エヌのブログ - 永田町激動記 & 東日本大震災記録

2011.8.30新首相誕生に伴い、≪エヌのブログ - 東日本大震災記録≫を、( ↑上記↑ )に改題

ドジョウ

2011-09-24 10:27:14 | オピニオン / 文献
ドジョウ
出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

和名 : ドジョウ(泥鰌、鰌、鯲)
英名 : oriental weather loach

ドジョウ(学名:Misgurnus anguillicaudatus、英: weather loach、weatherfish)は、コイ目ドジョウ科に分類される淡水魚の一種。日本全国の平野部の水田や湿地などに生息。中国、台湾、朝鮮半島にも分布するほか、食用魚として養殖も盛んに行われている。

広義にはドジョウ科全体を指す。英語のローチ (loach) は通常、ドジョウ科の総称である。しかしここではドジョウ科の M. anguillicaudatus 一種について述べる。

特 徴

ヒドジョウ雑食性で、ユスリカの幼虫などを主に摂食する。体は細長い円筒形で、全長は10-15 cm。口ひげは上顎に3対下顎2対で合計10本ある。このひげには味蕾(みらい)があり、食物を探すのに使われる。えらで呼吸するほか、腸で空気呼吸も行う。水中の酸素が不足すると、水面まで上がってきて空気を吸う。体色は茶褐色で、背部に不明瞭な斑紋を持つものがほとんどだが、まれに「ヒドジョウ(緋泥鰌)」と呼ばれるオレンジ一色の白変種もあり、観賞魚として商業流通する。

個体差はあるが、危険を察知した際や水温などの条件によって水底の砂や泥に潜る事があり、飼育下ではこの特徴が災いして水槽内の水草をことごとくほじくり返される事がある。

文 化

ドジョウは古くから食用に用いられており、江戸の郷土料理となっている。ドジョウすくいは泥田でドジョウをすくう姿を滑稽に描写するもので、安来節に合わせて踊られ、忘年会等の宴会芸の定番であった。中部地方(長良川など)では「のぼり落とし」と呼ばれる漁罠を用いてドジョウを捕らえた。

食 材

スーパーマーケットで売られている中国産ドジョウ大ぶりのものは開いて頭と内臓を取り、小さいものはそのままで、ネギやゴボウとともに割下で煮て卵で閉じた柳川鍋とされることが多い。卵で閉じないものはどぜう鍋と呼ばれる。また唐揚げでも食べるなど特に東京近辺で好まれるため、産地は利根川水系のものが大部分を占めているが、韓国や中国などからの輸入品も存在する。有棘顎口虫の中間宿主となるため、踊り食いなどの生食は危険である。

    ドジョウの蒲焼き

金沢市では、土用の丑の日にウナギの蒲焼きの代わりにドジョウの蒲焼き(関東焼き(かんとやき))を食べる風習が今でも続いている。しかし近年は、ドジョウの蒲焼きの価格が高騰したりドジョウの苦味を敬遠する人が増えたことから、他地域と同様ウナギの蒲焼きを食べる人も多い。

    地獄鍋

生きたドジョウと豆腐をいっしょに鍋に入れて徐々に加熱してゆくと、熱さを逃れようとして豆腐の中にドジョウが逃げ込むが、結局は加熱されてドジョウ入りの豆腐ができあがる。これに味を付けて食べるのが地獄鍋である。実際には、頭をつっこむ程度で逃げ込むまでには至らないことも多い。中国や韓国にも同様の料理があり、中国では「泥鰍?豆腐」などという。

    チュオタン(鰍魚湯)

チュオ(鰍魚)は韓国語でドジョウを意味し、韓国で一般的なドジョウのすり身を入れたスープ。

    粉末ドジョウ

中国では、ドジョウを「水中人参(水中の薬用人参)」と称する事もあるほど薬膳に用いることも多いが、泥抜きしたドジョウを加熱乾燥し、破砕した粉末を食餌療法に用いる例もある。解毒作用があるとされ、A型肝炎の回復を早めたり腫瘍の予防になるともいわれる。

表 記

多くのドジョウ料理店などでは「どぜう」と書かれていることもあるが、歴史的仮名遣では「どぢやう」が正しいとされている。大槻文彦によれば、江戸後期の国学者高田与清の松屋日記に「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とあるから「どぢょう」としたという。「どぜう」の表記は、江戸時代の商人が「どぢやう」は四文字で縁起が悪いとして、同音に読める「どぜう」と看板に書くようになったのが始まりといわれる。

慣用句

  二匹目の泥鰌

  柳の下にいつも泥鰌はいない

近縁種・類似種

名前が似ているタイワンドジョウ(Channa maculata)は、カムルチーと合わせて雷魚とも呼ばれ、タイワンドジョウ科に属する別の魚である。またカラドジョウ(Paramisgurnus dabryanus)もドジョウと似ているが、別属の外来種である。


  出典 : ドジョウとカラドジョウ






輿石・民主参院議員会長 「産経のインタビュー初めてだよ」 小沢氏を党内融和の象徴に

2011-08-13 09:37:14 | オピニオン / 文献
【単刀直言】
輿石・民主参院議員会長 「産経のインタビュー初めてだよ」 小沢氏を党内融和の象徴に
産経新聞 2011.8.12 23:46

産経さんのインタビューを受けるのは実はこれが初めてだよ。うちの秘書もびっくりしていたし、この記事が出たら山梨県教職員組合の中も「前代未聞だ!」って大騒ぎだろう。産経さんはいつも日教組批判ばかり書いてくれるが、「イデオロギー闘争に明け暮れて授業もしないでストライキする組織」という先入観を引きずってやしないかい。

日教組と言っても47都道府県で全部違う。山梨では私が山教組委員長をやっていたころを含めこの30年間、卒業式の国歌斉唱で起立しないとか、日の丸を引きずり降ろそうとする教員がいたなんて聞いたことがない。こういう実態もちゃんと見てもらいたい。(『民主党と日教組』の著書がある本紙政治部記者の)阿比留瑠比さんともいっぺん話をしてみたいな。

菅直人首相は10日に「辞める」と明言したが、必ずこういう日が来ると思っていた。もし菅首相が9月以降も居座ろうとすれば、野党が参院に提出する首相問責決議案に、わが党からも賛成する議員が出たでしょう。そのときは議員会長として党議拘束を外す判断をし、「事態はここまで来てる。さあ、どうするかね」と、直接、菅首相に迫る局面があったかもしれない。

でも、菅首相はちゃんと、31日までの次の人との「バトンゾーン」の中で辞めると言った。自分たちで選んだ首相をどうして信じてやれないのか。

政権交代してもうすぐ2年。率直に言って民主党の最大の欠点は議論ばかり多くて、スピーディーに物事を進められなかったところだ。

なぜそうなったのか。それは党内がバラバラで、結束していなかったからだ。こんな国難のときに内輪の権力闘争をしていたら、完全に国民から見放される。いいかげん「親小沢対反小沢」と、党内を色分けするのは卒業しないとダメだ。

私が新代表に望むのはまず挙党態勢の構築だ。その意味では、新しい執行部が小沢一郎元代表の党員資格停止処分を解く政治判断があっていい。東日本大震災は1000年に一度の大災害だ。被災地出身の議員として小沢元代表には復興の先頭に立ってもらいたい。党内融和の象徴にもなるじゃないか。

そしてもう一つ重要なのがマニフェスト(政権公約)、国民に対する約束だ。見直しの是非は代表選の争点になるだろう。自民、公明両党との合意で、来年度は子ども手当に所得制限を付すことになった。これは当初、民主党が掲げた理念とは異なる。やっぱり元の子ども手当に戻していかないとダメだ。

代表選の候補者には、党の結束とマニフェストの実行ができなければ民主党に明日はない、という覚悟で臨んでもらいたい。

希望を言えばきりがないが、新代表は野党ときっちり話ができる人がいい。参院は与野党逆転の「ねじれ」状態だ。自公だけでなく、全党と協議することを視野に入れてやっていかないとな。すぐにではないが、与野党協議の延長線上に部分連立や大連立の枠組みだって考えられる。協議の中で他党と一致点が見えてくれば、ねじれの解消だってあり得るんだ。

さて、新代表の候補者には現職閣僚も含め、いろんな名前が挙がっているね。「意中の人は?」とよく聞かれるが、出そろった時点で考えるよ。

輿石会長は出馬しないのかって? あんたも、ちょっとこの暑さで疲れてるんじゃないかね。

代表選にあたって、私が議員会長として「新代表はこの人にしよう」と号令をかけることはあり得ない。

参院民主党のメンバーは、元は弁護士や医師、自民党や日教組だったりとみんな「本籍地」は違う。けれど、民主党という「現住所」で結束しようといつも言っている。結果として、みんなの総意として、参院民主党が代表選で行動をともにすることはあり得るんじゃないか。(原川貴郎)

     ◇    ◇    ◇    ◇

ポスト菅を問う]輿石東 民主党参院議員会長 小沢元代表含め挙党態勢を
読売新聞 2011.08.12 東京朝刊


--今国会中に新首相を選出するのか。

それができれば一番いい。ただ、あまり無理をして、代表選(の日程)が意図的に縮められたとか、延ばされたという議論にならないようにすべきだ。9月にずれ込んでも中旬以降になることはない。

--菅政権失敗の原因は。

政権与党の最大の責任はスピード感と結果を出すことだ。国民から「何も決められない」という感じを持たれた。もう一つは、本当の挙党態勢になっていたか反省しなければならない。

--新代表に何を求める。

党の結束がやや不十分だったとすれば、そこに力を注ぐべきだ。まとまっていなければ力を発揮できない。

--小沢元代表の影響力が強まることを懸念する声がある。

元代表は影響力を持とうなどと毛頭考えていない。「反小沢」「親小沢」という言葉が出ている間は政党として一人前でない。内ゲバをやっていると、完全に国民から見放され、政権与党の資格を失う。

--新体制では元代表を役職につけるべきか。

当然、考えていくべきだ。国難の時に元代表のような力や経験のある人には国民からも期待がある。ただ、今は司法の判断を待たなければならない。

--増税の是非が代表選の争点になりそうだ。

所得税と法人税、消費税に手を付けなければならない時期がいずれ来る。増税は絶対まかりならぬと言い切る候補者はいないと思う。

--2009年衆院選の政権公約(マニフェスト)は修正が相次いでいる。

理念は変わっていないし、政策が間違っていたわけでもない。マニフェストを撤回するなどという人は、党代表になりえない。

--大連立についての考えは。

公党間の信頼関係がないとできず、一気に大連立というのは早い。参院では自民、公明両党とだけの協議は許されない。全党に協議を呼びかける。

--社民党の連立政権復帰は呼びかけるか。

簡単にできる話ではない。国民新党との連立でスタートし、歩きながら考える以外にない。(聞き手・小坂一悟)



国のトップに、四維(礼・義・廉・恥)が皆無  遠からず日本国は滅びる

2011-07-27 19:35:10 | オピニオン / 文献
昨日、尊敬する元国会議員と個人的に会食をする機会を得た。

先生は割り箸の袋に、「四維 : 礼 義 廉 恥」と書き、「今の国会議員に四維が無くなったね」とおっしゃった。

「四維(しい)」は管子にある言葉だ(管子・牧民第一)。

国に四維有り。
一維絶てば傾き、二維絶てば危うし。
三維絶てば覆り、四維絶てば滅ぶ。

傾くは正すべきなり。
危うきは安んずべきなり。
覆へるは起こすべきなり。
滅びたるは復(ま)た錯(お)くべからざるなり。

何をか四維と謂ふ。
一は曰(いわ)く
二は曰く
三は曰く
四は曰く

その意味するところは、

国家を維持するに、必要な四つの大綱がある。

その一つが絶たれると、国は傾き、その二つが絶たれると、国が危うくなり、その三つが絶たれると、国は転覆し、その四つがたたれると、国が滅亡してしまう。

国が傾いても立て直すことができる。国が危うくなっても安定に戻すことができる。国が転覆しても、復元することができる。しかし、ひとたび国が滅亡してしまうと、もはやどうすることもできない。

何を四維というか。

その一つは礼、つまり人間関係や秩序を維持するため必要な倫理的規範・様式
二つ目は義、つまり倫理道徳にかなっていること
三つ目は廉、つまり無私無欲であること
四つ目は恥を知ること
である。

国会議員に四維が無くなって来たということは、国が滅びるということだ。特に、国のトップに、礼・義・廉・恥がまったく見られない。



「妻を愛せない者は、なでしこを愛せない」(佐々木則夫監督)

2011-07-20 23:16:53 | オピニオン / 文献
毎日新聞(2011年7月18日 21時21分)に、なでしこジャパンの監督・佐々木則夫氏と奥さん(淳子)の秘話が載っていた。

奥さんは1985年、突如、脳炎を患い入院、しかも妊娠中。

夫は、医師から「高い確率で命にかかわる」と告げられ、妻に「サッカーやめて、普通のサラリーマンに戻ろうか」とつぶやくと、奥さんは「私のための人生じゃない。あなたの人生でしょ。あなたは大好きなサッカー、やめないで」と、ためらうことなく答えたそうです。

その後、徐々に回復。夫は迷った末、2年近いブランクを経てピッチに戻り、やがて指導者の道に行く。そして今回の世界一。

今朝のテレビで、監督は「妻を愛せない者は、なでしこを愛せない」と語っていた。

お互いを思いやるすばらしい夫婦だと思う。

     ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇    ◇

なでしこ世界一:監督「サッカーやめようか」 … 止めた妻
毎日新聞 2011年7月18日 21時21分(最終更新 7月18日 21時33分)


【フランクフルト篠田航一】「サッカー、もうやめようか」。そんな夫の言葉をさえぎったのは、病床の妻だった。

サッカー女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会で、チームを「世界一」に導いた日本の佐々木則夫監督(53)。妻の淳子さん(53)は今でも、生死のふちをさまよった85年の日々を思い出す。

突如、脳炎を患い、入院した淳子さん。しかも当時は妊娠中だった。夫は電電関東(後のNTT関東)でプレーしていたが、淳子さんに付きっ切りで看病するため、一時サッカーを離れる。「全力で守るから」と夫は言った。

「高い確率で命にかかわる」と言われた病状。「サッカーやめて、普通のサラリーマンに戻ろうか」。そうつぶやいた夫に、淳子さんはためらうことなく答えた。「私のための人生じゃない。あなたの人生でしょ。あなたは大好きなサッカー、やめないで」

その後、徐々に快方に向かった淳子さん。夫は迷った末、2年近いブランクを経てピッチに戻り、やがて指導者の道に入った。

決勝の地フランクフルトで17日、日の丸や星条旗を顔にペインティングしたサポーターを見ながら、淳子さんは当時を思い出してほほ笑んだ。「あの時やめないでよかった。そして、今があるんですから」

監督として日々、強烈なプレッシャーにさらされる夫。縁起をかつぐ方ではないが、一つだけ大きな試合の前にすることがある。「富士山を見るのが好きなんです。癒やされる、といつも言うんですよ」。ドイツ大会開幕直前の6月上旬、夫婦で山梨県の河口湖に出かけた。3泊4日をのんびり過ごし、湖畔を歩いて、富士山を眺めた。大会頑張ってね、と言う淳子さんに、夫はほほ笑んだ。「なでしこのあの子たちが頑張るんだ。僕はサポートするだけなんだよ」



「 菅さん、潔く引け 」 村山富市元首相

2011-06-28 10:49:24 | オピニオン / 文献
<直言>混迷政治:“長老”に聞く  1 村山富市元首相
毎日新聞 2011年6月26日 西部朝刊

 ◇ 菅さん、潔く引け ◇

95年の阪神大震災で僕は初動の遅れを批判された。当時は緊急時に対応できるような態勢が整備されていなかったこともあるが、弁解の余地はない。後藤田(正晴元副総理)さんから「地震は防ぎようがないが、これからは下手をすると人災になる」と助言を受け、「その通りだな」と思ったよ。

だから復興復旧は全力でやった。小里貞利震災担当相を筆頭に、各省の責任者が一体となる体制を作り、つかさつかさに任せた。今、国会は衆参でねじれているが、数じゃない。阪神大震災の時、僕への反論はあったが、震災対策には反対がなかったんじゃけえ。国民に絶対必要なことは反対できない。国会も官僚も一体となって協力してくれた。

今回、これだけの大きな災害じゃからなおさらだ。与党や野党じゃない。大連立だろうと政策連合だろうと、みんなが協力しあえる体制にすればいい。そのためには意地を張らず、体を投げ出してでもやる首相が必要なんだ。官僚の知恵も借り、首相は虚心になって聞くべきことは聞く。肩ひじ張って「俺が政治家だ」なんて言うことはないんじゃけえ。

菅直人首相は辞めるなんて言わん方がいいんだよ。権力の座にある者は辞めると言った途端に権力がなくなるんじゃけえ。首相というのは重たい荷物を背負っている。僕は自然体じゃったけど、責任を持たないことをしゃべったらいかんと発言には気を使った。

言った以上、菅さんは潔くした方がいい。みんなが協力しようという思いになっとらんじゃない。裸の王様になるよ。こんなことが長く続いたら政治全体に対する不信を募らせる。迷惑じゃ。

今回の原発事故では放射能への不安が大きい。政府は「ただちに身体に影響はない」と言うが、ならば「いつか影響があるのか」となる。正確に早く情報を伝達し、不安を解消することが大事だ。指揮系統責任の所在を明確にし、信頼できる政府の姿を作り出していかないといかん。

僕も首相の時、既存の原発はやむを得ないとしたが、もういっぺん考え直し、原発に頼らんでもいいような状況を作るよう努力すべきじゃな。【聞き手・仙石恭】

  ◇  ◇

未曽有の被害をもたらした東日本大震災。復興の道筋はいまだ見えず、原発事故は被災者の生活を脅かし続けている。だが、国政は首相の退陣時期を巡る駆け引き、民主党内の権力闘争、与野党対立などで混迷を深め、国民の政治不信は極まっている。国難の今こそ、政治はどうするべきか。かつて政権中枢に身を置き、あるいは対峙してきた「長老」政治家に聞いた。(次回から社会面に掲載します)

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■人物略歴
むらやま・とみいち 1924年生まれ。大分市議、大分県議を経て72年に旧大分1区で初当選。社会党委員長などを歴任。94年6月、自社さ連立政権で首相に就任し、95年1月に阪神大震災が発生する。退任後の96年に初代社民党党首となり、00年に政界引退。87歳。


問題は、誰が首相なのかという、人の問題だ ・・・ スティーヴン・ヴォーゲル教授

2011-06-07 11:58:44 | オピニオン / 文献
ダイヤモンド・オンライン
World Voice プレミアム 【第61回】 2011年6月7日
「菅首相に石を投げつけても何も変わらない。
日本の政治が良くなるには衆院選が2回必要だ」

スティーヴン・ヴォーゲル カリフォルニア大学バークレー校教授に聞く


123東日本大震災からの復興に専念すべきこの重大な時期に権力闘争に明け暮れる日本の政治を、海外の識者はどう見ているのか。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の著者エズラ・ヴォーゲル氏を父に持ち、同じくジャパンウォッチャーとして活躍するスティーヴン・ヴォーゲル教授は、意外にも、中長期では日本の政治の行方を楽観していると言う。(聞き手/ジャーナリスト 瀧口範子)

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Steven Vogel (スティーヴン・ヴォーゲル)
カリフォルニア大学バークレー校政治学教授。先進工業国の政治経済が専門。日本の政治、比較政治経済、産業政策、防衛などに関する著作多数。1998年には大平正芳記念賞を受賞。日本で英字紙記者として働いた経験もあり、日本語に堪能。1979年に出版され、世界的ベストセラーとなった『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者、エズラ・ヴォーゲル氏は実父。
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--よりによって震災復興に万全を期すべきこの時期に、内閣不信任騒動が起こった。事ここに至っても迷走を続ける日本の政治をどう見ているか。

政治とはそもそも権力闘争だと思えば、今日本で起きていることは、少しも驚きではない。

アメリカでも、甚大な被害を招いた2005年8月の「ハリケーン・カトリーナ」の後、当時のブッシュ大統領の対応が酷く、野党の民主党がこれを攻め立て、一時期に政治が大混乱したことがある。オバマ大統領の誕生をもたらした要因のひとつが、ハリケーン・カトリーナからの復興を巡るブッシュ共和党政権のもたつきであったことは間違いない。政治が災害を利用することは(他の国でも)よくあることだ。

--菅首相の辞任時期を巡り、民主党内で泥仕合が続いているが、菅首相はどうすべきだと思うか。

菅首相が(鳩山由紀夫前首相に)実際に何を約束したのかは私の知るところではないが、何かを約束するという行為自体が間違っている。国が危機的な状態にあるその時に、任期中の首相が、邪魔しないでいてくれたらいずれ辞任する、といった趣旨の言葉を口にすることはかなりおかしい。

本来は(不信任案の結果が出るまで)「私は首相だ。この危機に対処するのが今もっとも重要なことだ。それまでは辞められない」と最後までぶれずに言い続けるべきだった。辞任を予告したことで、当たり前のことながら、菅首相は脆弱な立場から政権運営を迫られることになる。しかし、そう言ってしまった以上は、混乱を最小限に抑えるやりかたで政権移行を急ぐしかない。

--菅首相の辞任は、早くて6月中と言われているが、一部には年内あるいは年明けという声すらある。レームダック(死に体)化してしまった日本の政権を諸外国はどう見ると思うか。外交問題でも課題は山積みだ。

政府のレームダック化という現象自体は世界的に珍しいことではないので、海外の目をことさら気にする必要はないだろう。

アメリカでも、2期目の大統領の任期終了近く、あるいは1期目でも次期選挙には出馬しないとか出馬しても勝てないことがわかっている大統領の下では、同じようなレームダック化が起こる。それでも、そうした政府が政治抗争による障害を最小限にとどめつつ、重要な決定を行うことは不可能ではない。

ただ、日本の場合は、菅首相への支持が党外だけでなく、党内でも著しく低下しているので、レームダックの様相は異なるかもしれない。

--日本では、今や年中行事のように首相が交代し、国民の利益から離れたところで政治が繰り広げられている。日本の政治に制度的な欠陥があるのか。首相公選制なども改めて真剣に議論すべきだと思うか。

首相を国民の直接選挙で選べば、政治は確かに大きく変化するだろうが、日本人が長年慣れ親しんできた政治とはあまりにかけ離れている。私は、今の日本に必要なのは、憲法改正を必要とする首相公選制の導入のようなことではなくて、政策の違いに基づいた競合的政治(competitive politics)を起こすことだと思う。

振り返れば、2009年に政権が交代した時、長年望むべくもなかった競合的政治が行われる可能性が生まれた。これは大きな前進だったはずなのだが、残念なことに、いまだにその機会が十分に生かされていない。

ただ、現状は酷いものに見えるが、競合的政治が実現される潜在的な可能性はまだあると思う。そのためには、2つの明示的なステップが必要だ。

まず民主党と自民党のトップが日本のために腹をくくると宣言し、復興や経済、財政赤字、エネルギー問題などに対する具体的な政策案を示すことだ。そして、国民もメディアも、政治抗争を止めて政策案を出せと、今よりももっともっと強く要求することだ。当たり前のことに聞こえるかもしれないが、日本にはこれができていない。トップダウンとボトムアップの両方から動かなければならないのである。菅首相に石を投げつけているだけでは十分なのだ。

とはいえ、私は長期的には日本の政治に楽観的だ。衆議院選挙があと2回行われる頃には、政界再編も進み、国民も二政党間の違いを実感できるようになっていると思う。

--国民の期待を背負って誕生した民主党政権は明らかに空転しているが…。

日本の政治は、過去20年以上も混迷を続けている。1993年頃から国民は変化を欲してきたが、問題は票を投じる相手がいなかったことだ。変化を起こそうとした国民は、2005年に小泉純一郎首相(当時)率いる自民党を選び、2009年には民主党を選んだ。だが、適任がいないと、国民は投票というかたちで意思を表現することができない。有権者が党へ民意を伝達するプロセスを開始するには、民主党、自民党ともにトップが交代する必要があるだろう。

--アメリカでは、大統領が政策を風通しよく実現させるために、経済界などから積極的に人材を招聘して政府の要職に配置する。こうしたことがもっと日本でも行われるべきだと考えるか。

やはりここでも、問題は憲法の改正ではない。誰が首相なのかという、人の問題だ。

たとえば、小泉元首相は非常に強力で有効な首相のあり方を示した。私自身は小泉氏の100%ファンではないが、政策が正しかったかどうかを別として、さまざまな制約のある中で強烈なリーダーシップを発揮したという点においては、彼の業績は評価できるのではないか。経済財政諮問会議の積極活用や内閣総理大臣秘書官の重用を通じた首相官邸への(権力)集中などは、リーダーシップ行使に有効であることを示した。

一方、民主党政権は内閣官房に国家戦略室を設置し、政権の経済政策の中核的役割を担わせるとしたが、鳩山氏もその後を継いだ菅氏も結局、有言実行できなかった。とどのつまりは、頂きに立つ人物のリーダーシップ次第なのだ。

「戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民」 ・・・ 注目の書

2011-05-20 18:47:28 | オピニオン / 文献
「デンマルク国の話 信仰と樹木とをもって国を救いし話」
内村鑑三


「後世への最大遺物 デンマルク国の話」岩波文庫、1946(昭和21)年

内村鑑三が、1911(明治44)年10月22日、東京柏木の今井館で行った講演を、後に彼が文章化した作品。

デンマークは1864年、ドイツ、オーストリアに迫られて開戦に追い込まれる。敗戦によって国土の最良の部分を失ったこの国は、困窮の極みに達する。復興を願う工兵士官ダルガスが、デンマークの領土の半分以上を占める不毛のユトランドに植林を行って沃土となし、外に失った国土を内に求めようとする苦心を描いたもの。ダルガスの苦心が実り、ヨーロッパ北部の小国が後に、乳製品の産によって、国民一人あたりの換算で世界でもっとも豊かな国の一つとなった。

大震災の日本人に真の勇気と希望を与える書。今静かに注目されている。

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《 》:ルビ  (例)曠野《あれの》
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曠野《あれの》と湿潤《うるおい》なき地とは楽しみ、
沙漠《さばく》は歓《よろこ》びて番紅《さふらん》のごとくに咲《はなさ》かん、
《さかん》に咲《はなさ》きて歓ばん、
喜びかつ歌わん、
レバノンの栄《さか》えはこれに与えられん、
カルメルとシャロンの美《うるわ》しきとはこれに授けられん、
彼らはエホバの栄《さかえ》を見ん、
我らの神の美《うる》わしきを視《み》ん。
           (イザヤ書三五章一―二節)

今日は少しこの世のことについてお話しいたそうと欲《おも》います。

デンマークは欧州北部の一小邦であります。その面積は朝鮮と台湾とを除いた日本帝国の十分の一でありまして、わが北海道の半分に当り、九州の一島に当らない国であります。その人口は二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。実に取るに足りないような小国でありますが、しかしこの国について多くの面白い話があります。

今、単に経済上より観察を下しまして、この小国のけっして侮《あなど》るべからざる国であることがわかります。この国の面積と人口とはとてもわが日本国に及びませんが、しかし富の程度にいたりましてははるかに日本以上であります。

その一例を挙《あ》げますれば日本国の二十分の一の人口を有するデンマーク国は日本の二分の一の外国貿易をもつのであります。すなわちデンマーク人一人の外国貿易の高は日本人一人の十倍に当るのであります。もってその富の程度がわかります。

ある人のいいまするに、デンマーク人はたぶん世界のなかでもっとも富んだる民であるだろうとのことであります。すなわちデンマーク人一人の有する富はドイツ人または英国人または米国人一人の有する富よりも多いのであります。実に驚くべきことではありませんか。


しからばデンマーク人はどうしてこの富を得たかと問いまするに、それは彼らが国外に多くの領地をもっているからではありません、彼らはもちろん広きグリーンランドをもちます。しかし北氷洋の氷のなかにあるこの領土の経済上ほとんど何の価値もないことは何人《なんびと》も知っております。

彼らはまたその面積においてはデンマーク本土に二倍するアイスランドをもちます。しかしその名を聞いてその国の富饒《ふにょう》の土地でないことはすぐにわかります。

ほかにわずかに鳥毛《とりのけ》を産するファロー島があります。またやや富饒なる西インド中のサンクロア、サントーマス、サンユーアンの三島があります。これ確かに富の源《みなもと》でありますが、しかし経済上収支相償うこと尠《すくな》きがゆえに、かつてはこれを米国に売却せんとの計画もあったくらいであります。

ゆえにデンマークの富源といいまして、別に本国以外にあるのでありません。人口一人に対し世界第一の富を彼らに供せしその富源はわが九州大のデンマーク本国においてあるのであります。


しかるにこのデンマーク本国がけっして富饒の地と称すべきではないのであります。国に一鉱山あるでなく、大港湾の万国の船舶を惹《ひ》くものがあるのではありません。

デンマークの富は主としてその土地にあるのであります、その牧場とその家畜と、その樅《もみ》と白樺《しらかば》との森林と、その沿海の漁業とにおいてあるのであります。

ことにその誇りとするところはその乳産であります、そのバターとチーズとであります。デンマークは実に牛乳をもって立つ国であるということができます。

トーヴァルセンを出して世界の彫刻術に一新紀元を劃《かく》し、アンデルセンを出して近世お伽話《とぎばなし》の元祖たらしめ、キェルケゴールを出して無教会主義のキリスト教を世界に唱《とな》えしめしデンマークは、実に柔和なる牝牛《めうし》の産をもって立つ小にして静かなる国であります。


しかるに今を去る四十年前のデンマークはもっとも憐れなる国でありました。一八六四年にドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、その要求を拒《こば》みし結果、ついに開戦の不幸を見、デンマーク人は善く戦いましたが、しかし弱はもって強に勝つ能《あた》はず、デッペルの一戦に北軍敗れてふたたび起《た》つ能わざるにいたりました。

デンマークは和を乞いました、しかして敗北の賠償《ばいしょう》としてドイツ、オーストリアの二国に南部最良の二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。戦争はここに終りを告げました。しかしデンマークはこれがために窮困の極に達しました。

もとより多くもない領土、しかもその最良の部分を持ち去られたのであります。いかにして国運を恢復《かいふく》せんか、いかにして敗戦の大損害を償《つぐな》わんか、これこの時にあたりデンマークの愛国者がその脳漿《のうしょう》を絞《しぼ》って考えし問題でありました。

国は小さく、民は尠《すくな》く、しかして残りし土地に荒漠多しという状態《ありさま》でありました。国民の精力はかかるときに試《た》めさるるのであります。戦いは敗れ、国は削《けず》られ、国民の意気鎖沈しなにごとにも手のつかざるときに、かかるときに国民の真の価値《ねうち》は判明するのであります。

戦勝国の戦後の経営はどんなつまらない政治家にもできます、国威宣揚にともなう事業の発展はどんなつまらない実業家にもできます、難いのは戦敗国の戦後の経営であります、国運衰退のときにおける事業の発展であります。

戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大なる民であります、宗教といい信仰といい、国運隆盛のときにはなんの必要もないものであります。しかしながら国に幽暗《くらき》の臨《のぞ》みしときに精神の光が必要になるのであります。国の興《おこ》ると亡《ほろ》ぶるとはこのときに定まるのであります。

どんな国にもときには暗黒が臨みます。そのとき、これに打ち勝つことのできる民が、その民が永久に栄ゆるのであります。

あたかも疾病《やまい》の襲うところとなりて人の健康がわかると同然であります。平常《ふだん》のときには弱い人も強い人と違いません。疾病《やまい》に罹《かか》って弱い人は斃《たお》れて強い人は存《のこ》るのであります。

そのごとく真に強い国は国難に遭遇して亡びないのであります。その兵は敗れ、その財は尽《つ》きてそのときなお起るの精力を蓄うるものであります。これはまことに国民の試練の時であります。このときに亡びないで、彼らは運命のいかんにかかわらず、永久に亡びないのであります。


越王勾践《こうせん》呉を破りて帰るではありません、デンマーク人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。

「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼らは相互に対していいました。この挨拶《あいさつ》に対して「否《いな》」と答えうる者は彼らのなかに一人もありませんでした。

しかるにここに彼らのなかに一人の工兵士官がありました。彼の名をダルガス(Enrico Mylius Dalgas)といいまして、フランス種のデンマーク人でありました。

彼の祖先は有名なるユグノー党の一人でありまして、彼らは一六八五年信仰自由のゆえをもって故国フランスを逐《お》われ、あるいは英国に、あるいはオランダに、あるいはプロイセンに、またあるいはデンマークに逃れ来《きた》りし者でありました。

ユグノー党の人はいたるところに自由と熱信と勤勉とを運びました。英国においてはエリザベス女王のもとにその今や世界に冠たる製造業を起しました。その他、オランダにおいて、ドイツにおいて、多くの有利的事業は彼らによって起されました。

《ふる》き宗教を維持せんとするの結果、フランス国が失いし多くのもののなかに、かの国にとり最大の損失と称すべきものはユグノー党の外国脱出でありました。しかして十九世紀の末に当って彼らはいまだなおその祖先の精神を失わなかったのであります。

ダルガス、齢《とし》は今三十六歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を架し、道路を築き、溝《みぞ》を掘るの際、彼は細《こま》かに彼の故国の地質を研究しました。しかして戦争いまだ終らざるに彼はすでに彼の胸中に故国恢復《かいふく》の策を蓄えました。

すなわちデンマーク国の欧州大陸に連《つら》なる部分にして、その領土の大部分を占むるユトランド(Jutland)の荒漠を化してこれを沃饒《よくにょう》の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。

ゆえに戦い敗れて彼の同僚が絶望に圧せられてその故国に帰り来《きた》りしときに、ダルガス一人はその面《おも》に微笑《えみ》を湛《たた》えその首《こうべ》に希望の春を戴《いただ》きました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼の同僚はいいました。

「まことにしかり」とダルガスは答えました。「しかしながらわれらは外に失いしところのものを内において取り返すを得《う》べし、君らと余との生存中にわれらはユトランドの曠野を化して薔薇《バラ》の花咲くところとなすを得べし」と彼は続いて答えました。

この工兵士官に預言者イザヤの精神がありました。彼の血管に流るるユグノー党の血はこの時にあたって彼をして平和の天使たらしめました。

他人の失望するときに彼は失望しませんでした。彼は彼の国人が剣をもって失ったものを鋤《すき》をもって取り返さんとしました。今や敵国に対して復讐戦《ふくしゅうせん》を計画するにあらず、鋤《すき》と鍬《くわ》とをもって残る領土の曠漠と闘い、これを田園と化して敵に奪われしものを補わんとしました。まことにクリスチャンらしき計画ではありませんか。真正の平和主義者はかかる計画に出でなければなりません。


しかしダルガスはただに預言者ではありませんでした。彼は単に夢想家《ゆめみるもの》ではありませんでした。

工兵士官なる彼は、土木学者でありしと同時に、また地質学者であり植物学者でありました。彼はかのごとくにして詩人でありしと同時にまた実際家でありました。彼は理想を実現するの術《すべ》を知っておりました。

かかる軍人をわれわれはときどき欧米の軍人のなかに見るのであります。軍人といえば人を殺すの術にのみ長じている者であるとの思想は外国においては一般に行われておらないのであります。


ユトランドはデンマークの半分以上であります。しかしてその三分の一以上が不毛の地であったのであります。面積一万五千平方マイルのデンマークにとりましては三千平方マイルの曠野は過大の廃物であります。これを化して良田沃野となして、外に失いしところのものを内にありて償《つぐな》わんとするのがそれがダルガスの夢であったのであります。

しかしてこの夢を実現するにあたってダルガスの執《と》るべき武器はただ二つでありました。その第一は水でありました。その第二は樹《き》でありました。荒地に水を漑《そそ》ぐを得、これに樹を植えて植林の実を挙ぐるを得ば、それで事《こと》は成るのであります。

《こと》はいたって簡単でありました。しかし簡単ではあるが容易ではありませんでした。

世に御《ぎょ》し難いものとて人間の作った沙漠のごときはありません。もしユトランドの荒地がサハラの沙漠のごときものでありましたならば問題ははるかに容易であったのであります。天然の沙漠は水をさえこれに灑《そそ》ぐを得ばそれでじきに沃土《よきつち》となるのであります。しかし人間の無謀と怠慢とになりし沙漠はこれを恢復するにもっとも難いものであります。

しかしてユトランドの荒地はこの種の荒地であったのであります。今より八百年前の昔にはそこに繁茂せる良き林がありました。しかして降《くだ》って今より二百年前まではところどころに樫の林を見ることができました。

しかるに文明の進むと同時に人の欲心はますます増進し、彼らは土地より取るに急《きゅう》にしてこれに酬《むく》ゆるに緩《かん》でありましたゆえに、地は時を追うてますます瘠せ衰え、ついに四十年前の憐むべき状態《ありさま》に立ちいたったのであります。

しかし人間の強欲をもってするも地は永久に殺すことのできるものではありません。神と天然とが示すある適当の方法をもってしますれば、この最悪の状態においてある土地をも元始《はじめ》の沃饒に返すことができます。まことに詩人シラーのいいしがごとく、天然には永久の希望あり、壊敗はこれをただ人のあいだにおいてのみ見るのであります。


まず溝を穿《うが》ちて水を注ぎ、ヒースと称する荒野の植物を駆逐し、これに代うるに馬鈴薯《じゃがたらいも》ならびに牧草《ぼくそう》をもってするのであります。このことはさほどの困難ではありませんでした。しかし難中の難事は荒地に樹を植ゆることでありました、このことについてダルガスは非常の苦心をもって研究しました。

植物界広しといえどもユトランドの荒地に適しそこに成育してレバノンの栄えを呈《あら》わす樹はあるやなしやと彼は研究に研究を重ねました。しかして彼の心に思い当りましたのはノルウェー産の樅《もみ》でありました、これはユトランドの荒地に成育すべき樹であることはわかりました。

しかしながら実際これを試験《ため》してみますると、思うとおりには行きません。樅は生《は》えは生《は》えまするが数年ならずして枯れてしまいます。ユトランドの荒地は今やこの強梗《きょうこう》なる樹木をさえ養うに足るの養分を存《のこ》しませんでした。


しかしダルガスの熱心はこれがために挫《くじ》けませんでした。彼は天然はまた彼にこの難問題をも解決してくれることと確信しました。ゆえに彼はさらに研究を続けました。しかして彼の頭脳《あたま》にフト浮び出ましたことはアルプス産の小樅《こもみ》でありました。もしこれを移植したらばいかんと彼は思いました。

しかしてこれを取り来《きた》りてノルウェー産の樅のあいだに植えましたときに、奇なるかな、両種の樅は相いならんで生長し、年を経るも枯れなかったのであります。ここにおいて大問題は釈《と》けました。ユトランドの荒野に始めて緑の野を見ることができました。緑は希望の色であります。ダルガスの希望、デンマークの希望、その民二百五十万の希望は実際に現われました。


しかし問題はいまだ全《まった》く釈けませんでした。緑の野はできましたが、緑の林はできませんでした。ユトランドの荒地より建築用の木材をも伐り得んとのダルガスの野心的欲望は事実となりて現われませんでした。

《もみ》はある程度まで成長して、それで成長を止めました、その枯死《かれること》はアルプス産の小樅《こもみ》の併植《へいしょく》をもって防《ふせ》ぎ得ましたけれども、その永久の成長はこれによって成就《とげ》られませんでした。

「ダルガスよ、汝の預言せし材木を与えよ」といいてデンマークの農夫らは彼に迫りました。あたかもエジプトより遁《のが》れ出でしイスラエルの民が一部の失敗のゆえをもってモーセを責めたと同然でありました。

しかし神はモーセの祈願《ねがい》を聴きたまいしがごとくにダルガスの心の叫びをも聴きたまいました。黙示は今度は彼に臨《のぞ》まずして彼の子に臨みました、彼の長男をフレデリック・ダルガスといいました。彼は父の質《たち》を受けて善き植物学者でありました。彼は樅《もみ》の成長について大なる発見をなしました。


若きダルガスはいいました、大樅がある程度以上に成長しないのは小樅をいつまでも大樅のそばに生《はや》しておくからである。もしある時期に達して小樅を斫《き》り払ってしまうならば大樅は独《ひと》り土地を占領してその成長を続けるであろうと。しかして若きダルガスのこの言を実際に試《ため》してみましたところが実にそのとおりでありました。

小樅はある程度まで大樅の成長を促《うなが》すの能力《ちから》を持っております。しかしその程度に達すればかえってこれを妨ぐるものである、との奇態《きたい》なる植物学上の事実が、ダルガス父子によって発見せられたのであります。しかもこの発見はデンマーク国の開発にとりては実に絶大なる発見でありました、これによってユトランドの荒地挽回《ばんかい》の難問題は解釈されたのであります。これよりして各地に鬱蒼《うっそう》たる樅の林を見るにいたりました。

一八六〇年においてはユトランドの山林はわずかに十五万七千エーカーに過ぎませんでしたが、四十七年後の一九〇七年にいたりましては四十七万六千エーカーの多きに達しました。しかしこれなお全州面積の七分二厘に過ぎません。さらにダルガスの方法に循《したが》い植林を継続いたしますならば数十年の後にはかの地に数百万エーカーの緑林を見るにいたるのでありましょう。実に多望と謂《いい》つべしであります。


しかし植林の効果は単に木材の収穫に止《とど》まりません。第一にその善き感化を蒙《こうむ》りたるものはユトランドの気候でありました。樹木のなき土地は熱しやすくして冷《さ》めやすくあります。ゆえにダルガスの植林以前においてはユトランドの夏は昼は非常に暑くして、夜はときに霜を見ました。四六時中に熱帯の暑気と初冬の霜を見ることでありますれば、植生は堪《たま》ったものでありません。

その時にあたってユトランドの農夫が収穫成功の希望をもって種《う》ゆるを得し植物は馬鈴薯、黒麦、その他少数のものに過ぎませんでした。しかし植林成功後のかの地の農業は一変しました。

夏期の降霜はまったく止《や》みました。今や小麦なり、砂糖大根なり、北欧産の穀類または野菜にして、成熟せざるものなきにいたりました。ユトランドは大樅《おおもみ》の林の繁茂のゆえをもって良き田園と化しました。木材を与えられし上に善き気候を与えられました、植ゆべきはまことに樹であります。


しかし植林の善き感化はこれに止《とど》まりませんでした。樹木の繁茂は海岸より吹き送らるる砂塵《すなほこり》の荒廃を止《と》めました。北海沿岸特有の砂丘《すなやま》は海岸近くに喰い止められました、樅《もみ》は根を地に張りて襲いくる砂塵《すなほこり》に対していいました、

ここまでは来《きた》るを得《う》べし
しかしここを越ゆべからず

と(ヨブ記三八章一一節)。北海に浜《ひん》する国にとりては敵国の艦隊よりも恐るべき砂丘《すなやま》は、戦闘艦ならずして緑の樅の林をもって、ここにみごとに撃退されたのであります。


霜は消え砂は去り、その上に第三に洪水の害は除かれたのであります。これいずこの国においても植林の結果としてじきに現わるるものであります。もちろん海抜六百尺をもって最高点となすユトランドにおいてはわが邦《くに》のごとき山国《やまぐに》におけるごとく洪水の害を見ることはありません。しかしその比較的に少きこの害すらダルガスの事業によって除かれたのであります。

かくのごとくにしてユトランドの全州は一変しました。廃《すた》りし市邑《しゆう》はふたたび起りました。新たに町村は設けられました。地価は非常に騰貴《とうき》しました、あるところにおいては四十年前の百五十倍に達しました。道路と鉄道とは縦横《たてよこ》に築かれました。わが四国全島にさらに一千方マイルを加えたるユトランドは復活しました、戦争によって失いしシュレスウィヒとホルスタインとは今日すでに償《つぐな》われてなお余りあるとのことであります。

しかし木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、畜類よりも、さらに貴きものは国民の精神であります。デンマーク人の精神はダルガス植林成功の結果としてここに一変したのであります。

失望せる彼らはここに希望を恢復しました、彼らは国を削《けず》られてさらに新たに良き国を得たのであります。しかも他人の国を奪ったのではありません。己れの国を改造したのであります。

自由宗教より来る熱誠と忍耐と、これに加うるに大樅《おおもみ》、小樅《こもみ》の不思議なる能力《ちから》とによりて、彼らの荒れたる国を挽回《ばんかい》したのであります。


ダルガスの他の事業について私は今ここに語るの時をもちません。彼はいかにして砂地《すなじ》を田園に化せしか、いかにして沼地の水を排《はら》いしか、いかにして磽地《いしじ》を拓《ひら》いて果園を作りしか、これ植林に劣らぬ面白き物語《ものがたり》であります。これらの問題に興味を有せらるる諸君はじかに私についてお尋ねを願います。

      *      *      *      *

今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、私どもに何を教えますか。

第一に戦敗かならずしも不幸にあらざることを教えます。国は戦争に負けても亡びません。実に戦争に勝って亡びた国は歴史上けっして尠《すくな》くないのであります。

国の興亡は戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養によります。善き宗教、善き道徳、善き精神ありて国は戦争に負けても衰えません。否《いな》、その正反対が事実であります。牢固《ろうこ》たる精神ありて戦敗はかえって善き刺激となりて不幸の民を興します。デンマークは実にその善き実例であります。

第二は天然の無限的生産力を示します。富は大陸にもあります、島嶼《とうしょ》にもあります。沃野にもあります、沙漠にもあります。

大陸の主《ぬし》かならずしも富者ではありません。小島の所有者かならずしも貧者ではありません。善くこれを開発すれば小島も能く大陸に勝《ま》さるの産を産するのであります。

ゆえに国の小なるはけっして歎《なげ》くに足りません。これに対して国の大なるはけっして誇るに足りません。富は有利化されたるエネルギー(力)であります。しかしてエネルギーは太陽の光線にもあります。海の波濤《なみ》にもあります。吹く風にもあります。噴火する火山にもあります。もしこれを利用するを得ますればこれらはみなことごとく富源であります。

かならずしも英国のごとく世界の陸面六分の一の持ち主となるの必要はありません。デンマークで足ります。然《しか》り、それよりも小なる国で足ります。外《そと》に拡《ひろ》がらんとするよりは内《うち》を開発すべきであります。

第三に信仰の実力を示します。国の実力は軍隊ではありません、軍艦ではありません。はたまた金ではありません、銀ではありません、信仰であります。

このことにかんしましてはマハン大佐もいまだ真理を語りません、アダム・スミス、J・S・ミルもいまだ真理を語りません。このことにかんして真理を語ったものはやはり旧《ふる》い『聖書』であります。

もし芥種《からしだね》のごとき信仰あらば、この山に移りてここよりかしこに移れと命《い》うとも、かならず移らん、また汝らに能《あた》わざることなかるべし

とイエスはいいたまいました(マタイ伝一七章二〇節)。また

おおよそ神によりて生まるる者は世に勝つ、われらをして世に勝たしむるものはわれらの信なり

と聖ヨハネはいいました(ヨハネ第一書五章四節)。世に勝つの力、地を征服する力はやはり信仰であります。ユグノー党の信仰はその一人をもって鋤《すき》と樅樹《もみのき》とをもってデンマーク国を救いました。

よしまたダルガス一人に信仰がありましてもデンマーク人全体に信仰がありませんでしたならば、彼の事業も無効に終ったのであります。この人あり、この民あり、フランスより輸入されたる自由信仰あり、デンマーク自生の自由信仰ありて、この偉業が成ったのであります。

宗教、信仰、経済に関係なしと唱《とな》うる者は誰でありますか。宗教は詩人と愚人とに佳《よ》くして実際家と智者に要なしなどと唱うる人は、歴史も哲学も経済も何にも知らない人であります。

国にもしかかる「愚かなる智者」のみありて、ダルガスのごとき「智《さと》き愚人」がおりませんならば、不幸一歩を誤りて戦敗の非運に遭いまするならば、その国はそのときたちまちにして亡びてしまうのであります。

国家の大危険にして信仰を嘲り、これを無用視するがごときことはありません。私が今日ここにお話しいたしましたデンマークとダルガスとにかんする事柄は大いに軽佻浮薄《けいちょうふはく》の経世家を警《いまし》むべきであります。

古代ローマの災害対策

2011-05-07 16:27:10 | オピニオン / 文献
古代ローマの災害対策
塩野七生 「 ローマ人の物語 17 」 悪名高き皇帝たち[一]
(新潮文庫 p194-196) より


皇帝に就任するにも元老院の承認が必要であるだけでなく、皇帝の後継者選びにも元老院の承認がないと実現不可、皇帝勅令でさえも暫定措置法でしかなく、恒久的な政策にしたいと思えば、これまた元老院の決議を必要とし、それがなければ法制化も不可といいうのが、アウグストゥスの創設したローマの帝政であった。

ローマの皇帝とは、支那の皇帝を思い起こしていては理解不可能な存在なのである。ペルシアなどのオリエントの君主制ともちがう。ローマ的、という形容詞をつけるしかない皇帝なのであった。


こうなると、元老院との関係をどのように機能させるかは、大変に重要な問題になってくる。アウグストゥスも苦労したが、ティベリウスも放置は許されなかった。


元老院の議員定数は六百人である。公務で帝国全域に散っている議員は多かったとしても、四百から五百の議員が討議を重ねた末にようやく議決になる。結論が出るのに長期間を要することもしばしばだった。これでは、緊急に手を打たねばならないような場合は、機能停止と同じことになる。それでティベリウスは、委員会方式を考えついたのであった。

元老院議員の中の五人ないし十人で対策委員会が設置され、皇帝の提案をそこで協議し、ただちに結論を下すのである。また彼らには、決めるだけでなく現地にとび、実行に移す任務も課されていた。地震や火災対策では、このシステムは見事に機能した。


紀元一七年、小アジアの南西部を大地震が襲ったことがある。激震の後は火災で、この地方の都市サルディス、マグネシア、フィラデルフィアは壊滅状態。エフェソスまでが余震の被害をまぬがれなかった。ローマ帝国内では、「アジア属州」と呼ばれ、元老院の管轄下の属州である。常ならば元老院での討議を経て対策が決まるところだが、ことは急を要した。


報告を受けるやいなや、ティベリウスは対策委員会の設立を求めた。そして設立成った委員会に、彼の考える対策を提出し、採決を求めたのである。

 一、緊急援助とインフラ設備の再建に、一億セステルティウスの国庫からの支出
 二、被災者には、五年間にわたっての属州税免除

一億セステルティウスの価値だが、ローマ帝国の防衛を担当する全将兵への、一年間の給料の二分の一にもあたる額である。そして属州税は、現代風に考えれば国税と地方税のことであった。

つまり、ティベリウスの災害対策とは、緊急に必要とする援助と社会資本の再建は、国が考える。ただし、五年の間の税金は免除するから、個々人の再興は自助努力で成せ、であったのだ。


このティベリウスの被災地対策は、一時のことで終わりにはならなかった。以後のローマの皇帝たちも、天災に見舞われるたびにこのときと同様の策で対応するようになる。

そして当然のことだが、緊急援助の金額と属州税免除の期間は、被害の程度によって決められた。それでも、免除期間が三年以内であったことはなかった。

ティベリウス方式がモデルになりえたのは、紀元一七年当時の小アジア南西部の再建の成果がいちじるしかったからで、サルディスの街にいたっては三年間で再興され、属州税支払いも再開可能と伝えてきたほどである。

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ローマ帝国は、カエサルが企画し、アウグストゥスが構築し、ティベリウスが盤石のものにした、というのが塩野さんの位置づけです。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ティベリウス・ユリウス・カエサル(BC42年11月16日 - AD37年3月16日)は、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:AD14年 - 37年)。

アウグストゥスの後継者として、金融危機対策、辺境防衛網の確立など優れた行政手腕を発揮した。「アウグストゥスの政治は、自分にとっての法である」とまで述べて、その継承と確立に努めた。

ユリウス・カエサル、アウグストゥスは数多くの権力闘争を通じて元老院との闘争に勝ち抜いて共和政を装った帝政を構築したが、ティベリウスの役目はそれを定着させる事であった。帝位を通じて彼は自らの業績を飾る事は極力避け、また過剰なローマへの公共投資も控えた。

彼の業績は同時代人および古代ローマ時代を通じて評価される事はなく、再評価されるのは彼の死後1700年以上も経った啓蒙主義の時代からである。

菅を変えて、国難を乗り切ろう

2011-05-04 12:10:34 | オピニオン / 文献
「菅降ろし」の動きの本質は(嶌 信彦 氏)
TBS RADIO 「森本毅郎・スタンバイ」(2011.04.27)より
http://www.tbs.co.jp/radio/stand-by/personality/index-j.html


(前半部分省略)

菅は変えたほうが良い

問題は、政局論的に菅さんを引きずり降ろして次の内閣にと、そういう政局的発想だけから言うと、「この大事な時に、何を党内で騒ぎをしているのだ」というふうに国民に思われると思うんですね。

で、菅さんも国会でそういうようなことを答弁をしている。「菅さん、辞めたらどうか」と言われるのに対して、「私はこの津波とか原発とか、こういう国難的な問題、そして財政再建というのは、自分に与えられた宿命である」と、「従って、これをやるまでは辞めません」と言って、「来年の任期一杯まではやるんだ」ということを言っているんですね。

大体こういう時に菅降ろしなど出来る訳ないだろうと、一種高をくくったような態度が何となく見え隠れする訳です。


本当に菅さんが今の日本がぶつかっている問題を出来ないんだったら、やっぱり変えたほうが良いと思うのです。

だけれども、本当に、民主党のグループ、あるいは自民党のグループ、野党のグループもですね、誰が一体、どういう方針で、どういう哲学を持って、国民を惹きつけて行くか、そういうところが見えないところに、この菅降ろしの話というのは、如何にも国会の政局的な動きだな、というふうに見られてしまっているんじゃないかと思う。

トップを変えて国難を乗り切った「明治維新」と「敗戦後」

歴史を振り返って見ると、明治維新の時に、日本はそれこそヨーロッパやアメリカの植民地になるかも知れないと、本当に大国難を控えていた訳です。

だけどその時に、今の幕府ではとてもこれに対応できないということで、薩長土肥なんかを中心とした下級武士だとか、一部の町民なんかが加わって、江戸幕府を倒して、そして明治維新を作って、新しい憲法を導入して、そして日本は途上国から先進国にひた走って行く訳です。

それから一方で、第二次世界大戦に負けた時、これも瓦礫の山と崩れるんですけれども、その後は、当時を引っ張っていた政治家や財界人なんかみんなパージ、追放を食らって、若い官僚だとか経済人だとか政治家が、新しい世の中を作って行く訳です。


だから日本が国難に遭っていると言ったからといって、政治の指導者とか経済の指導者を変えてはいけない、という論理はないと思うし、変えることによって良くなることも十分にあり得ると思うんですね。

そういう意味で言うと、今の菅降ろしというのは一体実態は何なのか、そして変えた場合に本当に良くなるというような、人と旗と哲学と、そういったものをきちんと立ててくれれば、国民は案外そっちに行くのかなという気がしない訳ではありません。

「日本は強い国」、「団結しよう」、「一つになろう」 は危険!

2011-05-04 11:24:18 | オピニオン / 文献
東日本大震災をどう受け止めるか 2
オンザウェイ・ジャーナルweekend「月刊 寺島実郎の世界」(2011.04.22)
http://www2.jfn.co.jp/owj/tera/index.php


(前半・中盤 省略)

関東大震災時とよく似た政治・メディア状況

関東大震災の教訓ということをあえて申し上げておきたい。1923年9月1日に関東大震災が襲いました。

実は、かなりよく似た状況で大震災が起こっているのです。何だというと、政治なんです。それとメディア状況もそうなんです。

前の総理大臣だった加藤友三郎が死ぬんですよ。病死するんですね。その年の8月26日に新しい内閣を作らなくてはいけないということになって、西園寺公望なんかが走り回って、山本権兵衛という海軍の長老に白羽の矢が立つんです。

で、どうしてそうなったかと言うと、今と似ているという意味は、政党に対する怨嗟の空気というか、政友会でも憲政会でもロクなことはないと、ため息交じりのような、政党に対する嫌悪感が国民の気持ちの中にもあって、震災が起こったから出てきたキーワードではなくて、挙国一致内閣というのが山本権兵衛内閣のキーワードだったんですよ。今と同じなんです。

で、9月1日に地震を受けて、2日に認証式があったんだけれど、余震くすぶる中、赤坂離宮のテントで、昭和天皇が摂政の宮として機能していて、要するにこの内閣だけは、認証式の後の写真さえ残っていないという、あわただしさで震災を受けとめてスタートして行った訳です。

「日本は強い国だ」「団結しよう」「一つになろう」は危険!

この時、大正デモクラシーに止めを刺したのが、関東大震災だったと言えます。その前年の1922年に、国際協調主義に転じた日本ということで、ワシントン軍縮会議に参加して、ワシントン会議なるものが行われました。大正デモクラシーのピークだった訳です。

ところが、1923年の大震災を境にして、一気に、極端に言うと軍国主義というか、いわゆる軍部の台頭だとか、14年後に瞬く間に中国との戦争が始まり、さらにその4年後に真珠湾となって行くのです。

どうしてそうなったかと言うと、正に不安と恐怖心というのかな、要するにこういう事態に襲われてくると、即時的同一化という言葉があるのですが、瞬時にこの際対立しあっている場合ではない、という感じで、最近のテレビのCMをじっと見ていると、その種の危うさを感じます。「日本は強い国だ」と、「団結しよう」と、「一つになろう」と、いきなりそういうことが言われ始めるのです。

この際いろいろもみ合っている場合じゃないと、力合わせようとか、団結しようとか、協調しようとか。

大切なことなんですよ。だけど、根拠と展望のある形で、団結とか協調とかを語らないと、何でもかんでもとにかく統合思考というのかな、不安の心理の中から芽生えるのは何だというと、ファシズムなんですよ。

つまり、混乱の中から、混迷の中から、不安の中から、この際束ねてくれる力のある奴がいたらまだましだ、ということで、それこそワイマールからヒトラーが出てきたように、フランス革命の混乱の中からナポレオンが出てきたように、束ねてくれる力に対して変な願望が高まると一気に統合思考に入って行くんですよ。

根拠と展望のある思考が大切

ここで本当に大事なのは、では安易に統合思考に走って良いのか、というのが大事で、この際大連立の話だとか、すべてこの際なんですよ。あらゆる議論してきたこと、積み上げてきたことをもうチャラにして、この際はもう力を合わせて行きましょうと。聞こえは良いんだけれど。

実はそこでしっかり持ちこたえないと、今は軍部が台頭するという時代ではないですよ。だけど、新たなる統合思考の中から、何が生まれて来ないとも限らないところに、この国の不安定な話がある訳なんです。

やたらに、日本人の秩序正しさだとか、日本人の団結心の強さとかを持ち上げるような空気みないなものが一方では起こり始めているでしょ。

そういう時こそ、やはり震災という事態を踏まえて、自分たちがどういうバランス感覚と、どういう判断を持って生きて行かなくてはならないということを、ものすごく問われている。

とにかく、もっとも今、気を付けなければいけないタイミングに差し掛かっている。