言語と思考:外国語の効用
2014年5月6日 20:58問題提起は下記サイト マンデラ氏の外国語で話すと論理的になる等の効果について
http://gigazine.net/news/20140426-foreign-language-effect/
http://pss.sagepub.com/content/early/2012/04/18/0956797611432178
外国語を使うと問題に対して心理的距離を取ることができ、慎重になる、と結論づけています。
外国語は私たちの感情と強く結びついていないため、例え一定の言葉に焦点が当てられていても、冷静に考えて論理的に結論を出すことが可能なのです。
The Foreign-Language Effect:Thinking in a Foreign Tongue Reduces Decision Biases
私は、英語学習を通じて、英語(英語、アメリカ語)を使っているがゆえに論理的思考に役立つと信じ込んでいたのだが、
必ずしもそれは英語の特徴的構造によるものではなかったのかもしれないと思い以下Noteにまとめた。
英語では確かに、日本語(ある意味英語の対極になると言われる情緒的あいまいさを持った言語)と違った特徴・構造があるだろう。
1)単数複数を意識する・言語化する
2)時制を意識する・言語化する
3)主語と目的語を意識する・言語化する
といった具合だ。これらは対象・目的をはっきりさせることに関しては日本語よりも長けていると言える。
これに加えて、マンデラ氏のいう外国語の効用が今回の問題提起である。 英語は私の外国語であり、情緒的な言い回し、英語が話される背景(経験)に乏しいため、論理に集中せざるを得ない。論旨を単純化するのでは収拾がつかないため、論旨を見極める事に集中する。
つまり語彙の選択の正確さ、言葉の背景、文脈での正当性などを検証していくのである。
これは、母国語以外のこうした外国語による効用であり、波及的に言えば、日本での日本語ディベート(我々が19年前に立ち上げた全国教室ディベート連盟とは対峙する形でその何十年も前からある英語ディベート教育(日本でいう英語ディベート)の英語で行う事の効用ともいえる。
(フランス語やドイツ語や中国語でもいいのだが)
外国語としての英語を考察する3つめの例としては、私が学生時代に大学でやってた(英語)Debateの題材が私には大きくかかわる。
Debateの論題は政治・経済イシューがおおく、その範囲においては日本語よりも英語で話す、または考えるほうが楽だという分野がある。
これはまさにその言語を通じた討論や思考を含めた経験により、私の実体験として英語で思考するほうが楽なものがある。
日本語ではかえってうまく回らず英語から日本語に一旦訳すということもある。
皆さんも、たとえば専門用語 Jargonというのがあり、TVで面白おかしく英語禁止ゴルフ大会やボーリング大会がたまにあるように英語の単語のほうが慣れているため日本語だけで話すことはかえって苦痛ということがわかるだろう。
政治・経済ネタ、コンピュータ関連、技術分野を日本語だけで語れというのは苦しい。 私の大学時代のDebate論題はまさにすべてが英語での専門用語+英語での思考の流れの経験の積み重ねであるため、英語が楽という分やがある。
このように英語の、①日本語と比較した場合の論理性(構造)と、②外国語としての特徴(論理以外の部分を省いたToolとなること)、
また③対象となるトピックスによるが 過去の実体験により英語を使用した方が楽である場合が少なからずある、
という3面から、私は、英語による論理的思考(論旨展開)は大いにあり得るしおすすめしたい。
一方、論理の対極を成す情緒、感情面ではどうか?
普段から論理は価値観であると、ディベート普及活動を通じて言いまわっているものとして分析をすると以下のようになる。
英語という言語は、詩や、文学や、情緒を扱う対象のトピックスには不向きか? いや、私が、単に情緒を英語で表現するのが苦手なだけである。
マンデラ氏の外国語の効用の逆で、外国語は、よく知らないからこそ難しいだろう。正確にいえばすべてを言い尽くしていないなどと英語で述べ初めると迷いができ、論旨の結晶化が妨げられあれもこれもで周辺事例と主旨の重みが均等となりぼやける。
また、社会人となり、ビジネスを通じてドイツ人、ドイツ語と触れた時に、英語よりももっと論理的で細かい文法分けのあるドイツ語を通じて
面白い経験をした。ドイツ語を使いながら情緒あふれる、ある意味非論理的な訴えをする場面に多々出会うにつれ、言語がどれほど思考を規定するのだろうかという疑問が湧いきたのである。
論理的と言われるドイツ語を使いながらドイツ人たちの討論を目の当りにし、それぞれの場面での感情と論理(論理の飛躍)を平易な英語に噛み砕いて説明してもらったことが幾度となくあった。
今思うに、英語もそうかもしれないが、大きな論理、大きな枠組みによる感情表現をしているのではないかという仮説。
’細分化された言葉による表現ではなく、そいういったものがあるような気がする
しかしこれこそ、双方が外国語としての英語で理解しあっていたため、それこそ外国語の効用であったかもしれないし、次に書く水平訳だったのかもしれない。(この部分は再考します)
情緒とは少し離れるが、松本道弘氏が、英語の大和言葉、英語圏での独特な言い回しとその背景・思考について多々、著書を出しており、それを集中的に学んでいた時があった。 それらの言い回しから、その英語圏の世界に触れ疑似体験ができるとも思っていた。
この松本道弘氏のいう水平訳(完全に原体験には共感することはないが、こっちの世界で言えば、そちらのxxxはYYYのようなもんだ という翻訳思考)を著書で知るたびに、感心した次第である。
こうした水平訳は、バックグラウンドが異なる男女の恋愛のようなもので、いきなり一般的な論理を振りかざしてみても、個別の(恋愛)事情には
なんら効果はない。
情緒、感情、価値観は、共感する背景・経験を共有してはじめてLogicとしてつながる。 だからこそ、双方の持つ経験が違えば価値観の重みが違い、一般論は意味がなくなる。
しかしそれを乗り越える類似アプローチが松本道弘氏のいう水平訳であったのではないか?
水平訳は、相手の世界を知っていれば別だが、そうでない場合は、相手の実体験を推しはかり、具体例を拾い上げて模索すしながら、大義・一般論から繹的に挟み込み、なんとか無理なくLogicをつなぎ合わせて落ちどころを探るしかない。共感、納得の域に達するまで続けるしかない。
私は、松本道弘氏のいう水平訳に似たものをビジネスの場では Cozy misunderstanding/Comfortable misunderstandingと言っている。
外国語であればこそ、うまい納得(納得したと思い込む・それ以上の結論はないと思う)を可能にするのかもしれない。
(よく夫婦になれば片目を閉じろ、というのと同じで日本語同士のほうが不都合な場合もあるだろう。外国語同士のほうがうまくいく)
また将来再考、修正するかもしれません。
2014年5月6日(火曜日)
西澤 良文