僕の細道

死生観

『死生観』

死を軽んじている訳ではないが、死んだらそれまでだと思っている。やるだけやって、それまでなら、それまでの事。それは知人、友人、家族、自分自身、皆同じ。

普段から、いつどこで死んでもいいように心掛けて過ごしている。それは知人、友人、家族、自分自身、皆同じ。事故、病気、その他諸々、何が遭っても受け止められるようにしている。

事実、身内に危うい時が何度か遭ったが、対処してきた。

昨秋、友人の葬式の際も列席者と会話していたのだが、旅先の初めて会った人であれ、日々顔を合わす人であれ、この出会いが永遠とは思わず、「一期一会」。それの繰り返しが、日常生活の延長にあるだけと戒めている。

夫婦であれ、親子であれ、朝、出かけた時が今生の別れになるかも?夜、眠りつき、そのまま目覚めないかも?

事故に遭うかも知れない。
災害に遭うかも知れない。
病気になるかも知れない。
それは、誰にも判らない。

だから、人と実際に会うという行為は大事なんだ。

これらを常日頃から心に刻み、後悔しないよう精一杯生きているつもりだ。勿論、死にたい(死なせたい)わけでもなく、死に急ぐ理由も無い事を付しておく。

バイクに乗っていようがいまいが、いや、乗る以前から、このような感覚は所持していた気がする。ガキの頃、松尾芭蕉の「奥の細道」を読んだ頃からだろうか?

だから、私のHPの題名は「僕の細道」と名付けてある。昔の友人達は、このHPの題名を知った時、笑っていた。

ーーーー<引用開始>-------

月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人なり。
舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老ひをむかふる者は
日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。

予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂白の思ひやまず。
海浜にさすらへ 去年の秋、江上の派屋に蜘の古巣をはらひて
やや年も暮れ、春立てる霞の空に白河の関を越えんと
そぞろ神のものにつきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて
取るもの手につかず股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて
三里に灸すつるより、松島の月まづ心にかかりて住める方は
人に譲り、杉風が別墅に移るに

草の戸も 住み替わる代ぞ 雛の家

表八句を庵の柱に懸け置く。

ーーーー<引用終了>--------
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