易熱易冷~ねっしやすくさめやすく、短歌編

野州といいます。ことしも題詠blogに参加しています。

07年回顧など

2007-12-30 00:17:41 | 自作
背高く黄色い花が咲きいたり農道どこまでも粟立っている(『短歌研究』1月号)
秋天は鉄塔の上に広がれり肉きり包丁後ろ手に持つ
べとついたシャツ饐え臭い髪釈放の朝は地下鉄で揺られていたり

『百年の孤独』携え草枕夜汽車の旅に出でし夏かも(『塔』1月号)
青春の群れを小魚になぞらえて「ファイト!」と歌った中島みゆき
カーキ色のUSアーミーのシャツを着てわれはバイトの2t車に乗れり
岡林聴きたかったのは君なのに「帰れ」コールに和していたわれ

本城橋腰を浮かせて漕ぎ渡る朝霧あわし思い川かな(『塔』2月号※)
もみじ葉のさても鮮やかなる秋の深まる謎に分け入るコナン(※)
田の辻をかっきり右に曲がりけり坂はそこから始まりおれば
雲立つとみれば忽ちしぐれ雨ふり込め詐欺の電話を待てば
風を截る強さがつまり速度なり背中丸めて知る筋力

おく山に紅葉踏み分け鳴く鹿を撃ち殺したる果ての鹿刺し(『角川短歌』3月号秀逸)
埒もなき結論を得て釜揚げのうどんゆっくり嚥み下しけり(同佳作)

わがまま気まま木の実木のまま団栗を追ってしばしの思索に沈む(『塔』3月号)
本の始末急く妻の声尖りくる冬陽薄く猫丸まる師走
行く道は荒涼山河風ありや発情(ふけ)たる猫の行く方知らず
釣鐘の型成す満天星(どうだん)の花咲きぬ猫還らざるまま百忌
猫ならざる婿にしあれば寧日を段ボールなど束ねておりぬ

猫車押せば風花舞いおりぬ風流なりや時給千円(『塔』4月号)
月曜の元気ぬるめの朝が来て挨拶まばらな男子高校
かくれんぼの鬼残されておそ秋の夕暮れ路地にカレーの匂い
五百円分の切符とブルースをポケットに入れて夏の放浪

尿(ゆまり)してはつかに肩を震はしし猫の立ち去るまでの木洩れ日(『塔』5月号)
茶毒蛾の群れ蠢きしはつ夏を思ひ出しをり山茶花の路
トーストを蜆汁もて嚥み下す朝のニュースの事もなかりき
単眼鏡枯れ葦原に立ち並び皆着ぶくれて鳥見の人は

酢味噌和への酢味噌の加減褒められてにはかにホームドラマめきたり(※)(『塔』6月号)
老女なる役も似合ひていしだあゆみあはれ今でも眼大きく
鬱金香名に似合はざる彩りの誰の怒りも受け流しをり
巻き舌を弄びゐて浮かびきぬロシア小説のひと幾人(いくたり)か

ほろほろと豆腐のやうに崩れゆき僕とあなたに墜ちてくる空(『角川短歌』7月号佳作)

亀鳴くを聴かむとしつつ週末の雨止まざれば池を離れたり(『塔』7月号)
白き犬雨の隙間ゆ顕れてゆまりしてのち雨に消えたり
敷石の坂自転車で下りゆけば片手に持ちし豆腐の匂ひ
選ばれし短歌少なき月なれば同じ少なき人の歌読む(※)

歳月が俺を罵りやまぬから向日葵の種ひとつぶ握る(『塔』8月号※)
いたづらに歳を重ねてなにがなしいちごジェラート食ひたき夕べ
止みがたき思ひがありて石ころを蹴れば遥かに影の少年
連休の孤独きはまる父として口笛で吹くイパネマの娘
墜ちてゆく兆しあらはに大根の咲けるにまかす白き花なり
むかし春は手洟などかみ楽しげに馬車に乗り乗りやつて来にけり(※)

これがきつと最後かも知れぬ茜空西瓜の種を飛ばしてゐたり(『塔』9月号※新樹集)
日盛りに食ひ余しゐし冷麦の饐えてゆくごとさみしさ来たり
炎昼のには先みつめ待ちゐたりさうめん高く飛んで来るのを
をみな三日髪洗はざればはつ夏のメロンの喉を過ぎゆく痒み(※)
梅雨空のあだし蒟蒻色をなしひくく飛び交ふものを見てゐつ
干されたる梅の香りも交じりゐし海に出る路地ひと影見えず
走り来てTのマークの野球帽すももの下でかぶりなほせり

頑丈な自転車があり壜詰めの牛乳朝の音でありけり(『塔』10月号)
悲しみは蜆の砂を吐くやうに 酢味噌に和えて食つてしまひぬ
さにつらふ紅玉ねぎの薄皮の剥がされるごと癒えてはゆかず
捩れつつねぢばな花を咲かせをりぶしやうの庭に夏来たるらし
赤ん坊を背負ひて犬を二匹曳き橋渡りたり梅雨明け間近

人間もぬひぐるみだと思ふとき股のあひだに縫ひ目のありて(『塔』11月号)
日の暮れの長き季節に逢ひしことなど思ひ出だせりかろき夏シャツ
夕立のし吹けるなかを自転車は二人乗りして傾ぎゆきたり
韃靼の風をし思へ捏ね鉢に蕎麦粉あまねく捏ねくりまはし
一度だけ試してみたり褒め殺し言葉足りずに褒めただけなり

きるきると命を削る音立てて鉛筆削りで削るえんぴつ(『角川短歌12月号佳作)

過ぎて行く夏はおほ方美しくどこにでもある大反魂草(おほはんごんさう)(『塔』12月号※)
レコードを聴きたくなりてふた駅を歩いて来しが留守の下宿屋
黄ばみたる文庫の歌集『やや長きキスを交はして』に傍線引きぬ
生き変はり死に変はりしてブエンデイア大佐のやうに生きたし夏は
二トン車を咥へ煙草で転がせば俺もさみしき勤労学徒
指焦げるまで煙草吸ひなほ淋しければラスコーリニコフのこころ

 今年活字になった自作66首。ほかに『短歌研究』で一首入選が幾つかあるが、これは入選とは名ばかりなので割愛。掲載誌のあとの※印は優秀作欄掲載。歌のあと※印は選者評に採り上げられたもの。5月号掲載分から旧かな遣いに変えた。
 前にも少し触れたが、短歌は学生時代に啄木と寺山修司を少し一生懸命、つまり気に入った歌は暗誦できるくらいに読んだほかは、茂吉や白秋、それと福島泰樹なんかをさらっと読んだ程度だった。その後は話題になった俵万智の『サラダ記念日』を読んだくらいでどう考えても自分で短歌を作るようになるとは思いもしなかった。それがなぜか昨年の四月、営業車で弁当を食ってカーラジオを聞いていたら突然短歌ができてしまった。それからいくらでも短歌が湧いて出て、もちろんほとんどは箸にも棒にもかからない駄作だったが、あんまり面白いようにできるので、これは俺には才能があるに違いないと勘違いしてしまった。しばらくはネット短歌で遊んでいたが、ネット短歌はどうもおれの作風とは違うと思い、結社に入ることにした。
 ネットから見本誌を頼めるのは『塔』と『短歌人』だったのでこの2誌をまず取り寄せてみた。それからあまり迷わずに『塔』に入ることに決めた。選者が持ち回り制というのが決め手になった。『短歌人』は自分で選者を選んでそこに詠草を送るのだが、こっちは誰がどういう歌人かまったく知らないのだから、選びようがない。『塔』のように持ち回りで選歌してくれるというのはありがたかった。それと『塔』には巻末に詠草用の原稿用紙が付いているというのも好感を持った。
 ただ『短歌人』は見本誌のあともしばらく寄贈誌を送ってくれたので、情にほだされて購読会員になっている。しかし自作が載っていないというのは読むのにも張り合いが薄く、先月で購読期間が終了して更新はしていない。それでも今月も寄贈誌を送ってきてくれた。悪いなあ。

ひとつふくろの

2007-12-27 23:32:13 | 歌誌から
 母病めば父の居処なきやうなこの世の秋のつつぬけの天(小島ゆかり)
 咳やみてめつむる母のかたはらに林檎あり母のこゑを盗みて
 ちちはははひとつふくろのなかにゐてふくらみしぼみ老年の秋

 角川「短歌」1月号から。年老いた両親の寄り添うような暮らしぶりがしのばれる一連。母親の病によって一層老夫婦のきずなが確かめられたかのよう。1首目。臥した老妻をいたわりつつとまどう夫。どこまでも高く広がる秋天は父の侘しさを際立たせる。2首目。咳き込んで声が出なくなった母の側の林檎。その林檎が母の声を盗んだという。林檎の象徴性。3首目。子の側からの美化が多分に入っているにしても、このように詠まれる老親のありようがしのばれる。
 いささかきれいごとじみている嫌いがないわけではないが、手を変え品を変え老親の暮らしぶり、それをみつめる娘のまなざしを表現してあまりある。小津映画を思わせる雰囲気。

銀が洩れだす

2007-12-26 22:46:39 | 歌誌から
 前を行く男がふいに立ち止まりみずいろの音楽を取り出す(松村正直)
 六色の球の軌跡を見ていたり弧を描きつつ明るむこころ

 あたたかき秋なり薄の穂の群れは風吹くたびに銀が洩れだす(澤村斉美)
 夜の雲へ傾斜してゆく名神高速(めいしん)の高槻あたりもつともさびし
 サワムラは水の流れる村にして夜勤ののちをふかく冷えこむ

 角川『短歌』1月号競詠の中堅若手欄から。期せずして「塔」の歌人ふたりになってしまったのは、無意識のうちにフィルターを通しているからか。ま、おれに採られようが採られまいが短歌界はいささかの揺るぎもないだろうから気にしないけど。
 松村のは「大道芸フェスティバル」と銘打った連作。ざわざわと心浮き立ちそれでいてなにか物寂しい秋の一日の空気感が伝わってくる。1首目。「みずいろの音楽を取り出す」これから始まるものへの期待感。2首目。大道芸の鮮やかさにこころが開放されてゆく。
 澤村の歌は言い回しがいつもうまい。要するに修辞なのだが、してやったりというあざとさがあまり感じられない。1首目。薄の穂が風にゆれ銀色が波打つさまにこころ動かされたのを「銀が洩れだす」と表現した。2首目。名神高速の高槻あたりの風景を知らないが、こういう風に詠われると、きっとさびしいと感じるところなのだろうと得心してしまう。3首目。自分の名前を詠み込んだ。修辞を嫌う人もいるが、詩歌は修辞の芸だ。修辞なくしては伝えるべきものも伝えられない。

 かなしみを伝へるすべのわれになく一日(ひとひ)とまどひには先を掃く(野州)
 

風棲む村

2007-12-25 22:11:40 | 歌誌から
蕎麦刈つて風棲む村となりしかな下弦の月のほの潤みけり(辺見じゅん)

電飾のつぶつぶつけて街路樹は冬の鏡の奥へ連なる(加藤治郎)

あなたの夢のなかに雪ふりしんしんとわが庭石に雪ふりつもる

 角川『短歌』1月号から。短歌界の新春顔見世興行。当代の大御所から若手まで第一線歌人が寄稿している。巻頭の大御所陣から3首。
 1首目。蕎麦は秋遅く刈られる。山村ならばその跡地は蕭蕭たる風が吹くばかり。上句だけで俳句とした方があるいは完成度が高いかも。
 2首目。鏡の奥まで連なっているかのようなイルミネーションの街路樹の列。3首目。庭石に積もる雪をみて「あなたの夢のなかにも雪は降っているだろう」と思った、と読めば瑞々しい相聞歌。

朝日歌壇&俳壇から

2007-12-24 20:19:44 | 朝日歌壇&俳壇から
 「ごめんね」と言う語尾の優しくて注射の痛み和らぎにけり(大和田澄男)

 朝日歌壇&俳壇から。珍しく歌壇からも。これはよっく分かります。松坂慶子似の看護士さんがにこっと笑って「ごめんね」などと言われて注射打たれた日にゃああなた、毎日でも注射打ちに行きたくなるってもんです。

 いつかうに詩神きたらず日向ぼこ(中島やさか)

 しぐるるや鳳凰堂の鳳凰も(出原千恵)

 ふるさとの色に渋柿干し上がり(川崎公子)

 俳壇から。1句目。これは俳句でも短歌でも同じだろう。定型短詩はほんとうにフレーズが降りてくるように生まれるからじっと待っていたりする。
 2句目。なんとなく既視感もあるけど、俳句らしい俳句。17音の詩形で、しかももっとも音数の多い2句目7音をほとんど浪費しているようなこの贅沢。
 3句目。干し柿の色こそまさしく「ふるさとの色」なのだろう。これ以上ない暖色、暖色の極致。

 ゆふ焼けて影を濃くする雲のやうな干し柿一連盗み来たりき(野州)

 

『塔』12月号から7

2007-12-23 23:50:27 | 歌誌から
石に打つ永久の別れの釘の音かかる哀しきことをまたせり(西尾憲治)

もう一度起きて力を振り搾って その管抜いて そうして死んで(鈴木聞)

清拭のあとのシーツの砂浜へうちあげられた父は流木(沼尻つた子)

 挽歌3首。表現=技術主義のおれはどんな素材であれ、それが修辞的に昇華されているかどうかでしか評価しない。「塔」には毎月夥しい挽歌が寄せられるが、おおよそ感銘を受ける歌は少ない。内緒だがおれも最近挽歌を作った。事故で死んだ長兄を詠ったのだ。うまく詠めたかどうか分からないが、この3首ほどには詠めなかったのは分かる。悲しみを伝えるにも技術はいるのだ。

『塔』12月号から6

2007-12-22 23:58:14 | 歌誌から
しばらくは交じりて飛べり青田の上(へ)ツバメ時間はかうもり時間へ(川田伸子)
かはたらう荷台に乗せし自転車のわが影がゆく早苗田のうへ
ブロックに腰かけ夫は十円玉みがき始めるカタバミの葉で
わたくしの気がすみませぬと表戸に小さな蟹が小さな声で

 しかし次から次へと面白い歌がいくらでも出てくる。こりゃいつまでだってこのシリーズ続けられるぞ。
 きょうは新樹集から。日常のひとこまを童話的想像力で短歌にしたといえばいいのだろうか。楽しい歌が並んだ。1首目。「ツバメ時間はかうもり時間へ」がいい。もちろん狙った表現だろうが、全然滑っていない。ツバメのカタカナ表記の意図は分からない。「かうもり」の旧かなが効いている。せっかく旧かなを選んだのなら、簡単に漢字にしてしまうより旧かなつかいの違和感を存分に利用しなくては。2首目の「かはたらう」も同様だ。「かはたらう」とは河太郎のことで河童の異名。3首目。夫が(突然)十円玉を磨き始める、しかもカタバミの葉で。なんだか知らんが面白い。4首目。なぜ蟹はあやまりに来たのだろう。

『塔』12月号から5

2007-12-21 20:41:02 | 歌誌から
もうそろそろラインに乗れと言われたりぶれぶれのわれ三十六歳(荻原伸)

雪くまといふかき氷の青い旗かかげて夏に向かふ熊谷(千田智子)
どこからか来てチンチンと鉦叩く秋の見えざる先鋒として

長く鬼をしている感じ振り向けばいつもみんなが静止している(藤田千鶴)

 1首目。「もうそろそろライオンに乗れと言われたり」と誤読した。そうか36歳とはライオンに乗る年頃かあ、と感心して、読み返したら「ライン」だった。
 2首目。短歌のレトリックとはひとつには言い換えの妙だったりする。熊谷が青い旗をかかげるというのだから、これも擬人法なのだろう。
 3首目。秋の気配が訪れるとどこかで鉦が叩かれているような気がする、という気分を短歌的に表現するとこのようになる。鉦を叩いているのがだれかはだから明示されない。
 4首目。「感じ」というまことにあいまいで平易で安直な表現がいまの短歌界ではよく使われている。拙作がはじめて選者評に採り上げられたときも「感じ」といわれて面食らったものだ。そりゃ語彙力のない女子中高生あたりの使う語句だろうって。正直いまも違和感がないわけではないが、これは前後の句が救っていて及第点。

『塔』12月号から4

2007-12-21 00:10:29 | 歌誌から
つきかげのあをきを曳きて別れゆくきみは安げなきつね火である(久保茂樹)
身籠れる人のやうにもおもはれていただきものの林檎剥きやりぬ
ふるさとはなかつたことにしておいて漬かりはじめた夕日みてをり

 このひとも毎月要チェックの歌人である。ゆったりとした詠いぶりに、あまり使いたい言葉ではないが、少し癒される気もする。1首目。歌謡曲にもある蒼い月夜の散歩道、じゃあまたねと別れた彼女は狐火のようだった。それも安直に狐火になってしまった。そんな風に思われた蒼い月夜のことであった。2首目。狐火になるくらいの彼女だから、きっとすごく疲れているかなんかして精神的にも不安定になっているのだろう。彼女にいただきものの林檎を剥いてやった。「いただきもの」が効いている。「もらいもの」とは違う世をひっそりと生きている境遇さえしのばれる。3首目。今更おめおめ帰れるふるさとでもないけど、でも今二人して見るこの夕日は昔故郷で見た夕日にやけに似てるぜ、なんてね。

『塔』12月号から3

2007-12-19 22:40:29 | 歌誌から
ボート漕ぐ君が輪郭のみになる水鳴らす風わが身抜けたり(清水弘子)

 12月号の2007年総目次をつらつら見ていたら、清水弘子はこの1年に三たび新樹集入りしている。やっぱりうまいひとは誰がみてもうまいんだなあと、あたりまえのことを思った。今月は10首全て選歌されて新樹集入りという快挙だ。10首全入選かあ、これは目標としてもいいかな。
 それはさておいといてこの作。「ボート漕ぐ君が輪郭のみになる」とは分かるようで分からない表現だが、でもやっぱり分かる。きっと向かい合ってボートに乗っていて、相手は逆光で輪郭線が強調されたようにみえたということなのだろう。下句の「水鳴らす風わが身抜けたり」もかっこよい。風が身体を抜けて行ってしまったというのは、きっと空虚なわが身を感じたということなのだろう。それはすでに一緒にボートに乗った相手が遠い記憶のなかにしかいないということを示している。輪郭線だけの「君」とはだからあの日の瑞々しさを失った形骸化した記憶の中の「君」の謂いでもあるだろう。これは遠い日の恋を追憶している歌だけど、きっぱりとした言い切りの結句がいさぎよく、爽やかな愛誦性を獲得している。