or "papa".
② Parents call their oldest son or daughter "onichan" or "onechan", standing in the position of his (her) younger sister or brother.
③ In families, people call each other from the standingpoint of the youngest person of the family.

この3文をグループで和訳するのがメインの活動となる。この文に入る前に導入として、サザエさんの4コマ漫画が提示された。漫画の吹き出しは英語だが、その内容は指導者がおおまかに説明された。

1 フネがカツオの成績について注意するように波平に頼む。波平は、難しい年頃なので気を使いながら注意すると答える。
2 漫画を読んでいるカツオに波平はにこやかに近づき、自分にも見せてみろという。
3 波平、漫画に夢中になる。
4 夕食時になっても波平は漫画を読み続ける。フネはイライラした様子で波平に食事を促すが波平はまだ漫画に夢中である。

漫画中にフネの台詞でDad! Dinner's ready! (お父さん、ご飯ですよ)がある。指導者はこのDadの違和感について指摘したのちに上記の英文解釈へと指導ステージを移した。

生徒が一文ずつグループで訳したのち、ころ合いを見計らって指導者が全体で意味の確認をする。ただし、意味の確認段階でも指導者が答えを直接伝える形になることは避けられた。生徒の活動にはたっぷりと時間が割かれ、50分の授業が最終的には75分(!)になった。

普通であれば、タラちゃんの存在を考えると、導入としては「サザエさん」より「ちびまるこちゃん」のほうがよかったはずとか、そもそも英文の内容が日本の家族の実情をどのくらい反映しているか不明といった方向の指摘が中心になるだろう。生徒の論理性に頼って考えさせるタイプの授業だけに、ここが崩れると授業が成立しなくなってしまう。しかし、今回はそれ以上に考えさせられた点がいくつかある。次回以降、それらについて自分の考えをまとめながら論じてみたい。


お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。

zenconundrum@mail.goo.ne.jp


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「学びの共同体」・・・その4 学び合いの約束事

2009-02-12 13:05:33 | 協同学習
午後の研究授業について触れる前に教室で見かけた約束事から。

・先生から課題が出されたら、学級の仲間や4人組のメンバーと考え知恵を出し合う。
・先生から課題が出されたら、すぐにあきらめない。先生にたずねない。
・わからないときは、「わからないから教えて」という。
・「教えて」と言われたら一生懸命に教える。
・「教えて」と言われなかったら教えない。
・他の人の答えをただ写すだけという人にはならない。
・誰かが発言するときは、その人の顔を見て一生懸命に聞く。
・自分が発言するときは、前に発言した人の言葉につなげて話す。
・自分が発言するときは、クラスの仲間に向けて話す。
・他の人の発言に対して、素直に耳を傾ける。
・他の人の発言に対して見下したり笑ったりしない。ひょっとすると、その人の発言の方が鋭い意見なのかもしれない。

こういった約束事が浸透していることが大切。おそらく、最初の何ヶ月かはルールをしっかり守らせることに集中することになるのだろう。教室に張り出しておくのは非常にいいことだと思う。文部省(現文科省)の研修で訪れたアメリカの小学校の教室を思い出した。


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「学びの共同体」・・・その3 午前中の授業より

2009-02-10 06:15:53 | 協同学習
午前中に見させていただいた二つの授業から感じたこと。今回は表面的な所を中心に。

・予想通りで生徒を引きつけておくには非常に有効な手法。昨秋に行った他の中学とは異なり、授業中にぶらぶらしているような子は見られなかった。

・授業は活発。生徒から頻繁に声があがる。ただし、くつろいだ雰囲気である反面、わざと授業をかき乱すような発言や茶々を入れるような発言もある。特にクラスサイズが大きいときには静かにさせる時間も大事にしたいところ。

・教師の問いかけに対して生徒から積極的に反応が出るのはよいが、思いつきにすぎないものが多い。なぜその答えを思いついたのか、そこに論理性がないと単なる当てっこゲームになってしまう。正解か否かよりもそこに至る過程を重視したい。

それからグループサイズ。
「グループは原則4人、もしくは3人。5人は駄目。また、男女混合にすること。」
というような決まり事があるようだ。

しかしながら、これだけでは私の疑問は深まるばかりだ。

グループの決め方はランダムか?
それとも、何らかの意図を持って教師が指定するのか?
グループの組み替えはするのか、するとすればどのくらいの頻度?

「学びの共同体」の理論ではグループ内に、A)ファストラーナー、B)中間の子、C)スローラーナーの3種類の子がいると想定しているようだ。そして、まず基本的な課題を与えてA)の子がC)の子を支援することにより、主にC)の子が伸びる場面を作り出す。
つぎに、ジャンプと呼ばれる発展過程でA)の子および、B)の子が伸びる機会を提供するということらしい。

これを機能させるためには、グループ内に必ずA)、B)、C)の子が居なければならない。とすれば、はっきりとした意図を持ってグループを組織しなければならないことになる。そうすると、特に鋭い子でなくともグループの中で自分の置かれた立場が見えてこようと言うもの。そのことに関しては何も問題がないのだろうか。

以上のことは、けっして批判ではなく私の素朴な疑問です。どなたか機会があればご教授いただけると幸いです。


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「学びの共同体」・・・その2 個人的な基本理解

2009-02-09 06:31:13 | 協同学習
「学びの共同体」は東京大学の佐藤学先生が提唱されている学校全体を通した教育システムである。以下のような特徴があると私は理解している。

1 習熟度別クラス編成を一切認めない。
「学びの共同体」はあらゆる種類の習熟度別クラス編成を認めていない。多様な子が一つの教室に集い協力しあって問題解決に向かうことで学力を向上させることを旨とする。

2 グループ学習が基本である。
生徒はグループで課題に取り組み、グループ内での意見交換、学びあいを通して学力を伸ばす。全体で指導する場面では机をコの字型に並べ、グループ学習に移ると4人を基本としたグループで課題に取り組む。

3 教師は教えない。
教師の仕事は「聴く」、「つなぐ」、「もどす」の3つであり講義ではない。生徒の様子をしっかり観察した上で、生徒の言葉を聞き、それを関連づけ、フィードバックするといったことのようである。

4 ハードルの高い課題を与える。
基礎的な課題を克服させたのち、「ジャンプ」と呼ばれるハードルの高い課題を与え、グループ全員で課題解決に臨ませる。これにより、あらゆる層の子供達に「学び」が保証される。

5 考えることを基本とする。
「学び」の根本はドリルや知識を覚えることではなく考えることである。教師から一方的に与えられるのではなく、1)自分で考え、2)他者と話し合い、3)自分に戻して検証する。の3つのステージが基本になる。

6 教師の同僚性を重視する。
「学びの共同体」の取り組みは学校全体で取り組むことを基礎としている。したがって、ひとりでは「学びの共同体」の実践はできない。すべての教師が授業研究を行い授業改善に努める。これを「同僚性を高める」という言葉で表現している。

7 視線は生徒の「学び」へ。
研究授業では教師に視線を送るのではなく、個々の生徒がどのような「学び」を実現しているかに注意が払われる。そのため、「待つ」ことと「観る」ことが非常に重要なものとなる。

8 保護者や市民も巻き込む。
学校内だけの閉鎖的な実践でなく、他校の教師や保護者地域へと扉を開き教育実践を共有する。

すべて、枠の外にいる私個人の「解釈」です。お詳しい方がいらっしゃれば、間違いの指摘、補足等いただけますと幸せます。

zenconundrum@mail.goo.ne.jp


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「学びの共同体」・・・その1

2009-02-08 11:34:31 | 協同学習
昨年度の後半に音読を中心にした授業から、「読みの深さ」の追求を中心とした指導へと方針を転換した。ドリルやトレーニングへの過大評価を見直し、「考える」という「学び」の根本的となる行為の重要性を再認識したのである。

その過程でグループワークを本格的に導入した。ひらめいたアイディアを友人と交換することにより、その論理性をより客観的に検証できるはずだと考えたのだ。このスタイルはジョークの「落ち」を考えるという課題からはじめたのだが、自分の予想以上にうまく機能した。(詳しくは過去ログをどうぞ)

http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/dd7286bb792cef17f08820b19bc823bd
http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/714fcebce2740276f56a3d833d7cef21

「落ち」を見抜くためにはそれまでの話の展開をしっかり読み取る必要がある。そのためには、そこにたどり着くまでの質の高いリーディングが要求される。そして、自分の理解が正確であるか検証するため、友人と内容の濃い意見の交換が行われる。

さらに、グループで話し合うことにより、英語力の「知識」の面が不足していても、友人の助けによってカバーされるので、英語が苦手な者にも論理性さえあれば、真っ先に正解にたどり着けるチャンスがある。これは、普段の授業で達成感を得にくい者にとっては非常に大きな動機付けに繋がる。

しかしながら・・・、

グループワーク指導の洗練度には課題が残った。グループワークに関してそれなりのよい感触は得たものの、同時にいくつかの疑問が沸いたのだ。

基本的なところで言えば、グループは何人がよいのか、グループはどのような組み方がよいのか、グループワークにどれだけ時間を割いたらよいのかなど。そして、もっと根元的な疑問として、与えた課題がグループで解決できなかった時に、どのような展開に持って行けばよいのか。

そのような疑問に対する解決の糸口を探していて「学びの共同体」に大きな興味を持つようになった。そんな中で、歩いていける距離にある中学校で研究大会が行われたのは願ってもない幸運だった。

「学びの共同体」は、今、大きなムーブメントとなりつつある。しかし、率直に言えば、9割方賛成だが、若干の疑問点も残っている。相手があまりにも大きすぎるので、これまでここでは避けてきたのだが、今回の研究会を機に何度かのシリーズでこの話題について触れてみたい。


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