『やんちゃ World』

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『催事屋』⑨

2009年02月13日 | 小説

≪これはブログなので、どうしても最新の投稿が先頭に表示されます。≫

よって、この小説を初めて読まれる方は「催事屋」プロローグ(←これを一番最初にクリック) → 「催事屋」①→ 「催事屋」② 「催事屋」③「催事屋」④催事屋」⑤ 「催事屋」⑥→ 「催事屋」⑦→ 『催事屋』⑧A『催事屋』8B→そしてこの『催事屋』⑨と読んでください。

それぞれの章の最後に、次の章に繋がるLink文章が赤字で示してありますから、それをクリックしてください。

 

 

 
「はい、はい、はい! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。それでは今から今から、通常定価一万円前後の最高級アクセサリー、天然石ジュエリーのこちらの商品、只今から十分間だけ、全商品千円! な、なんと! 千円均一、千円均一に致します! 古の昔より、その名も大地の雫と謳われるインドヒスイのブレスレット、はたまたあの亡きダイアナ妃の大英帝国はイギリスの、エリザベスコインペンダントから本真珠ネックレス。全品、全品千円均一! 数に、数に限りがあります。早い者勝ち、早い者勝ち!」

 くにびき産業会館内に、千均屋田中英司のやけに甲高い、口上の声が響き渡っている……が、数人の子供達が物珍しそうに、
ポカンと口を開けて前にいるだけである。
「このおっちゃん、さっきからなんべんも、十分間だけ、十分間だけって言うてんで」
 青っ洟を垂らした男の子が英司を指差しながらそう言って、ズルッと鼻をすすった。
「こらっ! 糞ガキが、余計なことを言うんじゃない! あっ、こらっ! 鼻糞を擦り付けんじゃねぇ!」
『ワァーッ!』
 英司の怒鳴り声に、蜘蛛の子を散らすように子供達が逃げ去って行く。
 次の瞬間、怒りの鉾先がサブに向けられる。
「サブッ! ボケーッと突っ立ってるだけじゃ物は売れねぇんだよ! 声を出せよ、声を。手を動かしながらも声を出すんだよ。このボケがっ!」
 子供達が次から次へと触っていた商品を直しながら、「あ……は、はい」と小さな声でサブは答えた。
 中腰のままサブが視線を上げると、通路を挟んだ正面のブースの安男と目が合った。安男は片目を瞑り、ニヤリと笑った。その横でオッカァが手際良く、客からの注文を発泡スチロールの舟に詰めている。オッカァの後方、商品の入った段ボール箱にもたれ、小夜が携帯を眺めていた。
「しかし、せっかくの天場所だと言うのに、こう客がいなけりゃどうしようもないぜ」
 英司が呟く。
「まったくよ! いくら不景気だ、不景気だと言ったって、これはないだろうよ。朝から千均のファッション時計が、たったの八本売れただけだぜ」
 背中越しに鎌田の濁声が続く。
「こんだけ雪が降り続いたら、だぁれも好き好んでコタツを離れたがらんのやろ」
 通路の向こうから、安男が鎌田に言葉を投げた。
「雪ったって、ここは島根だぜ、山陰だぜ、日本海だぜ、裏日本だろ! 雪なんて竹馬の友じゃねぇのかよ! いい加減、慣れてんじゃねぇのかよ! あああ、今じゃ千円均一に落ちぶれてしまったこのファッション時計も、三千円五千円で飛ぶように売れた時代もあったと言うのによ!」
 千均のファッション時計を手に、鎌田が嘆く。
「そう言ゃぁカマ、幕張のメッセではバカ売れしたよな」
 英司が鎌田の方に顔を向けて言った。
「ああ! そう、そう、エイチャン、懐かしいね、幕張メッセ! そう、そう、売れた、売れた!」
 英司の言葉に鎌田が目を輝かせ、首を前後に何度も振りながら応えた。
「幕張メッセ……って、千葉の幕張の、あの国際展示場のある幕張メッセですか?」
 酒井が会話に加わる。
「そうよ、あの幕張メッセよ」
「幕張メッセで……この時計や、そのアクセサリーを販売されたのですか?」
 酒井が怪訝な表情を浮かべる。
「あったぼうよ! この千円均一の時計が販売されちゃったわけよ」
 自慢げに鎌田がそっくり返る。
 一九八九年に開業した幕張メッセは、後に東京国際展示場(東京ビッグサイト)が開業するまでは東洋一の規模を誇ったコンベンション施設であり、酒井も新田物産時代に展示会や見本市に何度も足を運んだものであるが、この手の怪しげな催事が開かれたなんて酒井は耳にしたことがなかった。
「酒井さん、聞いて、聞いて」
 英司が酒井の肩を抱きながら口を開く。
 その様子を見ながら、鎌田がニヤニヤと笑っている。
「いやさ、どこでそんな情報を仕入れて来たんだか、このカマが、国際展示場で開かれる国際見本市に、出店を希望する企業を募集してるって言うからよ。調べたらブース代だってそれほど高くもないじゃない。酒井さんも知っての通り、俺達のブースはひとコマもあれば十分……」
「あん時はそれも、みかん箱ひと箱のコマだもの」
 鎌田が口を挟む。
 鎌田の言葉にニヤリと笑みを浮かべただけで、英司が話を続ける。
「自慢出来るほどのものじゃないけれど、こちっとらだって一応、企業ちゃ、企業なわけじゃない。で、希望しちゃった訳よ。そりゃあ、当日、現場に行ってみて『なんか、場違いな場所に来てしまったな』と、正直思ったよ。周囲を見渡したら、テレビのCMなんかでよく耳や目にする、有名な企業ばかりなんだものよ。だけど、そんなことで尻込みをするような、柔な神経を持っているような俺やカマじゃない。国際展示場って、とてつもなく広いじゃない。会場の隅々まで聞こえるようにと、みかん箱をひと箱持ち込んで、その上に乗り……」
「えっ……?!」
 そこまで聞いて、ようやく話の続きが見えた酒井が小さく声を上げた。
「そうよ!」 
 英司がそう言って、酒井の肩を強く叩いた。ヨロヨロと、酒井が二三歩前につんのめった。
「選挙運動なんかで使う拡声器片手に……」
 その時、鎌田が英司を制して前に出た。そして、これから先は俺に言わせろとばかりに、右手指で作った丸を拡声器代わり口に当て、口上を述べ出した。
「はい、はい、はい! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。それでは今から今から、メーカー希望小売価格十二万九千八百円のアルフレッド・ベルサーチ、な、なんと、あの、あのベルサーチのファッション腕時計を特別価格での御提供。嘘も偽りも御座いません、ほらっ、この通り、保証書もお付け致します。勿論、私どものハンコもちゃんとこの通り、ペッタンコ、ペッタンコと押させて頂きます。ただ、残念ながらケースがない、そう! ただ、ケースがないと言うだけの訳あり商品。限定五十本限り、こちらの商品、只今から十分間だけ、な、なんと! 十二万九千八百円を二万円、たったの二万円! 何、高い? 今日は貧乏くせぇ客ばかりが集まってやがる。ええい! 持ってけ、泥棒! 一万! 一万円だ!」
「売れましたか?」とサブの言葉に、「売れた、売れた! 飛ぶように売れた!」まるで掛け合い漫才、鎌田と英司が声を揃えた。「あの広い国際展示場内のあちらこちらから、我先にばかりと人が集まって来たと思ったら、あっと言う間に、みかん箱の周りは人だかりの山。一万円札片手に、押すな、押すなの大行列よ」英司の目が生き生きとしている。
 
そんな様子を安男とオッカァ、小夜が笑いながら眺めている。
「もしもし」
 鎌田が英司の肩を叩く。
「その時よ、トントンと後ろから、誰かが俺の肩を叩いたのよ」
 どうやら、二人でその時のことを再現しているようだ。
「もしもし」
 再び、鎌田が英司の肩を叩く。
「押さないで下さい。お待ち下さい。順番があります」と、肩越しの鎌田に英司が言う。
「いえ、そうではなくてですね」
「ですから、お待ち下さい」
「困るんですよね、ここで商売をされたら」
「えっ?」
「即刻、やめて頂けますか?」
「どう言う事?」
「ですから、ここは見本市であって、販売会場ではないんですよ!」
 鎌田の言葉に英司は大袈裟に目を剥いて見せ、やがてゆっくりと視線をサブに、酒井に、そして通路向こうの安男やオッカァ、小夜たち、観客の方に向け、「いやぁ、参ったよね。驚いたよね。客にしてはグループサウンズみたいな、やけに派手な服を着ているなとは思ったんだけど、まさかね、メッセの警備員とはね」と言って頭を掻いた。
「とんでもない野郎どもやな。お前たち、国際見本市会場で、それもみかん箱の上で商売をしたんか!」
 安男がそう言って、呆れたように首を振った。その後ろで、オッカァと小夜が腹を抱えて笑っている。
「懐かしいよな」
 遠くを見る様な視線で鎌田が呟いた。
「ああ、懐かしいよな。あの頃、一日の売り上げが百万二百万なんてざらだったものな」
 英司の言葉に、鎌田は「だったよな」と相槌を打ち、「夢、夢、今じゃ夢のまた夢の話だ」と吐き捨て、「おっさん、後頼むわ。俺、飯食って来る」と酒井に言い、右手を振りながら会場を出て行った。
「飯って、カマの奴、さっき昼飯食ったばかりとちゃうのか?」
 安男が英司に声を掛けた。
「カマ、昔から、落ち込むと腹が減ると言う特殊体質なんだ」
 英司がそう言いながら、煙草に火をつけた。

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『催事屋』⑧B

2009年01月29日 | 小説

最後、原稿用紙換算3枚程度の改稿を行いました。
アメリカ発の地球規模の不況の波が我が日本にも押し寄せ、去年秋より『派遣切り』なる言葉が連日マスコミを賑わせています。そのあたりのことも少し作品の中に書き込んでみたくて……



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「お先に休ませてもらいます」
 酒井がテーブルに両手を付き腰を上げたのと入れ替わりに、注文したサブのウィスキーの水割りが届いた。
 ノラと名付けた野良猫に、『自分を見ているようで』と酒井さんは言った。使っていないとは言え家まで提供し、紹介してくれた再就職の口を面会さえ受けずに断り、道路工事の旗振りで生活の糧を得る日々。勿論、相手にだって打算はあったはず。何も旗振りをしてもらう為に誘った訳じゃない。相手に対して何の対価も返せず、のうのうと日々を過ごす自分の姿に、酒井さんはノラに重ね合わせたのだろう。リクの死が、酒井さんを催事屋に引き込んだ切っ掛けになったのだろうか?
 酒井の後姿を見ながらサブはそう思った。
「人それぞれに、色んな過去や人生があるんやね」
 携帯メールをしているはずの小夜が言った。
「話、聞いてたんだ。てっきり、メールに夢中で……」
「大した内容のメールでもないから」
 サブの言葉を折り、携帯を閉じ、小夜が顔を上げた。
  誰へのメールなのか、どんな内容なのか、サブは口にしようと思ったが思いとどまった。
  酒井と入れ違うようにして安男が姿を見せた。安男の後ろに骨董屋の嬉野武雄もいる。
「エイチャンはまだサウナば入ってなさっとですよ!」
 信じられないと言った表情で、嬉野がサブに言った。
「ええ、うちの社長はサウナが大好きですから。放っておけば、干からびるまででも入っています」
 サブは苦笑いを浮かべ、「安男さん、オッカァもまだですか?」と安男に訊いた。
「ああ、うちのオッカァも干からびるまでサウナに入ってる口や。もっとも、うちのオッカァの場合、干からびているのはサウナのせいやないけどな」
  安男が悪戯っぽく舌を出した。それを見て、「全くだ!」と言って嬉野が大笑いをした。
「それはそうとサブちゃん、今、出て行かはったのは酒井さんとちゃうか?」
「ええ。皆さんに宜しくと」
「疲れてんのやろ、酒井さん。いっつもカマの馬鹿タレにこき使われてはるからな」
 安男はそう毒づき、座敷にどっかりと腰を下ろした。そして、「嬉野、生ビールでええか?」と嬉野に訊いた後、「ネエチャン、生ビール大二つ。大急ぎで頼むでぇ」と、奥に居る従業員に大声で叫んだ。館内用の緑のムームーがやけに似合って可愛い。
 嬉野武雄の扱う商材は、備前焼などの焼き物を中心とした骨董である。しかし骨董らしきものはごく僅かで、どこで拾って来たんだか、薄汚れた風呂敷一面に陶器の欠片を並べ、「五体満足なら数千万は下らない国宝級の備前ばい」と、どこか仙人を思わせるその風貌と佐賀弁で、その欠片を三千円から五千円で販売するのである
 これがポツポツと売れてしまうのがサブには何とも理解出来なかった。
 テーブルの上に生ビールが運ばれた。
「クーッ! 風呂上がりのこの一杯が堪えられんばい」
「五臓六腑に染み渡ると言うやっちゃ!」
 喉仏をゴクゴクと鳴らしながら、安男と嬉野はジョッキを一息に飲み干した。
「酒井さんば、ほんなごつ変わっとるばい。カマにあんばこき使われよって、文句ばひとつ言わんとコツコツ働きよるばい。ほんに人ば良か人ばい」
  唇の端に付いた泡をタオルで拭きながら嬉野が言った。
「ほんま、不思議な人やで酒井さん言う人は」
 安男はそう言って、手にしたジョッキを口に持っていったが、空に気付き、その手を高く掲げ、ウェイトレスにお代わりの合図を送った。
 それを見て、嬉野も空のジョッキを掲げ、
「おねえちゃん! 生ビールば、こっちも一杯、追加ばい。あっ、それと枝豆ばひとつと、松江名物の津田カブもくれんね」と叫び、「津田カブ、ここん名物らしいばい。こげん仕事ばしちょると、土地土地の名物ば肴に酒ば飲むだけが楽しみばい」と言って笑った。
 風呂上りのせいもあってか、嬉野の顔は既に真っ赤である。
「こん前、カマが言いよった。リストラばされ路頭に迷っていた酒井さんを、おいが拾ってやったばい。言わば、おいは可哀想な亀ば助けた浦島太郎たいと、鼻ばヒクヒクしよってさ、カマの奴、自慢ばしちょったばい」
「なにが浦島太郎や! よう言うわ。リーゼントしたウミガメみたいな顔しやがって!」
「ばってん、いくら従業員や言うてくさ、カマの奴、なしてあげんば酒井さんをこき使い、偉そうにしよっとか?」
「カマの性格もあるんやろけど、大方のところは、知らない人が見たら、酒井さんの方が雇用者に見えるんが嫌なんやろ」
「なんや、そげん理由や。ほんなごつ、尻の穴の小さか男ばい」
 嬉野はそう言って顔を顰め、運ばれてきたジョッキに口をつけ、枝豆に手を伸ばした。
「いや、人使いが荒いのはしょうがない、こんな商売やから。そやけど、もうちょっと、思いやり言うもんがあったってええんとちゃうか?」
「うん、うん。そいは誰もが思うとるばい」
 唇の端に枝豆の薄皮をつけた嬉野が相槌を打った。そして、手にした枝豆をじっと見つめ、「冷凍物はまずかぁ」とボソッと呟き溜息をついた。
「この稼業をしとると、ほんま、色んな人間に出会うわ」
 安男がそう言って煙草に火をつけた。
「わしらみたいに色んな職業を転々として、どっこも行くところがのうなってこの稼業に入ってきた奴もおれば、英司やカマみたいに根っからの催事屋もおる。カマだって、一時金融の世界におった言うたかて、同じやくざな稼業、それもたかが数年、そやからこの稼業しか知らん言うたかてええ。あの二人、しょっちゅう喧嘩ばっかりしとるけど、根本的なところはよう似とんのや。自分の常識が世間一般常識やと信じて疑わんとこなんかそっくりや。あの二人の常識は催事屋の常識で、世間では非常識やちゅう事が、ちっともわかっとらん。ちょっとでも他の飯を食っとったら、そこんとこに気が付いて、ちょっとは相手のことを思いやれるんやけどな」
 安男はゆっくりと煙を吐き出した。
「酒井さん、カマさんのとこに来る前、つまり東京の会社を辞めた後、一時、博多の方で道路工事の旗振りをしていたと、さっきおっしゃってました」
 サブが口を挟んだ。
「酒井さん、交通誘導員ばなさっとったか。おいもしとったばい」
 津田カブをポリポリと頬張りながら、嬉野が身を乗り出した。
「なんや嬉野、旗振りしてたん?」
 安男が嬉野の顔を覗き込みながら言った。「旗振りやなか。交通誘導員ばい、ガードマン、つまり警備員たい」
「同じやろ」
「同じと言われれば同じやばってんが、交通誘導員や警備員の方が聞こえが良かよ。ガードマン! なんやこう、響きがよか! 格好ばよか! うん!」
 そう言って、嬉野は胸を張った。しかしすぐに背中を丸め、「ま、些細な見栄ばいね」と、嬉野は薄くなった頭を掻いた。
  嬉野が言葉を続ける。
「交通誘導ば言うてくさ、通行止めの案内から、通行人ば事故ば遭わんように誘導と色々とあるけんが、いっちょう神経ば使うんは片側通行ばい」
「下水道工事やなんやで、道の片側を通行止めにして車を交互に通すやつやな」
 手にした割り箸を旗代わりに、旗振りの真似をしながら安男が聞く。
「ああ。みんなは警備員の仕事なんて、バカでもチョンでも出来る仕事ば思うとるばい。実際、おいも最初はそげん思うとった。確かに通行止めなんてのは、ただ一日中、ボーッと突っ立っているだけやけん。ばってん、片側はバカやチョンでは出来んばい。一日中、神経ば休める事ば出来ん辛か仕事ばい。片側は二人一組で旗ば振りよるけんが、二人の息ばピッタリと合わせんと出来ん仕事ばい。特に交差点近くの仕事の時なんかそうたい。少しでも気ば抜くと、交差点の中まで渋滞ば続くとよ。そうならんように神経ば使うて、おいたちは車ば停めるやけんが」
 嬉野は誇らしげに言った。
「おまわりや信号機と違って、警備員には停める権限がないんやろ?」
「なか。なかけんが、頭ばペコペコ下げてお願いせにゃならんばい。中には、制止を無視して突っ込んで来る車も多かとよ。危なかとよ。冗談抜きで、何度か轢き殺されかかったこともあったばい。ばってん、車の流れや数だけ見て、停止させてる訳やなか。時には運転手の表情や車の種類にも注意して、誘導せにゃならんとばい」
「車の種類?」
「そうたい。基本的にトラックやダンプの大型車両は多少は無理してでも流し、出来るだけ止めんようにするばい」
「なんでや?」
「普通車に比べ、急ブレーキが利かんこともあるばってんが、大型車両が先頭やと、後ろの車から旗が見えんけんね。勿論、状況次第では大型車両を停めんばいかん場合もある。そん時でも、物流のトラックはなるべく止めんようばするけんね」
「物流トラック?」
「ああ。出来るだけ早く届けにゃいかん事情もあるかとは思うが、物流トラックの中にはあからさまに嫌な顔をする運ちゃんが多か。中には強引に突っ込んで来る来る奴もいるばってん。その点、土木作業トラックや建築資材の運搬トラックは、まずそんな心配はなか」
「なんでや?」
「建築関係の車は警備員の仕事の事ば良く知っとりなさっとるけんね。それに比べ、物流トラックの運ちゃんは警備員の事なんか、なぁーんも知らんけん。勿論、運ちゃんの性格にもよるけんが、ただの渋滞の元凶ぐらいにしか思っとらんばい。つまり、おいが言いたか事は、英司やカマは物流トラックの運ちゃんと同じと言いたかよ」
「なるほど。そやな、人間一つの世界しか知らんと、その世界の価値観でしか他人を判断出来んもんな」
 安男がそう言って、短くなったハイライトを灰皿に押し付けた。
「しかし、旗振りやら催事屋やら、こがんその日暮らしの仕事ばしてると、世の中が不景気になっていく仕組みがようわかるばい」
「ほぉ」
 嬉野の言葉に安男が身を乗り出した。
「去年から毎日毎日、ハケンギリ、ハケンギリと騒がれてるばってんが、旗振りや警備員なんて派遣も派遣、派遣の中でも下も下の仕事ばい」
「そんならなんで、そんな下の下の仕事をしたんや?」
「日給週給で金ば貰えるからとよ。ほんなごつあん頃、金ばなかったけんね。選り好みをしてる場合やなかったんよ。けんど旗振りの仕事はお天道様次第ばい。晴れの日ば続いて、ちょっとその週ば実入りが良かけんが言うても、そん次の週も天気が良かとは限らん。雨が長く続けば、翌週の実入りがゼロとも限らん。そんなこつ考えたら、不安で不安で、恐ろしくって金ばいっちょう使えんとよ」
「うん、うん」
 安男が相槌を打つ。
「それに警備会社は警備会社で、抱えてる現場に必要なだけの人員ば抱えているかと言えばそうやなか。抱える現場の数ば増やしたいだろうし、いつ何時、急な仕事ば飛び込むかも知れんけんね。じゃけん、必ずそれ以上の人員ば登録してるばい。何人登録しようと警備会社は痛くも痒くもない、賃金の保障をする訳じゃなかけんね」
「それやったら、あぶれる人間も少なくないやろ?」
「仕事にあぶれるんは決まって年寄りばい」
「年寄り?」
「ああ。若者は当てにならんけんね。やれ腹が痛い、頭が痛いだとか、やれデートだとか、平気で仕事ば休むばい。それに比べ、年寄りは生活がかかってるけん、少々の熱があろうと、足が一本骨折してようと休むなんて言わんばい。じゃけん、会社は若いのから仕事ば埋めていくばい。年寄りはそがん時のピンチヒッター要員や、急な飛び込み仕事に備えて午前中は自宅待機、何もなければそのまま、その日はあぶれることが多かとよ」
「ふざけた話やな」
「ふざけた話ばい」
  嬉野がそう言って髪を掻き毟り、
「しかし、おいはなして、こがん仕事しか出来んとかね」
 と言って、畳に大の字になった。そして、天井を見上げたまま言葉を続けた。
「仕事が他になかった。ただ、それだけの理由たい。こう世の中景気が悪かとじゃ、手に職のなか男にろくな仕事ばなか。二三日雨が続けば、二三日売り上げがなければ、旗振りも催事屋も食っては行けんばい」
 グラス片手に立ち上がり、サブは硝子窓にもたれかかり外に視線を向けた。結露したガラス越し、対岸の暖かな家灯りが、まっ黒な湖面に揺れている。『ガチャ』『ガチャ』と言う音に振り返ると、俯いた小夜が、手にした携帯の蓋を開けたり閉じたりしている。
 雪は一向にやむ気配がなかった。

 

                                                       『催事屋』⑨に続く

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『催事屋』⑧A

2008年09月12日 | 小説

※ 三歩進んで二歩下がるはいつもの事で(^_^;)、後半10行程度を加筆いたしました。

 

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 宍道湖沿いに建つ『宍道湖健康ランド』の大広間は、平日の夜とあってか静かだった。
 一足早く風呂を上がったサブと酒井の二人は、宍道湖を見渡せる窓際の座敷席に腰を下ろしていた。
「ねぇ、ここいい?」
 振り返ると、上下ピンクのジャージ姿の小夜が立っていた。
「どうぞ」
 酒井が隣の席の座布団を指さすよりも早く、小夜はその席に座り、それが挨拶のつもりなのか、顎を少し前に突き出しながら「どうも」と抑揚のない声で言い、まだ濡れている髪を無造作にタオルで拭いながら、「ねえ」とサブの方に顔を向けた。
「はい」
 どぎまぎした。
 素顔の小夜は、昼間とはまるで別人のようだとサブは思った。
 ピンクのジャージの上着から伸びた長い首は雪のように白く、後れ毛が数本、植物の細い根っ子の様にうなじに張り付いていて、風呂上りの上気した頬はまるでサクラの花弁のようだ。両方の耳朶に、ティアドロップ型の小さなピアスが下がっていて、キラキラと銀色に揺れている。
「今夜はここに寝んの?」
 テーブルに片手で頬杖を付き、サブの顔を下から覗き込むようにして訊く。
「はい」
 サブの顔が赤くなる。久し振りだった、こんな風に異性から見詰められるのは。悟られないように、サブは焼酎の水割りをグイッと飲み干した。
「向こうに休憩室があります」
 声が裏返らないように気をつけながら、サブは休憩室のある方向を指差しながら、言葉を続けた。
 一年三百六十五日旅暮らし、催事屋たちはそれぞれ、好き勝手に旅館やホテル等の宿泊施設を取るのだが、搬入日の木曜日は、こうした二十四時間営業の健康ランドで一夜を過ごす業者も多い。
 サブの説明に、小夜はなるほどと言うように頷いている。
「フロントで毛布を貸してくれます。中にはマッサージチェアでマッサージしながら、そのまま朝まで眠り込まれる方も居ます。でも、安手の合皮ですから、まったく汗を吸い込んでくれません。一度経験がありますが、汗がビッショリとシャツに張り付いて、気持ち悪いことこの上ありません」
 サブの口振りが可笑しかったのか、「ククッ」と小夜は口許を押さえた。
「なんか可笑しかったですか?」
 サブの顔はまだ赤いままである。
「なんや変に畏まった言い方やったから」
 小夜は舌を出して笑い、そして、「明日もここに寝んの?」と訊き、目を細めてサブを見詰める。サブの顔がいっそう赤味を増す。
「いえ、今夜だけ、週に一度、木曜日だけです。こんなところで寝るのは嫌ですよね?」
「毎日と言う訳やなかったらええわ。なんやごっつう面白そうやし。それにこんな事、普通に学校に通ってたら経験出来へん事やもんね……」
 その時、小夜が急に腰を上げ、ジャージのポケットに右手をモゾモゾと突っ込み、携帯を取り出した。ピンクの着信ランプが点滅している。メールのようだ。届いたメールに目を落とし、「ごめん」と一言小夜はそう言って、返信し始めた。メールキーの上、小夜の親指が小刻みに踊っている。
  メール打つ小夜の肩越し、窓ガラスの中、漆黒の湖面に酒井の横顔が映っている。酒井はもう五分近くも窓際に横肘をつき、そうしてじっと遠くを見つめていた。一度口をつけただけの焼酎の水割りグラスがぐっしょりと汗をかき、テーブルに小さな水たまりを作っている。
 地元客だろうか? ドヤドヤと数人の男達が入ってきて、すぐにカラオケを始め出した。静かだった館内が、たちまち濁声に支配される。
「酒井さん、氷がすっかり溶けてしまってますよ」
 声を掛けるのをためらっていたが、サブは思い切って声を掛けた。
 酒井はゆっくりと視線をグラスに落とし、繕ったような笑みをサブに向けた後、グラスを持ち上げ、近くにあった布巾でテーブルを拭いた。
「何か、考え事でもしてらしたんですか?」
「うん……なんとなくね、対岸の家灯りを見てたんだ」
 そう言って、酒井はハイライトに火をつけた。
 闇夜から産み落とされて来るかのような綿雪が、次々と湖面に沈んで行く。
 対岸に松林のシルエット。その後方に、ポツリポツリと灯りが見える。小さくてささやかだけど、じっと見つめていると、思わず目頭が熱くなってくるほど穏やかで暖かな光だ。家路を急ぐ車だろうか? 黒いカンバスの上に、オレンジ色のヘッドライトが一本の軌跡を描いている。
「……おかえりなさい……か……」
 うまくカラオケの合間でなければ、聞き逃してしまうほどの小さな声だった。
 再び、カラオケが始まった。
 小夜は無心にメールを打ち続けている。操作音が忙しなく、カチカチと小さく音を立てている。メールキーの上を親指が踊るのに合わせるかのように、両耳にぶら下がった銀色の涙も踊っている。サブはしばしそれを眺める。再び、酒井に視線を戻す。そして、酒井のグラスに焼酎を注ぎながら、サブは酒井の口が開くのを待ったが、酒井に言葉を続ける様子はなかった。
 サブが酒井と初めて会ったのはこの二月の初旬、熊本の南国会館での催事からである。
 搬入前に他の業者仲間に酒井を紹介した後、鎌田がサブに言った。
「中州の屋台で飲んでたらよ、このおっさんが隣でしけた面して呑んでやがってよ。仕事はなにしてんだ? と聞いたら、何もしてないって言うからよ、可哀相だから連れて来てやったんだ。歳ばっか食って、何も出来なくて迷惑をかけるとは思うが、サブ、面倒見てやってくれ」
 ―本人を前に、そんな言い方はないだろう!―
 そんなサブの思いと裏腹に、ただニコニコと笑っていた酒井を覚えてる。
 出会ってまだほんの一ヶ月、自分のことはあまり話さない無口な男であったから、サブは酒井のことはまだ何も知らなかった。
「事故……大したことはなかったのですか?」
 大した事故でなかったことは、今朝聞いていた。話のきっかけに持ち出しただけである。
「ノラが急に車の前に飛び出したんです」
「ノラ?」
「いや、あれはノラじゃない、ノラがあんなところに居る訳がないんだから……」
「あ、あの。すいません、酒井さん……ノラって?」
「ああ、そうですね。すみません」
 酒井はまるで溜息でも付くかのように煙草の煙を吐いた。そしてほんの一瞬、眉を顰めた後、
「こうして、サブくんや皆さんのお仲間入りさせて戴く前、半年近く、私は博多で暮らしていたんです。ノラと言うのは、近所に居着いていた白い野良猫のことなんです。野良だから“ノラ”。私が勝手に名付けたんですがね。そのノラにそっくりな白い猫が急に飛び出して来たんです」
 そう言って、酒井は少し口許で笑った。
「ノラは異常に人懐っこい猫でした」
「異常?」
「ええ、異常に人懐っこい猫でした。友人の家を借りて暮らしていたんですが、その家に越して来たその日、突然、どこからともなくノラが現れました。そして、私がまるで飼い主であるかのように、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、薄汚れた身体で、私の足元にまとわりついてきたんです。初対面の私にですよ。犬ならまだしも、猫は普通、用心深い動物じゃないですか」
「そうですよね。僕の家も猫を飼っているのですが、自分勝手と言うか、気紛れと言うか、飼い主にさえ媚びを売ることはないですもの。野良としての暮らしで身に付けた、習性なんでしょうね」
「ノラを見ていると、なんだか、自分自身を見ているようで、私はリクの……あっ、リクと言うのは、東京から連れて来た犬の事なんですが、リクの餌をノラにあげたんですよ」
「ドッグフードをですか?」
「ええ」
「食べましたか?」
「食べましたよ、美味しそうに。ガツガツとね」
「そうですよね。野良猫が贅沢を言っちゃいけませんものね」
 サブの言葉に、酒井は「そうですね。贅沢なんか言える、そんな身分なんかじゃないんです」と呟き、グラスに口を付け、再び言葉を続けた。
「それに味をしめたノラは、それ以来、私が帰ってくるのを待ち構えているかのように現れては、私に餌の催促をするようになりました。そりゃね、誰も知る人の居ない初めての地、家に帰っても迎えてくれるのはリクだけでしたから、そうして身体を擦り寄せてくるノラのこと、正直、可愛く思ったものでした」
 酒井の指の煙草の灰が長くなっている。それに気付いた酒井は、灰皿に押し付けるようにして煙草を消し、言葉を続けた。
「しかし、ノラは次第に図々しくなって来ました。油断をすると家に上がり込んだり、酷い時には、リクのドッグフード袋の中に潜り込む始末です」
「それは図々しいですね」
「私は次第に、何とも言い様のない、苛立ちをノラに感じ始めました」
「苛立ち?」
「はい、怒りと言うか、何とも例えようのない、腹立たしい苛立ちです。ノラは私の手から餌を得るだけで、それに対しての対価を何も支払おうとしないのです」
「……対価?」
 サブが怪訝な表情を浮かべた。
「わかっています、猫は自分勝手な動物なんですから。まして、野良猫です。わかってはいるのですが、どうにもならない苛立ちを覚えましてね。私はノラに言いました。おまえは私に何をしてくれるんだ?! 私から餌を貰うだけで、何も対価を支払おうとしないじゃないか! とね」
「猫と会話ですか」
「気持ち悪いですね」
 酒井が苦笑いを浮かべた。
「いえ、僕の友人に冷蔵庫と会話する男がいますから」
「冷蔵庫と会話ですか。アハハハ、それはまた寂し過ぎますね」
 酒井が声を出して笑った。
「それで、ノラは答えましたか?」
「勿論、猫が答えるわけはありません」
「そうですよね」
「でもね、私を見上げるその顔は、確かにこう言っていたのです。リクだって、何もしないじゃないですか?! ただ寝てるだけ。対価を支払わないのはリクだって一緒じゃないですか。それどころか、朝夕二回の散歩であなたの手を煩わせている。それに比べたら、私の方がましだとは思わないですか? と」
「へえ、生意気にも、そんなことを言いましたか。で、酒井さんは何と答えられたのですか?」
「リクは私の家族だ。しかし、君は私の家族じゃない、ただの垢の他人だ……あっ、猫に垢の他人は可笑しいか」
 呟く様にそう言って、酒井は窓の方に顔を向けた。
「……家族……」
 その言葉を、サブは小さくゆっくりと口にした。
「その日を境に、ノラは私の前から姿を消しました。去年の秋のことです」
「今頃、どうしているんでしょうか?」
「一人で生きていけなきゃ、野垂れ死ぬしかないでしょうね」
 急に風が出てきたのだろうか、遠く闇を駆け抜ける音が聞こえる。
「どうしてまた、遠く離れた九州、博多なんかに来られたんですか? あっ……」

 ―叩いたら誰かて埃の一つや二つ、指が一本欠けてる奴、脳味噌が少し足らへん奴、男から逃げとる奴、女に逃げられた奴、希望を失のうた奴、夢を捨てた奴、まして、借金を背負ってへん奴なんて一人もおらへん。ええか、耳の穴をかっぽじってよう聞きや。仲間の過去や私生活に、余計な首なんか突っ込んだらあかんよ。サブちゃん、これが、この催事屋稼業の暗黙の掟やで―

 いつもの斉藤のオッカァの口癖が、サブの脳裏を過ぎった。
「すみません。僕、余計なことを聞いてますよね」
「いや、いいんだ」
 酒井はそう言って、テーブルの上のハイライトに手を伸ばし、そして、
「乗り捨てのレンタトラックの荷台に、わずかな生活道具とリクを乗せ、東京から博多に来たのは去年の六月でした」
 酒井の言葉はまるで、宍道湖の暗い闇に話しかけるかのようだった。
「新田物産って御存知ですか?」
「ええ、勿論」
「私、新田物産に務めていたんです」
「えっ?! 新田物産と言えば、大手の商社じゃないですか」
「大学を出てずっとでしたから、二十年以上勤めたことになります。大した出世も出来なかったけれど、そのまま無事に、定年退職を迎えるつもりでいたんですけどね……」
 ふーっと、ゆっくりと、煙草の煙を吐き、酒井はしばらくの間、立ち上る煙を眺めていた。やがて、薄茶の麻のズボンのポケットから真っ白なハンカチを取り出し、眼鏡を拭いた後、煙が目に沁みるのか、こめかみに親指の腹をグリグリと押し当てながら、再び会社を辞めた経緯を話し続ける。グラスの底を中心に、テーブルがぐっしょりと濡れていて、サブはそれを人差し指で悪戯をしながら、酒井の話を聞いている。
 こんな時、「そうですね」だとか、「へぇっ」だとか、合いの手を入れるべきなんだろうと思ったが、そんな軽さを持たないサブは、ただ俯いているしかなかった。
 酒井の言葉が途切れた。
 サブが顔を上げた。
 窓硝子の中、立て膝した右足に右手で頬杖を付く酒井の横顔が映っている。
 沈黙に耐えられず、サブが口を開いた。
「お友だちから紹介された会社は、どうされたのですか?」
「やめました」
 酒井は目を伏せて呟いた。
「金縛りですよ」
「金縛り?」
「今風に言えば、フリーズと言うのでしょうか。面接の朝、身体が固まってしまったんです。どうにもこうにも、ピクリとも身体が動かないんです。また、ジグソーパズルの中の一ピースに埋没してしまうようで怖かったのでしょうね」
「入ってみなければわからないじゃないですか。同じ会社じゃないんですから」
「確かに、同じ貿易商社とは言え、会社は違うのですが……」
  酒井はしばらく考えていたが、やがて再び口を開いた。
「単身赴任から帰国したあの日、感じたんです。何も変わっていない、私が居ようが居まいが、会社は何も変わらず動き続けていたんです。二十年以上も勤めてきて、私は、ジグソーパズルの1ピースにすらなれなかったんです」
 グラスの中の氷がすっかり溶けてなくなってしまっている。酒井はそれを手にし、口元に持っていこうとしたが止め、再びグラスをテーブルに置いた。
「会社だけではありません。あの日の夜、家族がささやかなパーティーを開いてくれました。二年振りの家族団欒の夜になる予定でした。乾杯をしようとしたその時、次女の携帯が鳴ったのです。次女は携帯を耳に当てたまま自分の部屋に行き、そのまま帰っては来ませんでした」
 窓ガラスが結露でぐっしょりと濡れ、宍道湖対岸に並んだ街路灯の灯りを滲ませている。暗く重く沈んだ湖面に、酒井の横顔が浮かんでいた。
 サブはふと、酒井の横顔が誰かに似ていると思った。そうだ、親父の横顔だとサブは思った。
 サブは手を上げ、従業員にウィスキーの水割りを注文した。そして、「なんて言う名前でしたっけ? 東京から連れて来られたと言う犬」と酒井に聞いた。
「リクのことですか」
「そうそう、そのリクですが、今、どうしてるんですか?」
「リクですか……リクは去年の暮れに死にました」
 窓の向こうに顔を向けたまま、酒井は無表情に答えた。
「寒い冬の朝でした。ひっそりと死んでいました。老衰でしょうか。博多に来てから急に足下が覚束なくなり気になっていたんです。前日の夜、リクの啼き声を聞きました。いつもの力強いものとは違う、寂しげな、か細い遠吠えが。それなのに私ね、いつもの様に飲んだくれてましてね。可哀相なことをしました。私の我が侭に付き合わされ、見も知らぬ土地に連れて来られ、最後は誰に看取られることなく死んでしまったんですから」
 酒井の横顔に、切なげな笑みがおぼろに歪んでいる。
 サブにはかける言葉が見つからなかった。

 

                           『催事屋』8に続く

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『催事屋』⑦

2007年09月12日 | 小説

 


 グランデュオ立川六階のカフェ、奥まった席で友美は妹の仁美を待っていた。
 平日の夕方とあって、店内は勤め帰りのサラリーマンやOLで混み合っていた。友美は腕時計に目をやった。約束の時間より、既に三〇分近く過ぎている。心地よいジャズが流れていたが、友美は音楽を楽しむ気にはならなかった。
 「いらっしゃいませ」
 ウェイトレスの声に顔を上げると、仁美が入口で背伸びをして店内を見回している。友美は腰を浮かせ、手を振り合図を送った。
 「遅かったじゃない」
 コートを脱ぎ席に着こうとする仁美を、友美は詰った。
 「何言ってるのよ。専業主婦のお姉ちゃんと違って、こっちは働いてるのよ。それに、急に会いたいなんて言われたって、こっちだって色々都合があるんだから」
 仁美は友美と向かい合って座り、ウェイトレスにコーヒーを注文し、飲み干された友美のコーヒーカップを見て、「お姉ちゃん、もう一杯飲む?」と訊いた。
 「貰うわ。待ちくたびれて、飲んじゃったわよ」
 「あらっ、遅れたからって、お勘定はそっち持ちだからね。三食昼寝付きのお気楽専業主婦のお姉ちゃんと違って、こっちは新人OL、安サラリーなんだから。それに、忙しいところを呼び出されたのは、私の方なんだからね」
 「はいはい、わかりました。なんだか、デートの約束でもあった風な口ぶりじゃない」
 「そんなんじゃないわよ。それよりお姉ちゃんの方こそ、主婦がこんな時間帯にいいの? 隆史さんに怒られないの?」
 「いいのよ。仁美と会うと言ったら、隆史さん、それなら俺は会社の同僚と飲んでくるから、ゆっくりして来て良いよって」
 「あらっ、優しい旦那様ね、と言いたいところだけど、隆史さん、ここぞとばかりに羽を伸ばすつもりなんじゃないの? お姉ちゃん、心配しないの?」
 「心配しないと言ったら嘘になるけれど、この先まだまだ長いんだし、この程度で今から心配してたら切りがないわ。所詮男なんて、浮気をする動物なんだから」
 「ふーん。結婚前は寝ても醒めても『隆史さん、隆史さん』だったお姉ちゃんが、一年も経たないうちにそんな風になるんだ」
 「あんたの方こそ、あのギター弾きとはどうなったの?」
 「ギター弾き? ……ああ、ケンタローの事ね。とっくの昔に別れたわよ」
 運ばれてきたコーヒーにミルクを入れ、スプーンでかき回しながら、抑揚のない口調で仁美が答えた。
 「ええっ!? もう、別れたの?」
 「ちょっと見、格好良かったから付き合ってみたんだけど、あいつ、私の誕生日に何をくれたと思う? 表参道の路上で売ってた五百円の指輪よ。まったく、ふざけてるったらありゃしない!」
  「あら可愛いじゃない」
 「何が可愛いのよ。五百円で私の気を引こうなんてふざけてるわよ!」
 椅子に背を預け、長くストレートな髪を掻き上げながら話す、そんな仁美を見ながら、気の強さや現実主義なところ、お母さんにそっくりだわと友美は思った。
 「それはそうとお姉ちゃん、まさか、そんな話をするために私を呼びだしたんじゃないわよね」
 「あらっ、そうだった」
 友美はコーヒーカップに手を伸ばし、一口含んだ。カップの縁に付いたピンクのルージュを、そっとハンカチで拭い、ソーサに戻した。そして、カップの中で揺れる褐色の液体をしばらくの間見つめた後、再び、口を開いた。
 「話というのは、父さんのことなんだけれど。父さんから、家に連絡はないの?」
 「父さんから? 連絡なんてないわよ。お正月ぐらいは帰って来るかと思ったら、簡単な年賀状が届いた切りよ。本当、父さんったら、いい加減なんだから! お姉ちゃんとこには?」
 「私んとこにもないわ」
  「新しい職場で、上手くやってるのかしら?」
 「そのことなんだけど……」
 「なんかあったの?」
 「先月末三日ばかり、隆史さん、博多の支社に出張していたんだけれど。その時、そっと、父さんの様子を見に行ってもらったのよ」
 「父さん、元気だった?」
 「それがね、隆史さん、父さんに会えなかったのよ」
 「会えなかった? 会えなかったって、どういう事よ」
 「就職すると言ってた会社を訪ねたんだけど、そんな人、うちでは働いてはいないし、過去にも働いたということもない、と言われたらしいの」
 「働いてないって、そんな……年賀状に書かれていた住所は? 佐野さんって言ったかしら、父さんのお友達。父さん、その人の使っていない古い家を借りて暮らしているんでしょ」
 「うん。勿論、隆史さん、そこも訪ねたわよ。天神から西鉄大牟田線に乗って六つ目、雑餉隈と言う駅」
 「ざっしょのくま? なにそれ、変な名前ね。どんな字を書くの?」
 「うん、なんか難しい漢字なのよね。雑と言う字と、えーと……どんな字だったっけかな?」
 「相変わらずね、姉さん。本当、子供の頃から国語に疎いんだから」
 「もう! そんな事どうでもいいじゃない! 変なことを訊くから、話がちっとも進まないじゃない」
 口を尖らせ、友美が抗議をした。
 「ごめん、ごめん。で、父さんは?」
 「居なかったって」
 「居なかった?」
 「そう、居なくなったんだって」
 「居なくなったって……ちょっと! それ、どう言う事よ?!」
 仁美の顔がこわばった。
 「うん。佐野さんの話では去年の暮れ、可愛がっていた犬が亡くなって、年が明けてすぐ、行き先も何も言わずだって」
 「ちょっと待って!」
 身体を乗り出し、仁美は友美の言葉を遮った。
 「可愛がっていた犬って、それ、リクの事? リク、死んじゃったの?」
 仁美の問いには答えず、友美は首を力なく振った。
 「そう、リク、死んじゃったの……」
 力が抜けたように、仁美が椅子に身体を落とした。
 「ねぇ、仁美。リク、何歳だったっけ?」
 「確か、私が小学一年生の時に産まれたんだから……」
 「そうそう。私の修学旅行の前日に産まれたんだったわね。あの時は気が気でなかったわよ」
 「そうそう、このままじゃ、私、旅行に行けないって、お姉ちゃん、今にも泣き出しそうだったわね」
 「クララが産気づいたのが夜中の十二時過ぎ。確か、一番最初に産まれたのがリクだったわよね」
 「うんうん。リクが長男。全部で五匹、生命の誕生をあんな間近に見て、子供心にも私、なんか胸が熱くなって、涙が止まらなかったのを覚えてる……」
 「父さんも母さんも泣いてたわよ」
 「そう言う、お姉ちゃんが一番泣いてたんじゃないのよ」
 「それだけ感受性が豊かなのよ」
 仁美はプッと吹き出して、
 「感受性ね……」と、友美の顔を覗き込み、ニヤニヤ笑いながら言った。
 「失礼ね。隆史さんはいつも私に言うわよ。君はなんて感受性が豊かなんだ! って」
 「はいはい、御馳走様」
 大袈裟に両手を広げながら仁美が笑った。
 「ねぇねぇ仁美、あんたが初潮を迎えた時のこと覚えてる?」
 「何よ、こんなところで」
 仁美が周囲を見回しながら、顔をしかめ友美を咎めた。
 「あんたが小学校の五年の夏の事よ。父さんがさ、庭の隅でリクを抱き締めながら、『この家で、男は俺たち二人だけになってしまった。仲良くやろうな!』って、呟いていたのよ」
 「へぇ、父さん、そんなことを言っていたんだ」
 「あん時の父さんの背中、随分寂しそうだった……」
 「そんなの変よ。だって、普通、娘が初潮を迎えたら、赤飯を炊いて祝うんじゃないの?どうして寂しいのよ。嫁いで行くというなら分かるけれど」
 「そうよね……でも、父さん、博多にリクを連れて行くと言った時、『リクは俺の戦友みたいなものだから』って言ってたじゃない?」
 「なによ、それ。じゃ、父さん、リクと一緒に、母さんをはじめ、私やお姉ちゃん、我が家の女性たちと戦っていたと言う訳? それもそんな前から?」
 仁美は唇を尖らせた。
 「そんな大袈裟なものじゃないと思うけど、父さん、孤独感とか、疎外感とか、そんなものを感じていたんじゃないかかしら?」
 「孤独感とか、疎外感とか、私、わかんない! ……具体的に言ってくれないと」
 コーヒーカップに手を伸ばしながら、
 「私だってわかんないわよ。父親や男の気持ちなんて。ふと、そんな風に感じただけなんだから……」
 と言って、友美は唇をカップにつけた。
 つられるように、仁美もコーヒーに手を伸ばした。
  二人の間に、数秒間の沈黙があった。
 やがて、呟くように仁美が口を開いた。
 「リク、十二歳か……赤ちゃんの頃のリク、可愛かったな……あれからもう、十二年も経つのね」
 「犬の十二歳と言えば、相当なおじいちゃんよね。ハスキーは寒さには強いけど暑さにはからっきしだもの。きっと、九州の暑さが堪えたんだわ」
 「六月でしょ、父さんとリクが博多に行ったのは」
 「そう。バンコク赴任から帰国したのが三月。会社の希望退職に応じたのが五月の半ば過ぎだったわね」
 「希望退職って、早い話が肩叩き、リストラじゃない」
 「会社も酷いわよね。二十年以上も尽くしてきた人に対して、それも、単身赴任から帰国したばかりだと言うのに、情け容赦なくトントンだもの」
 「仲の良かった、川崎専務が失脚したからでしょ」
 「仲が良かったって、ただ単に釣り好き同士、誘われたら同行してただけ。純粋に、ただそれだけの関係でしょ。父さん、派閥とか、そんなタイプじゃないもの」
 「会社はそうは見ないわよ」
 「人が良いと言うか、父さん、世渡りが不器用だから……」
 「でも、博多の会社に就職すると言い出した時は驚いたわね」
 「九州だものね。遠すぎるわよ」
 「でも、父さん、佐野さんの紹介して下さった会社には、結局、就職しなかったわけでしょ? 佐野さん、その事については何か言ってなかったの?」
 首を振りながら、
 「面接の前日になって、父さん、急にやめると言い出したんだって」
 「あらっ? 何が気に食わなかったのかしら?」
 「急に怖くなったんだって」
  「怖くなった?」
 「うん。会社が違うとは言え、前と同じ商社。又、同じことを繰り返しになるようで怖いと……」
 「そんなこと言ったって、父さん、ずっと商社マン一筋。あの歳で今更、他の仕事なんて出来っこないじゃない。福岡に行くと言い出した時、自分の事を必要としてくれているからだって言ってたじゃない!」
 「紹介した時はあんなに喜んでくれたのにって、佐野さんも父さんの気持ちがわからないって」
 と言って、友美は吐息を吐いた。
 「それにしても父さん、半年間、仕事もしないでブラブラ遊んでいたのかしら? 退職金は母さんが全部持っている筈だし、そんな余裕なんかない筈よ」
 「……それがね……」
 そう言って、友美が眉を顰めた。
 「交通誘導警備員をしてたらしいの」
 「交通誘導警備員?」
 「早い話が、道路工事の旗振りよ」
 「えっ? 父さんが旗振り? 冗談でしょ!」
 「冗談じゃないのよ。隆史さんからその話を聞かされた時、私だって信じなかったわよ。佐野さんから紹介された会社を断って、旗振りをしていたなんて」
 「ねえ。その話、母さんにはしたの?」
 「してないわよ。父さんが旗振りなんかをしてるなんて聞いたら、母さん、卒倒するに違いないもの」
 「そうよね、それでなくても世間体とかを気にする人だもの、母さん。父さんと結婚したのでなく、商社マンと結婚したような人だものね」
 沈黙が流れた。
 仁美はコーヒーカップに伸ばした指を引いた。二杯目のコーヒーもすっかり飲み干していた。
 「父さん、どこに行ったのかしら……」
 友美が顔を上げた。
 数秒、姉妹の視線が絡み合った。
 「……まさか、父さん……」
 仁美のの言葉に友美が顔色を変えた。
 「そんな、父さん、自殺なんてする人じゃないわよ!」
 「だって、リク、死んじゃったんでしょ!」
 「やめてよ! そんな、父さんに限って……」
 友美の顔は血の気をなくしていた。

 

                                                           『催事屋』8Aに続く

 

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『催事屋』⑥

2007年01月23日 | 小説

年明け早々、Bebeと言う新しい家族が増えたものだから、そっちにばかり夢中でしばらくペンと遠ざかっていましたが……『催事屋』 6 やっと、書き終えました┏o((=^♀^=))o┛。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 搬入が始まった。
 会場奥にある搬入口から一番遠いコマ、つまり、天場所周りの業者から、次々と車が搬入口に消えていく。
  平台やガラスケース、什器備品、そして商品の詰まった段ボール箱を大急ぎで車から降ろし、空になった車を外に出し終えると同時に、次の業者が車を乗り入れる。そして最後に、家具や絨毯、絵画などを扱う、大ゴマ業者の大型トレーラーが乗り入れを終えた。
  所狭しと置かれた什器備品の間を、業者たちが走り回っている。
 いよいよディスプレイだ。
 一番最初の作業は、平台やガラスケースの什器の配置決めである。
「社長、いつも通り、平台はここでいいんですよね?」
 平台を押しながら、サブは商品の念珠の在庫を確認している英司に声を掛けた。
「バカか、おめぇは!」
 英司は手に持っていた水晶の念珠の房を持ち、水晶玉の方でサブの額を叩いた。
  コツン! と鋭い音がした。
「イテーッ!」
 サブは頭を抱え、思わず腰を落とした。
「社長、でも、平台はいつもこの位置に……」
「もうちっと、脳味噌を働かせろよ。ええーっ? 大学で何を勉強してきたんだ?」
「自慢する事じゃないんですけど、中退なんですよね」
「中退だからって、裏口で入った訳じゃねぇだろ? ちゃんと入試を受けて合格したんだろ?」
「……それはそうですが……」
「自慢する程じゃござんせんが、こちっとら高校中退よ。恥ずかしながら、カマなんて中卒だぞ。ええっ? 今時、どこ探しても中卒なんていねぇぞ!」
「ちょっと、英司さん、中卒、中卒って、そう何度も何度も、大きな声で言うのはやめて下さいよ」
 鎌田が振り返り、そう言って口を尖らせた。
 鎌田の方をチラリと見ただけで、英司は言葉を続けた。
「いいか、サブ。客の流れはいつも同じとは決まっちゃいねぇんだ。例えば、釣り師が潮を読むのと同じよ。磯場の上からじゃわからねぇ、沈み根の位置、海底の起伏、上げ潮時、下げ潮時、その時々によって変わる潮の流れを読み、コマセを打つ。そして、そのポイントに正確に仕掛けを投入する。俺たちの商売もそれと同じよ。行く先々の会場の作り、出入口扉の位置、季節、又、自分のコマ周りの他の業者のアイテムの違いで、右回りになったり、左回りになったりと、客の流れが変わるんだ。これを読み違えると、苦労してゲットした天場所も、宝の持ち腐れになりかねないんだ。どの場所に、どちら向きに、どの商品をディスプレイすれば、一人でも多くの客を集められるのか、一秒でも客の足を留めておけるか、そこんとこを、しっかり考えろってんだ」
  そう言って再び、英司がサブの頭を念珠でコッツーン! と叩いた。
 糞ッ垂れ! 他人の頭をまるで、安物の木魚みたいにポカポカと殴りやがって! マジで痛いんだよ!
 サブは腰を落とし、頭を抱え、下唇を噛んだ。


 こんな風に会場内の誰もが忙しい中で、『椰子切りの佐久』こと佐久間真之輔だけは、搬入どころか、ディスプレイさえさっさと終わらせ、会場の隅で煙草を燻らせている。
 佐久の商材は、一見何の変哲もない果物ナイフと万能包丁の二種類だけである。当然、借りるブースは半コマと小さい。テーブル一台の上に、黒いビロードの布を広げ、その上に商材の包丁を無造作に並べ、デモンストレーション用のまな板と野菜に、『椰子切りの佐久』の謂れとなった、木質化した硬い椰子の実を数個並べる。そして、眼光鋭く日本刀を研ぐ、若き日の自分の写真パネルを、ブース脇に立てかける。これで搬入・ディスプレイが完了なのである。三〇分もあれば充分なのである。
  当然、商材の包丁を手に葱や白菜、トマトなどは勿論、硬いサトウキビなんかを切って見せるのだが、そんなものを切る必要性があるのかどうかは別として、時には太い電線をスパッと切って見せたりの実演の後、さて、いよいよ舞台はクライマックス、木質化した硬い椰子の実の登場である。おもむろに、椰子の実をテーブルの上に置く。包丁を手に、上段に構える『椰子切りの佐久』。ピーンと張りつめた空気。一瞬の静寂の後、『キェーーッ!』と気合いの声。振り下ろされる包丁。まるでスローモーション映像を見るかの如く、ゆっくりと、真っ二つに割れていく椰子。その瞬間、テーブルにたかっていた客が我先にと、「それ、頂戴!」「それ、お幾ら?」「私にも」と、一本三〇〇円で仕入れた包丁が、三千円、五千円、時には一万円に化けるのである。
 『椰子切りの佐久』の、見事な【落とし】のテクニックである。勿論、素人が硬い椰子の実を切れるわけはない。もっとも、椰子の実を切ろうなんて奴はいるわけもないし、白菜やトマトが切られればそれで良いのである。今のところ、椰子の実が切れないとクレームが来たことはない。業者仲間がそのコツを訊くのだが、企業秘密だと言って、佐久は絶対口を割らない。
 どこの会場であったか忘れたが、サブは偶然、トイレの鏡の前、モップを上段に構える『椰子切りの佐久』に出会したことがあった。
「やっぱ、剣の心得があるんですよね」
 とサブの言葉に、
「いやぁ、大したことはないよ。ほんの五段だ」
 と、『椰子切りの佐久』は鏡の中のサブに事も無げに答えた。
 この稼業の男たちは、酒が入ると決まって「俺は極真空手をしていた」だとか、「少林寺拳法三段だ」「学生時代、ボクシングの東北チャンピオンだった」とか、武勇伝の自慢話合戦になることが多い。中には、「得意の合気道で、瞬時に七人のやくざを蹴り倒してやった」だとか言い出す輩まで現れる始末。話半分どころか、嘘八百、眉に唾を塗って聞かなければ、翌朝、間違いなく酷い二日酔いで仕事にならない。しかし、『椰子切りの佐久』のあのパフォーマンス、若き日とは言え、パネルの鋭い眼光を見たら、剣道五段はさもありなんと、サブは信じざるをえなかった。
 なんでも、昔は名の通った刀の研ぎ師だったのだが、水商売の女に入れ込んで、街金から金を借りては女に貢ぎの繰り返し、借金は膨大に膨れ上がり、とどのつまりはお決まりの逃亡の日々。奥さんや子供が居るのか居ないのか、誰も知らないと、オッカァの話である。


「サブ! ボケッとしてんじゃねぇぞ!」
「…あ、あっ…ハイッ!」
 背中から英司の怒鳴り声が聞こえ、サブは慌てて手を動かした。
「おい、サブ、ガムテープがない、どこへ行ったか知らないか?」
「社長の足下の青い備品箱に入っているはずですが……」
「いや、それはわかっているんだ。この前、安かったから三個まとめ買いしておいたんだが、それが二個しかないんだ」
「一個じゃ足りないですか?」
「いや、一個あれば充分なんだが……おかしいな? 何処へ行ったんだろ? ここにもないだろ……どこへ片したんだろう?」
 英司はブツブツと呟きながら、山と積まれた荷物を一つ一つ片っ端から開けては中をひっくり返し、一心不乱にガムテープを探し始めた。
 先程のタバコ、ライターに始まり、今度はガムテープですか。社長のナイナイ病、何とかならないものですかね。アララララ、あんなに散らかしちゃって、誰が片付けるのでしょうかね。
 もうこうなったら最後、英司の脳味噌の中は、次々と孵化する蜘蛛の子の如く、無数のガムテープで一杯になっているのである。

 ♪探し物は何ですか?
  見つけにくいものですか?
  鞄の中も、机の中も、
  探したけれど見つからないのに、
  まだまだ探す気ですか?♪

「おい、サブ。前々から思っていたんだが、俺が何か探し始めると決まって、お前はその歌を口ずさんでいるけど、そりゃ俺に対しての嫌味か?」
「いえ、そんな意味じゃ・・・」
 サブは慌てて口をつぐんだ。
「この際だから言っておくが、そこにあるはずのものがないと、俺は気になって気になって仕事が手につかなくなるんだ。捨てたんならいいんだ! でも、失くすのは堪らなく嫌なんだ。例えそれが、どんなつまらないものでもよ。サブに言われなくともわかってんだよ。ガムテープは今、とりあえず一個あれば充分なんだ。何も今探さなくてもいい。大抵がそのうち、『あっ、こんなところにあった』なんて出て来るもんだ。ああ、タバコは車のダッシュボードの上にあったよ! ああ、そうだよ。ライターはトイレに忘れてたよ! 俺だって、わかっているんだよ。しかし、これは俺の性分なんだ。どんなものであれ、失くすのは嫌なんだ……そして、いつだって、なくしてから気付くんだ。とても、大事なものだったんだって事に……」
 英司はそう言った後、数秒、自分の散らかした足下をぼんやりと眺めていた。
「あーあ、こんなに散らかしちゃって……サブ、片しておいてくれ」
 矢沢は小さく呟き、右手の拳で自分の頭を叩きながら、やがてゆっくりとディスプレイに取り掛かり始めた。
「サブくん、手伝おうか?」
 千均のファッション腕時計を平台の上に並べながら、酒井が言った。
「ありがとうございます。でも、いいです。自分でやりますから」
 サブはそう言った後、声のトーンを落とし、
「どうせいつものように、後は酒井さんに押し付けて、鎌田さん、パチンコに行っちゃうんでしょう?」
 と、酒井の耳元で言った。
「……どうでしょうか……」
 ディスプレイの手を休めることなく酒井が答えた。
 案の定だった。数分も経たないうちに、
「おっさん、もっと急いでやってよ。そんなチンタラやってたら日が暮れんじゃねぇかよ」
  とブツブツ文句を付けたかと思うと、
「おっさん、後は頼むね」
 蒲田はさも疲れたと言わんばかりに腰に手を当て、首を左右にコキコキと振りながら言った。
「おいおいカマ、またパチンコかよ」
 天然石ネックレスのディスプレイをしていた英司が振り返った。
「松江駅近くに、今日新装オープンの店があるとの情報を仕入れたんスよ。小倉の負けを取り返さないとね」
 蒲田は右手でパチンコのレバーを操作する仕草をしながら言った。こんな時の蒲田の瞳は、まるで少女マンガのヒロインのように輝いている。
「余計なお世話かもしらんが、俺は前々から一度言わなきゃと思ってたんだ。カマ、お前は俺の下で働いていた時から、ディスプレイをおざなりにするところがあった。確かにお前の販売力は認めるよ。バブルのあの頃なら、少々いい加減なディスプレイでも、お前の販売力で売れただろう。でもよ、今はあの頃とは違うんだ。まして、俺たちのようなアクセサリー業者にとっちゃ、ディスプレイが生命じゃねぇのか? ええ? もっと、こだわりを持ってやろうぜ」
「こだわりこだわりって、こう言っちゃ何ですが、英司さん、ディスプレイにこだわり過ぎちゃいないっスか?」
「こだわり過ぎだ?」
「ええ。はっきり言ってこだわり過ぎですよ。そんな風に一ミリの狂いもないほどにネックレスをディスプレイしたって、客なんて見ちゃいないっスよ。客が見ているのは、値札、値札っスよ」
 英司の表情が一瞬変わったが、思い直したかのように頭を振った。
「わかった、わかった。パチンコにでも何でも行ってくれ。おまえにディスプレイを語った俺が悪かった」
 英司はまるで野良犬でも追い払うかのように右手の甲を上下に振り、背を向け、再びネックレスのディスプレイを始めた。
 その時、
「小夜、こっちや、こっち」
 と、コンニャク玉をフライパンで転がしていたオッカァが、玄関口に向かって手を振った。
 オッカァの視線の先に、携帯電話を手にした若い女が立っていた。
 女はオッカァの姿を見つけると、すぐに視線を右手の携帯電話に落とした。そして、そのままの姿勢で、こちらに向かって歩き出した。右手親指がしきりに動いている。どうやら、メールをしているようだ。大方の業者がディスプレイを済ませたとは言え、まだまだ、館内の足元は障害物だらけである。身体のどこかにまるでセンサーでも付いているのか、障害物を避けながら、右に左に揺れながら、女が泳ぐように近付いて来る。
 女はサブの傍らで足を止めた。
 サブが顔を上げた。
 はち切れんばかりの白い太股の上から、女がサブを見下ろしていた。
「時枝おばちゃん、じじとばばしかおらん思てたら、若い男かていてるやん」
 オッカァの方を見て、女が言った。そして、「安男おじさん、御無沙汰してます」
 と、安男に向かってペコリと頭を下げた。
「小夜、えろう早う着いたやん。夕方までで良かったのに」
 エプロンで手を拭きながら、オッカァが言った。
「ほんまはもっと早う着いたんや。その辺ブラブラしてたんやけど、寒うて寒うて」
「そうか、ほな、その辺で座って待ってて。今日はもう、あらかた終わってしもたさかい。仕事はおいおい、覚えてくれたらええ」
 ブース内の椅子を指差しながら、オッカァは小夜にそう言った後、サブたちの方に顔を向けた。
「今日からみんなの仲間入りさせて貰うことになった、松木小夜。ええーっと……うちの妹の……孫……つまり、姪の娘や。まだ、なんも知らんねんねやから、色々教えてやってんか」
「まだ、なぁんも知らんねんねです。ついこの間まで高校生してましたが、イケナイ行為が学校にばれまして退学になりました。そんな訳で皆さんの仲間入りです。よろしゅう、たのんます」
 小夜は無表情にそう言って、ペコリと頭を下げた。
 心の中を見透かされないようにと、精一杯気構えている。そんな気の強さと裏腹な弱さを、サブは小夜に感じた。
 その時、小夜の右手の携帯のピンクのライトが点滅した。携帯の画面に小夜が視線を落とす。どうやら、メールが届いたらしい。右手の親指をカチャカチャと素早く動かしながら、小夜はブース内の折り畳み椅子に腰を下ろした。そして、そのまま、携帯電話の画面に向かったまま、二度と顔を上げることはなかった。
「おかはん、なんや、あれ……」
 安男がオッカァの袖を左手でつまみ、右手で携帯メールの仕草をしながら小声で言った。
  オッカァは、わかってる! と言わんばかりに目を剥いてみせた。
「今日はええとしても、明日からもずっとあれやないやろな」
 安男はそう呟き、再び、コンニャク玉の串刺しを始めた。
 

 朝八時過ぎから始まった搬入も、四時過ぎには殆どの業者がディスプレイを終え、一人去り、又一人去りと、館内が静かになっていく中、英司だけがまだ、ネックレスをこっち向けたりあっち向けたり、念珠の房の乱れを直したりと、一向にディスプレイを終えそうにない。サブに任されたディスプレイはとっくの昔に終わっているのだが、英司が終わらない限り、サブも終わるわけにいかない。今日に限ったことではない、いつもの事だ。英司に合わせるように、時々、商品の向きなんかを変えては、英司の手の止まるのを待つのである。
 オッカァが近付いてきて、「まだ、終わらないのかい?」と、口をモグモグとさせながら小声でサブに言って、「ほらよ」と、おいなりを差し出した。サブは反射的に手を伸ばしたが、すぐに手を引っ込め、「商品に油が付くと叱られますから、後で戴きます」と、サブはペコリと頭を下げた。
 「そうかい」とオッカアは苦笑いを浮かべ、「いつも、大変だね」と言って、片目をつぶってみせた。
「あらっ……珍しい。今日に限って、佐久さんがまだおるやんか」
 オッカァの声にサブが振り向くと、ロビーのソファーに、椰子切りの佐久が見知らぬ男と座っている。
 いつもなら、こんな時間まで館内に居ることのない佐久である。
「あれっ、本当だ。いつもなら、とっくの昔に、鎌田さんなんかとパチンコに行ってるのに」
「いや、佐久さん、パチンコやめたみたいやで。パチンコどころか、あんなに好きやった麻雀もやめた言う話や」
「えっ?本当ですか?」
「ほらっ、去年の秋の高知の催事の時、佐久さんを訪ねて女の人が来たことがあったやろ?」
「ああ、随分きれいな女だったですよね」
「あの女な、佐久さんの別れた奥さんなんやて」
 小指を立てながらオッカァはそう言い、「あの時以来や、佐久さんがパチンコもマージャンもやめたのは」と顔をしかめた。
「佐久さん、お酒もやめられたと聞きましたが本当ですか?」
「うんうん。佐久さん言うたら、大好きなイカの塩辛を肴に、美味しそうにいっつも日本酒をグビグビ呑んではったのに、なんかあったんやろか?」
「あっ……」
  何かを思い出したのか、サブはひと呼吸置き、「イカの塩辛で思い出しました。岡山で佐久さんと同じ旅館になったのですが、その時、佐久さん、旅館の板さんに『私の食事だけ、塩分を控えめにしてくれますか?』って言ってました」と言った。
「そう言や佐久さん、イカの塩辛どころか、口にするもの言うたら、ほんの申し訳程度に醤油を垂らしただけの豆腐だとか、まるで糖尿病患者みたいやな。どっか、身体の具合でも悪いんちゃうやろか……」
  オッカァは眉をしかめそう言い、「しかし、誰やろね、佐久さんの隣の二人は」とオッカァが言った。
 佐久の隣に座る男は、まるで絵に描いたようなチンピラファッションで、遠目にもあまり人相が良いとは言えない男。話している内容は聞こえないが、米搗きバッタの如く、椰子切りの佐久はしきりにペコペコ頭を下げていた。


                      『催事屋』7に続く


 

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「催事屋」⑤

2006年12月27日 | 小説

 


 

「サブーーーッ!!」
 会館の中から、サブの名を呼ぶ英司の怒鳴り声が聞こえた。
 「サブ、俺のライター知らねェか?」
 会館の扉を開け、英司が顔を見せた。
「いえ、知りませんが……」
 (さっきはタバコ、今度はライターかよ!)
 英司に背を向け、サブは小さく舌を打った。
「おかしいな、どこにいったんだろ……えーと、確か、ここに入れたと思ったんだが」
 ジャンバーの胸ポケットを右手でつまみ覗き込んだり、ズボンのポケットに手を当てたり突っ込んだりしながら、英司はブツブツと呟いている。
 「英司、どないしたん?」
 くにびき産業会館のロビー、ソファーに深く腰を沈めたオッカァが、眠たげな声で英司に言った。
「いえね、ライターがねぇんですよ」
「そんだけ大騒ぎしてるんや。さぞかし高級なライターやろ。カルチェか? それともデュポンか?」
「いえ、バーゲンで二個百円で買った百円ライターなんですけどね。それが一個しかねぇんですよ」
「なんや! 百円ライターかいな! あほらしい!  一個あるんならええやんか。そのうち、どっかから出てくるよ」
 苦笑いしながら、オッカァが言う。
「……おかしいな……」
 いつもの事ながら、“ないない病”発病時の英司は他人の言葉は耳に入らない。
「えーっと、車のダッシュボードの上に置いて、それから……そうだ、そうだよな、確かに、それは持って降りた……」
 と、ブツブツ言いながら、英司はズボンのポケットをひっくり返し始めたが、すぐにその手が止まった。そして、「あっ! トイレだ!」と叫び、まるで銭形平次の子分の八五郎よろしく、右手の握り拳を左手に打ちつけながら、「うん、そうだ!」と頷き、踵を返しトイレに走っていった。
「あああ、困っちゃうんですよね、社長の“ないない病”には。いつだって、何かを探していなけりゃ気が済まないんです」
  そう言って、サブは苦笑いをしながら、オッカァに片目を瞑って見せた。そして、

 ♪探し物は何ですか?
  見つけにくいものですか?
  鞄の中も、机の中も、
  探したけれど見つからないのに、
  まだまだ探す気ですか?♪

 井上陽水の『夢の中へ』を、サブは口ずさんだ。
「サブ、カマと酒井さん、随分遅いんとちゃうか?」
  背後からの安男の言葉に、サブは肩越しに振り返り、「そうですね、随分と遅いですね」と首を傾げた。
「まさか、事故ってんとちゃうやろか」
「こっちと違って、向こうは鎌田さんだって運転が出来るのですから、そんな事はないと思いますが」
 そう答え、サブが缶コーヒーに口を付けようとした時だった。
「なんだ、その言い草は!」
  後ろの方から英司の声が聞こえたと思った瞬間、サブは脳天にガツーン!と強い衝撃を感じ、目の前に、ピカピカと数十個の星の点滅を確認した。
「イテェーッ!」
 サブは頭を押さえて、うずくまった。
「運転免許の持っていない、俺に対しての嫌味か!」
 振り向くと、英司が仁王立ちして立っていた。
「いいか、サブ。カマと俺を一緒にするんじゃねェ! 免許を持っていたって、カマは運転を代わってやるようなタマじゃねェ。カマとは二十年も付き合ってんだ、奴の行動は手に取るようにわかる。親父ほども歳の離れた酒井のオッサン一人に運転させて、自分は助手席でふんぞり返ってる、カマはそんな奴よ」
 突然、英司の声のトーンが、猫撫で声に変わる。
「サブちゃん、ここんとこ、良く聞いてよね。その点、俺はカマとは違うのよ」
 英司は左手でサブの肩を抱きながら、素早く右手でサブから缶コーヒーを取り上げた。
「あっ、社長、それ……」
 サブは慌てて缶コーヒーを取り返そうとしたが、その時は既に缶コーヒーは英司の口に押し当てられていた。
 美味そうに缶コーヒーを喉に流し込み、再び、英司は言葉を続けた。
「サブがいくら若いからって、一人でハンドルを握り続けてるんだ。さぞかし疲れているだろう、さぞかし眠いだろう。出来ることなら運転を代わってやりてぇ。ほんの一時間、イヤ、ほんの十分でもいい、睡眠を取らせてやりてぇ。カマと違って、俺の場合はそう考える。嵐の夜、寒さに震える子猫に手を差し伸べる様な、俺はそんな優しい心根の持ち主よ。しかしだ、どんなに代わってやりたくとも俺には免許がねぇんだ。言っとくが、車を転がすなんてわけねぇやな。運転が出来ねぇ訳じゃねぇんだ。ただ、免許がねぇんだよ。ただ、それだけなのよ。法治国家の日本、法を破るわけにはいかねぇよ。それともなにか? サブは俺に無免許運転をしろと言いたいわけ?」
「……いえ……」
 小さな声でサブは頷いた。
 がしかし……なにが、寒さに震える子猫に手を差し伸べる様なだ! 小倉から松江まで、助手席でずっと眠りこけてたくせに、よくそんな台詞を吐けるもんだよと、サブは心の中で毒づいていた。
「噂をすれば何とやら……」
 窓から外を見ていたオッカァが呟いた。
 酒井の運転する車が駐車場に姿を見せた
「皆々様、今日も一日、頑張りましょう!」
 いつもながら、やけにテンションの高い鎌田がロビーに入ってきた。
「……おはようございます……」
 続いて、疲れ切った表情の酒井が姿を見せた。
 どうやら英司の言葉通り、酒井一人がずっとハンドルを握り続けてきたようである。
「カマ、随分と遅いじゃねぇかよ」
  英司の言葉に、待ってましたとばかりに、
「英司さん、聞いて下さいよ! 本当、冗談じゃないっスよ。酒井のオッサンときたら、事故りやがって……」
「事故!?」
「怪我なかったのか!」
 オッカァと安男がソファーから飛び起きた。
「いえね、幸い路肩の雪の中に突っ込んだだけで、怪我はなかったんですけどね。だけどさ、昨日今日免許取り立ての若葉マークじゃあるまいしさ、本当、参っちゃうよな。千円の時計一本もまともに売れないんだから、せめて運転ぐらい、しっかりやってくんなきゃ困るんだよね」
 と、鎌田が苦々しげに吐き出した。
「申し訳ありません」
 酒井が小さく頭を下げた。
  (糞ッ垂れ! 二十歳そこそこの俺のような若造に対してならまだしも、鎌田さんの酒井さんに対する接し方、言葉遣い、何とかならないのかよ!)
 いつもの事とは言え、サブは胸糞の悪さを感じ、鎌田に背を向け唾を吐いた。


  ネックレスや指輪などのアクセサリーを主な商材とし、イベント催事会場やスーパーの店頭等で、千円均一で販売する一催事業者だった英司が、版権商品の衣料やバッグ等に手を広げ、ビッグ商会を設立したのは、日本中がバブルの喧噪に沸き上がっていた頃である。パテント商品とも呼ばれる版権商品とは、イタリアやフランスなどの有名ブランドや、著名なデザイナー等から、そのブランド名の使用権利だけを買い取り、中国や東南アジア等で格安で製作した商品に、その商標を冠した商品のことである。それらに、数万円、数十万円の値札タグを付け、それを数千円、物によっては千円均一で販売するのである。ブランドに弱い日本人、好景気にも後押しされ、商品は飛ぶように売れた。イベントや量販店だけでなく、一流デパートにも出店するようになり、ビック商会は催事出店に止まらず、手広く日本各地に店舗展開も始めたのである。
 英司がビック商会設立時、アルバイト情報誌片手に応募して来たのが鎌田である。
 もっとも、鎌田が英司のもとに居たのは二年足らずだった。金に対する嗅覚に優れた鎌田は、仕入先、販売先のルート、催事業のノウハウを覚え、鎌田商事を設立し独立した。ただ、鎌田が目を付けた商材はネクタイだった。当然、版権物である。英司の商材同様に、有名ブランド名を冠したネクタイを、スーパーの店頭や駅のコンコースで、原価一本百円前後で仕入れ、それを千円均一で販売したのである。販売スペースは一坪もあれば充分、又、主に女性がターゲットだったこの業界に、男性をターゲットとしたネクタイに目を付けたのが当たったのか、矢沢同様に鎌田も又、バブルの時代を謳歌した。
 やがて、バブルが弾けた。
 それまでの狂騒が幻であったかのように、日本経済が急激に落ち込んだ。
 ビッグ商会も例外でなかった。
 広げ過ぎていた店舗が足枷となり、ビック商会は敢えなく倒産、債権者から逃れるように、英司は元の千均屋に戻ったのである。
 それに比べ、鎌田の場合、ネクタイから手を広げなかったこともあり、大した傷も負わなかったのだが、持ち前の変わり身の速さ、ここが潮時とばかりにさっさと会社を畳み、金融の世界、いわゆる街金、早い話が高利貸しにリクルートしたのである。しかし、競馬競輪、パチンコ、マージャン、花札、チンチロリンと、賭事と言う賭事何でも御座れ、この手の人間が札束に囲まれ仕事をしている訳だから、お決まりの金の使い込み、小指が消えてなくなる寸前、旧知の英司を頼り、催事業界に舞い戻って来たのである。
 ただ、今回鎌田が扱う商材は、ネクタイではなく腕時計である。
 一本千円でも羽が生えたように売れ、笑いが止まらなかった当時と違い、二本千円どころか、三本、時には四本千円のデフレの現在、ネクタイでは旨味が少なくなっていたからである。しかし、その腕時計もやはり、名前が有名と言うだけで、香港辺りで作られた版権物であることだけは相も変わらず、ベルサーチはベルサーチでも、アルフレッド・ベルサーチだとか、何とも怪しげな版権商品が大半である。『嘘を付いて売ってる訳じゃねぇ。ほらっ、保証書にはちゃんと、アルフレッド・ベルサーチと大きく明示してある。客が勝手に、あのジャンニ・ベルサーチと思い込んで買っていくだけよ』と鎌田が嘯く。これらに五万から十数万の定価タグを付け、倒産品だとか、質流れ品だとか、金融品だとかの理由あり商品に仕立て上げ、一万前後で売るのである。
 そしてもう一つ、仕入価格三百円、版権物同様、九千八百円の定価タグが付けられた千均のファッション腕時計が、今回の鎌田のメイン商材である。
 この千均時計には、ジャパン・ムーブメント使用と大きくポップに書いてあるから、一見、日本製であるかと思わせるが、中の部品パーツが日本製であると言うだけで、勿論、これも香港製である。
  疑問を口にする客もいる。
「本当に日本製だべか?」
「ジャパン・ムーブメントです」
「ちゅうことは、日本製だべ?」
「御安心下さい。ジャパン、つまり、日本ムーブメントです」
「うん、うん、日本ムーブメントか。んだば、安心だ」
 と言った風に、純朴な田舎の方々を煙に巻くのである。
 勿論言うまでもなく、英司の方も似たり寄ったりである。
 英司が扱う千均アクセサリーには、天然石と表示されたポップが、大半の商品に添えられている。
「この指輪、本当に千円でいいべか?偽物でねえべか?」
「ああ、そのインドヒスイの指輪ね。素敵でしょう?間違いなく本物の天然石ですよ」
「ほぉ、本物の天然石け」
「正真正銘、本物の天然石ですよ」
「いゃあ、びっくらこいただな……本物の宝石が、こったら安くて……二三個、貰うべか!」
「ありがとうございます!」
 と言った風に、こちらもまた、純朴な田舎の方々を煙に巻くのである。
 翡翠とは名ばかり、インドヒスイとは瑪瑙の一種である。鯛と名が付けば全て高級魚、念仏鯛なる雑魚まで、魚の王様に化けるのと同じである。墓石も河原の石ころも、天然石は天然石なのである。つまり、宝石は天然石であっても、天然石は宝石とは限らないのである。いくら純朴と言えど、これで納得してしまう方にも問題があると言えば問題なのだが……
「カマ、どや、勝ってるか?」
 自動販売機に硬貨を入れる鎌田の背中に、安男が声を掛けた。
 「ダメ、全然、ダメ!売り上げは悪い、パチンコは負け続け、本当、やってられないっスよ」
  鎌田は振り返り、大きく両手を広げ首を竦めた。
「ヤッサンはやらないんスか?」
「駄目、ワイはそっちの方は全然駄目、ダメっちゅうより興味がないんや。それより何より、ワイの人生そのものがバクチみたいなもんやしね」
 「人生そのものがバクチだなんて、なんかよくわかんないけど、格好いいっスね!」
 そう言って、鎌田は缶コーヒーのブルトップを引いた。

 
 館内では線引きの真っ最中とあってか、メジャー片手に『㈲まつりばやし』社員の竹内が忙しげに走り回っている。線引きとは、コマ割り図面をもとに、会場の床にビニールロープを貼り付け、各業者の営業場所(ブース)を示す線を引く作業のことである。
 「竹内さん、コマ割りの貼り出しはまだですか?」
 ロビーに出てきた竹内を呼び止め、英司が訊いた。
 周囲のみんなが、竹内の口許に注目した。
「もうちょっと、待って下さい」
  竹内はそう答え、再び館内に姿を消した。
  会場の入口に近い、御客様が群がりやすく、売り上げが一番見込めるコマ(場所)を天場所と呼ぶ。
 催事業者たちにとり、天場所へは勿論、自分の店が、会場のどの辺りに割り振られるかどうかで、その週の売り上げが決定すると言って過言でない。切羽詰まった支払い、はたまた日々の生活費にさえ窮している者も少なくなく、少しでも良いコマをと、誰もが望んでいるのは当然である。
 そしてそれら、出店割り振り全てを決定する権限を握っているのは、企画会社『㈲カーニバル』の神戸徳治社長である。
 業者の分け隔てなく平均に割り振ってると言うが、それが口だけであることは周知の事実、古参業者が優遇されるのは仕方ないにしろ、大抵は神戸の胸先三寸でコマが割り振られるのである。
  動物園の猿の群にも満たぬ群とは言え、神戸は四十社余り、七十人ばかりの業者に君臨する言わばボス猿、まるで人間社会の縮図を見るようである。
 よって、英司や鎌田のような新参業者なんかは、付け届けなんかは当たり前、あの手この手、神戸に取り入られようと必死である。英司も鎌田も、それぞれ独立した催事業者であるにもかかわらず、表向き、『ビック商会』は二人の共同経営としているのは、それぞれが単なる一コマ業者として登録するより、『ビック商会』として二コマ業者として登録する方が、神戸に対して受けが良いのではないか?との、何ともせこい考え方からである。よってサブの雇用者は英司であり、酒井の雇用者は鎌田と言うことになる。
「肉体を張る業者もおるんやで」
 周囲を用心深く見回した後、オッカァがサブの耳元で呟いた。
「肉体を張る?」
「大城さんちの奥さんなんやけどな、サブちゃん、絶対、他言したらあかんで」
 オッカァは、ロビーの奥の方に視線を向けながら言った。
 沖縄物産の大城昌吉さんと、長い黒髪に彫りの深い顔立ち、とても四十を過ぎているとは思えない、沖縄美人と評判の三香さんが、寄り添うように奥のソファーに座っていた。
 沖縄物産の扱う商材は、黒砂糖や自然塩等、沖縄特産の食品が主である。
「以前、一ヶ月近くも沖縄物産が会場奥に干されたことがあったんや」
「一ヶ月も!」
「ああ、うちらや大城さんちみたいな食品業者が、一ヶ月も奥に回されたら食っていかれへん」
 『骨董宝り出し・大棚卸しカーニバル』は文字通り、骨董品や名画、陶器等をメインに、行く先々の地方テレビ局にCMを打ち宣伝し客を集め、同時に、英司や鎌田たちの扱うアクセサリー雑貨やファッション腕時計、又、オッカァと安男親子、大城夫婦たちのような、食品業者の商品も同時に販売するというイベント催事である。食品という商材の性質上、大抵は会場入口近辺にブースは配置され、余程のことがない限り、会場奥に割り振られることはない。
「それはひどい。どうして又?」
「神戸のエロ親父が、三香さんに振られた腹いせとちゃうか? と、もっぱらの噂や」
「それって、セクハラじゃないですか!」
 サブが大声を上げた。
「シッ!」
 オッカァが慌てて、サブの口を右手で塞いだ。
 安男が、“相も変わらず余計なおしゃべりをしやがって!”、と言った表情をオッカァに投げた。
 オッカァはそんな安男にニヤリと笑い、そして小さな声で、
「セクハラなんてのは、世間一般で通用する言葉や。この業界じゃ、セクハラなんて言葉自体が存在してへんのと同じや」
 と零すように言い、そして続けた。
「あれは高知やったわ。仕事が終わって焼鳥屋で一杯やって帰ろうとした時やった。連れ込み宿に入っていく、神戸と三香さんを見たんや。琉球物産のブースが入口近くに復帰したんは、その翌週の高松からやった」
「そんな! いくら干されたからって」
「ブース代の未払いも、随分溜まってたゆう話やしな」
「そんなもの、踏み倒して逃げたらいいじゃないですか!」
「逃げるって、どこへ逃げるんや? 逃げて帰れる家のある奴はええけど、そんなもん持ってへん奴はどこへ逃げるんや? 他人の心の中はようわからへんけどな、ここを出たら暮らして行かれへん人が、ここにはぎょうさんいてはんねん。他人がとやかく言われへんねん」
「旦那さんは、大城さんは知ってるんですか?」
「昌吉さんも承知の上なんや。連れ込み宿に入って行く二人を、電信柱の陰から昌吉さんがじっと見てはったもの」
「冗談じゃないですよ。どうして、そんな事、どうして、黙って見てられるんですか? 冗談じゃ、冗談じゃないですよ!」
 まるで目の前のオッカアが当事者であるかのように、サブはオッカァに食ってかかった。
 オッカァは何も答えなかった。
 U字形に禿げ上がった額、団子鼻の上に手脂で汚れた眼鏡が乗っかった、ビヤ樽体型の神戸に肩を抱かれ、連れ込み宿に入って行く三香さんの哀しげな背中を、そして、電信柱の陰に隠れ、それをただじっと見つめていた昌吉さんの心情を、サブは思った。
 神戸のジジィの気分次第や気紛れで、みんなが一喜一憂、右往左往、ただでさえ、一番下っ端の俺や酒井さんはたまったものじゃないと言うのに……
  糞ッ垂れ!
 サブは沸き上がってきた憤りを、心の中でなく、口から唾と一緒に吐き捨てた。
  その時、竹内が再びロビーに姿を見せた。
 そして、会場入口扉にコマ割り表を貼った。
 業者たちが一斉に集まり、自分のブースを探して一喜一憂、その顔はまるで、合格発表を見上げる受験生のようである。
「ヨッシャー!」
  英司と鎌田の二人が、同時にガッツポーズをした。
  どうやら、ビック商会は念願の天場所をゲットしたようである。
  先週、パチンコ屋で神戸社長とバッタリ出会した際、好調に出し続けていた自分の台を譲ってやったからだと主張する鎌田に対し、二日前、八海山の大吟醸を部屋に差し入れたのが功を奏したに違いないと英司が反論している。
 二人の背中越しに、大城夫妻がコマ割り表を不安気に覗き込んでいる。
 糞ッ垂れ!
 誰に言う訳でなく、サブは小さく呟いた。

                        『催事屋』6に続く


 

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「催事屋」④

2006年12月20日 | 小説

 


 

  半開きになったDuneの口元から、だらしなく涎が流れている。
 小夜は一週間前の母との会話を思い出していた。


「なんやの! かったるいなぁ……」
 携帯に落とした視線を上げることなく、小夜は友利子の言葉に答えた。
「ねえ、小夜。メールするのは少し止めて、お母ちゃんの話を聞いてくれへん?」
 小夜は無言だった。親指が携帯のボタンの上を踊るように動いてる。
 友利子は窓の外に視線を遣った。庭先を、枯葉が北風にあおられて転がっていく。まるで、カサコソと言う寂しげな囁きが聞こえるようだ。沈黙に耐えかねたかのように、友利子は“ふーっ”と小さな吐息を漏らした。
 送信ボタンを押し、小夜が顔を上げた。
 そして、中指で目頭を押さえグリグリしながら、ラインストーンのシールを貼り付けたど派手なピンクのデコ電を折り畳みながら、
「うち、あのおばちゃん、めっちゃ口うるさいけど嫌いやないよ。会うといっつも、クシャクシャの一万円札くれるし。そやけどなんで、車寅次郎やあるまいし、催事屋なんて婆臭い仕事せなあかんの? うち、まだ高校生や」
 と言って、テーブルの上にガチャリと置き、そして、「……退学させられたけど」と、ポツリと付け加えた。
「催事屋なんて仕事、ずっとせえ言うてるわけやないんよ。小夜のことを話したら、時枝おばちゃんが、ほんのしばらくでええから、小夜に手伝わさせてくれへんかな? って言うから……」
 私立でもあり、学校としてもこれ以上は責任を持てないと、小夜が高校から退学を命じられたのは先週のことである。友人数人たちとつるんでの援助交際が知れ、一度、春にも停学させられていた。そして、今回も援助交際だった。補導された小夜の学生手帳から、相手の男性客が調べられ、その中に和歌山市内の中学の教師が居た。それがマスコミに知れ、大騒ぎになったのである。
 いつから、小夜がこんな風になってしまったのだろう?
 その原因が自分にあることを、誰よりも友利子は知っていた。それゆえに、小夜の行動に対し、何も言えなかった。どんな風に接していいのかわからなかった。
 時枝おばさんから電話があった時、そして小夜のことを相談し、暫く自分に預けないかと提案された時、ああ、もしかしたら、この人なら、何とかしてくれるのではないだろうか? と友利子は思ったのである。時枝おばさんのことは、母から何度も聞かされていたから……


 友利子が長岡弘樹と離婚したのは、小夜が小学四年の時である。
 そのことを告げた時、「ママがそうしたいんやったら、そうしたらええよ。小夜のことなら心配せんでええから」と、健気に、明るく振舞っていた小夜の笑顔を、そして、部屋の片隅でそっと涙を拭っていたことも、友利子は昨日のことの様に覚えている。
 千日前通りの小さな洋服店に勤めていた友利子が、忘年会の二次会で行ったバーでシェーカーを振っていた、長岡と知り合ったのは二十三の時である。JR和歌山線と南海電車を乗り継ぎ一時間半、大阪南の繁華街に勤めていながら、紀ノ川沿いの小さな町にある自宅と職場を往復するだけの生活を送っていた友利子にとって、カウンターの向こうの長岡は眩しかった。それからは、週末の夜は決まって、長岡の作ってくれたカクテルに酔った。それまで、数人の男性経験しかなかった友利子だが、彼等にはない長岡の優しさに惹かれた。二人で行った居酒屋で、さりげなくコートを脱がせてくれた。それが当たり前であるかのように靴を揃えてくれた。今思えば、水商売ではごく当たり前の行為であったのだが、自分だけに対する愛の行為だと思った。やがて、心斎橋駅近くに小さなスナック『サテンドール』を開き、長岡は独立した。コツコツと貯めてきた預金で、開店資金の半分は友利子が捻出した。二人は結婚した。友利子は勤めていた店を辞め、ママとして店を手伝うようになった。水商売経験など皆無の友利子だったが、却って素人さが受けてか、客受けも結構良く店は繁盛した。客から、従業員の女の子たちから、「ママ」「ママ」と呼ばれることも嬉しかった。
 やがて、長い間、望んでも出来ずに、諦めかけていた頃に小夜が産まれた。二十八の時である。友利子は店に出ることをやめ、育児に専念した。小夜はすくすくと育ち、幼稚園、そして小学校に入学した。
 そんなある日。
 しばらくぶりに店に顔を出してみようと、開店間もない七時過ぎ、友利子は『サテンドール』の扉を押した。どうやら、まだ、客は入っていないらしく、女の子たち同士のおしゃべりだろうか、店内から若やいだ、楽しげな声が聞こえて来る。
 (一人の声は聞き覚えがある、一年前に入店した美砂ちゃんやわ。なら、もう一人の声は、最近入店したいう女子大生の久美ちゃんって子やろか? 随分コロコロとした笑い声やわ……)
 二人の若い女の子たちの声に混じって、長岡の太い声も聞こえる。友利子はキッチンに回り、カウンターから顔を出した。
 その瞬間、会話が止まった。
 友利子はすぐに、その原因が自分の出現にあることを知り、「あらっ、どないしたの?」と慌てて笑顔を繕い、そして、「うちのことは気にせんと、お話続けて」と付け足した。
 数秒の沈黙の後、椅子から美砂が立ち上がり、
「ママ、お久しぶりです」
 と、少し上ずった声を上げた。
 その言葉に久美も慌てたように立ち上がり、
「初めまして。久美です。よろしくお願いします」
 と言って、頭をペコリと下げた。
 膝上一五㎝のデニムのミニスカートに茶のブーツ、カールされた今風の長い栗色の髪。痩せているが、スカートに包まれた久美のその腰は、眩しいまでに自己主張していた。
「友利子、どないしたんや?」
  長岡が言葉を挟んだ。
「どないしたんやって、うちがお店に来たらあかんの?」
 そう言ってから、自分の意思とは裏腹の険の含んだ言い回しに、友利子は困惑した。
 「たいした話はしてへんよ。今流行のアイドルの話やとか、流行のファッションの話やとか、他愛のない世間話や」
 普段はまず聞く事ない、友利子の強い口調に長岡の方も驚いたのか、それとも別の思いがあってか、そう言って後ろを向き、酒瓶の並んだ棚に視線を彷徨わせた。
 (長岡の言う通り、他愛のない世間話をしていたに違いない。うち、何をイライラしてんのやろか?)
 友利子は自分自身に問い質した。
 店に顔を出さなくなって、かれこれ十年過ぎた。女の子たちは変わったけれど、以前なら美砂と久美の間に、ママとしてうちが座ってた。女の子たちの会話の中に確かに居たし、時には中心に座ってた。女の子たちと、歳もたいして変わらへんかった……あの子たち、うちが顔を出した途端に黙ったけど、なんでやの? アイドルの話? 今のアイドルって誰やの? 流行のファッション? どんなのが流行ってんの? あっ、いややわ、うち、普段着のままやわ。まともに化粧もしてへんし……
 いつの間にか、自分だけが異空間に居るような感覚に、心臓を紙やすりで擦られているような苛立ちを友利子は感じていた。
 十分も居ずに友利子は店を出た。
 あれは、その翌日のことだった……
 PTAの会合を終え、友利子がマンションに帰宅したのは午後一時過ぎだった。居間の方から話し声が聞こえる。長岡が電話をしている。いつもなら、まだ眠っている時間だ。居間のドアを開けた友利子の顔を見て、「わかりました。これからすぐ参ります」と電話の相手に言い、受話器を置いた。「出掛けるの?」と聞く友利子に、「うん。ちょっと、大事なお客さんから……」と長岡はぶっきら棒に答え、部屋を飛び出して行った。何気なく、友利子が窓から外に視線を遣ると、角の電話ボックスの中から若い女が出て来るのが見えた。反射的に、友利子はカーテンに身を隠した。女がこちらを見上げた。見覚えのある顔、久美だ。その時、友利子は全てを知った。過去に何度か、長岡が浮気をしたことは感づいてもいたし、その中の何人かが店の女の子だったことも知っていた。しかし、小夜にばかり目を向けている自分にも責任がある。色気が売りものの商売、本気でなければ良い。そんな風に自分自身に言い聞かし、ともすれば爆発しそうになる感情を押し殺し、友利子は見て見ぬ振りをしていたのである。だから、嫉妬ではなかった。おそらく、昨日の出来事がなければ、「ああ、またか」と、それで済ませていただろうと思えた。こんな気持ちは初めてだった。自分の存在そのものを馬鹿にされたような、そんな言葉に言い表せない怒りややるせなさ、あたかも、体の奥底に眠っていた瘴気が一気に噴出すかのように、友利子の感情が爆発した。「わあぁぁぁっ!!」と言葉にならぬ声で叫び、テーブルを両手で払った。コップが床に落ち、大きな音を立てて割れた。タンスの中、長岡の背広やワイシャツ、ネクタイ、それらを全て掴み出し放り投げた。そして、ありとあらゆる物が散乱する部屋の隅で、友利子は呆然と座り込んだ。とめどなく涙が頬を流れ、友利子は嗚咽した。
 友利子は長岡と離縁し、小夜を連れ、母の暮らす和歌山の実家に帰った。
 近くのスーパーのレジ係としての仕事に就き、小夜も都会の小学校から和歌山の高野の麓、紀ノ川沿いの田舎の学校へ転校した。
 両親の離婚、転校。幼い娘の心をどれだけ傷付けたのだろうか?友利子の心配をよそに、小夜は新しい学校にもすぐに馴染んだ。根っからの明るい性格もあってか、友達もすぐに出来た。
「おまえが一生懸命生きてさえいたら、おまえのその背中を見て、こどもはちゃんと育つもんや、心配なんかせんでええ」
 そんな母の言葉だけを支えに、友利子は必死に働いた。
 やがて、小夜は中学を卒業し、南海高野線沿いにある女子高に進学した。
 新学期の始業式の朝、制服姿の小夜の背中を見送りながら、友利子はふと肩が軽くなるのを覚えた。
 気が付くと、四十四歳になっていた。
 島田夏彦と出会ったのは、その年の夏のことだった。
 友利子の勤めるスーパーに、大阪の本社から、新しい店長として赴任してきたのが島田だった。
 友利子の担当するレジの前に、季節の植木鉢や切花のコーナーがある。
「和名は金蓮花と言うんですよ」
 ある日、ナスタチウムの鉢植えを手にしている女性客に島田が声をかけた。
「若葉にはピリッとした爽やかな辛味がありましてね、フランスでは、クレソン代わりにサラダなんかに使われるんですよ」
  花が好きな人なんや、と友利子は思った。
「随分と花に詳しいんですね」
 棚卸の日、隣り合わせで作業する島田に、友利子は思い切って声をかけた。
「えっ?」
「あっ、いえ。この前、お客様に金蓮花について説明されてたたのを聞いていたので」
「ああ……」
 島田が友利子を見て笑った。
「妻がハーブに凝ってまして……受け売りです」
「へぇ。ハーブやなんて、素敵な奥様なんですね」
「いえ……やれハーブや、ポプリやと、要するにミーハーなんですよ、うちの妻は」
 そう言って、島田は恥ずかしそうな笑顔を見せた。
 少年のようなえくぼだと友利子は思った。
 そう感じた瞬間、時おり島田が見せる淋しげな表情が切なく思えた。
 久しく忘れていた感情だった……

                        
                          
「催事屋」5に続く

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「催事屋」③

2006年10月09日 | 小説

 


 

 車窓が山陽から山陰に姿を変えたのは、蒜山高原サービスエリアを過ぎ、三平山トンネルを出た時だった。
 フロントガラスに雪が小さな紋様を描いたかと思う間もなく、その一台のトラックは、まだ朝明け切れぬ冬色の中に突入した。
 酒井博之は慌ててワイパーを作動させ、ハンドルを持つ手に力を入れた。スノータイヤを履いている。運転歴は三十年近くになる。しかし、酒井は本格的な雪道の運転は初めてだった。
 中国自動車道から米子自動車道と、夜通しハンドルを握り続けてきたものだから、五十過ぎの酒井の身体の節々はギシギシと音を立てていた。
 時折対向車と擦れ違うだけで、前方にもバックミラーにも他に車は見えない。
 雪は黒い轍を這うように走り、まるで、次々と襲い来る無数の白い蛇である。
 『キュッ、キュッ』と等間隔で、古くなったワイパーがフロントガラスを擦る音以外、何も聞こえない。音も色もない、モノクロームの世界である。
 私はどうして、こんなところに居るのだろう?どうして、催事屋なんて職に就いてしまったのだろう?私は一体、何をしようとしているのだろう?友美は隆史さんと仲良くやっているのだろうか?仁美は今年卒業だが、進路は決まったのだろうか?
 一瞬、白い壁を突き抜けて、その向こうにある世界に誘い込まれそうになり、酒井は慌ててカーラジオのスイッチを捻った。
 フーッと、大きく息を吐いた。
 手の平が、じっとりと汗ばんでいた。
 ナイキのスニーカーをフロントパネルに放り投げ、鎌田健三が助手席で鼻提灯を膨らませている。
 桜前線が間もなく、鹿児島に上陸するとカーラジオが伝えている。
「これじゃあまるで、桜前線から逃げてるみたいじゃないか」
 酒井は独り言のように呟いた。


 思えば、去年の桜前線北上のニュースは、二年のバンコク単身赴任を終え、成田に向かう機中の新聞で知った。
 早いものだ、あれからもう、一年が過ぎたのか……
  川崎専務失脚のニュースはバンコクにも届いてはいた。しかし、二年の単身赴任から帰国してすぐに、希望退職を勧められるなんて思いもしなかった。川崎専務とは趣味の釣りが同じと言うだけで、よく御一緒させては頂いたが、ただそれだけの関係で、派閥に属しているなんて、小指の先ほどにも考えてはいなかったのだが……結局、会社はそうは取ってはいなかったと言うことなのだろう。
 三十年、一筋に仕えた会社だった。
 自分の存在は何だったのだろうと、酒井は自問自答した。腹立たしいだとかではなく、ただただ堪らない虚しさだけだった。
 そんな時、
「新田物産のような大手とは比べようもないし、バンコクから帰って来たばかりの酒井さんに福岡だなんて、こんな話を持ち掛けるのは心苦しいんだけど、懇意にさせてもらっている松枝商事の社長に酒井さんの話をしたら、是非、うちに来てはくれないだろろうかって。住まいなら、使っていない小さな家があるから、それを自由に使ってもらっていいですから……」
 古くからの福岡での取引先、江頭商店の佐野専務からの話だった。
 肩を叩かれた五十過ぎの男だ。会社を選り好み出来る身分ではない。何より、その時の酒井には、こんな自分を必要としてくれていると言う佐野の言葉に心を動かされた。
 次女の仁美も学校を卒業、子供に手が掛からなくなったとは言え、福岡くんだりまで妻の美子がついて来るとは到底思えない。単身赴任にもすっかり慣れた。仁美が生まれた頃からだろうか?めっきり夜の回数も少なくなり、十年以上も前から夫婦でなくなってもいた。美子にとっちゃ、むしろ歓迎すべきことだろうと酒井は思った。
「ねぇ、リクのことだけど、佐野さんが用意して下さる家って一軒家なんでしょ? だったら、動物は飼えるわよね」
  話を切り出した時の、妻の口から出た言葉が酒井の脳裏を過ぎる。
 リクは、仁美が十歳の誕生日プレゼントにと、知り合いから譲り受けたハスキー犬「クララ」が出産した、五匹の中、ただ一頭の雄犬だった。
「今回は同じ日本国内なんだから、あなた、リクを連れてって下さらない?毎日の散歩、疲れるのよね」
 言われずともリクは連れて来るつもりだったが、妻の方から言葉に出されると、酒井は堪らなく遣り切れなかった。
 西鉄福岡駅から各停で二十分、雑餉隈駅から北に十数分歩いた閑静な住宅街の中に佐野の家はあった。佐野の家の前に郵便局があり、その角を曲がり、しばらく歩くと小さな神社がある。佐野が用意してくれた家は、神社の先にあった。
「五年前に叔母が亡くなってからはずっと空き家にしていたのだが、風だけは時々通してある。小さい家だが、一人で暮らすには十分だろう」
 小さな庭があり、梅の木が一本植えられてある。
 佐野の言葉を聞きながら、酒井はリクをその梅の木につないだ。リクはしばらくの間、梅の木の根元をクンクンと嗅いでいたが、やがて伏せの姿勢を取り、首だけを上げ『クゥーン』と鳴いた。
「何歳ですか?」
 リクの横に腰を下ろし、佐野が訊いた。
「十二歳になりますかね」
 そう言って、酒井も佐野と並んで腰を下ろした。
「十二歳ですか……人間で言えば六十歳ぐらいですかね」
「もう少し上ですかね。どちらにしろ、もう、お爺ちゃんです」
「私たちの子供の頃なんて、犬を飼う事さえ贅沢でした。まして血統書付きの犬なんて、お金持ちの象徴でしたね」
 佐野の気持ちにそんな思いはあろう筈もないのだが、そんな佐野の言葉が酒井には皮肉に聞こえた。
「次女の仁美にねだられましてね」
 佐野は頭を掻き、「ボーナスをはたいたんですよ」と言葉を続けた。
「その時の犬が、このリクですか?」
「いえ。こいつはその時のクララと言う犬の息子なんです。友人に、やはりハスキーを飼っている奴が居ましてね、で、お恥ずかしい話が、儲かるからと唆されましてね」
「当時は人気があった犬種でしたからね。儲かりましたか?」
「いえいえ、とんでもない。逃亡したら猪突猛進、呼べど叫べど帰って来やしない。そんなこの犬種の性格もあってか、すぐにブームも下火になり、こいつが産まれた頃は引き取り手にも困る始末で……」
  佐野が苦笑いをした。
「五匹産まれたんですがね。牡はこいつだけ、後は全て牝でした。のんびりとした性格なのか、餌はいつも最後、眠る時は他の姉妹達の下敷きになるようにして眠っていました。何とか四匹の引き取り手は見つかったのですが、こいつだけが残りましてね。二匹も飼えないと言う妻の反対を押し切り、私が強引に残したんです。私にとってこいつは、戦友のような存在なんです」
「戦友ですか?」
「はい、戦友です」
 そう言って、酒井はリクの首筋をやさしく撫でた。


  雪は一向にやむ気配はなかった。
  それどころか、全てを白く塗りつぶさんばかりの降りようだ。
「リクには本当に可哀相なことをしてしまった」
 酒井は右のこぶしで、そっと涙を拭った。
「何をブツブツ言ってんだよ!」
 目を閉じたままで鎌田が口を開いた。
「起きてらしたんですか」
「おっさんの独り言で目が覚めたんだよ」
 ぶっきらぼうな鎌田の口調だった。
「そうですか。すみませんでした。いえね、桜前線がまもなく鹿児島に上陸すると、ラジオのニュースで言ってたものですから。世間の人たちは皆、春の便りを今か今かと待ち焦がれていると言うのに、私たちと言えばまるで桜前線から逃げてるみたいだと、そんな事をふと思ったものですから」
「バカじゃねぇのか? この時期、俺たち催事屋稼業の相手は百姓や漁師だ。桜が咲いて暖かくなったら田んぼの雪が溶ける。厳しい冬が過ぎたら海が穏やかになる。百姓や漁師は買い物どころじゃなくなる。桜前線が上陸してからじゃ商売になんないだろ。いい年さらして、こんな事もわかんねぇのか、ボケ!」
 ふた回り近くも年上に対するとは思えない、横柄な鎌田の口調だ。
「すいません」
 前方に視線を向けたまま、酒井はそう言って頭を小さく下げた。
 その時、前方を白い物が横切った。
 反射的に、ブレーキペダルを強く踏み込んだ。
 瞬間、トラックは横向きになり、そのまま十数メートル滑り、左ガードレール沿いの雪塊に、車体を押し付けるようにして止まった。
 大きく樹々が揺れ、数羽のカラスが飛び立ち、雪がトラックの天井を激しく叩いた。
「バカヤロウ! 俺を殺すつもりか、このボケ!」
 面玉をひんむいて鎌田が怒鳴った。
 ハンドルに頭をくっつけていた酒井が、ゆっくりと顔を上げた。
 交通量の少ない米子自動車道、それも早朝とあって、他に車がいなかったのが幸いだった。雪塊がクッションの代わりをしてくれたこともあり、どうやら車体も何ともないようだ。
「すみません。急に何か動物が飛び出してきたものですから」
「そんなもの、かまわず轢き殺すんだよ! 雪道で急ブレーキなんか踏むんじゃねぇよ!」
 何度か切り返しを繰り返し、酒井は車体の向きを戻した。
 サイドミラーに目を遣った。
 一匹の白い猫がこちらを見ていた。
「……ノラ……」
 あのノラがこんな所に……
 一瞬、そんな思いが脳裏を過ぎったが、まさか、そんなことはあり得ないと、酒井はすぐにそれをうち消した。


                             「催事屋」4に続く
 

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「催事屋」②

2006年10月08日 | 小説

 


 

 部屋に入るなり、DuneはSaayaの背中から両手を回し、胸をまさぐり始めた。
 煙草の脂ときついオーディコロン、汗の混じった不快な匂いにSaayaは噎せ返り、「シャワーを浴びてから」とDuneの手を振り解いた。かまわず、DuneはSaayaをベッドに押し倒した。指がスカートの裾から下着の中に侵入する。
 眼鏡の向こう、Duneの眼は血走っている。
 Saayaは諦めた。
 目を背け、気を紛らわせるため、クリーム色の壁に掛けられている絵を眺めた。紺色のバックに、白い羽の生えた少女が赤いバラの花束に頬を寄せている。
 (どこかで見たことのある絵やわ。あっ、そうや。美術の教科書の中で、似たような絵を見た。なんて言うたっけ? ……あっ、そや、シャガールや。でも、教科書の中のあの絵と、構図が全然違うやん……ああ、そうか、額の大きさに合わせて切ってあるんや。しょうないわ。ここは山陰松江のラブホテルやもんね)
 スカートはそのままで、DuneはSaayaの下着を剥ぎ取り、その中に顔を突っ込んだ。
 (いややわ、この男の舌。ザラザラしてて、猫の舌みたいやわ……)
「……アン……」
 いつものように、Saayaはかすれた声で演技のよがり声をあげる。Saayaのその声が合図であったかのように、Duneは膝をつき、性急にインサートしてきた。
 (へっ? もう、おしまいかいな? 絵に描いたような、マニュアル通りの前戯やん)
 二度三度のピストン運動の後、「うっ」と言う声とともに、呆気なくDuneは果てた。
「シャワー浴びてくる」
 と、二十代とは思えぬ締まりのないDuneの身体をSaayaは押し退けた。
「どうだった?」
 Duneは裸の上半身を起こし、ベッド下に脱ぎ散らかしたブレザーの内ポケットの中を探りながらSaayaに言った。
「どうだったって?」
 Saayaは鸚鵡返しに聞き返した。
 Duneは取り出したタバコを咥えながら、
「だからさ、良かったかな? って……」
「うん。良かった」
 (アホちゃうか、こいつ。三こすり半でよう言うわ……)
 シーツの上の下着を手に、Saayaはバスルームに向かった。シャワーのコックを捻り、熱いシャワーを全身に浴びる。濡れたガラス越しに、ベッドにうつ伏せになり、煙草を燻らすDuneが見える。
 Yahooのチャット、出会いカテゴリー、二十代の部屋でSaayaはDuneと知り合った。Duneはハンドルネームである。本名は知らない。ハンドルネームは鳥取砂丘の砂(Dune)から付け、倉吉医科大学病院の精神科の研修医だと言う。
 勿論、Saayaもハンドルネームである。
 普段は十代の部屋に居るSaayaだが、お金に困ると二十代三十代、時には四十代の部屋に出掛け、知り合った男たちに三万から五万の援交を持ち掛けた。他校の男子学生たちからも評判の美少女だった。セーラー服姿で撮った写真を送ると、拒否る男はまずいなかった。売することに抵抗なんかなかった。需要と供給の原理、世の大人たちがしているビジネスとなんら変わりはない。商品が旬なうちに売り捌いているだけ、そんな風にしか思っていなかった。
 Duneとは何度か会話を交わしてはいたし、精神科の研修医なんて、Saayaがそれまで出会った事のない人種に対する興味もなかったわけではないが、わざわざ鳥取まで出掛けて行く気にもなれず、一週間前の母とのあの会話がなければ会うこともない男だった。

 Saaya  うちな今度の木曜、松江に行くことになったんや。
 Dune   エエエエッ! マジっすか?! どうして?
 Saaya  ちょっとした野暮用なんよ。
 Dune   へぇ、逢いたいな……
 Saaya  逢ってもええよ。
 Dune   エエエエッ! マジっすか?!
 Saaya  高いよ。
 Dune   いいよ。
 Saaya  でも、Duneって鳥取やん。
 Dune  松江なんて車ですぐだよ。それに、松江には親父の経営するイタ飯屋があるから、ご馳走するよ。
 Saaya  Dune の親父って、お医者さんやなかったの?
 Dune  うん、倉吉の町で個人病院をしてるよ。イタ飯屋は多角経営って奴よ。金だけ出して、実際の経営は友人任せ。でも、結構いけてる店だよ。
 Saaya  へぇ、凄いやん。じゃ、決まりだね!

 新大阪17:51分発の“のぞみ39号”で岡山まで、岡山から“特急やくも23号”に乗り換え、松江には昨夜の21:28分に着いた。
 改札口から出た瞬間、まるで、待ち構えていたかのように、凍てつく風がSaayaの頬を撫でた。一気に全身が冷やされて行く。見上げると、駅舎の灯りに照らされ、漆黒の闇の中から次々と、柔らかく白い粉雪が舞い落ちてくる。
 (裏日本とは、よう言うたもんやわ。なんや、道行く人がみな、俯いて歩いてるやんか。ああああっ! 松江の次は高岡、そして会津若松、横手、八戸やなんて。まじ、人生の裏街道やんか……あああ、こんなとこ、来るんやなかった……)
 ダッフルコートのフードを深く被り、Saayaは小さく息をついた。
  白のBMW Z4 M クーペから、男が手を振ってる。Duneだ。
 Saayaも手を振った。
 茶のざっくりとしたセーター、淡いグリーンの縁の眼鏡、レンズの向こう、頼りなさげな黒目が落ち着きなく動いている。前もって写真の交換をしていたから、確かにDuneだが、イメージとはまるで違った。写真では白衣姿であったせいか、随分大人っぽく見えたのだが、リアルで感じるDuneはクラスの男子学生となんら変わりがなかった。正直、少しがっかりした。
 (しょうがないか、見合い写真と同じやもんな。男女の関係なく、誰かて一番映りのええ写真を使うものや。それに、Duneにとっちゃ、白衣姿はナンパの最大の武器やもんね)
 SaayaはBMWの助手席に身体を滑り込ませた。
 Duneの父親が経営していると言うイタリアンレストラン『パルマ・ローザ』は、松江駅から南に車で10分ばかり走ったところにあった。
「ねえ、ちょっと訊いてええ?」
 アンティパストとして出された、ミモザサラダを口にしながらSaayaが訊いた。
「なに?」
 トレヴィスを口に運んだばかりのDuneが顔を上げた。
 窓ガラス越し、降りしきる雪が外の外灯にぼやけて見える。Saayaは窓硝子に映る自分の顔に視線を遣りながら、
「研修医って、めっちや、忙しいって聞いたけど、こんなことしてて大丈夫なん?」
 と言い、淡い紫色のマニキュアの指で、自慢のレイヤードヘアを優しく愛撫した。サイドに一本引いたブルーメタリックのメッシュが揺れ、シルバーのピアスが光っている。
  そんなSaayaを、Duneは眩しそうに見詰めた。
「うん。正直、目茶苦茶こき使われるよ。でも、親父がうちの病院の院長の先輩だから、ま、その辺のところは……」
 そう言って、Duneが口許だけで笑った。
「ねえ」
 Saayaは目の前のグラスの氷を人差し指で触れながら、わずかに小首を傾げ、
「なんで、医者になりたかったの?」
 Duneを見つめながら訊いた。そんな仕草が、男を魅了することをSaayaは知っている。
「医者?」
 コップの水をゴクリと飲み干し、Duneは聞き返した。
「うん」
「目指したわけじゃないよ。医者しか選択肢がなかったんだよね」
「選択肢?」
「うん。親父もおふくろも医者でさ」
「へえ。お母さんもお医者さんなんだ」
「うん。歯科医なんだ。両親が医者じゃ、選択肢も何もないわけよ。物心ついた時から、『おまえは医者になるんだ』と言われ続けてきたんだもの」
「それが理由なんや」
 (つまんない男や)
 Saayaは失望を覚え、グラスの水を一口飲んだ。
「そうだな、理由と言えば理由だな」
「じゃ、精神科を志望したんはなんでやの?」
「他の科に比べたら、就業時間が規則正しいことかな。外科や産婦人科なんて、いつ呼びつけられるかわかったものじゃない。こうして、Saayaのような可愛い女の子とデートも出来ないじゃん。それに俺、ぶっちゃけ、血を見るのが超苦手なのよね」
「血を見るのが苦手って、なんやのそれ! 幾ら精神科志望でも、研修医期間は色んな科を回されて、勉強させられるんとちゃうの?」
 Saayaは舌打ちしたい衝動を堪えた。
 やがて、Saayaには舌平目の白ワイン蒸しが、DuneにはTボーンフィレンツェ風ステーキが運ばれてきた。レアに焼きあげられたTボーン肉から、赤みを帯びた肉汁が滲み出ている。DuneはTボーンにレモンを絞り、フォークとナイフを手にしながら言葉を続ける。
「そや。救急に回された時なんて、処置室が血の海、マジ気を失いかけたよ。親父やお袋の時代は、精神科を目指したら精神科だけ、麻酔科志望は麻酔科だけしてりゃ良かったのに……あああ、誰だよこんな制度を作ったのは……」
「あんた、それでほんまに医者やの?呆れ果てて、開いた口が塞がらへんわ」
「Saayaって、そんな可愛い顔して言うこときついんだから」
 Duneは苦笑を浮かべ、わざとらしく頭を掻いた。
「俺、マジ、動物の血だって見るのも嫌なんだから。テレビの紀行番組で見たんだけど、モンゴルじゃ客人が来ると、飼ってる鶏を殺してもてなすんだって。すっげぇ、残酷だと思わない?」
 そう言って、Duneは血の滴る肉片を口に運んだ。
「それがなんで残酷やの?」
「だって、ほんの数分前まで、庭先を走り回っていたんだぜ。ペットみたいなものじゃん。それをさ、吊るして、首をちょん切ってさ、羽をバリバリ毟るんだぜ。すっげぇ、残酷だと思わねぇ?」
「そんなん日本かて、昔はどこの家でも鶏を〆てたんとちゃうの?それに今かて、どこかの誰かが、うちらの代わりに鶏や牛、豚なんかを殺してくれてるんとちゃうの? 切り身で、パック詰めされた鶏が走り回ってる訳ないやろ」
 Saayaはその時、死んだ祖母の妹にあたる、時枝おばちゃんの言葉を思い出していた。親戚が何らかの会合を持つ時、おばちゃんが家に遊びに来た時、食卓を共にする度に、耳にタコが出来るほど聞かされた言葉だ。
「小夜、よう聞きや。小夜が御飯を食べる前、“いただきます”と言うやろ? なんで“いただきます”と言うのかわかるか? あれはな、料理を作ってくれたお母ちゃんに対する“ありがとう”の意味の他に、食卓に乗った肉や魚、植物、その《命》を“いただきます”の意味があるんやで。人間は人間だけで生きてるわけやないんや。私らがこないして生きていけるのも、地球上の色んな命を頂いて、生かされているんや言う事を忘れたらあかんよ」
  ここ何年か、忘れた頃にふと顔を出し、数日も居ないうちに、ふと姿を消す人だった。 そして、小夜は今日これから、その時枝の許を訪ね、催事屋と言う世界の仲間入りをしようとしているのである。                                                  

                           「催事屋」3に続く
 

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「催事屋」①

2006年10月03日 | 小説

 


 

 冬の松江は、実に味わい深く寂れている。
 不器用さ故に時代に取り残された古い商店街を抜けると、薄墨色の長屋の軒下を、暗く入り組んだ路地裏を、日本海からの凍てつく風が湿った真っ黒な埃と一緒に疾走し、湖面との境目のない鉛色の低い空から、雪は間断なく降り続けているけれど、その殆どが強い風にどこか遠くに吹き払われ、宍道湖湖畔べりにまだらに積もっていた。
 カサカサと音立てながら走る、一枚の古い新聞紙を追いかけて行くと、その視線の先、くにびき産業会館の搬入口に一人の若い催事屋が立っている。
「サブ! カマたちはまだなのか?!」
 搬入口からの怒鳴り声に、
「はい! まだみたいです」
 仲間内からサブと呼ばれるその若者は、声の方に振り返り、大声で答え、大きく欠伸をした。
 品川ナンバーや練馬ナンバー、なにわナンバーに福岡ナンバー、札幌ナンバー、又、大型トラックや中型トラック、バンに乗用車と、様々な催事業者の車が、次々と駐車場に入って来た。
 催事には大きく分けて二つある。
 一つは、デパートや大手スーパーが企画会社などと手を組み、店内催事会場で催すデパート催事。そしてもう一つは、企画会社が単独で、地方都市の産業会館や体育館、イベント会場を借り、多種雑多な催事業者を集め催すイベント催事。催事業者はそれぞれの事情で、デパート催事を中心に参加する業者、イベント催事を中心に参加する業者、又、普段は自分の店舗で通常営業を続けながら、企画会社からの催事参加要請をセレクトし、デパート催事を中心に参加したり、スケジュールの合間をイベント催事に参加する業者と様々である。
 しかし、売上金が二ヶ月程のサイドの後、デパートと企画屋の取り分三割程度が引かれたものが振り込まれるデパート催事に比べ、イベント催事は、通称ブース代とかコマ代とか言われる出店料を支払いさえすれば、その日の売り上げ、つまり、現金を手にすることが出来る。自然と、イベント催事を中心に参加する業者は、目先の金に困った業者が多い。中には、ブース代や宿代、交通費等の経費はおろか、その日の食事代にも事欠くそんな時など、仕入れ価格よりも安く売り捌くことで商品を現金に換え、その日をしのぐ業者も少なくないのである。これを業者用語で、商品を食うとかネタを食うと言う。当然、後々の仕入先への支払いに窮し、借金に借金を重ねる結果となる。
 又、週七日間、金曜日から月曜日の四日間が開催日、火曜日・水曜日が休日、もしくは移動日、そして木曜日が商品の搬入とディスプレイと、これがイベント催事の一般的なスケジュールである。つまり、一年三百六十五日、こんなスケジュールの繰り返し、今週は北海道、翌週は東北・北陸、四国・九州と、業者たちは、日本全国北から南、年がら年中旅暮らしの日々を送っているのである。
 よって、『(有)まつりばやし』が運営する『骨董宝り出し・大棚卸しカーニバル』と銘打たれたイベント催事には、文字通り骨董屋から陶器屋、バッグ屋や毛皮屋、、互いに「社長」「社長」と呼び合ってはいるけれど、定住所を持たない奴、何かから逃げ回っている奴、そんな社会の底辺を這いずり回っているような人間が、まるで同種の匂いに引き付けられるかの様に自然と多く集まっていたのである。
 通称サブ、小野寺三郎は、千均屋の田中英司に誘われ、この業界に入って来たたばかりの新米である。
 ちなみに千均屋とは、指輪やネックレス、ブレスレットなどのアクセサリーや雑貨を、千円均一で売り捌く業者である。
「サブーーーーッ!」
 再び、搬入口から英司の声である。
「はい! なんですか?」
 振り返り、サブは大声で答えた。
「俺のタバコ知らんかぁ!?」
(ああああ、またかよ……)
 サブは溜息をついた。
「サブ」
 ロビーのソファーに腰を下ろした安男が缶コーヒーをサブに差し出しながら、
「そんなとこに突っ立てへんで、ここに座らんか?」
 と言って、自分の座るソファーの右横を手で叩いた。
「あ……は……はい」
 会館の方を気にするサブに、
「いつもの英司の“ないない病”だろ? かまへん、かまへん、気にすることはあらへん。たかが煙草や。そのうち、どっかから出て来る。英司の“ないない病”に付き合っていたらきりがあらへん。いっつものことや。英司が何か言うたら、わしが言うたるさかい」
 安男の言葉に、サブは缶コーヒーを受け取り、安男の隣りに腰を下ろした。ソファのへたったスプリングの軋む音がした。
「前々から気になってたんやけど、サブ、おまえ、なんでこんな稼業に入って来たんや?」
「……うーん……」
 缶コーヒーのプルトップを引きながら、サブは言葉に詰まった。
「大学まで出た若い男が選ぶ仕事……」
「大学は出てません。中退です」
 サブは安男の言葉を遮った。
 自分でもわからなかった。気がついたらこうなっていたと言うしかなかった。何の目的意識さえ持たずに、親に、教師に勧められるまま、周囲に流されるままに入った大学だった。自分だけじゃないと言い聞かせた。現実に、周囲の誰も変わりやしなかった。わかってはいても、無性に虚しくて、堪らない苛立ちにどうしようもなかった。新宿駅の雑踏の中、誰もが目的に向かって真っ直ぐに歩いているのに、自分だけが何処に行こうとしているのかさえわからず、ただ呆然と立ち尽くしているようだった。
 そんな去年の夏、新宿大ガード下、小便横丁の焼き鳥屋、隣り合わせたのが英司だった。一週間で良いから手伝わないか? 日本全国、週毎に旅をすると言う催事屋に心惹かれた。一週間が二週間になり、そして半年が過ぎた。何故かと訊かれれば、ただそれだけだった。
「安男さん、田舎はどちらなんですか?」
 缶コーヒーを一口口に含み、サブが聞いた。
「和歌山の高野山の麓、紀ノ川沿いの小さな町だ」
「へえ、高野山の麓ですか? ぼくは行った事はないのですが、さぞかし、のどかできれいな町なんでしょうね」
「のどかでもなければ、きれいでもあらへん。何もない小汚い町や。わしが育った家は、南に国道二四号線、北に国鉄和歌山線、ほんの二〇メートルほどの間に建つちっちゃい家やった。家を出たら目の前が踏み切りや。一時間に上りと下り計4回、遠くの方から機関車の汽笛が“ポーッポーッ”と聞こえ始めると、警報機が“カンカンカンカン”と鳴り始める。やがて機関車の通り過ぎる音と同時に、ガタガタと家が揺れるんや。おまけに朝から晩まで、紀ノ川の採石場から砂利を積んだダンプがひっきりなしに国道を走るもんやから、夜なんてうるそうて眠れたもんやなかった。北側の窓ガラスは石炭の煤で、南側の窓ガラスは砂埃と排気ガスで、拭いても拭いても、いっつも真っ黒やった。昔は織物の盛んな町だったらしくて、子供の頃は、あちらこちらからコットンコットンと機織る音が聞こえてたもんやけど、小学校四、五年の頃になるとサッパリ。それからと言うものは、どんどん寂れていく一方や。ちょうど東京オリンピックの頃でね。日本全国が好景気に沸く真っ最中やと言うのにや。東京オリンピック、知ってるか?」
「すいません。まだ、産まれてません」
 そう言って、サブが苦笑いを浮かべた。
「あはは。そやな」
  安男も笑った。
「安男さんって、いわゆる団塊の世代なんですね」
「そやな、団塊の世代やな……あの頃、東京、めっちゃくちゃ憧れやった……」
 そう言って、安男はポケットからハイライトを取り出し火をつけた。うまそうに煙を吐き出した後、再び、口を開いた。
「新幹線、高速道路、高層ビル、羽田空港に降り立つハッピ姿のビートルズ、日劇ウエスタンカーニバル、安田講堂での東大紛争、六本木アマンドに銀座風月堂……白黒のテレビに映し出される東京は、田舎もんのわしには夢そのものやったわ。東京に行きさえしたら、全ての夢がかなうと信じてたんや。ええ歳をしたおっさんが、こんな事言うのはこっぱずかしいんやけどな」
  安男は恥ずかしげにそう言って、薄くなった頭を掻いた。五十を過ぎたばかりの安男は、笑うとサルのような皺が額に出来る。
 ロビーのガラス窓越しに、次から次へと仲間の車で駐車場が埋まっていく。
 酒井の運転するトラックはまだ姿を見せない。
「盆や正月には、実家に帰られるんですか?」
「もう随分長い間、帰ってへんな。まだ何人かの親類が居るから、近くを通りかかった時に顔を見せる程度で。おかはんが言ってたやろ。催事屋なんてやくざな稼業してる奴なんかに、帰れる家や田舎なんてあらへんのや。わしら親子だけやない。ここに居る連中の大半がそや」
「どうしてですか?」
「決まった定住所を持たない理由、持てない理由なんて二つしかあらへん。何かから逃げ続けてるのか、何かを追い続けてるのか、この二つのどっちかや」

 ―男から逃げとる奴、女に逃げられた奴、夢を失くした奴、夢を捨てた奴。過去を忘れたい奴もおれば、過去にしがみついている奴もおる。借金を背負ってへん奴なんて一人もおらへん―

  サブはオッカァの言葉を思い出した。
「何を追い続けているのでしょうか?」
「何かを追い続けてる奴なんているんやろか?わしなんて、とうの昔に夢はなくしてしもおてる。何を追い続けてるんやろな……」
 何かを思い出したのか、安男の煙草を吸う手が止まった。
「そや、サブ、骨董屋の大松んとこで働いてた公園さん、知ってるやろ?」
「ええ。足が少し悪い人ですよね。確か、熊本の催事まで大松さんとこで働いてらっしゃったのに、その後、顔を見なくなりましたけど、公園さん、やめられたのですか?」
「あの、おっさん、なんで、公園って呼ばれてたか知ってるか?」
「いえ」
「去年の春、確か浜松の催事の時やった。泊まった旅館の近くに塩町公園ってあったんや。お花見の頃で、塩町公園にも何本か桜の木があって、ええ具合に満開やった。で、近くのコンビニでワンカップを何本か買ってきて、わしと大松の二人で夜桜見物と洒落こんでたら、いつの間にか小汚いなりの男が隣で飲んでたんや」
「それが公園さんですか……公園さん、本名はなんと言うんですか?」
「誰も知らへん。本人もわからんらしい……」
「本人も知らないって……」
「記憶喪失ちゅうやつや。本人の話やと、気が付いたら横浜の病院ベッドの上やったらしい。桜木町の駅で倒れていたのを助けられ運ばれたらしいんやが、昔のことは何も覚えてない。で、病院を退院して、あちこちフラフラしながら、歩いて浜松までたどり着いたらしい」
「横浜から浜松まで、歩いてですか?」
「歩いてたら、誰かが自分の顔を見て、なになにさん、どないしはったんですか? と、声掛けてくれるかも知れへん。自分が一体、どこの何者であるか? 誰か知ってる人に出遭い、教えてくれるかも知れへんと考えたんやろな。それで、面倒見のええ大松が、それならわしらと一緒に来たらええ。催事屋は日本全国、旅から旅の稼業やからって」
「それで、催事屋にですか……」
「熊本の催事を終えた夜、呑みに行くと出掛けたきり、それっきりらしい」
 誰かが入り口の扉を閉め忘れたのか、雪がロビーに吹き込んできた。チッ!と舌打ちをし、安男が立ち上がり扉に向かった。
  その後姿を見ながら、サブは、右足を引き摺る様に歩いていた公園さんのことを思った。
 誰か、『お前の事をずっと捜していたんだぞ!』と、公園さんのことを知る人に出遭ったのだろうか? それならいいんだけど、九州のどこかで、日本のどこかで、『自分が何者か?』を求め続けて、今もフラフラと、公園さんは歩き続けているような気がした。
 安男が戻って来た。
「失礼ですが、安男さん、奥さんは?」
「サブ、オッカァの言葉を忘れたんか?」
「あっ! 他人の過去に首を突っ込まないのが催事屋の掟でしたね。すみません」
 そう言って、サブは首を竦めた。
「あははは。ええねん。仕事が終わった後の楽しみと言うたら、宿での飯と酒、後はパチンコぐらいのもんや。ああ言うオッカァ自分自身を筆頭に、みんな、よると他人の噂話ばっかりや。女房か、こんなわしにも、そんなものも居た時期はあった。七年前に別れた。今頃、どこで何してるんやろ、便りもあらへん……あっ! この言葉はあっちの言う台詞やな」
 そう言って、安男はぺろりと舌を出し、薄くなった頭を掻いた。笑う時、頭を掻くのは安男の癖である。
 そして、
「余計なお世話かも知らんけど、催事屋なんてやくざな稼業、サブみたいな若者が長いことやる仕事やない。悪いことは言わん。はよう、足洗った方がええ」
 安男は自分の足元を見つめながら言った。
 そして、「そう言や、今日から若いのがもう一人増えるんやな」と、誰に言うでもなしに呟き、『大丈夫、大丈夫。ああ見えてもあの娘は、自分と言うものをちゃんと持っている娘や』とおかはんは言うけれど、ほんまに大丈夫なんやろか? ちゃんとみんなとやっていけるんやろか? と安男は思った。


                                                           「催事屋」2
に続く


 

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『催事屋』 プロローグ

2006年08月30日 | 小説

 


プロローグ

 

「叩いたら誰かて埃の一つや二つ、指が一本欠けてる奴、脳味噌が少し足らへん奴、男から逃げとる奴、女に逃げられた奴、夢を失くした奴に捨てた奴、過去を忘れたい奴もおればしがみついてる奴もおる。まして、借金を背負ってへん奴なんて一人もおらへん。ええか、耳の穴をかっぽじってよう聞きや。仲間の過去や私生活に、余計な首なんか突っ込んだらあかんよ。サブちゃん、これが、この催事屋稼業の暗黙の掟やで」
 昭和四年生まれだと言うからもう八十近いだろうか、仲間内から“オッカァ”“オッカァ”と呼ばれるコンニャク屋の時枝婆が、煙草の煙に目を細めながら、そう言ってニッ! と笑った。
「まったく! いつまでも元気な婆さんやで。なにが暗黙の掟や、よう言うわ。他人の噂話に、真っ先に首を突っ込むんはオカハンやんか。そないペチャクチャおしゃべりばっかりしてるから、いつまで経っても借金が減らへんのや。さっさと手を動かせっちゅうんや」
 商品のコンニャク玉をフライパンの上で転がしながら、安男が小さな声で呟いた。
「何をとぼけたことをゆうてけつかる。このどら息子が! その借金を作ったんはどこのどいつやねん!」
「あららら、いい耳してるわ」
 そう言って安男は、その太く短い首を竦め、ペロリと舌を出した。
「安男! あんた、母ちゃんの歳知ってんの? もう七十八、七十八やでぇ。わかってんの! 普通、世間で七十八言うたら、孫曾孫を膝に乗っけて、楽しい余生を送ってる頃や。なにが哀しゅうて、コンニャクを転がさなあかんの! なにが哀しゅうて、一年三六五日、旅から旅、借金取りから逃げ回る、こんな根無し草みたいな生活せなあかんの! それもこれも、みな、お前がろくでもない事に首突っ込んで、訳のわからん借金なんか作ったからやろ!」
 母親の剣幕に、普段は一本横に引いただけの細い目を目一杯開き、安男は「やれやれ」と両手を広げ、サブに苦笑いを見せた。 
「ハーイ、ヤーサン」
 呼ぶ声に安男が振り返ると、ペルシャ絨毯屋で働くエジプト人のモハマドが、搬入口に停めたトラックの荷台で手を振っていた。
「モハマド、なんべん言うたらわかんねん! ヤーサンやない、ヤッサンやて。ヤーサンはあかんやろって!」
 安男の言葉にモハマドはニコニコ笑いながら、
「オッケー、オッケー、ワカリマシタ、ヤーサン。キョウモマタ、グランママ“オッカァ”カラ、オセッキョウデスカ?」
 安男は大きく溜息をついた。
                       

                              「催事屋」1に続く

 

 

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チェンマイ番外編 交通事情

2006年08月06日 | エッセイ
 ベトナムでも経験したことであるが、東南アジアの交通ルールと言うのはあってないようなものである。
 日本で暮らすぼくたちには想像もつかない夥しい数の車、オートバイ、自転車・・・水族館で見る鰯の大群を想像して頂きたい、まさにあれなのだ。いや、鰯の群れは驚くほどに統率が取れているが、ホーチミンcityのそれはとんでもない。中には逆走するバイクもいれば、その群れの中、麺をてんこ盛りにした丼を手に横切る人間さえいるのだ。単車の二人乗り、三人乗りは当たり前、6人乗りと言うのさえ見たことがあった。幼子を背負った母親がハンドルを握り、ハンドルとの間に子供が二人、後部座席にも二人。また、5㍍はあろうかと言う竹竿の束を肩に担ぎ、ハンドルを握っているバイクさえいる始末。とてつもない車の群れの中、曲がり角に来れば、5㍍の竹竿が大きく円を描きカーブを切っていくのである。
 ホーチミンほどでないにしろ、タイ北部のチェンマイも似たようなものである。
 いや、スケールが大きい分、ホーチミンの方が幾分統率が取れているような気がする。
 チェンマイでは(恐らくチェンマイに限らずだろう)、数えるほどにしかない歩行者用の信号、この青信号の時間が約5秒と言う短さなのだ。よって、信号が青になったら、ほぼ全速力で横断歩道を走り抜けなければならないのだ(笑)。四つ角なんぞは大変、チェンマイでは直進車優先なんてルールは存在しないのだろう、直進車、右折車が交差点の中、先を争う。そこにもって、「CHAO」なる日本人向けの情報誌を発行しているY氏の話によれば、チェンマイでは前方の信号が赤であろうと左折はしていいのだそうで(真偽の確認は取ってはいないが)、ぼくたちから見ればそれはシッチャカメッチャカの状態なのである。
 よくもまあ、事故をしないものである。前回の投稿に貼り付けた写真(乗り合いタクシー“ソンテオ”の中より撮影した)を見ていただければわかるように、チェンマイのバイク乗りはヘルメットをしていない。中にはしている人もいるのだが、ごくごく稀である。

 首都バンコクではタクシーも走っている。チェンマイでも、何年か前からタクシーが走り出したということであるが、その数はまだまだ数えるほどでしかなく(現実、この旅行期間中タクシーは数台しか見なかった)、旅行者の交通手段はソンテオやトゥクトゥクを利用することになる。

 ソンテオとは乗り合いタクシーのことである。トヨタや日産、いすゞ等のピックアップトラックの荷台部分に屋根をつけ、乗客はそれに乗るのだ。赤と緑、黄色の3種類のソンテオが走っているが、緑と黄色のソンテオは決まったルートを走っているので、土地勘のない旅行者が利用するソンテオは赤と言うことになる。日本と同じく車は左側通行、止め方は日本のように手を挙げるのでなく、左手を下に向けて止めるのである。ドライバーに行き先を告げ、ドライバーが行こうとしている方向(先客があれば当然そっち方面)、もしくは行きたい方向であれば乗車と言うことになるのだが・・・料金は決まっていない。よって、大抵のガイド本によれば、ここでドライバーと料金交渉するとある。「タオライ? (幾らですか? )」。勿論距離によるのだが、一人10B(30円)から30B(90円)が平均的な価格となっている。しかし、こちらが観光客となれば大抵の場合、地元客なら10Bの場所であろうと50B前後の値段を請求される。前述のY氏によれば、ドライバーがOKしたら、「タオライ? 」なんて値段交渉なんぞはせずに乗り込み、目的地に着いたら有無も言わせず15Bを支払えばいいと言う。これはいいことを聞いたと、Y氏直伝の方法を試そうとしたのだが、東京の港区大田区あたりのセレブには見えないものの、首からデジカメ、腰にウエストバック、背中にリュックと、どう見たところで典型的な観光客。まして、目的地の説明自体がおぼつかないんじゃ・・・と、15Bで済んだのはただ一度。後は一人40から50B前後支払っていたのである(笑)。もっとも、日本人の私たちにとっては、たかが知れている金額なのではあるが・・・・

 さて、もうひとつの交通手段であるトゥクトゥクであるが・・・三輪自動車の後ろに人力車の座席をくっつけたような乗り物で、ソンテオに比べ小さく、また貸切であるから目的地玄関まで運んでくれるのだが・・・五日間の短い経験ではあるが、ソンテオ以上に“ぼる”ドライバーが多いように思う・・・
 
 
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いざ、チェンマイへ(3)№2  2006.7.14

2006年07月28日 | エッセイ
 am9:00

 今回の旅での楽しみの一つであるタイ古式マッサージを受けるため、ぼくたちはチァン・プアク通りに出て赤色のソンテオ(乗り合いタクシー)を止めた。赤のソンテオは行き先は決まっておらず、他の色は決まったルートを走っているのだと前もって調べておいた。ただ、問題は行き先の告げ方である。マッサージ店はネット検索しておいた、日本人Kさん経営のサーラー・チェンマイと言う店。ターペー門から新市街方面ピン川に向かって、ナイトバザールの通りのひとつ手前の通りにあるとのことだが、ソンテオのドライバーにどう告げればいいのか・・・とりあえず、ナイトバザールに行けばわかるだろう・・・・と、
 「ナイトバザールOK? 」
 「OKOK」
 「タオライ(幾らですか? )」
 「(左手人差し指で2、右手で○を示すドライバー)」
 「トゥエンティー・バーツ? 」
 「(うなづくドライバー)」
 「(ぼくは自分を指差し)トゥエンティー? (妻を指差し)トゥエンティー? オール、フォーティー? 」
 「OKOK」
 二人で40B(120円)か、ま、いいか・・・こんな調子で、初めてのソンテオ交渉は無事終わったのだが・・・やはり、ナイトバザールだけではこういう結果である。下ろされた場所が、「ここはどこ? 」「どっちが北? どっちが南? 」なのである。ピン川の近く、屋台だらけだ、どこかの市場近くであることはわかる。
 「ハーイ、コンニチワ」
 「ハーイ、コンニチワ」
 たむろしているトゥクトゥクのドライバーたちが次々と声をかけてくる。この手の誘いには大抵ぼられることはベトナムで経験済みである。
 「ねぇ、マッサージ店の住所は控えてあるんでしょ? 」
 妻が言った。
 「うん」
 「なら、トゥクトゥクの運転手にそれを見せて連れて行って貰いましょうよ」
 気の乗らない妻の進言ではあったが、妻のその表情に逆らうことは得策でないことは勉強しているぼくである・・・
 声をかけてくる中の一人に、マッサージ店の住所を記したメモ用紙を見せ、「OK? 」と聞いた。男はしばらくメモ用紙に目をやった後、ニッコリと笑って「OK」と答えた。「タオライ? 」ぼくの問いに男は「50B」。おいおい、それは高いだろう!まず間違いなく、すぐ近くのはずだ・・・そう思ったぼくは、「NO!40B」・・・男が首を振る・・・妻がぼくの袖を引く。「ねえ、10Bって30円でしょ」。そう、確かに言われてみればぼくと男は30円の交渉をしているわけである。妻の顔はたかだか30円で何揉めてるのよ!と言いたげである。こんなときの妻には逆らわないことに決めているぼくは、トゥクトゥクに乗り込んだ。
案の定だ、ものの数分でサーラーチェンマイに到着した・・・・

タイ古式全身マッサージが2時間で300B、日本円で900円なのである。月に2.3度、妻が行く吉野ヶ里温泉の30分3000円のマッサージを、「いいなぁ」と指をくわえて我慢している僕としては夢の世界なのである(笑)。
日本では大抵うつ伏せから始まるのだが、タイ式はまず仰向けからである。左足首がゆっくりと優しく揉み解されていく。随分長い間、マッサージ師の彼女の手は左足首のままである。30分のマッサージしか知らないぼくにとって、左足首から移行しないのがもどかしくさえ感じる。部屋を流れるタイミュージック。遠くでオートバイのエンジンの音が聞こえる。時間の感覚がなくなっていく。体が宙に浮いているかのような錯覚。やがて右足、腕・・・横向きの姿勢になり、そして、うつ伏せに・・・・いけない!眠ってしまいそうだ・・・・・・
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いざ、チェンマイへ(3) 2006.7.14

2006年07月24日 | エッセイ
2006年7月14日金曜日。

 チェンマイでの五日間、ぼくたちが宿泊した「Viangbua Mansion(ヴィアンブア・マンション)」は、外国人のロングステイ客を主に、空いている部屋をショートステイ客に日貸しもする高級コンドミニアム。高級と言っても宿泊料は1000B(朝食込み)、日本円で約3000円と言う安さなのだ。

 am4:00
 昨夜は早く眠りについたせいか、随分早くに目がさめた。妻はまだ眠っている。
 少し、ホテル周囲の地理を確認しておこうと、地図を片手にぼくはホテルを出た。
 ホテル裏手にあるタニン市場も、ネットで集めた情報では24時間営業とあったが、まだこんな時間とあって人影はまばらだ。チャン・プアク通りを旧市街に向かって歩いた。ぼくが客になりそうかと確認してるのだろうか、時折、通り過ぎるソンテオ(乗り合いタクシー)やトゥクトゥク(三輪タクシー)がスピードを緩めてはクラクションを鳴らす。少し歩くとNovotel、このあたりで唯一のホテル。Novotelの角を右折するとリンピン・スーパー。その隣りがゲイボーイのショーで有名なサイモン・キャバレーだ。
 再びチャン・プアク通りに戻り、少し歩くと左手にチャン・プアク・バスターミナル。やがて前方に灯りが見える。チャン・プアク市場だ。旧市街の北門、ぼくはどうやらチャン・プアク門まで歩いてきたらしい。
 果物屋、雑貨屋、惣菜屋、市場の中はおろか、市場前の歩道一杯に商品が並べられ、その中を大勢の人たちが忙しげに動き回っている。灯りはローソクだ。ぼくは人々の邪魔をせぬよう、注意を払いながら歩く。
 一瞬のうちに、ぼくの体がナンプラーの匂いに包まれる・・・・
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いざ、チェンマイへ(2) 2006.7.13

2006年07月22日 | エッセイ

 2006年7月13日木曜日。AM11:55分、TG649便はバンコクに向けて福岡国際空港を離陸した。

 離陸してすぐ、機内食が配られた。
 お世辞にも決して美味いとは言えないのだが、ぼくは何故かこの機内食という奴が好きである。
 海外旅行は機内食から始まるのだとさえぼくは思っているのだ。
 機内食を記録に撮ろうと、デジカメ代わりに携帯電話を持ち込んだのだが、携帯電話の機能はすべて使用禁止だと知りがっかり・・・帰路はデジカメを持ち込むことを忘れないようにしよう・・・・
 ぼくたちの席は通路側の4人席、隣はタイ人らしき若いカップル、通路を挟んで右隣、窓際にはインド人夫婦が座っている。人種、宗教の違いに配慮してか、機内食は数種類のメニューが用意されているようだ。アテンダントは素早く乗客一瞥の後、機内食を選別しては手渡していく。
 ぼくの機内食のメインは、揚げ春巻きである。狭いエコノミーシートの中、時折の揺れに落とさぬよう、体を折り曲げるようにしてかぶりつく。中の具は・・・うーん・・・何と表現していいのだろうか? ・・・ここはとりあえず、東南アジアの味とでも表現しておくか・・・旅の始まりの味なのだ!
 フルーツは「グレープフルーツ」と「パイナップル」。いつも思うのだが、なぜ、「グレープフルーツ」や「パイナップル」なのだろう。「ドリアン」を出せとは言わないが、もう少し、旅の始めに心躍らせるフルーツの選択はないのだろうか!

 アナウンスの指示に従い、腕時計の針を2時間戻す。
 14:56分、TG649便は大したエアポケットに落ちることもなく、バンコク・ドンムアン国際空港に定刻より15分早く到着。気温33度。
 「Immigration(入国審査)」に向かう人たちを尻目に、ぼくたちは「Transfer」の文字を目で追いながら歩く。
 1Fの乗り継ぎ待合室で待つこと2時間あまり、16:45分、専用バスで3番ゲート、TG641便に。

 今度は窓際の席だ。
 夕刻のラッシュアワーの首都バンコクを尻目に、やがて豊かな田園が眼下に広がる。ゆったりと蛇行するチャオプラヤー川。時折、豆粒ほどの車が見える。機内前方のスクリーンに地図には、イサーン(タイ東北部)の玄関口に位置するナコン・ラーチャシーマーの上空あたりを飛行していることを示している。
 やがて眼下は深い緑のコラート(高原)。右前方遠くに大きく黒い雲。雲の下はスコールだろうか、灰色のカーテンが真っ直ぐに下りている。
 青空と黒い雲の境目に虹が架かっている。

 チェック・インを済ませてすぐ、私たちはホテル近く、チャン・プアクRd沿いの屋台に入った。
 壁にメニューが貼られてはいるが、ちんぷんかんぷん。麺屋であることだけはわかるが・・・
 白人とタイ人らしき若い女のカップルが食べているものを指差し、身振りであれと同じものをくれと伝える。
 「美味い!」
 ぼくと妻はあっという間にそれを平らげてしまった。
 米の細い麺に牛のスープが・・・・うーーん、何と表現していいのだろうか、とにかく美味い!のだ(笑)
 明日からの食事が楽しみである。     

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