毎年、冬から春にかけて鬱になるのだか、鬱と付き合っていると不思議に自分が成長しているようにも思える。
しかし、自分を鬱の観点から見直すと、自分だけでなく周りも良く見えたりもする。
心の中が見えるというか、会話のつまらなさとか、実はみんな楽しそうに話しているが言っているほど親密で仲が良いわけでもないとか。
で、自分の居場所を探していると心地よいのはみんなが楽しそうに喋っている外だ。
つまらないことをお喋りしている外にいると少し孤独や鬱から解放される。
気が付くと私はお金の為に働いていることの虚しさ。
自分が何者であるかを鬱は問いかける。
手放してしまいたいとは思わない。なぜなら、必死に働いていれば孤独や虚しさを忘れていられるからだ。
ただ、最低な賃金でしか働かない。
それは、自分が生きていることの罪悪感からくるものだ。
肉を食らい、飽食にふけり、他人を傷つけ、生きている人間に対しての罪悪感だ。
神仏に祈っても、許されるなんて嘘だ。双方の神やイデオロギーが奴が悪いと言っているではないか。
いまだに戦争している人間、最悪の生き物だ。
これもご都合主義の人間。
何処にでもいる人間だ。
鬱から解放されるために、恋愛に夢中になるのも生産的だとも思う。しかし、失うことの恐ろしさを伴う。
それだって、自分の存在の虚しさをカバーしてくれる。
愛は欲しいが、自分にぴったりのパートナーを夢見て幻想の中で暮らすのも幸せ感がある。
ただ、春先の鬱はそのような防壁さえもとっぱして、
『つまらない。』と、自分を責めるのである。
私が表現する動物や瑞獣たちは、この世に生まれてきた楽しさに満ちている。
作者の気持ちとは関係なく。
長らくお寺に展示していた瑞獣たちは、祭りが終わると早く家に帰りたいと言っていた。
早く家に帰って小鳥たちと遊びたい、とよ。
お前らは、ほんと、罪のないやつらだね。
お世話するのも私の居場所か。
100%罪のないお仕事だ。