『やんちゃ World』

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「催事屋」③

2006年10月09日 | 小説

 


 

 車窓が山陽から山陰に姿を変えたのは、蒜山高原サービスエリアを過ぎ、三平山トンネルを出た時だった。
 フロントガラスに雪が小さな紋様を描いたかと思う間もなく、その一台のトラックは、まだ朝明け切れぬ冬色の中に突入した。
 酒井博之は慌ててワイパーを作動させ、ハンドルを持つ手に力を入れた。スノータイヤを履いている。運転歴は三十年近くになる。しかし、酒井は本格的な雪道の運転は初めてだった。
 中国自動車道から米子自動車道と、夜通しハンドルを握り続けてきたものだから、五十過ぎの酒井の身体の節々はギシギシと音を立てていた。
 時折対向車と擦れ違うだけで、前方にもバックミラーにも他に車は見えない。
 雪は黒い轍を這うように走り、まるで、次々と襲い来る無数の白い蛇である。
 『キュッ、キュッ』と等間隔で、古くなったワイパーがフロントガラスを擦る音以外、何も聞こえない。音も色もない、モノクロームの世界である。
 私はどうして、こんなところに居るのだろう?どうして、催事屋なんて職に就いてしまったのだろう?私は一体、何をしようとしているのだろう?友美は隆史さんと仲良くやっているのだろうか?仁美は今年卒業だが、進路は決まったのだろうか?
 一瞬、白い壁を突き抜けて、その向こうにある世界に誘い込まれそうになり、酒井は慌ててカーラジオのスイッチを捻った。
 フーッと、大きく息を吐いた。
 手の平が、じっとりと汗ばんでいた。
 ナイキのスニーカーをフロントパネルに放り投げ、鎌田健三が助手席で鼻提灯を膨らませている。
 桜前線が間もなく、鹿児島に上陸するとカーラジオが伝えている。
「これじゃあまるで、桜前線から逃げてるみたいじゃないか」
 酒井は独り言のように呟いた。


 思えば、去年の桜前線北上のニュースは、二年のバンコク単身赴任を終え、成田に向かう機中の新聞で知った。
 早いものだ、あれからもう、一年が過ぎたのか……
  川崎専務失脚のニュースはバンコクにも届いてはいた。しかし、二年の単身赴任から帰国してすぐに、希望退職を勧められるなんて思いもしなかった。川崎専務とは趣味の釣りが同じと言うだけで、よく御一緒させては頂いたが、ただそれだけの関係で、派閥に属しているなんて、小指の先ほどにも考えてはいなかったのだが……結局、会社はそうは取ってはいなかったと言うことなのだろう。
 三十年、一筋に仕えた会社だった。
 自分の存在は何だったのだろうと、酒井は自問自答した。腹立たしいだとかではなく、ただただ堪らない虚しさだけだった。
 そんな時、
「新田物産のような大手とは比べようもないし、バンコクから帰って来たばかりの酒井さんに福岡だなんて、こんな話を持ち掛けるのは心苦しいんだけど、懇意にさせてもらっている松枝商事の社長に酒井さんの話をしたら、是非、うちに来てはくれないだろろうかって。住まいなら、使っていない小さな家があるから、それを自由に使ってもらっていいですから……」
 古くからの福岡での取引先、江頭商店の佐野専務からの話だった。
 肩を叩かれた五十過ぎの男だ。会社を選り好み出来る身分ではない。何より、その時の酒井には、こんな自分を必要としてくれていると言う佐野の言葉に心を動かされた。
 次女の仁美も学校を卒業、子供に手が掛からなくなったとは言え、福岡くんだりまで妻の美子がついて来るとは到底思えない。単身赴任にもすっかり慣れた。仁美が生まれた頃からだろうか?めっきり夜の回数も少なくなり、十年以上も前から夫婦でなくなってもいた。美子にとっちゃ、むしろ歓迎すべきことだろうと酒井は思った。
「ねぇ、リクのことだけど、佐野さんが用意して下さる家って一軒家なんでしょ? だったら、動物は飼えるわよね」
  話を切り出した時の、妻の口から出た言葉が酒井の脳裏を過ぎる。
 リクは、仁美が十歳の誕生日プレゼントにと、知り合いから譲り受けたハスキー犬「クララ」が出産した、五匹の中、ただ一頭の雄犬だった。
「今回は同じ日本国内なんだから、あなた、リクを連れてって下さらない?毎日の散歩、疲れるのよね」
 言われずともリクは連れて来るつもりだったが、妻の方から言葉に出されると、酒井は堪らなく遣り切れなかった。
 西鉄福岡駅から各停で二十分、雑餉隈駅から北に十数分歩いた閑静な住宅街の中に佐野の家はあった。佐野の家の前に郵便局があり、その角を曲がり、しばらく歩くと小さな神社がある。佐野が用意してくれた家は、神社の先にあった。
「五年前に叔母が亡くなってからはずっと空き家にしていたのだが、風だけは時々通してある。小さい家だが、一人で暮らすには十分だろう」
 小さな庭があり、梅の木が一本植えられてある。
 佐野の言葉を聞きながら、酒井はリクをその梅の木につないだ。リクはしばらくの間、梅の木の根元をクンクンと嗅いでいたが、やがて伏せの姿勢を取り、首だけを上げ『クゥーン』と鳴いた。
「何歳ですか?」
 リクの横に腰を下ろし、佐野が訊いた。
「十二歳になりますかね」
 そう言って、酒井も佐野と並んで腰を下ろした。
「十二歳ですか……人間で言えば六十歳ぐらいですかね」
「もう少し上ですかね。どちらにしろ、もう、お爺ちゃんです」
「私たちの子供の頃なんて、犬を飼う事さえ贅沢でした。まして血統書付きの犬なんて、お金持ちの象徴でしたね」
 佐野の気持ちにそんな思いはあろう筈もないのだが、そんな佐野の言葉が酒井には皮肉に聞こえた。
「次女の仁美にねだられましてね」
 佐野は頭を掻き、「ボーナスをはたいたんですよ」と言葉を続けた。
「その時の犬が、このリクですか?」
「いえ。こいつはその時のクララと言う犬の息子なんです。友人に、やはりハスキーを飼っている奴が居ましてね、で、お恥ずかしい話が、儲かるからと唆されましてね」
「当時は人気があった犬種でしたからね。儲かりましたか?」
「いえいえ、とんでもない。逃亡したら猪突猛進、呼べど叫べど帰って来やしない。そんなこの犬種の性格もあってか、すぐにブームも下火になり、こいつが産まれた頃は引き取り手にも困る始末で……」
  佐野が苦笑いをした。
「五匹産まれたんですがね。牡はこいつだけ、後は全て牝でした。のんびりとした性格なのか、餌はいつも最後、眠る時は他の姉妹達の下敷きになるようにして眠っていました。何とか四匹の引き取り手は見つかったのですが、こいつだけが残りましてね。二匹も飼えないと言う妻の反対を押し切り、私が強引に残したんです。私にとってこいつは、戦友のような存在なんです」
「戦友ですか?」
「はい、戦友です」
 そう言って、酒井はリクの首筋をやさしく撫でた。


  雪は一向にやむ気配はなかった。
  それどころか、全てを白く塗りつぶさんばかりの降りようだ。
「リクには本当に可哀相なことをしてしまった」
 酒井は右のこぶしで、そっと涙を拭った。
「何をブツブツ言ってんだよ!」
 目を閉じたままで鎌田が口を開いた。
「起きてらしたんですか」
「おっさんの独り言で目が覚めたんだよ」
 ぶっきらぼうな鎌田の口調だった。
「そうですか。すみませんでした。いえね、桜前線がまもなく鹿児島に上陸すると、ラジオのニュースで言ってたものですから。世間の人たちは皆、春の便りを今か今かと待ち焦がれていると言うのに、私たちと言えばまるで桜前線から逃げてるみたいだと、そんな事をふと思ったものですから」
「バカじゃねぇのか? この時期、俺たち催事屋稼業の相手は百姓や漁師だ。桜が咲いて暖かくなったら田んぼの雪が溶ける。厳しい冬が過ぎたら海が穏やかになる。百姓や漁師は買い物どころじゃなくなる。桜前線が上陸してからじゃ商売になんないだろ。いい年さらして、こんな事もわかんねぇのか、ボケ!」
 ふた回り近くも年上に対するとは思えない、横柄な鎌田の口調だ。
「すいません」
 前方に視線を向けたまま、酒井はそう言って頭を小さく下げた。
 その時、前方を白い物が横切った。
 反射的に、ブレーキペダルを強く踏み込んだ。
 瞬間、トラックは横向きになり、そのまま十数メートル滑り、左ガードレール沿いの雪塊に、車体を押し付けるようにして止まった。
 大きく樹々が揺れ、数羽のカラスが飛び立ち、雪がトラックの天井を激しく叩いた。
「バカヤロウ! 俺を殺すつもりか、このボケ!」
 面玉をひんむいて鎌田が怒鳴った。
 ハンドルに頭をくっつけていた酒井が、ゆっくりと顔を上げた。
 交通量の少ない米子自動車道、それも早朝とあって、他に車がいなかったのが幸いだった。雪塊がクッションの代わりをしてくれたこともあり、どうやら車体も何ともないようだ。
「すみません。急に何か動物が飛び出してきたものですから」
「そんなもの、かまわず轢き殺すんだよ! 雪道で急ブレーキなんか踏むんじゃねぇよ!」
 何度か切り返しを繰り返し、酒井は車体の向きを戻した。
 サイドミラーに目を遣った。
 一匹の白い猫がこちらを見ていた。
「……ノラ……」
 あのノラがこんな所に……
 一瞬、そんな思いが脳裏を過ぎったが、まさか、そんなことはあり得ないと、酒井はすぐにそれをうち消した。


                             「催事屋」4に続く
 



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7 コメント

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Unknown (rena)
2006-10-09 20:22:22
いきなりな展開やね。

びっくり・・・時代背景変わったのぉ?
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あははは (やんちゃ)
2006-10-09 20:31:32
まもなくこのSaayaちゃんが催事屋の仲間入りする予定なの(笑)

ちなみに、小説の時代設定は現代だからね(笑)
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あいさん、足跡です (相田)
2006-10-24 10:44:42
初めまして、羨ましい生活じゃないですか!よい一日を!
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今までと、 (コスモス)
2006-12-19 21:13:10
急に雰囲気代わりましたね。
ラブシーンで始まったからびっくり。

この女性が催事屋の仲間入りしていくんですね。

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(=^-^=) (やんちゃ)
2006-12-20 08:21:57
コスモスさん

最初この小説を書き始めた時はこの女性のキャラ、純情な女の子のキャラにしてあって、サブと恋をさせたんだけど、急に正反対なタイプなキャラにしたくなって……

それでまた、1から書き直してるんですよね、この『催事屋』……
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小説の形式が分かりました (殿)
2007-04-18 16:42:45
デコ電があるので設定は現代だと分かりましたが、
その中で、二十代なのに『イタ飯屋』と言ったDuneは、少し古いかなと思いました。
今は普通にイタリアンと言っているので。

3番目のトラックもそうでしたが、
今回、あまりに急な展開を向かえたので、催事屋に関わる色々な人の物語なのかなと、一人納得。
コメントを見て、完全納得。

しかし、
3番目のノラや、
4番目の【一週間前の母との会話を思い出した。】
で途切れてしまうのは、少し惜しいと思いました。
(後々、分かっていくんでしょうが)
以上です。
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殿さんへ ()
2007-04-19 08:54:32
この4は、随分長いのでAとBに分けただけなので、【一週間前の母との会話を思い出した。】は途切れてないんです。

ただ、3に関しては、後々に書くつもりであんなふうな表現になってしまったのですが、そうですか……違和感がありますか?┛)"O"(┗

イタ飯屋……ありがとう、どうしても現代の若者言葉には疎いですね(^_^;)
すぐに書き直してみます、ありがとうm(_ _)m
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