2024.10.31に、このygv123ブロブ退会します

■全記事数=313記事
■開設日2007/8/24 →2024/10(17年間)
長い間ありがとうございました。

浅田真央(23歳)の家族環境・私生活の過去~現在⇔山田満知子コーチによる発掘と言う伊藤みどりの幸運

2009年06月15日 21時08分03秒 | Weblog
11000文字数

家族、稼ぎ、男…浅田真央(23歳)の“私生活”

真央の父(敏治55)は昔、名古屋の“夜王”
2013年12月29日日刊ゲンダイ


名古屋市内の通称「女子大小路」と呼ばれる一角で、
真央の父・敏治(55)は売れっ子ホストとして知られた存在だった。
小学生(敏治)の頃に父親(敏治の父)が死去。
繁華街で働いて、家計を支えてきた苦労人(敏治)だ。

2011年12月に早世(早死)した真央の母・匡子(享年48)も若くして両親(匡子の親)を失っている。姉と2人(匡子とその姉=2人)、それこそ身を削るような努力で生計を立ててきた女性(匡子)だ。

■破産寸前まで娘(真央)に投資
青春を犠牲にして働いた男女(敏治&匡子)は夜の街で出会い、やがて結ばれた。
後の天才少女(真央)が生まれたのは、1990年9月25日。
宝塚ファンの父(敏治)はトップスター大地真央にちなんで「真央」と命名した。

母(匡子きょうこ)には家庭の事情で諦めた夢があった。プロのバレエダンサーになる。
その夢を託すように真央には3歳からバレエを習わせた。

「真央ちゃんが初めてリンクに立ったのは、5歳のとき。足首が鍛えられてバレエが上達する。そう考えて匡子さんはフィギュアを学ばせたのです」(浅田家の知人)

あくまで「バレエのためのフィギュア」で、真央はメキメキと頭角を現していく。小3で全日本の新人発掘合宿に招集。小6で最難度のトリプルアクセルを跳んだ。

この子を金メダリストに育てる――。両親も腹をくくった。
バレエ教室をやめ、放課後は母の車で大須のリンクに移動し、連日5時間の猛練習。スケート優先の生活で学校を休む日も増え、同級生と遊ぶ時間もなくなった。

■ノーブラ■

「真央はブラジャーしていないから、楽でいいわね。舞(姉)の(おっぱいを)半分もらいなさい」。週刊誌が報じた安藤美姫の発言。確かにお世辞にも巨乳とは言えないサイズだ。姉の〈舞のおっぱいEカップ〉というメッセージ付きプリクラ画像がネット上に流出している。 

フィギュアは金のかかるスポーツだ。
コーチの指導料、有名クラブの登録料、衣装代、遠征費……。
1年で大手企業の会社員の年収分が軽く吹き飛ぶ。
しかも姉の舞も国内トップ級のスケーターだ。
独立した父の経営店は大繁盛だったが、姉妹の育成費を捻出するのは至難のワザだった。

名古屋市名東区の住宅地にある浅田家の登記簿を見ると、資金繰りの厳しさがうかがえる。
真央誕生(1990/9/25)の翌年に3階建ての住居を新築。父はそのローンを抱えながら、05年8月に土地建物を担保に差し出し、大手消費者金融からカネを借りた。極度額は1300万円に上った。

■ひっそりと街から消えた父

「あの頃が一番苦しかった。一家が破産してもおかしくなかった」
母(匡子)が生前、知人に当時を振り返った言葉だ。

05年12月に15歳でGPファイナルを制して以降、真央は年4~7社とCM契約を結び、出演料は1本4000万~6000万円とされる。年間1億円以上を稼ぐ、国民的アイドルとなった頃、
父(敏治)は密かに夜の商売から離れた。

「娘(真央)の体面を気にしたんだろう。最近はだいぶ減ったけど、まだ世間に誤解を受ける職業でもある。自分の因果を、かわいい娘に背負わせたくない。そう考えたのでしょう」
とは、父を知る"女子大小路"の老経営者。


父(敏治)はメディアの前に現れようとしない。どんな人物なのか。
本紙記者(日刊ゲンダイ)は浅田家前で対面した。

180センチ近い長身、ロマンスグレーを横分けにした風貌は歌手の玉置浩二を彷彿させる。運転するトヨタ車の助手席にはサングラスに深紅の口紅、黒ずくめで大人っぽい衣装の真央を乗せていた。直撃取材は真央の女性マネジャーに制止されたが、父の娘へのまなざしは柔和そのもの。

消費者金融の根抵当権が外れたのは07年4月、住宅ローンの完済は10年9月のことだ。
娘(真央)の稼ぎは育成に投資し、返済は後回しにした結果だろう。

■ひとり飯(真央)

現在(2014)、中京大近辺のマンションでひとり暮らし。行きつけの定食屋で、ひとりで納豆を食べる姿が、しばしば目撃されている。

■淡い夢阻む連盟のソロバン勘定

「五輪という最高の舞台を集大成にしたい」

今季(2014)限りの引退を決めた真央。何よりカゴの鳥の生活だ。10代前半から、ほぼ休みなく、黙々とスケート漬けの日々。同級生たちのように合コンやデート、青春を満喫する機会はなかった。

「大学までスケート最優先の生活で、多感な時期を共有できた友人は見当たらない。フィギュア界では“妹キャラ”で可愛がられているけど、心を割って話せる相手は姉の舞さんしかいないんじゃないかな」(スポーツライター)

1年前の雑誌インタビューで真央はこんな心境を吐露していた。

「出会いがないんです。本当は普通の22歳なんですけどね。みんなと一緒の日本人なのに」

引退後は結婚もしたいし、子供もたくさん欲しい。
そんな淡い期待に立ちはだかるのが「大人の事情」だ。

■スケ連の資産の増殖■
真央が鮮烈デビューを飾って以降、
日本スケート連盟は空前のフィギュアブームに沸き、バブルを享受してきた。
公表する財産目録によると、
・06年6月末に約4.6億円だった「正味財産」は、
・13年同期でおよそ3倍の約13.6億円まで膨んだ。

貢献したのは主催大会の放映権料だ。
・05年度に年約4500万円に過ぎなかった収入が、
・13年度には約2億円まで跳ね上がった。

「スケ連は資産を貯め込むだけで、後進の選手は全く育っていない。真央たち黄金世代が引退し、視聴率が稼げなくなれば、テレ朝やフジの中継撤退は十分に考えられます」(広告代理店関係者)

■処女伝説

まったく男の影が感じられない。高橋大輔や小塚崇彦との仲を勘ぐる声もあるが、互いにジュニア時代から顔を合わせてきた仲。兄妹のような関係の域を出ないとか。やはり……。

そのため、五輪後は真央を1年ほど休養させ、現役は続行させる。18年の次回五輪に出るのかどうか。ファンの気をもたせ、フィギュア界の屋台骨を支え続けてもらう――。
そんな声もメディア関係者から漏れ伝わってくる。

真央がささやかな夢をかなえる日は来るのだろうか。

■理想の相手

年上で優しくて面白い人。辛酸なめ子との対談で北斗晶の夫で、レスラーの佐々木健介がタイプと打ち明けている。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

真央とのスケート観にズレ…佐藤コーチ(72歳)の指導に“疑問”の声
2014/2/22日刊ゲンダイ

浅田真央が佐藤信夫コーチ(72)に師事したのは、2010年9月から。
以来、ジャンプやスケーティングを基礎から見直してきた。約3年半で真央のスケーティングやステップはよくなったが、なぜかトリプルアクセル(3A)の成功率は上がらなかった。

五輪シーズンに入っても、3Aは一度も成功していない。それなのに今年(2014)に入ると、フリーで2度跳ぶはずだった3Aを1回に減らすというプログラムの変更で対処しようとした。

■あるフィギュア関係者が言う。

「佐藤コーチという人は、リスクの高い3Aを跳ばなくても、他のジャンプをしっかり決めてノーミスなら勝てると思っていました。3Aを決めないと満足感を得られない真央とは、スケート観に距離やズレがあったのです。3Aの成功率が上がらなかったのは、佐藤コーチ自身に『完璧な3Aを跳んで金メダルを取らせる』という強い意志がなかったからではないでしょうか」

■相次ぐ「練習させすぎ」の声

腰痛の持病がある浅田はこの3年半で腰回りが大きくなリ、大人の女性の体格になった。
それに対応した適切な指導も行っていたのかという疑問も残る。

ソチで行われた12年のグランプリファイナルの時には、腰が痛くて体に力が入らないという真央に「最後まで踏ん張れ」と言って演技をさせた。

「その話を聞いた外国のコーチは、『選手をつぶす気か。どうかしている』と呆れていた。佐藤コーチはSPの信じられないミス(2014/2/20)について、『何が原因でのみ込まれてしまったのかわからない』と言った。こんなコメントを聞くと、真央が佐藤コーチと組んだのはベストな選択ではなかったと思う」(前出の関係者)

真央の元コーチで、今回のフリーの振り付けを担当したタラソワはSPを中継した地元テレビ局の解説で、「長時間の練習」がジャンプミスの原因と指摘。「大会前にたくさん練習をすることはまったく正しくない」と言った。この点も、佐藤コーチはブレーキをかけるべきだった。

羽生結弦は絶大な信頼を寄せているコーチ、ブライアン・オーサーで見事金メダル(2014/2/)を取った。トリノ五輪で金の荒川静香も、大会前にタラソワからモロゾフにコーチを変えている。

指導力に疑問符が付くベテランコーチ(佐藤信夫)と、頼り切ってしまった選手(真央)……
浅田真央がギクシャクしたままソチ五輪(2014)を終えたのは、ファンも悔いが残る。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

誰も気づかなかった浅田真央の“心の変化”/精神科医(奥田弘美)が分析
2014年2月22日日刊ゲンダイ

浅田真央のショートプログラム(SP)の大きなミスは、
五輪の緊張とか、メンタルが弱いというものではありません。

浅田真央は11年12月に最愛の母を失い大きなショックを受けた。
今思えば、あの時から、軽い鬱を抱えながら滑ってきたと思います。彼女は真面目で頑張り屋さん、しかも周囲の人に気を使う。こういう性格の人は「メランコリー親和型」といって鬱になりやすいのです。精神的支柱の母親を亡くしたとき、キム・ヨナみたいに一定期間完全に休養し、心の整理をすればよかったのです。それがすぐに競技生活に戻った。
以後は、周囲に心配をかけたくないので、何もなかったような顔をして練習を続け、大会に出ていたことで、心のエネルギーはどんどんなくなっていったのでしょう。

■団体戦3A失敗で出たある症状とは?

昨年末(2013/12)の全日本選手権の時の浅田真央は顔色が悪く、疲れているのかなあと思ったものです。もう心のエネルギーが枯渇して、物事をポジティブに考えることができなくなっていたのではないでしょうか。それが、五輪の直前から緊張感が増し、先日(2014/2/19)の団体戦でトリプルアクセルで転倒し、心と体のバランスが崩れてしまい、いわゆるイップスといわれるような症状が出始めたと思います。

あの失敗で演技をすることに怖さを感じるようになったとしたら、これまで脳細胞にプログラミングされていた体の動きが筋肉に伝わらなかったとしても不思議ではありません。
浅田真央も「体がまったく動かず、思うような演技ができなかった」と言っていました。それにしても、周囲の人が浅田真央の心の変化に気づかなかったのは残念でなりません。

フリーでは本来の演技を見せてくれましたが、帰国したらゆっくり休んで欲しい。もしイップスだとすればメンタルの問題ですから、それさえ治せば、再び強い浅田真央に戻れるはずです。

(奥田弘美/精神科医)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■バンクーバーオリンピック(バンクーバー)2010年2月14日~27日■
●浅田真央
SP=73.78(2位) FS=131.72(2位) 結果=205.50(銀メダル)
73.78+131.72=205.50

ーーーーー
比較=キムヨナ
SP=78.50(1位) FS=150.06(1位) 結果=228.56(金メダル)

■ソチオリンピック(ソチ)2014年2月6日~22日■
●浅田真央(1990/9/25生・23歳)
SP=55.51(16位) FS=142.71(3位) 結果=198.22(6位)
55.51+142.71=198.22

ーーーーー
比較=キムヨナ金 姸兒(23歳韓国1990年9月5日生)
SP=74.92(1位) FS=144.19(2位) 結果=219.11(銀メダル)

比較=アデリナ・ソトニコワ(17歳ロシア)
SP=74.64(2位) FS=149.95(1位) 結果=224.59(金メダル)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

▼浅田真央▼
1990/9/25愛知県名古屋市生まれ。
中京大学附属中京高等学校卒業。
現在(2014)は中京大学体育学部に在籍。
血液型はB型。
名前の真央は、父親が女優の大地真央のファンであったことに由来する。

尊敬しているフィギュアスケート選手は伊藤みどり。
伊藤の衣装を着用して競技に臨んだこともあり、「みどりさんの衣装を着るといつも調子がいい」と語っていた。
長野オリンピック金メダリストのタラ・リピンスキーにも憧れの言葉を寄せており、彼女の演技を見て自分もオリンピックに出たい思う様になったと言う。
趣味はジグソーパズルとレゴ制作。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■伊藤みどり(銀メダル)、との比較■

生年月日=1969年8月13日(44歳)
出生地=愛知県名古屋市
身長=145cm(真央は163cm/47kg・キムヨナは164cm/47kg)
体重=その当時??kg

3人兄妹の真ん中で、兄と妹がいる。
伊藤みどりが小学1年の時に両親は離婚し、子供たち(3人)は母親に引き取られる。

スケートを始めた頃は、全日本選手権を8連覇した渡部絵美に憧れていた。
12歳当時の将来の目標は、オリンピックや世界選手権でメダルを取ること、夢はアイスショーに出演することであったと言う。

■天才少女出現(伊藤みどり)■
スケートを始めたのは、3歳のころ。家族レジャーの一環として近所のスケートリンク(名古屋スポーツセンター)に行くようになったのがきっかけだった。
5歳のとき、このリンクで山田満知子が教えている子どもたちのスピンやジャンプを真似して遊んでいたところを、山田満知子に見出される。
山田満知子によれば、伊藤みどりは自分の教え子よりうまく、ジャンプは飛び抜けていたという。幼稚園のうちから小学生のスケート教室に年齢をごまかして参加した。
初級~上級の3クラスを合わせて10日間で卒業し、本格的にフィギュアスケートを習い始める。
1980年3月、小学校4年生で全日本ジュニア選手権を制し、
1980年12月の1981年世界ジュニア選手権に史上最年少の日本代表に選出され、フリーで優勝した。
1980/11月のNHK杯に特別出場し、日本全国に演技が放送されたことにより伊藤みどりの存在が知られるようになった。
1980/12月の全日本選手権で3位入賞。
これは稲田悦子以来45年ぶりの小学5年生(11歳)での入賞で、このことから「天才少女スケーター」と呼ばれるようになる・・・・・

▼2004年に元劇団四季所属のミュージカル俳優の八巻大と結婚したが、
▼2006年に離婚する。その後、
▼2009年9月に一般人男性と再婚した。

ーーーーーー

・1992年アルベールビルオリンピックフィギュアスケート女子シングル銀メダリスト。
・1992年当時の伊藤みどりの年齢=23歳(1992-1969=23)
・1992年当時の山田満知子コーチの年齢=49歳(コーチのエネルギー的若さ)

女子選手として、
世界初の3回転アクセル(3A/トリプルアクセル)や、
3回転-3回転連続ジャンプに成功した。

少女時代から「ジャンプの申し子」「ジャンプの天才」と呼ばれていた。
小学校6年で3回転-3回転の連続ジャンプを跳んでいた。

ーーーーーー

↓■3回転アクセルへの挑戦のその難関■↓
伊藤みどりのほかに、
▼国際大会▼で3回転アクセル(3A)を成功させた女子選手は、
・トーニャ・ハーディング(1991年世界選手権)、
・中野友加里、
・リュドミラ・ネリディナ(2002年スケートアメリカ)、
・浅田真央(2004年ジュニアグランプリファイナル)の4選手だけに留まっており、

伊藤みどりのほかに、
▼オリンピック▼で3回転アクセル(3A)を成功させた女子選手は、
・2010年バンクーバーオリンピック、2014年ソチ・オリンピック フィギュアスケートフリーでの浅田真央のみである。

(注意:3回転ジャンプと3回転アクセルは異なる)

ーーーーーーーーー

□伊藤みどり□
■1992年アルベールビルオリンピックフィギュアスケート女子シングル銀メダリスト■↓
その銀メダルのトリプルアクセル(3A)挑戦と執念

このアルベールビル大会のオリジナルプログラムでは、精神的な緊張から2日前の練習の段階で、3回転アクセルのコンビネーションジャンプが14回中すべて失敗、3回転アクセルだけが5回成功と成功率が落ちていた(練習段階)。

そのため予定していた3回転アクセルをより確実性の高い3回転ルッツに変更したが、そのルッツで転倒して4位と出遅れた。このため、自力での金メダル獲得は不可能になった。
フリー演技でも一度は3回転アクセルで転倒するが、
演技後半の残り1分で再び3回転アクセルに挑んで成功。
なお、フリーでは元々は、3回転アクセルを2度跳ぶ予定だった。
オリンピックでは惜しくも日本人初のフィギュアスケート選手としての金メダル獲得はならなかったが、日本女子としては同アルベールビル五輪スピードスケート1500mで冬季五輪史上初のメダル(銅)を獲得した橋本聖子に続き、日本女子2人目のメダルとなる銀メダルを獲得した。

□3回転アクセルを決めたことについて稲田悦子は□、
「最後に決めたトリプルアクセルには、自分のスケート人生をかけたんだという気迫が感じられました」と、感想を述べた。
後年恩田美栄は、
「もう並大抵の体力じゃないです。それに同じジャンプを一度転んでるにも関わらずに。私にはできない。跳ぶとしたら死ぬくらいの覚悟がいる」と語った。

ーーーーーーーーーーー

■浅田真央の元コーチと現在■
2010/9~現在=佐藤信夫(72歳)
2008~2010=タチアナ・タラソワ(2年間)
2006~2008=ラファエル・アルトゥニアン(2年間)
2000~2006=山田満知子(71歳2014現在/57歳2000年当時)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■

▼伊藤みどりは
山田満知子に偶然にこいつ(みどり)は凄い才能があると発見されて。
伊藤みどりは山田満知子の自宅に住み込み才能を磨きかけられた。
みどりの勝気な力は満知子の自宅でいばる程(満知子の本当の娘よりもおおいばり)
その勝気な振る舞いと満知子による金へのチャンピオンへの道を、2人共同運命が
金ではなかったが銀への成功を勝ち取れた。

そして、
みどりのコーチは山田満知子1人で、他に浮気もなく金一直線へ・・・・

それから見ると、
浅田真央のコーチ遍歴がウオさおして、コーチ探しに失敗した。
選手の能力開花はコーチによって決定される。

高橋尚子も小出監督との出会いがなかったら、
まず間違いなくシドニーオリンピック金は取れなかったはずです。
その後、小出監督との別れでの、クラブQでの
選手=高橋尚子、かつ、コーチ=実質高橋尚子 と言うクラブQでの
完全なる失敗・・・これを見ても、いかにコーチの存在の難しさです。

浅田真央の間違いなく金が取れる未来があったとしても、
完全なる失敗は、有能なるコーチの不在と、コーチ探しがヘタだだった。と言える。

浅田真央は、コーチ発掘を先延ばしして、
先に、収入増殖にいそしんだ、まだ金も取れてないのに、金が取れる事を前提に
TVCMに出て、その広告塔顔で売り込んだ・・・・・

有能なるコーチが、こいつはチャンピオンになれると才能を開花磨くと言う過程が
欠落していた。
山田満知子(伊藤みどり)、小出監督(高橋尚子)

そして、そう言う、コーチには、
長嶋茂雄監督から有能なる選手は出なかった
具志堅用高ジムから世界チャンピオンは出てない
大鵬横綱部屋から横綱は出てない
の様に、一番頂点の獲得者の人はコーチとして、使い物にならない。と言う事。

浅田真央は、そう言う意味で幸運なる運勢がなかったと言える。
TVCM、マスコミにより、あまりにも先走り疾走した事が不運であったと思える。

超天性があるのなら、外部条件(抑圧・プレッシャー・家族不幸)によらず、
金は軽く取れるはずだが、そんな超天才は気楽に出現しない。
単なる天才肌評判では、有能なるコーチなしでは金は取れない。

□□□□□□□□□□□□□□□□□

真央選手は5歳からスケートを始めていますが、満知子コーチについたのは9-10歳の頃です。
その後5年間教わり、15歳でシニアで優勝した2005-2006シーズンを終えた後、
アルトニアンコーチに変わりました。
いずれ世界で活躍する選手になるんだから海外に出た方がよいと薦められたと報道されましたが、当時満知子コーチが体調を崩していた為、とも言われいる。

ーーーー

山田コーチは著書の中で真央選手を手放した理由について
・ 名古屋のリンク事情が悪化し、思うような練習量がとれなくなった
・ 山田コーチ自身の健康への不安(リンクで転倒した怪我もあり体調がすぐれなかった)
・ 浅田姉妹の才能は自分のもとにいるよりもやはり海外に出て伸ばしてやるべきだと思った

これらのことを浅田姉妹の母親と話し合い、
山田コーチの元を卒業することにした。
真央選手は「お母さんとコーチが決めたことなら・・・・」とこの決定に従ったようです。

ここが、
山田コーチから離れることを拒否した伊藤みどりと
決定的に違うところである。

伊藤みどりについては、
やはり家庭の事情などもあり山田コーチがほとんど娘同様に育てる様な形になっていた事、
伊藤みどり自身が名古屋を離れるのを嫌がった事などもあった。

ーーーーー

浅田真央選手がコーチに恵まれないのは
なんとかこの子をオリンピックチャンピオンにしようという
気持ちにさせない浅田選手自身の問題である。

問題=浅田自身が悪いと言う表現でなく、浅田の精神的構造と言う個人的性格と言う意味。

オーサーコーチとキムヨナの師弟関係を見ても
完全に目標が一致していて、コーチとの相性が整ってる。

反対に浅田真央選手は、何かと「物見の塔」watch tower の様なタイプ・・・
なにかとコーチとも意思疎通がしきれてないって感じます。

最近では、森元首相の発言(真央は肝心な時は必ず転ぶ発言)に対して、
「私は何とも思ってません・・・ただ森さんの方が気にしている・・・・」と、
実に世の中を知り尽くした孔子の様な真央回答(記者会見でのQ&A)。

この真央コトバを見ても、コーチが魂を燃やせられる感覚にさせないと言う感じがする。
だから、コーチが自然と近寄ろうとしないのでないか?
しかし、これも真央タイプなのであるから、それはこれでよかれである。

しかし、物は言い様で、6位なのに、ソチ後、
・「メダル以上の感動をくれた浅田真央」(記事タイトル)とか
・「真央と長嶋茂雄は時空を越えて輝けるスターだ」(記事タイトル)とか
・「浅田真央選手(23)のフリーでの魂の演技」(記事タイトル)とか
と新聞は書き立てる。
何とも、至りつくせり、マイナス話はすべてカット、プラス話の記事応援。
私が思うに、
これが浅田真央の、マスコミから勝ち取った金賞(ペーパー金メダル)であった。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2011《質量kg》120年ぶり新基... | トップ | 喉から謎の白い物体が飛び出... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事